08:// なつとつき、
「記憶喪失って怖いよね。」
「いきなり何。」
「でも世界になるための必要条件じゃない?」
「あれ別に記憶喪失じゃないけどね。」
八月は終わることなく続き、今日も昨日と同じ一日が始まった。
太陽が出てくるよりもずっと早く、まだ暗いのに蒸し暑さで目を覚ます。家の周りに貼りつけられた蝉が一声上げるたびに気温が上がって、体中から汗が噴き出してくる。子供の頃は蝉の抜け殻を集めて遊んだりもしていたようだが、なぜそんなくだらないことで楽しめたのだろうか。涼しい家の中にいたほうが快適に決まっているのに。
遠い遠い昔、月の彼方にいた頃の記録を思い出しながら一階に降りると、ケージに収監された泥棒猫が金網をよじ登っては飛び降り、またよじ登ってを繰り返していた。がちゃんがちゃん、どたんどたん。こんなに暑いのによくも元気いっぱいに動けるものだ。迷惑でしかない。
思えば、この二匹が侵略してきたのは数年前、小学生の頃だったか。序列一位を奪われると分かっていたら招き入れなかっただろう。
リビングでは〈母親〉が扇風機の前で横になっている。こんなに部屋が騒がしいのに平然と寝ていられるなんて、一瞬、熱中症で気絶しているのかと思ってしまう。どこまで深く潜っているのだろうか。唯は定位置に腰を下ろすと、巫女みこ天使さまから借りた約ネバの続きをめくりはじめた。
(もし六月に戻れたらなぁ……)
過去の仮定に生産性はないが、どうしても考えてしまう。第一征服者がどんな陰謀を企んでいるかさえ分かっていれば七月に追放される事態も防げたはずだ。
「おはよう、唯。もう起きてたんだ。」
「ん。まあね。二階はどっかの扇風機の真ん前と違って暑いからね。」
「んにゃーあ! んにゃーあ!」
「あ~はいはいきなちゃんちょっと待っててね~♡ 今出してあげるからね~♡」
〈母親〉がケージの前に跪いて檻の扉を開けると、泥棒猫たちが飛び出してきた。すぐにキッチンから餌の皿が運ばれてきて、キャットフードの音と共に一日が始まる。
檻に入れられて、天から与えられるものだけで生きているという点では、この泥棒猫も唯も同じだ。この二匹と一人の違いは、生まれた場所と、姿形と、毎朝檻の扉が開ける下僕がいるかいないかということだけ。
*
新しく生きる目的を見つけた唯は、その内容の後ろ向きさの割には前向きな日々を送っていた。
どうやって復讐を達成するかを考えるだけでも十分に楽しかったのもあるが、そもそも唯はこの村に来てからほとんど学校には通えていなかったのだ。見方によっては、今まで学校に通っていたほうが異常であって、今のように家に引きこもっているほうが唯にとっては普通とさえいえる。
唯はこれまでの退屈極まりない生活を思い出しながら、もう使わなくなったノートの反対側から復讐の予定を書いていく。
「珍しいじゃん。勉強する気にでもなった?」
マンガでないものを開いているのがそんなに嬉しいのか、妙に〈母親〉の声が明るい。ここで真実を明かしたら期待を裏切られた分だけ余計に怒られるのが簡単に想像できる。
「……まあそんなとこ。」
唯は目を合わせることなく曖昧な返事をして、カモフラージュのためにそのまま作業を続けた。覗き込まれでもしたら勉強なんて何もしていないことがバレて地獄に叩き落とされるだろうが、バレないように気をつければいいだけのことだ。
「……高校どうするの?」
「はぁ? 高校?」
話がよくないほうに進んでいった。理由はどうあれ中学を辞めているのだから高校には行けないだろうに、いったい何を言いだすというのか。唯は学校に通う意志があったのに、それを無理やり不登校児に逆戻りさせたのはどこの誰か。学力だけなら何の支障もないはずだが、高校生になっても追放されようものなら本当に殺されかねない。
「行きたいとことかないの? このままでいいと思ってんの?」
「ない。」
月の彼方に帰れるならどんな難関校でもいいが、どうせこの檻の中から選べと言うつもりなのだろう。それならあるわけがない。追放されるくらいなら、最初から居場所なんて必要ない。
*
唯は今まさに夏休みの最中だが、他の生徒たちはコロナの埋め合わせとして夏休みを取り潰されており、今は学校に通い詰めているはずだ。勉強時間を多くとることが人間の価値と信じていた第一征服者に鍵ってサボってはいないだろうから、今ソムニアに行ったところでターゲットを見つけることはできないだろう。 それなら、今はまだリアルに籠っていてもいいかもしれない――そういう言い訳を並べ立てると、唯は復讐の実行をしばらく先延ばしにした。
〈母親〉がスマホを弄りだすと、唯もノートを閉じてゲーム機のコントローラーを握りしめる。ドット絵の世界では勇者たちが敵を薙ぎ払って殲滅している。現実でもこれくらい簡単に第一征服者を打倒できればよかったのに。
何周もしたストーリーはわざわざ攻略法を調べる必要すらなく、覚えている道筋をたどるだけでダンジョンの最深部にたどり着ける。アストラル界といい、家から出ることがなくても別世界を体験できるのはいいことだ。どうせなら月の彼方にある本当の家から冒険の旅に出たい。
脳裏に浮かんでは消える不平不満はそのままに、唯はぐったりとした姿勢でゲームをする。機械が作り出した風に当たりながら完全にバテている二人の人間に、部屋の隅っこにちょこんと座っていたり、逆に部屋の真ん中の鉄板にどてっと寝そべっている二匹の猫。ここだけ見れば平和な夏のワンシーンだ。
「あ~つまんね~。なかもっと面白いゲームないの? 隠し持ってたり。」
「あるわけないでしょ。それよりちょっとくらいは勉強しなさい。」
「だから言ってんじゃん。もうそういうの必要ないって。」
自分で言って虚しくなってくる。少し前まで、勉強の必要がないというのは勉強しなくても優秀だからという理由だった。それが今では「使う機会がなくなったから」という理由なのだ。
*
「じゃあ何? 私があの卑怯者に追放されたことなんて大したことじゃないから綺麗さっぱり忘れて普通に生きろってこと?」
「そうよ。なんでそればっかりなわけ? 人生損してることに気付けないの? あんた本当にバカなんじゃない?」
いつまでも勉強に拘っている〈母親〉に苛立ちを隠さずに訊いてみると、とても親にあるまじき非難が返ってきた。いくら他人とはいえ、日々の食事を用意はしているから親としての自覚がないわけではなさそうだが、それでも本質的には自分の人生ゲームの駒に過ぎないという事か。確かに、従順な駒として作ったものが命令外の感情を持っていたら気分は悪い。
「人生損っていうなら最初っからだろ。ここに来た時点で私の人生終わってんだよ。」
唯はそう吐き捨てた。〈母親〉が何と言おうと、西日本人の国民性をろくに調べもせずに唯をここに連れてきた事実は変わらない。
「は? じゃあ何? ずっとあっちにいればよかったっていうの?」
「当たり前じゃん。変な陰謀論だか何だかに騙されてこんなクソ田舎に引っ越してこなきゃ私は人間でいられたんだよ。私のこと負け組だって言うのは別にいいけど、その負け組を創ったのはそっちだろ。このスペックでお願いしますなんて私言ってないんだけど?」
唯は勢いに任せて早口でまくし立てた。
ここに来なければ第一征服者にもブルドッグにも会わずに済んだのだ。
ここに来なければもっと幸せな人生を送れたのだ。
それなら、目の前にいる人間こそ唯を不幸にした真の原因、全ての不幸と諸悪の根源ではないか。
「勝手に呼び出しておいて期待外れだぁ? いい加減にしろこのクソババァ。自分の持ち物くらいもっと大事に扱え。」
唯はそこで一旦言葉を切った。
「……こんなことになるなら産まなきゃよかったね……他の家に生まれてればよかったのにね……」
〈母親〉が目を充血させながら呟いた。いったい何に対して嘆いているのか。
「……ほんとだよ。反省しやがれ。」
*
唯の復讐計画は思い至った日から何一つ進んでいない。やる気がないわけではなかったが、明らかに情報が足りていなかった。
(あん時家ついていきゃよかったな……)
まだ唯と第一征服者の関係がそこそこ良好だった頃、唯は二回ほど第一征服者の家を訪ねる機会があった。友人Kなど、星組に友達がいた頃はよく互いの家に遊びに行ったりもしていたので、当然第一征服者にも呼ばれたことはある。当時の唯は「川の向こう側」と聞いて面倒くさくなったので行かなかったが、その手間を惜しんだせいで直接自宅を襲撃する選択肢が取れないのだ。
唯は復讐予定ノートに名前を変えた授業ノートを開くと、そこに書かれている内容を読んでため息をついた。
リアルで第一征服者に復讐をするには、まず第一征服者と対面しなければならない。対面する時期や場所についての候補はいくつか書かれているが、冷静に考えてみるとどれも実現できそうなものではない。
例えば、卒業前なら学校にいるだろう。ただ、そのあと第一征服者がどこに行くのかは見当もつかない。福祉がどうこう言っていたが、そもそも第一征服者の頭脳と性格では行ける学校も職場もないに決まっている。
「……クソが! 勝ち逃げする気か!」
唯はテーブルを殴った。やはりリアルで復讐をするなら今すぐに決行しない限りは不可能に近い。
「今度はなに? また殺すだのなんだの言って……まだそんなこと言ってんの?」
〈母親〉が蔑むような目を向けてきた。相変わらず唯が復讐に身を捧げることを快く思っていないらしい。仮にも自分の子供の人生を壊した人間なのだから、本人と同じくらい憎むのが親というものだと思うが、違うのだろうか。
(やっぱ向こうで殺すしかないか……)
ソムニアなら証拠も残らないから、完全犯罪が可能になる。第一征服者は自分の手を汚さずに唯を放逐して、今ものうのうと生きているのだから、どうせなら復讐するときも一方的であったほうがフェアというものだ。
*
現実と虚構の狭間。普段暮らしている次元よりも高次の世界。世界のほぼ全ての娯楽が一ヶ所に集められた月の裏側に、燃える怒りが人の形を取ったものがひとつ佇んでいた。
「……クソッ。こっから探し出すなんて無理だろ……」
追放された主人公が復讐をする話、という大雑把な検索で導かれたものを視界に映しながら、唯は同時に通行人の中に怪しい人間がいないかどうかを観察していた。
身長が一七〇くらいで、髪を紫色に染めていて、ポニーテールに結んでいる――リアルで歩いていたら目立つことこの上ないし、ましてやあの小さな檻の中にそんな奴は一人しかいないだろう。しかし、誰もが自由過ぎる格好をしているプリヴォルヴァの大地では、髪色が変なくらいでは目立たない。そもそも、現実と同じ格好をしているかどうかもわかったものではない。違う可能性のほうが高いだろう。
「はぁ……アホくさ。時間の無駄だなこれ。」
唯のノートでは、アストラル界で第一征服者を見つけ出して抹殺するとなっていたが、これでは一生かけても見つかるかどうか。そういう観点では、〈母親〉の言う通り、早く忘れて他のことに時間を使ったほうが有意義というのも一理ある。もし一生かけても復讐を果たせなければ、人生が無意味なものになってしまうのだから。
しかし、第一征服者のようなでっち上げの被害者が何の制裁も受けないなら、少しでも邪魔な人間を片っ端から冤罪で訴えて社会から追放するのが最も合理的な生存戦略になってしまう。すでに公的な機関が機能していないなら、被害者性を捏造することに世界が合理性を与えてしまったなら、世界に代わってバランスを取る役が必要だ。そうしなければ社会が崩壊してしまう。
「私がやるしかない、か……」
唯の本来の使命は西日本の文明化、同化であって、国家秩序の維持ではない。しかし、誰かがやらないといけない仕事があって、その存在に気づけるのが唯だけだとしたら。それはスーパーヒーローや魔法少女が人知れず悪の秘密結社と戦うのと同じ、唯に与えられた天命といえるだろう。
*
自分に与えられた新しい使命に気が付けたところで、唯はプリヴォルヴァの街並みを見回した。この中に第一征服者がいるかどうかは分からない。しかし、あれと似たような思考回路を持っている人間なら一人くらいは歩いていても不思議ではない。
「そういえばこの前なんかいたな……」
ふと、最近見た光景を思い出す。確か、この世界には人や街に放火して回る人間がいたはずだ。ソムニアが人々の意識空間だというのなら、あそこで感じた既視感のようなものはその意識、思考、経歴、そういったものが第一征服者と似ていることを意味するのではないか。仮にそうだとしたら、あれに対してなら何をしてもいいということになる。
唯は立ち上がって、この前の放火犯と同じ気配を探して歩き出した。仮に殺すまではしないにしても、復讐に繋がる情報くらいは手に入るかもしれない。
「……チッ。探すといないもんだな……」
探し物全般に共通して言えることだが、探していないときは頻繁に出会えるものも、いざ探してみると明らかに出会う確率が下がる。アストラルの物理法則はリアルとは大きく違うかと思っていたし、念じれば望むものが出てくる場所くらいには思っていたのだが、そう甘くはないらしい。
唯は一旦帰るかどうか悩んで、もう一話だけ何か見てから帰ることにした。
まだ第一征服者にここで会えるかどうかは分からない。眠らずに教科書を書き写すような人間がアニメを一気見して休憩する光景なんて、冷静に想像してみるとかなり違和感がある。あり得ない気さえする。
正直言って、第一征服者がここにいないのなら、いくら天から与えられた使命だからといって、一人ずつ確かめるようなことはしたくない。だが、ほんの少しでも可能性があるなら。
それは、十分に手間をかける価値があることではなかろうか。
*
一冊のノートに、また一つ秘密が刻まれた。荒唐無稽な夢物語のようなものばかりが綴られた一ページは、その書いた本人にとっては至極真面目なもの。たとえ多くの血が流れるとしても、どれほどの人が悲しんだとしても、少なくとも唯にとっては、人生を奪われたことへのささやかな仕返しに過ぎなかった。
――ピンポーン。
夏休みも折り返しに入ろうかというある日のこと。インターホンが鳴らされた。続いて、配達人の呼び声。いつもの毛糸玉の音だろう。学校を辞めてから二、三日に一回は聞いている。
〈母親〉がのそりと立ち上がって玄関へと向かい、はんこを押して、荷物を受け取る。唯はリビングで倒れながらぼんやりとその音を聞いていた。玄関の鍵が閉まる音が二度響くと、〈母親〉は四角い箱を両手で抱えて戻ってきた。
「……で? 今回は何買ったの?」
箱を見たところメルカリではなさそうだ。ということは楽天か。どうせ期間限定ポイントが勿体ないからと言って結局無駄に買わされているのだろう。唯が呆れたトーンで訊くと、
「これやりなさい。学校行かないんだからそれくらいやって当然でしょ。」
〈母親〉は分厚いドリルのようなものを唯の席の前に山積みした。どさりという音からも、すぐに片づけられる量ではないことが伝わってくる。
「は? これ全部って……」
「いつまでも遊んでばっかでいいわけないでしょ? せめて一人で勉強するくらいはしなさい。」
「いやいやこんなの子供じゃあるまいし……」
唯はどうにか今からでもクーリングオフできないか考えていたが、〈母親〉は良くも悪くも一度決めたことを決して曲げない人だ。仮に返品が許されるとしたら、全ての空欄を埋め終わった後になるだろう。最悪だ。復讐の完遂がまた一歩遠のいた。
*
定期試験とは保護者に自分の成績、すなわち市場価値を示すためのイベントであり、勉強とは定期試験の問題を一時的に詰め込むことでスコアを水増しするためのもの。つまり定期試験を今後受けることのない唯にとって勉強とはもう必要のなくなった行為であって、こうして渡された問題集は時間を浪費する以外に何の役割もない。
「それ貸してあげるんだから感謝しなさい。」
「いやするわけないでしょ。」
〈母親〉はアストラルデバイスを問題集の前に置いて、授業代わりに動画を見て勉強するようにと言いつけた。解答の冊子は没収されている。まったく、適当に生きているくせにそういうところだけは抜け目がない。
(マジめんどくさ……授業のほうがよっぽどマシじゃん……)
しかし、どうせ逃げられないなら早く終わらせて元の生活を取り戻したほうがいいだろう。唯なら下手に解説を見ながら問題を解くより、直接書いていったほうが早い。唯はいつもより浅くソムニアに潜ると、宙ぶらりんの意識の片側で問題集を解き、もう片方ではBGM代わりにまったく授業とは関係のないものを再生し始めた。
リアルとアストラル、二つの世界に置かれた意識が混ざり合う中、機械的に右手を動かしていく。視界に薄っすらとアニメキャラが映りこんでくるのは視界の端を移動する虫のようにも感じられて、はっきり言って邪魔だった。手で振り払うようにして視界をクリアにすると、ほんの少しだけペースが上がる。
しかし、思ったほど効率は上がっていなかった。手の動きが思考に追いついていない。紙とペンも、意識したことをそのまま自動で書いてくれればいいのに。
*
空欄に単語を一つ書くだけでいいところは進みが早い。ここだけ見れば三月どころか年内に終わりそうな勢いだ。一方で、文章を書く欄になると途端にスピードが落ちた。唯自身も理由は分からないが、まだ汚れのない問題集を見ると、雑に扱ってはいけないような気がしてならない。
(これ夏休み中に終わらせたら残り全部アニメ見放題か……?)
シャーペンの薄い灰色を滑らせながら、ふと唯は考えた。
当たり前のことだが、問題を解くのとアニメを見るのは両方同時よりも別々のほうがじっくり集中できる。それなら、特に必須でもないデバイスは外して、一日でも早く解き終えてしまったほうがいいのではないか――唯は判読できる最低限のクオリティでペン先を加速させようとして、ふと急ブレーキを踏んだ。
〈母親〉はこれを年度末までに片付けろとは言ったが、これで終わりだとは一言も言っていない。もしも予定よりも早く終わらせてしまったら、また何かノルマが増やされる可能性は十分にある。むしろ、終わってしまったらデバイスを貸す理由もないのだから、今まで使えなかった分を取り戻すように独り占めするかもしれない。
唯はシャーペンをことりと置くと、いつものようにアストラルへと深く潜っていった。現実から意識が遠のいて、いつものプリヴォルヴァへ。
すっかり慣れ始めているソムニアは、やはり中途半端なつながり方だと中途半端にしか楽しめない。どうせ見るなら一番深いところまで集中したいものだ。唯はいつしか当たり前になったコーナーへ行くと、〈母親〉の知らないところで平然と勉強をサボりだした。もっとも、学校に行くことを許さなかったのは〈母親〉自身なのだから、これは唯が悪いわけではないだろう。もし学校に通っていれば、プリヴォルヴァに遊びに行く時間なんてものはなかったのだから。
*
表向きは勉強になる動画を見ていることになっているせいか、〈母親〉の声が響いて現実に引きずり戻されるようなアクシデントはほんの少しだけ減った。もし不機嫌な顔が待ち構えていたら、「キリが悪かった」と一言いえばいい。人は見たいようにしかものを見ないというのは本当らしく、お勉強動画を一本見終わるまで潜っていたのだと解釈してくれる。
一度コツを掴んでしまえば〈母親〉の目を誤魔化すのはそう難しいことではなく、結果論ではあるが、問題集の山のおかげで唯は自由時間が増えたと言えなくもない。皮肉なことだ。
いつものように勉強を始めるふりをして端末を借りると、唯はさっそくソムニアへと潜っていった。
元々はゲームでは足りない刺激を求めてやってきたはずのこの場所は、いつしか唯の日常の一部に取り込まれていて、あって当たり前なものへと変わっていた。
滑るようにして街なを歩くと、色々なものが全身に流れ込んでくる。綺麗な絵や音楽に、明るくて楽しい物語。順番を待つ必要もないので、好きな時に手に取って、好きな時に鑑賞できる。夢とは言いえて妙だと、思いながら少し人目につかない場所へと誘い込まれてみると、そんな場所にもたくさんの人がいた。
唯がその中に混ざろうとすると、どこからか灯油の臭いが漂ってきたような気がした。まただ。もしもこの空気が唯の探しているものに共通するのなら、唯の見つけた使命を果たすべき相手がいるということだ。まだ仮説にすぎないとはいえ、確かめてみたくなった唯は空気の漂ってくる方へと足を動かしていた。
*
臭いにつられて街を歩いていくと、やはりその先にはいつかと同じような光景が広がっていた。現実では放火の瞬間なんてそう何度も目にするものではない、というか一度たりとも見ることがないのが普通だが、ここでは割と日常茶飯事なのかもしれない。
近づくにつれて、悪意と善意が混ざり合って淀んだ空気に変わっていく。嫌な気配がするものに近づくにつれて空気が不味くなっているのはソムニアの粋な計らいなのか、それとも本当に吐き気を催す邪悪がいるという一種の危険信号なのか。どちらにせよ、復讐完遂のためのサンプルになるかもしれない以上、観察しておくべきだ。
駆け出してすぐにその場所に着くと、ヒステリックな奇声を上げた人間、あるいは人型の何かが道の真ん中で暴れていた。薬物中毒のようなものだろうか。少なくとも理性的に会話ができる相手ではなさそうだった。そういうところも含めて、第一征服者とはよく似たところがある。
唯は視線を合わせないように気をつけながらその怪物をまじまじと眺めた。服装はこの前見たものと誓っているが、炎に関連するものを所持しているのは同じだった。ソムニアの物理法則の一種なのかもしれない。
怪物の奇声を聞き取るうち、唯は無性に殺意が湧き上がってきた。これを野放しにしてはいけないと頭の中で声がする。唯は無意識のうちにどこからともなくこの前見かけた火炎瓶を取り出し、そっと背後から忍び寄ると、無言のままその怪物の後頭部に叩きつけた。怪物が叫び声を上げ、そのまま倒れて動かなくなる。死んだ、ということなのだろうか。
唯は燃え盛る瓶の残骸を見つめながらそっとその場を離れて、一旦現実に戻ることにした。騒ぎになるような、少なくとも唯のほうを咎めるような空気ではなかったから大丈夫だとは思いたいが、万が一ということもある。理不尽な判決ならこれまでの人生で嫌と言うほど味わった。別世界に行ってまで現実と同じように居場所を失うのはごめんだ。
*
現実に戻ってふと自分の体を見回してみると、やはり返り血などはついていない。随分生々しい感触だったが、やはり向こう側の出来事ということなのだろう。特に誰も悲鳴を上げたりしていなかったということは、おそらく街に破壊工作をするような者はその場で処刑されるものだという合意があるに違いない。
(……なるほど。これは面白いかも。)
唯は今さっきのことについて怖気づいてはいなかった。もっと大きな事件を現実で起こしてやろうと本気で考えていたのだからある意味普通の反応なのかもしれない。
今回ので感覚は掴んだと言える。なぜモロトフを持っていたのかなどよく考えると意味の分からないことばかりだが、あれがソムニアでの喧嘩の作法のようなものなのだろう。
「そういえば私たちってこの頃が一番アレだったっけ。」
「フランからは別人だもんね。」
「おまいう。」




