第35話 退職する前に、俺たちの会社ができていた
退職届を出してから。
俺の会社員生活は、驚くほど普通に続いた。
朝、出社する。
第五資料室を整理する。
古い資料を分類して、必要なものを後任へ引き継ぐ。
定時になれば帰る。
以前のように、終業間際に仕事を押しつけられることもなくなった。
「白石」
「はい」
ある日の夕方。
主任が段ボール箱を一つ抱えて第五資料室へ入ってくる。
「これ、今日中に整理できるか?」
反射的に時計を見る。
十七時十分。
定時まで二十分。
「量を確認してからになります」
「無理なら明日でいい」
「……明日でいいんですか?」
「何だよ」
「いや」
昔なら。
『今日中な』
で終わっていた。
「じゃあ、分類だけして続きは明日にします」
「頼む」
主任はそれだけ言って出ていった。
俺は閉まった扉を見る。
「本当に変わったな」
会社が。
というより。
俺と会社の距離が変わったのかもしれない。
もう。
ここへ残るために何でも受け入れる必要がない。
そう思うだけで。
同じ部屋なのに、以前よりずっと広く感じた。
◇
会社の仕事が落ち着いた分。
帰宅後は忙しかった。
「白石さん」
玄関を開けると。
コレットが待っている。
「本日は法人設立に必要な最終確認を行います」
「ただいまより先に?」
「あ」
一瞬止まる。
「……お帰りなさい、白石さん」
「ただいま」
「では最終確認を」
「切り替え早いな」
食卓の上には。
大量の資料が並んでいた。
「法人名」
『ヘクサ・リンク株式会社』
「結局これになったんだな」
「重複する同名法人、主要業種では確認されませんでした」
ラヴィが手を挙げる。
「《最強》を付ける案は?」
「最終候補へ一度も入っていません」
「どうしてですか!」
「信用面です」
シエルが答える。
「《ヘクサ・リンク最強株式会社》は、取引先が名称だけで警戒する確率が上昇します」
「数字で否定された!」
「推定値です」
「もっと嫌です!」
セラが資料を一枚取る。
「事業目的は、古代魔導設備の調査、修復、保守。ダンジョン資源の採取、加工、販売」
「探索業務、魔導補助機の解析業務も入れています」
コレットが補足する。
「あと、将来的な設備貸与と技術支援」
「ずいぶん広いな」
「今後、必要になる可能性があります」
フィオナが別の紙を見る。
「従業員の健康管理に関する項目は?」
「それは事業目的ではありません」
「重要ですよ?」
「社内規則へ入れます」
「では、連続勤務は禁止で」
「法人設立前から就業規則を作らないでくれ」
「直人さんが無理をしないためです」
フィオナだけ。
会社を作る目的が少し違う気がする。
「なおと」
袖を引かれる。
「何?」
イリスが。
いつもの長い黒いコート姿で、書類を一枚持っていた。
「これ」
「代表取締役?」
「なおと」
「俺しかいないだろ」
「うん」
「何か不満?」
「ない」
一拍。
「社長」
「……急に呼び方変わるの?」
「私は、なおと」
「じゃあ今のは?」
「練習」
それだけ言って。
俺の隣へ座る。
コレットが咳払いした。
「では、役員構成についてですが」
「六人を役員にはできないだろ?」
「現代法上の人格認定が未整理ですので、現時点では困難です」
「やっぱり」
「ですが」
コレットが胸を張る。
「社内での役割は決められます」
第一制御機。
セラ。
「運用統括」
「承知しました」
第二術式機。
ラヴィ。
「現場術式担当」
「戦闘部長では!?」
「ありません」
「では攻撃主任!」
「ありません」
第三解析機。
シエル。
「調査解析担当」
「妥当」
第四守護機。
フィオナ。
「安全管理担当」
「直人さんの健康管理も含みますね」
「俺だけ?」
「最優先です」
第五資源機。
コレット。
「財務、契約、資源管理」
「当然です」
第六中枢機。
イリス。
「施設管理と六環同期」
「……あと休憩」
「それは役職じゃない」
「大事」
「否定はしないけど」
最後。
「白石直人」
俺の名前。
その横に。
『代表』
と書かれている。
「本当に俺が会社を作るんだな」
「何を今さら」
コレットが呆れた顔をする。
「既に協会との継続契約があります。商品も販売しています。取引先もあります」
「会社だけ後から付いてくる感じだ」
「よくあることではありませんが」
「あるんだ」
「事業が先行する例はあります」
俺は資料を見る。
数か月前まで。
俺の仕事は。
地下の資料室で、誰も読まない書類を整理することだった。
今は。
ダンジョンの施設を直して。
資源を加工して。
国の研究機関や。
自分の勤務先にまで商品を売っている。
会社を作る方が。
むしろ遅かった。
◇
「最後に資本金です」
コレットが数字を表示する。
「事業準備金から百万円を出資します」
「そんなに使って大丈夫?」
「生活防衛資金とは完全に分離しています」
「六か月分の生活費は?」
「確保済み」
「六機の維持費?」
「確保済み」
「設備修理の予備費?」
「別枠で確保済み」
「聞くことがないな」
「そのために準備しました」
コレットは。
本当にずっと。
俺が勢いだけで辞めないように止め続けていた。
「ありがとう」
何気なく言う。
コレットが止まった。
「……何がですか?」
「ちゃんと準備してくれて」
「仕事ですので」
「でも、俺一人ならたぶん」
数字を見た瞬間に辞めていた。
「最初の二十六万くらいで退職してたかも」
「その可能性は高かったです」
シエルが淡々と答える。
「直人の当時の退職衝動推定、七十八パーセント」
「そんなに?」
「会社への不満蓄積を含む」
コレットがため息をついた。
「だから止めていたのです」
「うん」
「白石さんが会社を辞めた翌月に生活費が足りません、では笑えませんから」
「分かってる」
「わたしたちは六機いますし」
そこで。
ラヴィが手を挙げた。
「七人です!」
「……はい」
コレットが笑う。
「七人いますので」
「もう間違えなくなったな」
「一度学習したことは忘れません」
イリスがぼそっと言う。
「たまに忘れる」
「イリスは別です」
「眠いから」
◇
書類をすべて確認して。
オンライン申請の最終画面が表示される。
『法人設立申請』
『ヘクサ・リンク株式会社』
代表者。
白石直人。
「押すぞ」
「直人様」
セラが俺の右側へ。
「はい」
ラヴィが左側へ寄る。
「マスター、押してください!」
「これは爆破ボタンじゃないからな」
「分かってます!」
シエル。
フィオナ。
コレット。
イリス。
六人が。
自然と画面の周りに集まった。
俺は。
申請ボタンを押した。
『申請を受理しました』
それだけ。
「……地味だな」
「法人設立に爆発演出はありません」
シエルが答える。
「ラヴィ、何もしないでください」
セラが先回りする。
「まだ何もしてません!」
「念のためです」
◇
正式な設立処理が完了したのは。
それから数日後だった。
昼休み。
第五資料室で。
スマートフォンへ通知が届く。
『法人番号発行』
『ヘクサ・リンク株式会社』
一瞬。
画面を見たまま動けなかった。
会社を辞めるまで。
まだ十九日。
なのに。
俺はもう。
別の会社の代表になっていた。
「白石」
そこへ主任が入ってくる。
「はい」
「何見てる?」
「会社ができました」
「……何?」
「俺の会社です」
主任が止まった。
「もう作ったのか?」
「はい」
「まだうちの社員だろ」
「退職前に準備しておいた方がいいって」
「また、あの茶色い子か?」
「コレットです」
「だと思った」
主任は。
少し呆れたあと。
「名前は?」
「ヘクサ・リンク株式会社」
「六機から?」
「はい」
「そうか」
少し黙り。
「……名刺できたら一枚くれ」
「欲しいんですか?」
「取引するかもしれないだろ」
その言葉で。
少し笑ってしまった。
「分かりました」
「社員としてじゃなく」
主任が言う。
「今度は取引先としてな」
「はい」
会社を辞めるまで。
あと十九日。
でも。
俺たち七人の会社は。
もう始まっていた。
その夜。
帰宅すると。
コレットが新しい表示を出した。
『ヘクサ・リンク株式会社』
『代表取締役――白石直人』
そして。
これまでずっと俺を。
「白石さん」
と呼んでいた少女が。
一度だけ姿勢を正す。
「法人設立、おめでとうございます」
「ありがとう」
琥珀色の瞳が。
嬉しそうに細くなった。
「それでは、社長」
「……やっぱり変わるんだ」
「設立しましたので」
「まだ慣れないな」
「そのうち慣れてください」
「分かったよ」
「はい、社長」
六機の中で。
最初に俺の呼び方を変えたのは。
予想どおり。
お金と会社を担当する第五資源機だった。




