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05:// ディベートスクールティーン

「楽しみだね。そろそろ月の鐘が鳴るよ。」

「楽しみなもんか。」

「でも私たちが生まれたのって……でしょ?」

「唯、そろそろテストでしょ。勉強どうなの? ちゃんと全部分かってるの?」

 七月に入って早々、〈母親〉の説教が始まった。普段から勉強しろとは言ってくるが、試験が近くなるにつれてその頻度が増えるのは毎年、毎学期のことだ。唯の優秀さを自分自身の価値だと誤認しているのだろう。

「してないわけじゃないっての。」

 唯は落書き帳に自分でもよく分かっていない生き物の絵を描きながら答えた。これにはあとで痛い名前を付けてやるとしよう。しかし、今はこの爆弾の解除が先だ。

「どこがよ。勉強してるとこ見たことないんだけど。」

「学校行ってるじゃん。」

「それじゃ足りないって言ってるの! 他の家の子は家でもちゃんと勉強してるの! なんでもっと勉強しようって思わないの? 悔しくないの? もっと親を安心させてあげようとかは思わないの?」

 ああ、なるほど。優秀な子を持つ母親というブランドが汚されるのが嫌なのか。近所に自慢して回るほど知り合いがいるわけでもないくせに。だいたい、これまでの定期試験は十回とも学年上位を維持してきたのだから、十分信用は積み上げたはずなのに、まだ足りないのだろうか。

「ほんと、お願いだからこれ以上心配させないでよね……唯が大人になるまでは私も生きてないといけないんだから。」

 心配しているのは自分の選択だというのに、なんて暴論だ。唯の成績を心配することで寿命が縮むと思っているなら、心配なんてしなければいい。それができないのを誰かのせいにするなんて、責任転嫁もいいところだ。


          *


 ブルドッグが黒板に「平等」と書いて、今日の楽しい道徳が始まった。星組にあって他のクラスにないものといって真っ先に浮かぶのがこの時間。基本的には「普通」と同じ待遇を要求する唯だったが、この時間だけは例外で、道徳の授業が時間割にある日は登校の足取りも軽くなった。

「今日は平等についてのお話をしていこうかねぇ~。二人とも平等は好きじゃろぉ~?」

 確かに、格差を愛し、平等を憎むような人間はこの現代社会にはいないだろう。しかし、日頃から唯のことを無力な外国人と評して、他の生徒たちに厳重な取り扱いをするように言いつけている張本人がそれを言うとは笑わせる。

「……平等、ねぇ。」

「ゆいとろっち。平等っていうのは、誰も傷つかない世界のこと。皆に同じだけ価値があって、皆が安心して暮らせる世界のことだよ。」

 第一征服者は得意げに立ち上がると、時折見せる保護者然とした口調で、無知な子供を優しく諭すように語りだした。あの矯正施設の職員たちと同じ顔、同じ声だ。第一征服者は将来の夢も福祉関係と言っていたから、自分より劣った存在を見下して優越感に浸る人生が望みなのだろう。本人は無自覚というのがなおのこと質が悪い。

「じゃあこの世界は平等じゃないな。残念残念。」

「ほな、今日はどうやったら世界が平等になれるかを勉強していこうねぇ~」


          *


 人は平等ではない。生まれつき足の速い者、美しい者、貧しい者、病弱な者――生まれ持ったものも、与えられたものも、何もかもが違っている。それでも、それでも人が平等を求めるというのなら。


「では慈悲深いお前に一つ訊こう。お前は誰も傷つかない世界が平等だというが、その平等は本当に誰も傷つけていないのか? 世界の資源が無限ではない以上、国家は慈善団体ではなく競争主体でなければ存続できない。お前でも理解できそうな例だと……そうだな。定員が百人の高校に二百人が志望した。当然百人が不合格となるが、それは誰も傷ついていないと言えるのか? ぞれとも、全員を合格させるために定員を増やすのか?」

「そうしたほうがいいに決まってる。二百人が志望したなら、二百人が勉強できるようにするべきでしょ。なんで最初っから誰かを切り捨てる前提なの?」

「魔法で学校が二倍に広がるならそれでもいいかもな。だが実際はそうじゃない。全員の希望をすべて満たせるだけの資源が世界に存在しない以上、何かを選択する――いや、何かを切り捨てる必要は生じるものだ……例えを変えよう。ここに今日手術をしなければ死ぬ人間が二百人いる。しかし手術ができる医者は百人しか存在しない。さて、医者をあと百人増やせるのか? まさか誰かを選ぶのが不平等だからって全員見捨てるのか?」

「だからなんで全員を助けられないならそれを見捨ててもしょうがないって発想なの?」

「誰も見捨てていいなんて言ってないだろう。優先順位の問題だって言ってるんだ。もしも無限に資源があるなら全員助けるべきだそれは間違いない。だが実際そんなことはないんだから、何かは諦めないといけないだろう。それを決めるのが国家だ。これは流石に分かるだろう?」

「でも誰を諦めていいのかを決めるのが仕事ってわけじゃないでしょ。資源資源っていうけど、その資源を増やすことだってできるでしょ。そうやって、助けられない人をなくすのが国家なんじゃないの? ゆいとろっちは最初っから一部の人を犠牲にするのはしょうがないって諦めてるよね。私はそのしょうがないを減らすべきだっていってるの。」

「理想論だな。現実的に不可能だ。」

「そうやって諦めて考えもしない人がいるから不可能のままなんでしょ!」


          *


「お前は何か勘違いしているようだが、私は何も福祉政策の全てを廃止しろとは言っていないぞ。より効果的なところに資源を配分すべきだと言っているだけだ。全員がスタートラインに立つ所までなら国家は支援する義務があるだろう。競争にすらならないからな。だが、全員を同じスタートラインに立たせるまで支援する義務はない。それ以上の再配分は平等ではなく搾取だ。強者のために弱者が犠牲になる構造が搾取なら、弱者のために強者が犠牲になる構造も搾取でなければ不平等だろう。」

「でもさ、その強者って本当にその人の才能なの? 生まれつき健康な人はいるよ。頭がいい人も。ゆいとろっちとかまさにそうだし。お金持ちな人もいるでしょ。でもそれって、自分で掴み取ったものじゃないよね。それなら、その結果を誰かに分け与えるのが搾取ってのはちょっと不公平じゃない? 皆に支えられて成功したなら、それは皆のものになるべきだよ。」

「なるほどな。確かに尤もだ。社会の投資を受けて成功したのなら、その者には社会に対して配当を出す義務があるだろう。ではその配当はいくらならいいんだ? 全額か? 仮に社会の中で一人でも利益を上げれば、それは全員が等しく受けとれるものとしよう。自分が苦労をしても成功するとは限らない。自分が一切苦労しなくても誰かが成功する可能性がある。そちらの場合でも得られる対価が同じなら、後者の方が個としては合理的ではないか? 万が一次の試験でお前が百点を取ったとしよう。私は遊びほうけていたので零点だった。さて、仲良く五十点ずつの答案を返されて満足できるのか?」

「それはちょっと違くない?」

「それに、お前の言う通り成功は常に社会、国家の投資があってのものだとしよう。それなら、国家はその成功する可能性がより高い者に資源を投下すべきではないか? すでに最低限の生活基盤を整えているなら、国家としての義務は果たしていることになる。それ以上の余剰資源は利益率の高いものに投資する――競争主体として、国家にもその権利があるんじゃないのか? それとも国家は生存競争をすることすら許されないのか?」

「じゃあ、ゆいとろっちの言うその国家って、誰のためにあるの?」

「当然国家自身のためだ。私たちは国家の構成員ではあるが奴隷じゃない。だが同じように、国家自身もまた生存を目的とした一つの主体であって国民の道具じゃない。お互いが生きるために必要だから協力してるだけだ。国家は国家の利益追求のため、国民は国民の利益追及のために行動する。その利害が一致しているからこそ私たちは国家に所属しているんだろう? 最初に言っただろう、国家は慈善団体じゃないと。お前はこの世界にある企業が自社利益を優先したからと言って全て批判して回るのか?」

「じゃあ聞くけど、国家の利益と、一部の国民の利益がぶつかったら?」

「お前自身の利益と、他の誰かの利益がぶつかったら、お前はどうする? お前が受験に受かったら誰かが志望校に落ちる。その誰かが受かったら、今度はお前が落とされる。自分を合格にするかどうか決められるとして、どうする? それが答えだ。もっと極端な例が欲しいなら――お前が死ねば誰か瀕死の人間を助けられる。それなら、そのときお前には死ぬ義務があるのか?」


 第一征服者が一瞬悩んだ。唯はそのままとどめを刺すための術式を構築し始めたが、完成する前にチャイムの音が鳴り響いた。ブルドッグが両手をぱちんと叩いて授業の終わりを示す。

「はいはい、二人ともよく喋っとったねぇ~。ゆいなぴーは優しいけぇねぇ~。」

 ブルドッグはそんな言葉で授業を終わらせた。言外に「唯の意見は優しくないから間違っている」という意味を含んでいるのだろう。


          *


 週末になると、唯はまたしてもあの忌々しい矯正施設に収監された。唯の出身、頭脳、そのどれをとっても、ここにいる園児と同じ場所に置かれるのが相応しいとは思えない。ここにいる園児はとても対話のできるものではないし、職員は唯をその園児と同等にしか扱っていないから、当然まともな会話にならない。考えれば考えるほど、ここにいる時間が無意味でしかないと理解できてしまう。

(……ったく、私は本来天才なんだぞ……なんで私がこんなとこに閉じ込められてないといけないんだ……!)

 少なくとも月の彼方にいた頃は、こんな収容所のような場所は存在しなかった。記憶がないだけなのかもしれないが、逆に言えば、記憶がないということはそこまで大きなトラブルがなかったということでもある。

「じゃあ唯くんはどう思うかな?」

「んぁ? まあ適当でいいんじゃね? 知らんけど。」

 職員のおばさんが何か訊いてきたが、話がつまらなすぎて全く聞いていなかった。もっとも、特に意味のある質問だったとは思えないので無視でいいだろう。そういえば、第一征服者はこういう仕事をするのが夢だったっけ。

(……なるほど。確かにぴったりだ。)

 唯の見た限りによれば、少なくともこの村の矯正施設職員は漢字が書けなくても仕事ができるような簡単な仕事だ。そう考えると、自分の実力に見合った将来設計という観点では、唯よりも現実を見ていると言えるかもしれない。


          *


 七夕といえば、ロマンチックな伝承のわりに実際の空模様はいつだって雨ばかりというイメージが強い。今年の新暦七夕も似たようなもので、どんよりと沈んだ空が教室の南窓にべったりと貼りついている。これは誰の心境を映した鏡なのだろうか。

「うぅ~……来週からテストだぁ……」

「いいじゃん。いつも成績の割にテスト大好きなんだし。」

 第一征服者の机には休憩時間でも教科書やノートが積まれていて、勉強熱心なことこの上ない。唯も全く試験勉強をしないわけではないが、ここまで本気で取り組んだことはないので、なぜ結果が出ないのか不思議に思うことすらある。これが東日本人と西日本人の差だとでも言うのだろうか。

「はいはい、授業始めるけぇ机片付けようねぇ~。」

 第一征服者が丁寧な字で写本をしていると、ブルドッグが教室に入ってきて、今週の道徳の時間がやってきた。今日のテーマは平等、先週も同じ話をした気がするが、ブルドッグ程度の知能だとこれが限界なのだろう。黒板には「平等な社会の実現のためにどんなことができるか」と書き出された。


「やっぱりまずは教育を変えるべきだと思う。」

「……八割くらいお前の妬みが入ってそうな政策だな。どうせ全員成績を一律平等に~だろ?」

 唯は半ば脊髄反射で返したが、仮に唯に言わせていたところで同じ結論だっただろう。

「人が生まれもった才能とか親の環境とかで未来の可能性が決まっちゃうなら、それって一番不平等じゃない? 人は生まれる場所を選べないのに、親の年収とか、どこに住んでるかとか、そういうので将来の幸せが決まるのって絶対不公平だよ。才能はあるのにお金とかタイミングのせいで成功できないのは直さないと。」

「珍しくまともだな。流石自称優等生。確かに、能力があるのに何らかの理由でその可能性が潰されるとしたらそれは社会の損失だ。人的資本への投資は金融資本への投資と比較しても利率がいいのは有名だからな。優れた人的資源を多く保有することは生存原理にも適しているだろう。では問題は初期資源の確保だな。私からは高齢者福祉のコストを削減してその分を教育に回すのを提案させてもらおうか。」

「……じゃあ、お年寄りはどうするの? 苦しくならないの?」

「また理想論か。いい加減にしたまえ。同じ国家予算を使うなら、社会への還元率が高い分野に使ったほうがいいのは明白だ。まだ若い子供たちへの教育はその後の数十年でそれ以上のものを回収できる可能性が高い。だが、すでに生産市場から抜けた世代への支出は同じ意味の支出、投資にはならない。採算が取れない分野への支出は減らして将来が期待できる分野に投資する……常識だろう。」

「……それって人をどれだけ役に立つかで見るんだよね。役に立つ可能性で資源配分をって、それ、本当に平等なの? それに、今のお年寄りだって昔は働いてたんだよ。昔働いてくれた人を今役に立ってないからって切り捨てるの?」

「……綺麗事を言わないならそういうことになるな。ならこう考えたらどうだ? 二十歳のときに百万もらうのと、八十歳になってから百万もらうの、どちらが人生楽しめそうだ? 同じ人間に投資するのでも、いつ投資するかで社会的効果が変わるなら、最大効率が得られる時期に投資しておくべきだ。それに、社会保障の大部分が高齢者に偏って若者への投資が不足しているなら、それはお前の嫌いな不平等って奴じゃないのか? 今生きてる数百万人を助けるために未来の数千万人が不幸になるくらいなら、逆のほうがまだマシだと思うが。」


          *


「……ああもう! ほんっと、ゆいとろっちはいっつもそうやって優等生基準ばっかり……!」

「お前も去年は優等生を自称してただろ。何を今さら。」

「もっと弱い人の味方になろうとかは考えないの? 例えば階段しかない建物があったとして、車椅子の人は入れないけど、それって努力して歩けとはならないでしょ? 階段しかない建物のほうを変えるべきだよね?」

「またその話か。誰か一人に合わせて社会全体を変えるのにどれだけのコストがかかるんだ? その分野への投資は他の分野に回せる資源を使ってでもすることなのか?」

「だ、か、ら、そういう話じゃないって言ってんの! ゆいとろっちだっていつか怪我して動けなくなるかも知んないんだよ? 誰もがいつか使うかもしれないなら価値があるってことなんじゃないの?」

「なるほどねぇ。だが私に言わせればその時はその時だ。これは持論だがな。重度の障害がある人間に対する投資は回収が難しいのは直感で分かるだろ? それならやはり、限られたリソースは費用対効果の高いところに集中させるべきだ。それに、今語っているのは最低限の環境がある世界なのだろう?」

「別にお金にならないからって価値がないとは限らないでしょ。それに、支援してあげればできることが増えるようになるかもしれないんだよ。これはゆいとろっちの好きな投資なんじゃないの?」

「まあそれはもっともだな。障害者なり老人なりを有効活用する技術があればその分人的資源が増えるからな。それならあえて別の話をしよう。お前はさっきから弱い人だの支援してあげるだのと言うが、その障害者ってのは弱い存在なのか? わざわざ国が支援しないと資源として活用できない存在なのか? それはつまり、お前は障害者を一人では何もできない人間、自分よりも劣った人間と見ていることにならないか? あなたは障害者だから支援が必要です、だから特別に助けてあげますってのはまさに国家が人間の価値を測ってるのであって、それは一種の差別であり、侮辱だろう。お前は自分のことをまともで普通の人間だと思ってるみたいだが、それならなんでここにいるんだろうな。」

「はいそこまでぇ~。言いかたってもんがあるじゃろぉ~、唯ぃ~? おれはもう一回道徳の教科書見てみぃ~」


          *


 試験範囲が発表され、しっかり計画を立ててテストに備えるようにとブルドッグからお達しがあった。これが梅干しだったら、その一言を語るのに一、二時間は使えるだろう。その点では、教師にはトーク力はないほうがいいのかもしれない。

 隣の席に目をやると、第一征服者が教科書を色とりどりのペンで飾り付けたり、ノートに試験範囲の写本を作ったりと、勉強と落書きの中間のような行為に熱中している。今までは第一征服者の成績なんて何とも思わなかったが、今年は巫女みこ天使さまのおかげで普通の学生生活が現実的になった最初で最後の年。去年のように試験結果であれこれ言われるリスクは排除しておくべきか。

「なあ」

「なに? 私今忙しいんだけど?」

 第一征服者は一瞬だけ唯の方を振り向くと、刺し殺すような視線を飛ばして、すぐに色塗りに戻った。試験当日まで一週間しかないから一秒でも惜しいということだろうか。

「いや、いつもみたいにトリプルスコアつけられたからって暴れられたくないんでね。私なりの勉強法みたいなものを教えておこうかなと。余計なお世話ってんなら言わないけど。」

「余計なお世話! だいたい勉強なんかしたことないくせに! 才能ない人はこうやって頑張らなきゃいけないのよ!」

 第一征服者が吠えた。才能がない自覚があったことに驚きだ。

「才能ないんなら才能がある人の話くらい聞きゃいいのに……まあいいや。好きにしな。」


          *


 780年10月17日。

 その日は朝から真っ黒い雲が涙のような雨をざあざあと降らせていて、登校するために山を下りる時も細心の注意を払わなければならなかった。山に住んでいる人間は転倒のリスクを余分に負っているのだから不平等といえる――今日の道徳ではそういう議論もいいかもしれない。

 そんなことを考えながら雨音とともに通学路を進み、普段よりもほんの少し遅れて星組の教室に辿り着いた。まだ誰もいない。しかし、ホームルームのチャイムが鳴っても第一征服者は登校してこなかった。試験に命を懸けているような人間が休むとは相当な理由があったのだろうか。

「あぁ~、あくじゃぁ~、何普通に学校来とんねぇ~!」

 チャイムから一拍遅れてブルドッグが入室して唯が座っているのを見るや否や、いつもの口調で非難を浴びせた。ドアの鍵は閉めていないし、雨傘はロッカー端のバケツの中に収まっている。咎められる理由なんてない。

「失礼な犬だなおい。何が悪だって? ああん?」

「あくじゃぁ~、あんた今日ゆいなぴーが来とらん理由知らんのぉ~?」

「知ってるわけねえだろ。兄妹でもあるまいし。」

 むしろ原因を知っているほうがおかしいだろう。しかし、ブルドッグの口から告げられたのは予想だにしないことだった。

「一昨日くらいから彼女の様子がおかしいって親御さんから連絡があったんじゃけどねぇ~。昨日聞いてみたら、あんたにいじめられてるって言うとったってぇ~。何しとんねぇ~。」

「はぁ? 何の話だそれ?」

 唯は最初、ブルドッグが何を言っているのか理解ができなかった。しかし、罵声を浴びせかけられながら何分間も思案していくうちに、一つの結論に思い至った。

 ――嵌められた。

「……っ、あのクソガキァ! おいてめぇ、今すぐ奴の電話番号吐け! それは嘘だ、奴は何も傷ついてなんかねえぞ!」


          *


 本校舎一階、職員室の奥にある、畳二枚分の小さな部屋。一時間目の道徳の授業はそこで行われることに急遽変更となった。相手はブルドッグ、ヤクザ、そして教頭という豪華な面子が揃っている。唯が上座の畳に叩きつけられると、さっそく裁判が始まった。

「おいテメェはよォ、人様に暴言吐いて謝罪もなしか? あァ?」

「何のことか意味が分からないな。暴言? それは貴様のことだろう。」

「っこのガキ舐めてんのか!」

「あー、では君たちの主張を一度整理しよう。七月七日ごろ、奴の保護者が娘の様子がおかしいことに気付いた。君たちはその報告を受けた。翌日八日、文脈的に帰宅後だろうな、奴は保護者に自分が私に虐められていると報告した。保護者はそれを学校に報告した。そして今日、奴は虐めが原因で体調不良になって学校を休んだ。間違いないか?」

「そうじゃぁ~。あの子を虐めるんはあんたしかおらんじゃろぉ~。いつもガーガー隣で騒がれて傷ついとったんじゃとぉ~。今まで我慢しとったんじゃけど、もう限界だったってことじゃろなぁ~。どうしてくれんねぇ~?」

 ブルドッグが場の空気に合わない間延びしたトーンで唯への糾弾を終えると、唯は大きなため息をついた。教科書を暗記する以外に何の能もない思い込んでいた点は唯のミスだ。まさかこんな陰謀を企てる頭脳が存在するとは。さて、ここから何をすれば日常を取り戻せるだろうか。

「なるほど。なら私から質問だ。奴が心の傷を負ったという証拠は? その原因が私だという証拠は? 物的証拠が提示されないなら私を有罪にはできないぞ。そうだろう?」

「彼女が傷ついたと言っていたんだ。それが動かぬ証拠だ。」

「話にならん。その発言が虚偽ではない証拠を出せと言っているんだ。讒言の可能性がある以上、証拠能力は認められない。」

「それを決めるのは俺たちであってお前じゃない。お前の優秀な頭脳なら分かるんじゃないか? あ?」

 つまり最初から勝負は決まっていて、この裁判の判決はもう出ているというわけだ。教師たちは第一征服者に騙された、いや、第一征服者の言葉を盲目的に信じると決めたのだろう。これ以上の反論には意味がない。

「ああ、そうか。先に被害届を出しさえすればどんな人間であっても有罪にできるんだな。便利なことだ。私も明日警察に届け出るとしよう。」

 唯は立ち上がって授業に戻ろうとした。しかし、すぐにヤクザが飛びかかってきて、再び畳に叩きつけられた。ブルドッグが第一征服者の心を代弁するような顔で唯の目を見て、教頭が判決を言い渡す。

「とにかく、お前は彼女を傷つけた。これは彼女がそう言ったんだから事実だ。人を傷つけたんならお前はもうここにいちゃいかん。親御さんを呼ぶから待ってろ。いいな。それからお前には一緒に謝罪をしてもらう。いいな。」

「拒否する。私は何の罪も犯していない。むしろ、奴のほうが私の名誉を――」

「るせェぞこんクソガキァ! 黙って俺らン従っとけやァ!」

 ヤクザが唯の制服を掴んで唾をまき散らしながら怒鳴り散らす。少しすると、部屋を抜けていたブルドッグが戻ってきた。

「今呼んできたけぇねぇ~。まぁ待っときぃ~。」

 どうやら午後の第二審は〈母親〉が裁判官を務めるらしい。


          *


 780年10月18日。一時間目が終わったころ。唯は〈母親〉とともに校長室に呼び出され、来客用の長机にの前の錆びついたパイプ椅子に座らされていた。反対側のパイプ椅子にはブルドッグ、ヤクザ、教頭、そして校長が座っていて、机の上にはレポートのようなコピー用紙が置かれていた。

「では、今回の虐めについて謝罪をしてもらいます。唯君、君はクラスメイトに対して心無い言葉をぶつけ、彼女が学校に通えなくなるまで執拗に暴言を吐いて追い詰めた。間違いないですね?」

「……間違いしかありません。」

「あン? 謝罪しろってンだオラァ! さっさと頭下げろやァ!」

「私が間違ったことをしていない以上、間違っている人間に対して頭を下げる必要はありません。それが西日本人に対してであれば猶更です。むしろ、あなたたちが今ここで私達、ひいては東日本に対する――」

「唯! いい加減にしなさい!」

 事の真偽すらも判断できない愚鈍な教師陣が怒鳴るよりも早く、〈母親〉が唯の頭を押さえつけた。長机に額がぶつかる。

「いいから謝りなさい! それで終わるんだから、なんでそんなこともできないの?」

「ここで私が謝罪したら罪を認めることになる。それは東日本人として――」

「この度は息子の発言によってそちらの生徒さんを傷つけてしまったこと、親として大変申し訳ございません。息子には、自分の言葉が相手に与える影響を考えるように教育しますので……」

 母親は片手で唯を押さえつけたまま、同じくらい深く頭を下げて謝罪した。これは東日本人全体に対する謂れのない差別に繋がりかねないというのに。なぜこんなにも簡単に自分たちの劣性を認められるのか。

「ええ。彼も反省しているなら。そうですね校長?」

「いいでしょう。」


          *


 その後、放課後にもう一度話し合って唯の処遇を決めるという流れになって、唯は般若も逃げ出すに手を引かれて家に戻った。怒りのあまり食事も喉を通らなくて、そのせいでさらに〈母親〉の不興を買い占めた。

「この売国奴! 背教者! こんなのどう考えても冤罪なことくらい分かんだろ! なんで反論しなかった! 言え!」

「うるさい! あんたは負けたのよ! あんたの大っ嫌いな西日本人に! 負けたの!」

 ――負けた。

 その言葉が唯の心臓の一番深いところにぐさりと刺さった。ありえない。成績優秀な東日本人の唯が成績も何もかも悪い西日本人の第一征服者に敗北するなんて、そんなこと認めていいはずがない。

「……まだ……」

「え?」

「まだ負けてない。また学校行ってあいつにもう一回全校生徒の前で謝罪させればいい……! 今度こそ東日本人は西日本人よりも優れてるってことを証明してやる……!」


 放課後にはしとしとと雨が降っていたが、これに関しては唯の怒りを映したものだと断言できた。唯の怒りはすさまじく、もし〈母親〉が同行していなければ、キッチンから包丁を一本持ち出して、校舎に残っていた職員、もしくは下校中の生徒を手当たり次第に刺していただろう。

 校長室に着いた後でも唯の怒りが収まるわけもなく、むしろ不俱戴天の敵に勝利して満面の笑みの大人たちを見て腸が煮えくり返った。

「では、彼の今後の処遇ですが、私達としては被害者の安全を考慮して、これから彼は自宅謹慎という形に……」

「彼? 彼女の間違いだろうが。ちょうど被害者ぶって引きこもってんだろ、ちょうどいい。」

 校長が〈母親〉に対して要望、というよりも決定事項を告げるようにつらつらと話しだす。唯はその一言一言に嫌味を言うくらいしかできなかったが、そうでもしないとやっていられなかった。

「あくじゃぁ~。いい加減反省せぇやぁ~」

「反省? 何を反省するってんだ?」

「言葉はナイフなんじゃけぇ気をつけにゃぁ~。人が傷つくこともあるんよぉ~?」

「ふん。詭弁だな。言葉がナイフだったとして、それを自分を傷つけるために使ったのは奴自身だ。そのまま床に投げ捨てることもできたのに奴はそうしなかった。これは奴の自由意思による選択であって、私がその結果について責任を負う義務はない。もし責任を取れというなら、それは言論の自由の侵害に他ならない。」

 唯が演説を終えたところで、〈母親〉たちがパイプ椅子を引く音が校長室に響いた。どうやら何かしらの合意に至ったらしい。

「ふん。奴を全校集会で土下座させる日程は決まったか?」

「何言ってんの。あんたはこれから卒業まで家にいんのよ。試験だけは別室で受けさせてもらえることになったから、帰ったら勉強しなさい。」

 つまり、もう二度と反撃の機会は与えられないということだ。これで唯の有罪が確定した形になる。しかも、巫女みこ天使さまが唯の不登校について理由を聞けば、第一征服者の噓八百が真実として拡散されるおまけつきだ。やられた。

「は? ふっざけんなよこのクソジジィクソババァども! ……ああ、そうかそうか、そこまで外国人と同じ空間にいるのが嫌なんだな。ならいいよもう。こんなとこ退学してやる。今までお世話になりませんでした。ほら帰るよ。」

 唯はそんな捨て台詞を吐くと、〈母親〉の腕を掴んで部屋のドアまで引きずり、挨拶もせず、扉を閉めることもなく廊下に出た。

 こうして、休校明けからわずか一ヶ月で唯の学生生活はあっけなく終わりを迎えた。


          *


 校長室を出ると空はさらに黒く、雲は唯たちを押しつぶそうと地上すれすれまで迫っていた。窓ガラスとアスファルトに叩きつけられる雨音はここに来たときよりも大きく、雨粒さえもが唯を悪であると断罪しているかのようだった。

 試験まであと一週間に迫った放課後の廊下は、唯と〈母親〉のスリッパが鳴らす音以外はしんと静まり返っていて、他に生徒の姿はない。惨めなことこの上ない姿を西日本人の誰にも晒さなくていいことだけが救いだった。

 玄関で靴に履き替え、横殴りの黒い雨に打たれながら家へと帰る狭い道路の上。家に帰って、もうこれ以上書く必要のなくなった日記帳の上。唯は初めて言葉を覚えた子供のように、同じ言葉を繰り返していた。

「……殺してやる。一人残らず。西日本人ども。殺してやる……」

「……いつ見ても嫌な記憶。」

「38……いや、28か……おんなじだ……」

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