第33話 昇給も主任も、欲しかったはずなのに
人事面談から、三日後。
俺はもう一度、技術本部の会議室にいた。
前回と同じ。
人事課長。
黒川部長。
技術本部の副本部長。
机の上には。
『古代技術事業準備室 主任候補』
と書かれた資料が置かれている。
「白石君」
副本部長が口を開く。
「検討してくれたか?」
「はい」
俺は資料を一度見た。
月六万五千円の昇給。
主任職。
技術本部直轄。
古代遺物を扱う新部署。
五年前の俺なら。
何を差し出してでも欲しかったと思う。
「異動の件は、お断りします」
会議室が静かになった。
「……理由を聞いても?」
「はい」
俺は用意してきた紙を机へ置いた。
「新部署そのものが嫌なわけではありません」
むしろ。
業務内容だけ見れば、かなり興味がある。
「ただ、この役職を受けると、六機の能力を会社業務で使うことが前提になります」
「そこは別途契約を詰めることもできる」
副本部長が言う。
「はい。それでもです」
会社の中で。
会社の利益のために。
六機と俺の時間を使う。
それが悪いわけじゃない。
でも。
「今、俺は会社の外でも古代施設の調査をしています」
「ああ」
「そちらを続けたいです」
黒川部長が眉を寄せる。
「副業として続ければいいだろう」
「主任になれば、今より時間は減ります」
「多少はな」
「その多少が、今の俺には大きいです」
会社で評価されるために。
会社の外でようやく見つけた仕事を削る。
それは。
もう違うと思った。
「給与条件も不満か?」
「いえ」
俺はすぐ答えた。
「十分すぎるくらいです」
「なら――」
「でも」
そこで。
少しだけ笑ってしまった。
「欲しかったのは、たぶん金額だけじゃなかったんです」
「どういう意味だ?」
「ちゃんと見てもらいたかったんだと思います」
魔力値一。
機械を壊す。
現場に出せない。
使えない。
そんな評価ではなく。
自分が何をできるか。
何をしてきたか。
そこを見てほしかった。
「今回、それは分かりました」
会社は。
遅かったけれど。
俺の評価を変えた。
「だから、ありがとうございます」
副本部長はしばらく黙っていた。
「……そうか」
怒られなかった。
意外だった。
「なら、現所属はどうする?」
「当面は第五資料室で構いません」
「当面?」
一瞬。
言葉に詰まりそうになる。
まだ。
退職は言わない。
「今後の働き方は、改めて考えています」
副本部長が俺をじっと見る。
何か気づいたかもしれない。
それでも。
「分かった」
それだけだった。
◇
会議室を出ると。
スマートフォンが震えた。
『白石さん。結果はいかがでしたか?』
コレットだ。
『異動は断った』
送信。
三秒後。
『承知しました』
続けて。
『では、本日の予定どおり定時退社してください』
「そこ?」
『今日は資源加工設備の定期点検があります』
会社の主任より。
地下施設の点検。
今の俺には。
本当にそちらの方が優先度が高くなっていた。
◇
その日の夕方。
俺たちは中層の第一資源加工区画にいた。
「第一精製機、摩耗率二・一パーセント」
シエル。
「第二精製機、一・八パーセント」
「問題なし?」
「現在の稼働頻度なら、次回主要整備まで推定百七十六日」
「半年くらいか」
「はい」
コレットが製品用の銀塊を収納する。
「今月分の継続注文、すべて生産完了しました」
「何キロ?」
「四・二キログラムです」
「予定どおりだな」
「はい」
加工設備は。
十台動かせる。
だが使っているのは二台だけ。
必要な分だけ作る。
市場を壊さない。
設備も酷使しない。
最初に見たときは。
コレットなら全部動かして金にすると思っていた。
実際は逆だった。
「コレット」
「はい?」
「お前、結構慎重だよな」
「今さらですか?」
「お金好きだから、もっと攻めるタイプかと」
「白石さん」
コレットが少し呆れた顔をする。
「お金が好きだからこそ、失敗したくないのです」
「なるほど」
「十万円を一度得るより、一万円を百回得られる方が嬉しいです」
「すごくコレットっぽい」
「褒め言葉として受け取ります」
その横で。
ラヴィが加工設備を覗き込んでいた。
「では魔法も、一発を百回より百発を一回に――」
「なりません」
セラが即座に止めた。
「最後まで言わせてください!」
◇
定期点検が終わった後。
イリスが突然、通路の奥を指さした。
「なおと」
「何?」
「直った」
「何が?」
「少し」
「何が少し直った?」
イリスは説明せず。
俺たちを先導して歩き始めた。
長いコートの裾を踏みそうになり。
一度止まり。
持ち上げ。
また歩く。
「そこまで気に入ってるなら、少し裾だけ直せばいいのに」
「これはこの長さがいい」
「転ぶぞ」
「なおとがいる」
「受け止める前提にするな」
数分後。
着いたのは。
中層の端にある小さな部屋だった。
『通信管理室』
扉が開く。
中には。
壁一面の黒い板。
その一部だけ。
紫色に光が戻っていた。
「第二魔力循環路を直した影響?」
「うん」
イリスが手を触れる。
『外部通信機能――一部復旧』
「何ができる?」
「遠くと話せる」
「電話みたいなもの?」
「もっと遠く」
「どこまで?」
イリスが少し考える。
「昔は別の整備拠点」
「別の?」
シエルがすぐ解析を始める。
「通信先記録を検出」
空中へ。
六つの点が表示された。
今いる施設。
そこから。
日本の地図上ではない。
海を越えた先。
さらに。
「待って」
シエルの声が変わる。
「座標系が、現代地理と一致しません」
「どういうこと?」
「一部は地下。別の一部は――」
表示が立体化する。
地表。
地下。
そして。
空。
「上空?」
ラヴィが目を輝かせた。
「空中ダンジョンですか!?」
「不明」
「行きたいです!」
「まだ行けません」
イリスが小さく答える。
「全部、通信切れてる」
「じゃあ意味ない?」
「今は」
そう言って。
イリスが一つだけ。
端にある点へ触れた。
『応答検索』
一秒。
二秒。
三秒。
反応なし。
「やっぱり切れてる」
「うん」
「じゃあ戻ろうか」
俺が言った、そのとき。
『――微弱信号を受信』
全員が止まった。
「イリス?」
「……知らない」
紫色の瞳が。
初めて眠そうではなくなる。
『信号解析不能』
『発信源――不明』
『六環式旧規格と部分一致』
「別の施設?」
セラが尋ねる。
「分からない」
イリスが答える。
信号は。
一度だけ。
短く届いた。
それだけで切れた。
「追える?」
シエルが解析する。
「現時点では困難」
「じゃあ保留か」
「はい」
今すぐ。
別の場所へ行く必要はない。
目の前には。
一万件以上の修理が残っている。
「記録だけ残しておこう」
「保存」
シエル。
「通信設備も、優先整備候補へ入れます」
コレット。
「新しい仕事を増やさないでほしいんだけど」
「白石さん」
「何?」
「臨時整備責任者ですので」
「忘れてないよ」
忘れたいだけだ。
◇
そして。
十二日間は。
思ったより普通に過ぎた。
定期納品。
協会との調査。
魔導銀の生産。
会社勤務。
全部。
無理に増やさなかった。
最終日。
夜。
俺の部屋で。
コレットが空中へ数字を表示した。
『安定利益判定――三か月目』
定期納品契約。
継続中。
『達成』
協会月額契約。
『達成』
魔導銀継続販売。
『達成』
業務委託収入。
『達成』
生活費六か月分。
『確保済み』
事業準備資金。
『確保済み』
六機維持費。
『予備費含め確保済み』
最後。
『三か月連続 会社給与超過』
一秒。
文字が変わる。
『達成』
「……全部?」
「全部です」
コレットが答えた。
俺は。
何度も見てきた数字なのに。
しばらく何も言えなかった。
「白石さん」
「うん」
「退職条件を満たしました」
ラヴィが両手を上げる。
「ついに!」
「まだ叫ばないでください」
セラが止める。
「でも!」
「直人様が決めることです」
部屋が静かになる。
六人が。
俺を見た。
少し前なら。
辞めたい。
逃げたい。
もう会社へ行きたくない。
そんな気持ちだったと思う。
今は違う。
「辞めるよ」
自然に言えた。
「会社」
フィオナが柔らかく笑う。
「はい」
シエルの瞳に数字が浮かぶ。
「直人の心拍上昇。ただしストレス反応は低値」
「じゃあ?」
「期待」
セラが。
静かに頭を下げた。
「直人様の決定を支持します」
「マスター!」
ラヴィが今度こそ俺の腕を掴む。
「お祝いは!?」
「まだ退職届も出してない」
「先に予約しましょう!」
「何を?」
「訓練場!」
「火球は禁止」
「どうしてですか!」
いつもの声が部屋へ戻る。
その中で。
イリスだけが。
俺の袖を引いた。
「なおと」
「ん?」
「ちゃんと選んだ?」
「ああ」
会社が嫌だから。
逃げるためじゃない。
「こっちでやりたいから辞める」
イリスが頷く。
「なら、いい」
コレットが。
一枚の書類を空中へ表示した。
『退職届』
「もう作ってたのか」
「条件達成後に表示するよう設定していました」
「準備良すぎない?」
「第五資源機ですので」
退職理由の欄。
そこには。
『一身上の都合』
とだけ書いてある。
「これだけ?」
「それで十分です」
会社へ。
恨み言を書く必要はない。
魔力値一だと評価されたことも。
地下へ送られたことも。
六機を押し付けられたことも。
全部。
もう。
辞める理由ではなかった。
俺は。
退職届を見ながら。
「明日、出してくる」
そう言った。
給料から六機分を天引きされた日から。
ずっと会社にしがみついていた俺が。
ようやく。
自分の意思で。
会社を手放す日が来た。




