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10:// 車輪の下、向日葵の少年

「さあ、最後の月が始まるよ。」

「ちゃんと聴いてるって。」

「聞かなくても知ってるからね私達。」

 二学期になった程度の理由では陰湿な虐め事件の犯人が恩赦されるはずもなく、唯は九月に入っても自宅に幽閉されたままだった。警備員が一人しかいないので脱走自体は容易ではあったが、仮に脱走したところで行く当てがあるわけでもない。

 唯と〈母親〉は何が目的かもわからなくなった不毛な口論を繰り返して体力を削り合っていたが、その応酬にもほんの少しだけ終わりの兆しが見えていた。疲れ果てて声も出なくなってきたのか、それとも新しい作戦を思いついたのか、〈母親〉が毎度必ず言い返すわけではなくなってきたのだ。

「……チッ。また無視かよ。」

 スマホに両目の視線を集めてしきりにスクロールと停止を繰り返す〈母親〉は、唯が何かを話しかけたところでほとんど罵詈雑言の嵐を返さない。小雨程度でも何かリアクションがあれば声を張り上げる気になれるのだが、無言を貫かれるのは張り合いがない。

 しばらく適当な話題を叩きつけて反撃が来るのを待ったが、数日前とは打って変わって静かなまま。どれだけコマンドを入力しても望んだ反応が返ってこないからか、やがて唯も諦めた。

(……もういいや。アニメでも見てこよ。)

 幸いなことに、プリヴォルヴァには暴言には必ず暴言で返してくれるような人々が暮らしている。


          *


 川沿いの道路を走る車の窓から外の景色を眺めると、灰色の堤防をひとつ飛び越えた向こう側に、黒く濁った水の塊が見える。それは二つの陸地の間に寝そべる蛇のように蠢いて、近くを通る者を飲み込もうと大きな口を開けていた。

 平日の昼間を走る車はまばらで、前にも後ろにも動くものの影はない。右隣の線路は貨物列車だけが走っていて、左側には小さなボートがロープに繋がれて浮かんでいる。

「いい? ちゃんと正直に言うのよ?」

「分かってるって。」

 隣から聞こえてくる〈母親〉の声はいつものような金切り声ではなく、少なくとも今は冷静に対話ができる状態らしい。

「私が嘘つくわけないでしょ。西日本人じゃあるまいし。」

 会話をしているうちに、景色は少しずつ変わっていった。遠くに見える白い壁はそのままに、今まで隣にいた川は少しだけ距離を置いて、代わりにささやかな市街地が見えてくる。唯が知っている本来の都市の姿とは比べることもおこがましい規模感でも、この壁の中では大きい方だ。

 町の中に入ると車の量が増えて、途端に進みが遅くなった。ちょうどいいタイミングで赤く光る信号機は、唯が目的地に着くのを一分でも遅らせようと操作されているに違いない。

「何話すかはちゃんと考えてる?」

 今日の目的地が近づいてくると、赤信号のたびに〈母親〉が尋ねてきた。同じ質問に何通りもの返事で意味を正確に伝えられるほど語彙力のない唯は、次第に反対側の窓に視線を集中させて聞こえないふりをするようになった。

(……いちいちうっさいんだよ。何回も聞いてくんな。)

 遠くの山の上、空の青さえも閉じ込めようと、檻の壁が手を伸ばしている。車はそのずっと手前、この村で一番大きい病院に向けて速度を一段上げた。


          *


 丘の上の病院は遠くから見るとヨーロッパの城塞のような外観をしていて、この辺境に位置する集落の景観とは明らかに合っていない。この病院の主はよほど西洋趣味だったか、空気が読めていないか、その両方だったのだろう。

 白線の一つさえ書かれていない駐車場は大小さまざまな車が乱雑に停められていて、自分の意思ではどうやっても出られなくなっているものもあった。自分の都合しか考えない愚かで身勝手な人間で溢れる西日本らしい駐車場だ。駐車場の一番端に停車すると、〈母親〉は唯に手を差し出した。

「ほら、ついてきなさい。」

 余所行き用の人格に切り替わったらしいが、人のことを何だと思っているのだろうか。別に初めて来るわけでもないし、迷子になる年齢でもないのに。

 とはいえ、ここで無理に手を振りほどくとあとで不利益が降りかかるのは火を見るよりも明らかで、唯は〈母親〉に手を引かれるままに車を降りて病院のドアを開けた。

 無駄に長い廊下を抜けて待合室の椅子に座ると、看護師の一人に呼ばれて、身長、体重、その他のステータスを色々と測られる。人の話を聞く上で何の役に立つのかは分からないが、この病院ではそれが当たり前のことだった。親向けのお土産なのだろう。

 待合室の席の隣には本棚が置いてあって、絵本や古いマンガが積まれていた。どれも完全な状態ではなく、だいたい数ページ分が破れたりくっついたりして読めなくなっている。いつまでも買い替えないのは、こんな本を読むのは所詮子供だからと客を舐めている証拠だ。

「準備できたから先生のところ行こうね。」

「ほら、全部話してきなさい。」

 古本屋で値段のつかないような本を惰性でめくっていると、看護師に先導されて診察室に連れていかれた。先導、というよりは途中で逃げ出されないための監視なのだろう。診察室に入ると、権威だけでその椅子に座っていそうな白衣の、顔だけ見ればよく干からびた梅干しに似ているものが鎮座していた。

「久しぶりねぇ。座って。最近はどう?」

 ガリガリ梅は唯を硬そうな椅子に座らせると、まず近況を訊いてきた。いつものことだ。唯はここに来るたびに最近起きた理不尽なことを訴えてきたが、ここで話したからと言って何か改善された試しがない。とはいえ、何を言っても許されるというのなら、ここで第一征服者の陰謀の一部始終を話してやるのもいいだろう。

 唯は一度ため息をついて話題を整理する時間を稼ぐと、できるだけ怒りを抑えたトーンでゆっくりと語りだした。


          *


 唯の話は延々と続き、話終わる頃には時計の針はどちらも真上を向こうとしていた。いつもはどうせ無駄だからと簡潔に済ませていたが、今日は第一征服者の陰謀やその計画の詳細と実際の出来事、その後の影響までを事細かに話していた。

「で? なんかしてくれんの?」

 話を切り上げた唯は真っ先にそう訊いた。唯は問題を解決するため経緯を話したのであって、ただ雑談をして気を紛らわせに来たわけではない。それだけなら〈母親〉を相手に口論するので十分だ。

「じゃあこの後はお母さんと話すから、ちょっと外で待っててねぇ。」

 ガリガリ梅は唯の質問には回答をせず、電話を一本入れて看護師を呼びつけると唯を診察室から追い払い、入れ替わりに〈母親〉を診察室に入れた。


 唯は看護師に連れられて子供部屋のような部屋で待機させられていたが、トイレに行くと言って抜け出すと診察室のドアにぴたりと耳をつけた。子供部屋に戻るまでに一度でもトイレに寄れば嘘をついたことにはならないだろう。

「――ですよね。どうせ大げさに――」

(はぁ? 大げさなんじゃなくてそれが事実だっつーの!)

 唯は思わずドアを蹴破りそうになった。どんな文脈かまではわからないが、何かを誇大妄想であると批判するとしたら、唯の語った事件の一部始終に関する話題だろう。なぜ人の説明にわざわざ信用に値しないと付け加えるのだろうか。

「――ええ、学校のほうには――」

 学校に何か言ったところで何も変わらないのはこれまでの実績が示しているだろうに、なぜ他のアプローチを考えもしないのだろうか。それは真面目に問題解決をする気がないからに他ならない。

「――では今月からは――」

「はい。ありがとうございます。」

 どうやら話は一段落ついたらしい。もう慣れたことではあるし、半ば受け入れてはいるが、いつだって唯のいないところで何かが決まっていくのは気分のいいものではない。

 唯が乱入するタイミングを計っていると、〈母親〉が椅子から立ち上がる音が聞こえた。ドアの下の通気口からは影が動くのが見える。唯は一旦ドアから耳を話すと、何食わぬ顔で廊下を歩いている風を装った。

「唯。終わったよ。」

「あっそ。じゃあさっさと帰ろ。」

「はいはい。ちょっと待ってなさい。」

 受付の看護師と雑談を始めようとした〈母親〉を引きずるようにして、唯は病院のドアを開けた。


          *


 別に何か期待をしていたわけではないし、はじめから分かりきっていたことではあるが、第一征服者の陰謀を告発してその横暴を訴えた程度では、唯は学校に戻ることを許されはしなかった。

 〈母親〉は唯を学校に通わせたら必ず第一征服者と喧嘩になる、今度こそ警察沙汰になると信じているのだから、医者に一言言われたくらいでは唯を外には出さないだろうし、学校としても、三年連続でトラブルの爆心地になった人間が戻ってくるのを歓迎するはずがない。こちらも適当な理由をつけて自宅にいてもらうように取り計らうだろう。

 つまり、唯の周りにいる全員が、唯の登校再開を望んでないのだ。巫女みこ天使さまは例外のようだが、わざわざ全教師を敵に回すほどではない。アニメヒロインのように唯を助けに来てはくれないということだ。もっとも、もう登校しなくなって借りパクされる危険の高い人間にマンガを貸したり、週末に家まで会いに行けば長話に付き合ってはくれるのだから、これ以上は贅沢というものかもしれない。

(……ま、いっか。)

 唯は復讐ノートに計画を書き込んでいくたび、次第にそういう思考に陥っていた。第一征服者に復讐したところで居場所が増えはしないし、学校に戻れるわけでもない。〈母親〉の言う通り、自分が幸せになりつつ第一征服者を不幸にできるならそれが一番だというのは、よく考えてみればもっともだ。

 第一征服者は今幸福に決まっているのだから、そのぶんも徴収できなければ復讐が成り立たない。


          *


 太陽が夏と秋の狭間を通り始めたある日のこと。唯がいつものようにマンガにアニメにゲームにと、およそ不幸とは言い難い充実した不登校生活を送っていると、〈母親〉が一つの提案をしてきた。

「唯。どうせ学校行かないんなら高校見学行かない?」

 まるで自分は何度も登校するように促しているのに唯が頑なに拒否しているかのような言い草だ。おそらく〈母親〉の脳内ではそういう認識なのだろう。それに、仮にここで拒否したとしても、すでに予定は入れられているのだろう。唯の知る〈母親〉とはそういう人だ。

「はいはい。いつ?」

 唯は目を合わせることもなく事務的に訊いた。

「今週。もう予約はしてもらってるから。早い方がいいでしょ?」

 〈母親〉は事もなげに答えた。やはりスケジュールは組まれているらしい。昔のゲームのNPCと同じで、はい、いいえ、どう答えても先のシナリオは一種類しか用意されていないのだ。それなら選択肢を提示する必要もなく、ただ命令を下せばいいのに。

「行ってもどうせ意味ないけどね。通い始めて一ヶ月もすれば何かしらトラブル起きるんだよ。」

「それは唯次第でしょ。唯が大人しくしてればいいだけよ。」

「あーはいはいそうだねそうかもね。」

 唯は〈母親〉の機嫌が悪化する音を聞き逃さず、すぐに適当な返事を置いて話題を切り上げた。仮に入学したところで最後まで在籍していられる可能性はゼロに近いが、前向きな姿勢を見せるだけで今日のQOLが上がるなら安いものだ――少なくとも今はそう思っておこう。


          *


 見学の当日になって、唯は駅前のビルを見上げていた。こんなところに学校があるとは到底思えないが、テナントの一つとしてに入っているのだろうか。

「……これほんとに学校なの? 胡散臭い塾とかじゃなくて?」

「そんなこと目の前で言わないの。」

 炎天下に浮かぶ陽炎のように正面ゲート前に立ち尽くして呟くと、すぐに〈母親〉に窘められた。確かに張り出された看板には「銀行」などの文字とともに「高等学校」というのもある。腐った豆腐のような見た目の建物ばかり想像していたが、なるほど、こういうケースもあるのか。

 ビルの中に入って階段を上り、ドアをノックして中に入ると、教師というよりは体育会系の営業マンのようなおじさんが応接室のようなスペースに案内した。学校というよりも企業のオフィスのような雰囲気だ。

「えー、では今日は見学ということで……」

 区別野郎が名刺を渡し、そのまま机に資料を開いて学校の説明を始めた。通信制だから自宅で単位が取れること、年数回のレポート提出とスクーリングで卒業できること、系列のフリースクールがあること――学校というよりも商品のプレゼンに聞こえる。

「いつになったら見学をするんだ、こっちは暇じゃないんだから早くしろ」と催促したくなったが、このワンフロアが校舎の全てだというなら見て回るまでもない。通信制なら校舎は必要ないからコストカットしているのだろう。

「どう?」

 話が一段落したところで、〈母親〉が唯のほうを向いた。何かしら感想を言えということだ。確かに、誰とも会わずに授業を受けられるなら虐めになることもないのだから、冤罪で追放されることもない。追放されることがなく、かつ万が一登校できなくなってもレポートを郵送すればいいなら中退リスクという点でも安全だ。ただ、唯はパンフレットの中から一つだけ罠を見つけた。

「……ふん。どうせこのスクーリングの時にボコボコにされんだよ。私には見えるね。」

「は? またそんなこと――」

 〈母親〉は何か言い返そうとしたが、途中で口をつぐんだ。流石に人前で怒鳴るのはよくないと判断したのか、それとも唯の言った未来が見えたのか。


          *


 多くの企業で会社員に一定のノルマが課されるように、この区別野郎にも毎年何人以上の生徒を入学させるというノルマがあるのだろう。唯の反応が想定していたよりも冷たかったからか、区別野郎は少し困ったような顔をして、もう一枚カードを切った。

「じゃあ、今からうちのフリースクールの見学もするのは……お母さんはどう思いますか?」

 なぜ質問の対象が唯ではなく〈母親〉なのかと言いたくなったが、唯の親子関係では〈母親〉が支配者として君臨しているのは事実だから、それを一目で見抜いた線も捨てられない。

「いいよね? どうせ暇なんだし。」

 これは確認だ。既にいいという答えが出ているなら、唯にできるのはそれを承認することだけ。仮に拒否しても「そんなこと言わないの」から始まって結論は変わらない。

「ん。」

「はい、じゃあお願いします。」

「分かりました。じゃあ今から……」

 区別野郎は一旦席を外すと、どこかに電話をかけ始めた。


 しばらくすると、ビルの前に一台のミニクーパーが停車した。

「では行きましょうか。」

 区別野郎についていってビルを下りると、車の前で一人のおばさんが待っていた。どうにも胡散臭い雰囲気、軽蔑のオーラを纏っていそうな顔なのが気がかりだが、まあ仕方ない。

 車には特に校章も学校名も書かれていないので、おそらくこのおばさん個人の車なのだろう。社用車すらないのかと言いたくなるが、校舎をビルのテナントで済ませるような経営方針なら十分あり得る話だ。

「はじめまして。私は――」

「そんなのいいから早く連れてけ。」

 照りつける太陽の下で自己紹介を始めようとしたおばさんの話を遮って、唯はミニクーパーに乗り込んだ。エンジンがかかると車内はエアコンがかかって涼しい風が吹き、その一点だけは家よりも居心地がよくなった。


 信号に何度か引っかかったところで車は目的地に着き、三人はぞろぞろと正面の入り口から施設内に入った。第一印象としてはやはり学校というよりもオフィス。白い壁、広めの部屋にいくつものデスクとソファや椅子が置いてあって、床にはカーペットが敷き詰められている。元々小さな事務所だったのを買い取って改装したようなデザインだ。

 部屋では何人かの生徒と思われる人間が座っていて、課題をしたり、明らかに意識がここになかったり、かなり自由そうな雰囲気でもある。どこかの思想矯正施設と違って理性なく騒いでいるものがいないのは高評価だった。

「先生、その人たちは?」

「見学の人よ。」

 意識を現実に戻した一人が玄関のほうを向いて、唯と目が合った。

「は? なんでここにいんの?」

「……酷えなおい。」

 そこには、去年までよく見知った顔の一つがあった。


          *


「わーお。高校行っても居残りさせられてるなんて成長してないっすねぇ先輩。」

「お前流石に酷すぎじゃね?」

「去年まで課題やってあげてたの誰だとお思いで?」

「そりゃそうだけどさぁ……」

 去年まで同じクラスかつ数少ない友達だったチーター先輩を見かけた瞬間、二人の周囲だけ一、二年ほど時間が巻き戻ったように空気が変わった。ここに友人Kが揃っていれば完璧だったのに。

「ってか先輩ちゃんと進学できてたんだ。おめでとー。」

「それバカにしてんだろおい。」

 唯がさも当然のように椅子を一つ占領してチーター先輩の正面に座ると、風よりも軽い口調で雑談を始めた。〈母親〉は一瞬唯を連れ戻そうとしたが、我が物顔で椅子に座る唯を引きはがすのが面倒くさくなったのか、案内役のおばさんと奥のソファで話し合うことにした。

「――で、先輩ちゃんとレポートやってんですか?」

「やってるわ! ……一応。」

「怪しいな~。私の知ってる先輩は出された課題どこ置いたか忘れてゲームしまくって提出日なってからやり始めるような、そんな人なんですけどね~」

 こうして誰かと軽口を言い合ったのは何ヶ月ぶりだろうか。今さっきまで唯側は存在すら忘れていたというのに、唯はすぐに順応していた。やはり身体が話し方を覚えているのだろう。部屋の一角、たった一つの机だけが異様に賑やかになっていく。

「ま、これも何かの縁ってね。この超天才邪神様がほんのちょっとだけ力を貸して差し上げようじゃないか。」

「え? マジ? じゃあ全部やっといて。」

「調子乗んな。せめて最初の一問くらい自分でやれ。」


          *


 唯に本性という概念が存在するのかはさておき、少なくともチーター先輩の前ではこれが本性だった。年長者への敬意などは微塵もない、お気に入りの玩具かペットのような感覚。

「……すみませんうるさくて。」

「いえいえ。」

 機関銃のようによく回る唯の舌に改めて呆れつつ、〈母親〉は唯を視界の端に捉えながら話を進めていた。本人の同意なく勝手に進めていいものかと言いたくなるが、ハイテンションでまくし立てているのが嫌がっているようにはとても見えなかったからか、それとも単純に契約が結べるなら契約者以外の人間の都合などどうでもいいからか、とんとん拍子で話は進んでいった。

「唯、そろそろ帰るよ。」

「えー、もう? もうちょい話しててよかったのに。」

 話が終わって〈母親〉が唯の席に向かうと、唯は露骨に嫌そうな顔をして片手をひらひらさせた。せっかく昔の友人と話す機会を得られたというのに、たった数十分で終わるなんて勿体ない。友人Kのような事態になる可能性がある以上、今この瞬間を有効に使うべきだ。

「ほんとごめんね……邪魔しちゃって……」

「いえ全然。大丈夫ですよ。」

「勉強なんて最初からしてませんでしたから~」

「オレ一応先輩なんだけど?」

「今は学校違うからノーカン。まあいいや、ばいばーい。」

 最後まで真面目な雰囲気にはならないまま、唯は〈母親〉に連れられて暴風のように去っていった。駐車場まで歩いて、後部座席に座る。

「今日はどうだった?」

 駅前まで送迎される途中、運転手のおばさんがバックミラー越しに話しかけてきた。

「……まあ悪くない。」

 それは施設の評価などではなく、その場所にいるのが誰かの評価でしかなかったが、普段の唯ならこのような支援施設のような場所には問答無用で低評価の長文レビューをぶつけていたことを考えると、頭ごなしに批判されなかっただけでも宣伝は上出来といえる。


          *


 泥棒猫の鳴き叫ぶ声が久々に響き渡った。今までは唯が全身から放つ殺意に怯えていたが、今日は珍しく〈母親〉の前まで出てきていた。いつもの空気とは違う、ねだっても安全だと判断したのだろう。

「にゃーあ! にゃーあ!」

「……うっせえんだよお前ら! 黙ってろ!」

 もちろん唯は元から泥棒猫の騒音は好きではないので、いつものように罵詈雑言やノートやプリントの束が投げつけられる。それでも泥棒猫は懲りずにテーブルの周りを歩き回ったり、がりがりと畳の繊維を削りながら縁側シャトルランをしたりしている。

「はいはいきなちゃん今日は元気だね~♡ ん~可愛いんだからも~♡」

 泥棒猫がすり寄ってくると〈母親〉も簡単に棘が抜け落ちて、笑顔のままキッチンに向かった。ケージの前に餌の皿を置いて、もう一度キッチンへの襖を開ける。

「今日は何がいい?」

「ご自由にどうぞ。」

 襖が閉まりきる前に唯も立ち上がり、片手を滑り込ませてそっと開くと唯もキッチンの入り口に立った。

「で? あそこに行けってこと?」

 第一征服者への不満とは関係のないこと話題をキッチンに放り込むと、〈母親〉が首だけを向けた。

「行きたいんならね。それと来週からあそこのフリースクール通うことになってるけど、いいでしょ?」

「よく言うよ。今さら嫌だって言っても強制してくるくせに。」

 唯はいつもの口調でそう言いつつ、珍しく本心から受け入れていた。


          *


 フリースクールに通うようになってから一日目、唯は中学生時代さながらの身勝手さを発揮した。チーター先輩がいる場所ということで、唯はこのフリースクールを、いくら騒いでも問題ない星組の代わりの場所と判断したのだろう。もっとも唯自身は特に意識してはいなかったが、実際に外から見える行動だけで推測すればその結論にたどり着く。

「せんぱーい、遊びに来てあげましたよー。」

 唯が当たり前のようにチーター先輩と同じ机に座り、ここが自分の家であるかのようにくつろぎ始めると、職員のおばさんの一人が唯の元にやってきた。

「唯君は何か飲み物いる? お水とか、お茶とか、ジュースとか――」

「そういうのなくていいから。水以外飲み物じゃないし。」

「じゃあお水ね。」

 職員のおばさんは一旦離れると、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、コップに注いで唯の元に持ってきた。当然口をつける気はないが、水道水を飲み水として提供する思想矯正施設と比べると遥かに好待遇と言える。いや、思想矯正施設の待遇が悪すぎるだけか。

「……なにこれ。」

 唯はコップを机の端に追いやると、机の上に置かれた一枚のプリントに目がいった。見たところ英語の問題集の一ページをコピーしたものというところか。

「これ? 今日はこれをやろうね。」

「は? バカにしてんのか? 私はこんな低レベルなことはしないぞ、覚えとけ。」

 学年と内容がかみ合っていないのを見て、すぐに唯はプリントを落書き用の裏紙にした。まったく、この手の施設の人間は子供を見下さないと生きていけないのだろうか。

「まあいいや。先輩そのレポートちょっと見せてよ。」

 唯はチーター先輩からレポートを奪い取って、ふと気づいた。

 ここにいれば一学年上の課題をやれるのだから、それは実質一年飛び級したのと同じなのではないかと。


          *


「ただいまー。」

「おかえり。どうだった?」

 職員のおばさんの車で家の近くまで送迎されて、唯は玄関のドアを開けた。いつもより心なしか扉が軽い。キッチンまで一直線に早歩きして手を洗って、床の板をがたんと騒がせてから定位置にダイブする。

「うん。まあ普通って感じ?」

 普通。特別居心地がいいわけでもなく、かといって悪いわけでもない、その中間くらいの評価。それでも、唯自身、この村に来て以降は「普通の人間として生きること」を目指していたことを考えると、最高の時間だったと言われるよりも高評価なのかもしれない。

「そう。ならよかったじゃん。」

「まあね。」

「私たちの月には誰も抗えないんだよ。」

「あ~、そういえばこれもなのか……」

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