11:// Fスクールライフ
「幸せな時間も残り少し。」
「安心していい。私も似たようなものだったからな。」
唯の日常はこの数ヶ月の間で目まぐるしく変わっていた。
まずは三月。パンデミックが発生したといって、突如として学校が休校になった。今まで普通に暮らしていた生活が急になくなったというのは、十年ほど前を思い起こさせる。小学校の頃の不登校生活に戻ったと言い換えることもできたが、学校に通うのが当然になっていた唯は考えもしなかった。
次は六月、学校が再開した月。四六時中ゲームをしていたせいか四月に登校したことをすっかり忘れていた唯の前にあったのは、休校前とは全く違うルールで動く世界だった。三ヶ月も続いた非常事態はいつしかそれを当たり前にして、登校しなければいけない世界を異常だと思ったほどだ。もっとも、この時の変化は主に巫女みこ天使さまによるもの。内容自体も、唯の憧れていた「普通」に近かったのもあって、これには特に抵抗なくすんなりと受け入れられた。
問題なのは運命の七月九日、十日。中学に入ってから唯が築き上げてきたものが一瞬で消えてなくなった日。まったく理不尽なことこの上ない理由で唯は将来を失った。その憎しみは今でも消えることなく唯の心臓を燃やし続けているが、一ヶ月もすれば、追放された事実そのものは確かに唯の中で生きていた。
そして九月。絶賛不登校中の唯がチーター先輩と再会したのは、家にも学校にも味方は一人もいない、そんな孤独がすっかり板についた頃の出来事だった。今ではむしろ、なぜそんなことを信じていたのかを疑問に思っていた。
*
偶然にも新しい居場所が与えられると、今までハリネズミのように荒んでいた唯の性格もほんの少しだけ棘が抜け落ちていた。
巫女みこ天使さまを見れば分かることだが、唯はあらゆる変化を嫌うというわけではない。現金な性格とも言えるが、自分に都合のいい変化なら大歓迎だし、自分に不利な変化なら絶対に素直に受け入れたりはしない。そして、今回のフリースクールに関しては明らかに前者だったからもちろん喜んだ。
だからこそ、唯はフリースクールに通うときも〈母親〉に急かされる前に支度を済ませたりと、新しい日常をできるだけ楽しむために自分なりに努めていた。
「じゃあいってくるね。」
「行ってらっしゃい。あんまり迷惑かけないようにね。」
〈母親〉に細めの釘を刺されつつ玄関のドアを閉め、送迎の車に乗ってフリースクールへ向かう。スクールとは名ばかりの小さな建物は、唯にとっては友人のひとりに会うための待ち合わせ場所のような感覚だったが、同時に、二ヶ月前に奪われた学校の教室の代わりになれる数少ない領土でもあった。
「せんぱーい、おはようございまーす。ちゃんと課題やってますかー?」
ドアを開けて最初の一言から、敬意の欠片すら感じさせない挨拶が飛ぶ。
「もう午後っていうか夕方近いけど。」
「いいじゃん別に。一年前は朝だったから癖が残っちゃってんの。ああ、でも先輩は結構寝坊して遅刻してたっけ……」
「よく覚えてんな。」
「だってあのクソブルドッグの新幹線の真似超面白かったから。あれ私超ツボってたっしょ。」
学校を知識を教える場として見るなら、ただのカフェの一角のようになっているこの場所はいくら「フリー」とはいえその名に相応しい姿ではないかもしれない。
だが、知識ではなく人間関係を作る場として見るなら、優秀な外国人を問答無用で排斥するような場所よりもよほどその本分を果たしていると言えるだろう。
*
「それで~? 夏休みの課題? みたいなのはちゃんと終わったんっすか~?」
「ったく心配性だなぁ。途中までは終わってるって。」
「いやそこは全部終わってろよ。」
少しよれたレポートの広げられた机を挟んで、唯とチーター先輩は今日もとりとめのない時間を送っている。二人の提出物を片付ける速さは対照的で、だからこそ一年前からずっとブルドッグが好んで使ったネタだった。いわばあある種のお約束であって、唯にとっては一年前の友人関係が解消されてないことを確認する手段でもあったのかもしれない。
「……ふーん。こんくらいなら一週間くらいで終わりそうっすけどね……」
「そりゃお前だけだよ。いい加減にしろ。」
エアコンのよく聞いた部屋は勉強にも雑談にも都合がよく、家と違ってゲーム機こそ置いていないものの、それよりもずっと面白いものが置いてあるから問題にはならない。
*
送迎の車に乗って山の上の家に帰る途中、職員のおばさんが今日の感想以外の話題を投げてきた。車内は何かの香料の放つおぞましい匂いが充満していて、できることならあまり空気を吸いたくない。しかし、やっと手に入れた領地の人間の心証はできるだけ好感触のほうがいいだろう。
「なに?」
「今度のお休みの時にうちのスクーリングがあるんだけど、体験授業に来てみない?」
そういえば、区別野郎が初日の営業トーク中にそんなことを言っていたような気がする。確か月一くらいのペースでイベントを開催して広告の代わりにしているのだったか。
「ま、考えとく。」
「ええ、決まったら教えてね。」
行くべきか、サボるべきかの二択で言えば、それはもちろん行くべきだろう。将来ここに通うことになるのなら、スクーリングの様子が唯に合っているかを確かめておく必要がある。唯は〈母親〉に許可を申請するためにお伺いを立てることにした。
「……楽しそうじゃん。行けばいいんじゃない?」
「いや楽しくはないでしょ。授業なんだし。」
家に帰ってから訊いてみると、〈母親〉は何も考えずに承諾した。今の質問が「明日から学校行ってもいい?」だったとしても了承してもらえそうなほどの思考停止な返事だ。
「ん。じゃあそう言っとく。」
唯は〈母親〉と同じくらい適当な返事をすると、気づけばいくら使っていてもさほど説教されなくなったデバイスを手に取って、久しぶりにソムニアに潜った。
*
人々の心を体現した世界に本来四季はないが、四季の移ろいを意識する人々が多く集まることで、この場所にも秋の始まりが訪れていた。
流れてくるミーム片は現実よりも一足早く秋色に染まり始め、街に立ち並ぶ物語も次第に涼しさを増していく。住人の衣装は全く変わらない者とがらりと変わった者に割れていたが、見知らぬ他人であれば、衣装が違えば同じ存在として認識することはできないだろう。
唯は秋に新しく始まるアニメを楽しみに待ちつつ、今やっているものを消化し、それから何か面白い話題がないかを探してみる。フリースクールに通い始めたとはいえ、あそこも結局は閉じた場所に過ぎなくて、唯と世界を繋いでいるのは、やはりソムニアにあるものたちだった。
「……そういえば巫女みこ天使さまの約ネバ最近読んでないな……早く読み終えておきたいし、また今度の休みにでも一気読みするか……」
情報の氾濫する大通りを歩きながら、魂の端っこにメモをしておく。きっとリアルに帰ったときには忘れていることではあるが、もし思い出せたらそれは「早く読んで続きを借りてこい」という神のお告げだろう。何せ、唯の家には巫女みこ天使さまを崇敬する神様がいるのだから。
*
高校を経営している企業が建てたフリースクールというだけあって、イベントや行事の中には実際のスクーリングを体験できるものもあった。おそらく、このフリースクールを利用している人間を高校に勧誘するという宣伝戦略なのだろう。
普段は午後だけ通っている唯も、このようなイベントのある日は午前中から参加する。もちろん体験授業そのものが目的ではなかったが、雑談ついでにスクーリングの雰囲気を視察できるのはいいことだ。わざわざ公開しているのくらいだから、よほど自信があるのだろう。
「それじゃ行こっか。」
「なんでついてくる前提なの……?」
〈母親〉は自分も体験授業に参加するつもりらしく、まるで授業参観でもあるかのように念入りに身だしなみを整えていた。
集合場所に行くと、一台のマイクロバスが停まっていて、引率の教師がバスの前に立っていた。軽く挨拶をしてバスに乗り、手ごろな席に座る。参加希望者が全員集まったところでエンジン音が鳴り響いた。誰も大声で騒いでいないという点を除けば、まるで幼稚園の遠足だ。
市街地の道路を通り、深い森の中を通り、さらに山を登っていくと、道の突き当りに別荘かシェアハウスのような建物が見えてきた。肝試しくらいにしか使えそうにない外観だが、この周囲には他に建物もないので、ここが今日授業をする場所なのだろう。オフィスビルのワンフロアを職員室にしたり、つくづく学校らしさに欠けた設備が好きらしい。
別荘の内装は外観の割に清潔感が保たれていて、うち一部屋が会議室のような趣になっていた。決して埋まることのなさそうな椅子がいくつも並んでいて、好きな席に座ってくださいと無言のままに語りかけてくる。唯は当然、チーター先輩の近くの席を選んだ。
*
この体験授業に際して事前の説明にあったのは、美術系の授業をするということだけ。実際に何をするのかの詳細は知らされていない。どうせ詳細を決めていなかったのだろう。西日本人は時間にルーズだから何もおかしくはない。
「何するんだろうね。」
「さあ? まあ大したことはしないでしょ。」
隣の席から〈母親〉が話しかけてくる。教室の後ろの方で見ているだけかと思いきや、どうやら授業に参加する気満々らしい。確かに〈母親〉は西日本人の友人達と集まっていたりもするくらい趣味人だから、こういうワークショップめいたものは好みなのだろう。今回ついてきたのもその延長ということか。
「皆さんおはようございます。」
講師の声で生徒たちが頭を垂れ、スクーリング授業が始まった。唯にとっては来年の予習ということになるだろうか。
「――今から絵の具と紙を渡しますので――」
西日本に来て以来授業を真面目に受けたことのない唯は当然のように話のほとんどを聞き流して、窓の外に広がる中庭の景色を見つめていた。曇り空の灰色のに沈む日本庭園はどこか哀愁や虚無感といったものを感じさせる。
「ではこの黒の絵の具のほうを――」
講師に言われるまま、生徒たちが絵の具をパレットに出して白と混ぜ合わせていく。唯は言いつけを無視して自由に何かを描こうとしたが、隣の〈母親〉の視線が突き刺さってるのを思い出すと、大多数に倣って同じように灰色を作り始めた。
「お、上手だね。やったことあるの?」
教室を巡回していた講師に声をかけられた。モノクロームのグラデーションを作るだけの作業に上手いも下手もないのだから、顧客候補には適当にお世辞を言うマニュアルなのだろう。少し褒められた程度のことで調子に乗ると第一征服者のようになってしまうから気をつけなければならない。
唯が自戒をしていると、講師は他の生徒にも似たようなことを言って回っていた。やはりお世辞だったらしい。
*
午前の授業が終わると昼休憩になるのはどの学校も同じなようで、元食堂と思われる場所では生徒用に弁当が用意されていた。体験授業に来ていただけの唯たちの分まではなかったが、そもそも唯は外食嫌いなのでむしろありがたい。
「授業どうだった?」
ぼんやりと他の部屋を見て回っていると、わざわざ探しに来たのか、チーター先輩が話しかけてきた。ただし、手には持参したと思われるおにぎりを持って、おまけにアストラル接続用のウェアラブル端末つき。意識がどこにあるのか分からない欲張りっぷりだ。
「まあ悪くないんじゃない? 知らんけど。」
「知らんのかい。」
「だってまだ一回目だし。」
部屋の真ん中で立ち話。建物の中、座るところはいくらでもあるのに、わざわざ歩き回りながらの昼食とはチーター先輩も変わった趣味を持っているようだ。
「私もうちょい部屋見て回ってるからゆっくり飯食ってていいっすよー。」
唯はそう言うとそのまま一人で別荘の中を探検し始めた。
教室に繋がる廊下はそこそこきれいに改装されていて、玄関から教室までの動線だけを見れば外観ほど古くはない。しかし、それ以外の部屋、授業と関係のなさそうな区画の部屋は畳のまま残されていたり、風呂場は非文明的なタイル張りだったりと、全面的に改修工事をしたわけでもないらしい。効率的というよりはケチなのだろう。
トイレが文明化されているか確かめたところで食堂に戻ると、〈母親〉と職員のおばさんが何かを話し合っていた。
「ただいま。」
「おかえり。今日はどうだった?」
〈母親〉が微笑んだまま尋ねてきて、四つの眼球が唯のほうを向いた。
「ん~、いつもの思想矯正施設よりはマシって感じ?」
最悪なものと比べれば高評価、というのが世間一般では誉め言葉なのか悪口なのかは分からないが、最低評価を更新しなかっただけでも喜ぶべきだろう。
今日は午後の授業はないとのことで、マイクロバスはそのまま下山して駅前のビル前に停まると、生徒たちを吐き出した。今日の授業はこれで終わり。
「どうだった?」
他の生徒や教師たちから少し距離を置いてから、改めて〈母親〉が尋ねてきた。〈母親〉としても、どこでもいいから早く進学先を決めてほしいのだろう。
「だからさっきも言ったでしょ。まあまあ悪くはないんじゃない?」
*
星組のメンバーの中で最初に唯の友人になったのはチーター先輩で、次いで友人Kという順番だった。第一征服者はついぞ友人になることはないまま宿敵になり、今や復讐対象リストのナンバーワンに君臨している。
「最近はゲーム何やってんの?」
「んー、オレは今もやってるのは変わってないよ。」
「好きだねFPS。まあ当然か……」
唯は対戦で負けたりするのが大嫌いなのでアストラルゲームはほとんどやらない。そもそもプレイする機会を与えられてこなかったのも一因だろう。よって唯はレトロゲーム派だった。
対してチーター先輩は銃で人を殺すのが好きで好きでたまらないという戦闘狂。武人というよりも快楽殺人鬼のような性格で、アストラル界というはけ口がなければたちまち刑務所行きだっただろう。よってチーター先輩はアストラルゲーム派。
どちらもゲーム好きという点では同じでも、生きる世界が違ったのであまりゲームの話題にはならなかった。
「唯は今でもドラクエしかやってないんだろ?」
「ドラクエ以外もやってたが? でもまあ一番長続きしたのはそうだね。なんじゃ? レトロゲーム教に改宗する気になったか?」
「いや。」
「しろよ!」
友人Kは改宗してくれた……かどうかは分からないが、少なくとも唯と遊ぶときはわざわざ数十年前の化石を用意してくれたというのに。
「ま、最近は私も向こう行けるようになったんだけどね。」
「じゃあ一緒にやろうぜ。」
「それが親に借りてるだけだから好き勝手はできないんですよね~……」
唯の権限で入れるのは無料開放されているエリアだけ。その先へ立ち入ることを〈母親〉が許すとは到底思えない。そもそも、〈母親〉は毎日のように高級毛糸を買うのが趣味なのだ。それ以外のところに無駄な浪費はさせないだろう。
「ンだよ~。」
「ごめんて。じゃあ代わりに先輩もドラクエやればいいじゃん。あの安っぽい感じこそゲームでしょ。」
*
昼下がりを少し通り過ぎたくらいから太陽が地平線にぶつかる少し前まで。唯がフリースクールに通うのはだいたいそのくらいの時間帯だった。朝から晩まで一日中いるならいざ知らず、たった数時間もない雑談時間を自分の勉強時間に使うのは勿体ない。
そんなわけで、唯は〈母親〉に与えられた問題集を持ち込むようなことは一切せず、職員の人に勉強用のプリントをもらってもすぐにミカンの皮入れに転生させてしまっていた。しかし、ときどきではあるが、唯にも勉強をしてみようという気持ちが生まれたりはするもので。
「せんぱーい、なんか面白い教科書貸ーしーてー。」
唯は返事を待つこともなく、閉じられたままの教科書の一冊をぱらぱらとめくりはじめた。
「教科書が面白いなんてことあるか?」
「道徳とか噓八百書いてあって面白くない? 政治系もいけるよね。あとは無難に国語とか。」
今挙げたものを寄越せと言わんばかりに唯が詰め寄ると、チーター先輩はやれやれといった様子で何枚かのプリントを取り出した。最初のほうにだけ回答があることから察するに、これがレポートというものなのだろう。
「じゃあオレの代わりにこれ終わらしてといてくれや。」
「なんでやねん。」
「いや、この前手伝ってくれるって言ってたし。」
正直、あれは寝て起きた頃には忘れているだろうと思って言った冗談でもあったのだが、とはいえ約束といえば約束だ。それに新しい知識としては申し分ない。唯は仕方なさそうな仮面を被って、いつも持ち歩いているシャーペンを取り出した。
「しょーがないですねー先輩ってひとは……まあ友達ですからね。助けてあげようじゃないですか。」
「おお! 心の友よ!」
調子のいい感謝を述べられ、唯はふと気がついた。ここにあるのは回答を書くスペースだけ。ペアとなる問題がなければいくら唯が天才でもできることはない。
「で? これの問題は?」
「あーそれね。っと……どこやったっけ……」
「おい。手伝わせるなら準備しとけっての。」
どうやら誰かにタスクを代わってもらうような不正行為は、本人が許しても世界が許してくれないらしい。第一征服者のような凶悪な不正行為、というか陰謀は許すのに、理不尽な世界だ。
*
家の外では多くのレッテルを免罪符に割と好き勝手に暴れている唯だが、家の中では真逆ともいえる態度を取っていた。一人の生き物として、自分のインフラに直接かかわる場所では理性の代わりに本能がブレーキをかけていたのかもしれない。
「唯、朝の勉強はもうしたの?」
「今やろうとしてたとこだっつってんじゃん。ほんとやる気削ぐの上手いよね。」
「は? 言われる前にやればいいだけでしょ。」
小学生のような応酬を繰り広げてから、唯は遠くに追いやられた問題集にしぶしぶ手を伸ばした。ほとんどの問題は鬼畜と言うほどの難易度ではなく、別にその気になればすぐに終わらせることはできるだろう。しかし、唯はできるだけ長い期間をかけて解ききるという作戦を取っていた。
もちろんそれは唯なりに合理的な正解ではあったのだが、意図的にペースを落としている分、こうして〈母親〉の不興を買うことも多い。
「……ったくさあ。やってるっつってんじゃんか。」
唯は小声でぶつぶつと不満を垂れながらソムニアに潜り、〈母親〉が満足するまで勉強を進めているそぶりを見せる。〈母親〉の表情が満足げになるか、唯のことを見向きもしなくなったら自由時間。
フリースクールで勉強をせずに済ませるために家で勉強しておく。一見矛盾しているように見えるが、これこそが唯の新しい日常を維持するための方法だった。
*
唯はチーター先輩と会うたびにあらゆる話題で蔓のように絡みついたが、流石の唯といえども無限に話の種を持っているわけではない。一日会って機銃掃射のような会話を交わすたび、新しい話題の残弾数は心もとなくなっていった。
「――で、先輩なんかおすすめのアニメとかないんすか?」
このとき思いつたのはソムニアに関すること。午前中は〈母親〉に隠れてアニメを漁っていたからメモリに引っかかっていたのだろう。
「オレ人に誰かにおすすめされないとそもそも見ないからな……」
「あ~、そうでしたわ。先輩にとって月はゲームするとこでした。」
聞いた唯が馬鹿だった。ゲームの狂人にアニメの話をしたところでこういう返事が返ってくるのは予想できたはずなのに。なんでもいいから話し続けなければならないという強迫観念に囚われていたのかもしれない。
「逆になんか唯のおすすめないの? 時間あるときに見るような奴。」
訊かれて、唯はふと巫女みこ天使さまと話したときのことを思い出した。あれから色々アニメを見てはいるが、そこまで刺さったものにはあまり出会えていない。そもそも唯がアニメを漁り始めたのも唯自身の意志というわけではないのだから、熱意のようなものが足りないのは仕方がないのかもしれないが。
「……そーっすねー……言われてみるとあんまりない、かな……?」
「なんじゃそりゃ。唯もないのかよ。」
「すいませんねえ、流行に疎いもんでして。」
唯は自分を文化人、西日本人全般を野蛮人と位置付けていたが、実際のところ唯はここ数年間は西日本人と同じ場所に住んでいたのだから、その間に生まれた文化については知っているわけもない。むしろアストラルに繋がらせてもらえなかった分だけ時代遅れになっている可能性だってある。
*
それを受け入れるかどうかはともかく、人はどんな環境にでもいつかは慣れてしまうもの。身に降りかかった災難のうち、どれ一つとして受け入れたことはないはずなのに、気がつけば、あって当然のものとして暮らしている。
当たり前だと認識するのはつまり、それが特別な不幸ではなくなるということだ。
本人に自覚があるかはさておいて、客観的に見れば、唯は十分に日常の中に身を置いていたし、七月の事件はともかくとして、少なくとも今この瞬間だけを切り取るなら幸せな日々を送っていると言えるだろう。
そして、唯は自称天才、月の彼方にいた頃は周囲も認める天才だったこともある。自分が幸福な人生を送っていることは今の精神状態では到底認められたものではないが、本人も第六感のようなもので薄々感じ取ってはいたはずだ。
(……なんか違うんだよなぁ。)
唯の記憶とは言い換えればトラウマであり、いい思い出、幸せな記憶なんてものはほとんどない。
さて、そんな人間に普通に幸せな日常を与えても、本当に素直に喜べるのだろうか。
「幸福とは主観なのです。客観的な幸福など本質的には存在しません。」
「うわ出た。」
「それはあとで。」




