04:// ハッピーライフ ショウアップ!
「私、どこまで話した?」
「まだ一日だけど。」
校舎の東側にある渡り廊下の向こう側、普段は使わない教室を詰め込んだ建物の裏手。美術室から一歩外に出た先にはざらついた灰色の花壇が広がっていて、その奥では、使い道のない土地が畑と名付けられて雑草を育てていた。
「今日はここに綿を植えていこうねぇ~。ほら、おれの仕事よぉ~」
休校明け二日目の二時間目の授業は道徳で、今日は学級裁判ではなく綿花の栽培とのことで、星組の面々は美術室に集められた。絵の具まみれでがたがたの長机の上には、綿の苗と思しきものがたくさん並んでいる。季節的にも、今日中に裏庭を耕してこの苗を全て植えろということだろう。
「ふっざけんな! こんなの刑務所、いや強制収容所じゃねえか……!」
「休校しとったんじゃけぇしょうがないじゃろぉ~? いいからはよ手動かせぇ~」
「あぁ? 早く植える必要があったんなら自分でやれ。」
「それじゃ授業にならんじゃろぉ~? おれがせにゃぁ~」
ブルドッグの声は今日も神経を逆なでするような不快感を煽ってくる。その顔で「にゃぁ」なんて猫に失礼だし、仮にも教師という立場にいながら日本語を使わないのも問題だ。本来なら懲戒処分でもおかしくないはずなのに。
「だいたいこれのどこが道徳なんだよ。いい加減にしろ。」
「生活力つくじゃろぉ~? 他の人に迷惑かけずに生きてくのは重要じゃけぇねぇ~」
確かに衣食住は文明以前に人類生活の基本と言える。だが、それを学ぶために綿花の栽培は発想が斜め下過ぎた。
「何が生活力だ。そういうのはまず文明力を身に着けてから言え。」
「まぁまぁ、ゆいとろっち。私が代わりにやってあげるからさ。ね?」
唯とブルドッグがいがみ合っていると、第一征服者が割り込んできた。強制労働を自発的に引き受ける心境は理解できないが、押し付けられるなら丸投げしてしまおう。
「ならおれは何もせんのじゃねぇ~? ほなゆいなぴー、こっちが白い綿で、こっちが緑の綿、それで――」
「……別にやらないなんて言ってないし。」
ブルドッグが第一征服者に懇切丁寧な説明をし始めたあたりで、唯は苗をひったくった。白い綿はともかく、後者の二つは去年〈母親〉が趣味で取り寄せ、特に使い道もないからと星組に分け与えたもの。つまり本質的には唯たちのものであって、西日本人が触れていいものではない。
(ふん。お前らはそうやって適当に遊んでろ無能ども。)
うんざりするほどの日差しの中、唯は丸っこい、砂場遊び用のおもちゃのようなスコップで地面をほじくり返していく。第一征服者は部屋の中でブルドッグと雑談をしながら綿をいじって遊んでいた。不公平なことこの上ない。
*
空は青く、白い壁の上には白い雲がかかっていて、本来空にあるべき澱みは全て唯の中でのみ渦巻いていた。しかし今日は土曜日で、ブルドッグの声を聞くこともなければ炎天下を歩かされることもない。先週までのように一日中ゲームとはいかずとも、不快な一日にはならないはずだった。
「それじゃママは今日は買い物行ってくるから。唯も早く支度しなさい。」
普段よりも遅めの朝食を終えた後。〈母親〉にそう言われて唯は本来の日常に連れ戻された。
「うぇ……別に行かなくてもよくない? めんどくさいし。」
「何言ってんの。いいからさっさと着替えなさい。今日はこれね。」
唯の不満には耳も貸さず、〈母親〉は衣装ケースから外出用の服を取り出すと唯の前に置き、自分も隣の毛糸倉庫で着替え始めた。ここで逆らったらより面倒なことになるのは経験で分かるので、唯は素直に渡された服に着替えることにした。特に飾り気のない上下。汚れてもいいようにということなのだろうが、それなら最初から留守番させてくれればいいのに。施設に預けるのだってタダではないだろう。
そして時計が九時を指したころ、玄関のチャイムが鳴って、見るからに胡散臭そうな、首から名札を下げていなければ悪徳商法か宗教勧誘として通報されそうな風貌の男がやってきた。
「じゃあ行ってらっしゃい。いい子にしてるのよ? あとちゃんと荷物持った?」
「はいはい。そっちもさっさと買い物行ってくれば?」
これ以上説教を聞きたくないので、空っぽの手提げバッグだけを持って玄関へ向かう。どちらを取っても気分のいいものではないが、長く留まるほど家そのものの空気が悪くなるなら、早く家を出て数時間屈辱に耐えるほうがマシだ。
「じゃあ唯くんは一緒に行こうか。」
「ふん。」
なんの風情もない白い車に乗せられて山を越え、目的地へと向かう途中、運転席の詐欺師が話しかけてきた。
「コロナ中大変だったでしょ。大丈夫だった?」
「さぁ?」
「今日は料理をすることになってるからね。いつもお昼食べてないけど、今日は――」
「……黙って運転しろ。」
あんな不衛生を極めたような場所で食事なんてあり得ない。とはいえ、料理をするだけで完成品は捨ててしまえばいいのだから、今日の幼稚園児向けおままごと会は比較的まともと言えそうだ。
*
矯正施設の部屋にはたくさんの園児がいて、そのどれもが部屋を走り回ったり意味のないことを喋ったり謎の液体をひっくり返したりと、唯を不快にさせることに余念がない。イヤーマフ越しでも聞こえてくる叫び声に耐えかねて、唯は隣の小部屋に避難した。
(このクソガキどもが……! なんでこんな奴らと私が同じ括りなんだおかしいだろ!)
唯は椅子が濡れていないことを確かめてから座ると、どっと疲れが湧いてくる。これなら学校で授業を受けているほうが何倍も有意義だ。
ドア一枚を挟んだところから理性なく騒ぎまわる園児に対して罵声を浴びせていると、キッチンタイマーの音が鳴って、部屋が少しずつ静かになっていった。最初からそうしていればいいのに、他人の迷惑を一切顧みないとは実に西日本らしい。
「みんなおはようございます――」
詐欺師と同じようにこの施設の職員と思われるおばさんがホワイトボードの前で長話を始めた。天岩戸のようにドアを少しだけ開けて部屋をのぞいてみると、「きょうのめあて」と書かれている下に「カップラーメンをつくろう」と書いてある。しかも、カップラーメンの上には丁寧な平仮名で「かっぷらーめん」とも書かれている。どうやらこの施設の職員は漢字も書けないらしい。
(カップ麺が料理……? バカにしてんのかこのババァ。)
いや、馬鹿だったのは唯のほうだ。子供を見下すことでしか優越感に浸れないような人間が唯たちに普通の料理をさせるわけがない。それに、ここにいる園児がカップ麺すら作れないのはおそらく事実だろう。なぜ無能な人間に優秀な人間が譲歩しなければならないのか。
(アホくさ。やってらんねー。)
唯は椅子を半回転させると、岩戸の中に再び閉じこもった。
「ほら、唯くんも選ばないと。」
職員のおばさんにドアを開けられ、唯は大部屋に連れ出された。机の上にはカップ麵が山積みにされていて、ここだけ見れば災害でもあったのかと言いたくなる。
「どうせ食べないから最後に余ったやつでいい。」
「そう? じゃあ先に選んじゃうけど本当にいいの?」
「しつこい。」
唯が順番を譲ると、じゃんけんで決まった順番で他の園児が取っていく。どれも職員に指示されたものを取っているだけなのだからとんだ茶番だ。全員が選び終わってあまりものが唯の前に回ってくると、職員のおばさんがまた話しだした。
「じゃあこれから作っていくけど、お湯は熱いから勝手に触らないこと。先生が入れてあげるから待っていようね。」
「意味ねぇじゃん。」
「それじゃあまずはフィルムを取って――」
実に腹立たしい。こんなこともできないと思われているのか。きっと猿に芸を仕込んでいるような感覚なのだろう。唯は漢字も書けるし計算もできるし、少なくともここの園児よりかは間違いなく優秀なのに、なぜそれを理解できないのか――いや、理解できないこと自体が西日本人の格を示しているのか。〈母親〉にしても、勉強にうるさい割にはこんなおままごとに付き合わされる侮辱を見過ごすなんてどうかしている。
「はい、唯くんも――」
「貸せ。一緒にすんな。」
唯は水道水の入った電気ケトルを奪い取ると、文明国出身者として格の違いを見せつけるようにお湯を注いだ。しばらく待って全員分が完成すると、洗ってあるのかどうかも疑わしい箸やスプーン、フォークが配られた。
「はい、それじゃあみんな手を合わせて、いただきます。」
「ふん。くだらない。」
唯はすぐに小部屋へと戻った。あのまま同じ机にいて誰かに食べかけの麺や食器を投げつけられようものなら、それを蹴り殺す自信があったから。
*
不健康な昼食が終わって午後の自由時間になると、またしても部屋が騒がしくなる。うるさいから黙らせるように苦情を言っても一切対応してはくれない。やはり外国人の言葉など聞く価値もないという事か。
(やっぱなんか持ってくればよかったな……)
狭い部屋に机と椅子が一つだけ。まるで悪いことをした子供を閉じ込めておく反省室のように見えなくもない。もちろん自分から入った小部屋なのだが、そもそも静かな空間さえ提供できればいいのだから、やはり施設側に問題があると言える。
「ピピ、ピピ――」
「はい、みんな席について。これから帰りの会を始めます。」
午前中と同じように部屋が静まり返った。ここの園児はキッチンタイマーの音で大人しくなるように洗脳されているらしい。それなら、唯が施設にいる間はイヤホンでタイマー音を聞かせ続けるような対応をしてほしいものだ。そんなことを考えている間も帰りの会は進んでいて、気がつけば帰り支度をする時間になっていた。送迎担当の詐欺師が隙間の開いたドアをノックする。
「車の鍵取ってくるから、玄関で待ってていいよ。」
「はいはい。了解了解。」
「忘れ物とトイレ大丈夫?」
「うっせえな。さっさと鍵取ってこい。」
唯はそう吐き捨てると、床の水たまりを踏まないように慎重に、素早く部屋と廊下を通り抜けて玄関へと直行した。こんな汚い施設のトイレなんて使ったことはないし、使うのを想像しただけで吐き気がする。しかし、玄関に向かうと、もっと汚いものに遭遇してしまった。
一人の男が焦点の合わない目で唯をじっと見つめている。身長は唯よりも少し高いくらいなのに、横幅が唯の二倍ほどある。それだけでも充分に気味が悪いのに、極めつけはその男が服を一切着ていないことだ。
「動くな!」
「ほい帰ろ……何やってんの。」
唯が手を銃の形にして露出狂に突き付けていると、鍵を取ってきた詐欺師が呆れた声で訊いてきた。詐欺師は露出狂に何かを言いつけると、何事もなかったかのように靴に履き替え、露出狂は施設内に入っていった。警備員が一人もいないこと、詐欺師の表情が普段通りなことから考えると、あの露出狂はこの施設の園児で、普段から全裸なのだろう。
許せない。私をあんなものと同列に扱っていいわけがない。この世界は間違っている――矯正施設を出て家へと帰る途中の車内で、唯はずっとそう繰り返していた。
*
週が明けて、一日六時間の学校生活が戻ってきた。すでに衣替えの季節ということで制服は夏用になり、雨が降っていないせいか少しずつ蝉の声も聞こえ始めている。
「お前のクラスは隣だろ? ほら早く帰れよ、それともお友達がいないとなんもできないのか?」
授業終わりに教室を出ると、男子生徒の三人組が絡んできた。左右を固めているのが誰かは知らないが、中心にいるのはよく知った顔、去年唯と喧嘩して金的を喰らったせいで友人Kから実に上品な愛称を与えられた男だった。わざわざ改めて自己紹介をしてくれるとは実に紳士的だ。
「私がここにいて何がまずい? 言ってみろ。」
「知ってるぜ? お前のクラスってお姫様クラスなんだろ? なぁ?」
質問の答えになっていないが、友人K曰くミスター・ゴールドボールは成績も悪いらしいので論理的思考ができないのだろう。少しでも冷静になればここまで冷遇される人間がお姫様には見えないはずだが、脳が足りていないなら仕方ない。そもそもお姫様なら本物がこのクラスにいるというのに。
「ふん。また新しい名前が欲しいのか?」
「あぁ?」
「なんだ? もう一度蹴られたいから私に話しかけたのではないのか?」
「ぎゃはははは! マゾじゃねえかー!」
左右の取り巻きが腹を抱えて笑い出した。従者に裏切られたミスター・ゴールドボールは誰にも蹴られていないのに苦悶に歪んだ顔をして、そのまま自分の教室まで走って逃げていった。モヒカンの似合いそうな取り巻き二人もじきにドアの周りを離れていき、唯は得意げな顔で教室に戻った。
そう。文明国出身の唯はこんな非文明国の人間の集まりよりも明らかに優れているのだ。こうして一つ一つ証明していけばいい。
*
休校、友人Kの不在、席替え、英語の授業と、今年に入ってから唯の学校生活における常識は大きく変わっていたが、本人はそれほど抵抗はなかった。むしろ、一部でも「普通の生徒」に近づけたことを喜んでさえいた。
これまで唯のために集められた班員たちは例外なく唯を「星組の生徒」として扱うように指示されていたので、唯は優遇こそされていたが、決して居心地はよくなかった。しかし、いくら教師でも数百年の歴史を持つ貴族家の令嬢に対してそんな命令はできなかったのか、あるいは貴族としてのプライドか、いずれにせよ、巫女みこ天使さまは唯を一切優遇しなかった。
「唯くん、はい。」
「……箒? うん。それでさ――」
昼休み。唯は巫女みこ天使さまに渡された箒を手に、ゲームの話をしながら床を掃いていた。休校前は誰かと昼食を食べるなんて絶対に許さなかったし、掃除用具も友人Kと一緒に振り回して遊ぶものとしか認識していなかったことを考えると大きな変化だった。
「まぁまぁ、唯くん、掃除してくれるんですね。ありがとう。」
「は? なに、ダメなの?」
唯が教壇のあたりを掃いていると、珍しいものを見たと顔に書いてある梅干しが話しかけてきた。他の生徒が掃除していても褒めたりなんてしない、むしろ重箱の隅をつついて叱れるところを探すのが趣味の梅干しとは思えない言葉だ。
「なんかやる気失くした。巫女みこ天使さまー、他にない?」
「他? じゃあ雑巾がけとか?」
「はーい。」
唯は廊下まで雑巾を洗いに行った。すると第一征服者とブルドッグと鉢合わせた。前者は素直に驚いた顔をし、後者は一旦教室を見た後、にやにやと気持ち悪い笑みを浮かべている。
「うわゆいとろっちが掃除してる! コロナ?」
「教室おらんけぇどこいったかと思ったら、なんで掃除なんてしとんねぇ~?」
「お前ら私のことなんだと思ってんだ。」
「……サボり魔?」
*
「唯くんってさ、本とか読まないの?」
授業中、巫女みこ天使さまがそっと話しかけてきた。どんなにくだらない授業でも真面目に聞くタイプに見えるから少し意外だ。
「本?」
「よくゲームの話はしてるでしょ。小説とかマンガはどうなのかなって。」
「……あんま見たことないかも。そもそも家にないし。」
〈母親〉はアニメ好きではあるものの小説などに興味はないらしく、家にあるのはよく分からない編み物の本ばかり。もしかしたら実際は家に隠されていて唯が見つけていないだけなのかもしれないが、唯自身欲しがったこともないので、少なくとも唯の前にそれらが置かれたことはない。
しかし、この義務教育最後の一年間を普通の生徒として過ごすためにそれが必要というのであれば話は変わってくる。
「なに? なんか面白いものでもあるの?」
「ある! あるよ超面白いのが!」
巫女みこ天使さまが目を輝かせた。ぶら下げた餌に魚が食いついたのを感じ取ったような、唯がそれに興味を示すことを期待しているような表情。
「……何? どんなの?」
「『約束のネバーランド』って言うんだけど、知ってる? 読んだことないなら今度貸すから読んでみてよ。絶対気に入るから。」
「いいの? じゃあ週末とか行っていい?」
「うん。じゃあ私お店にいるから。」
「……っていうことがあったんだけど、週末巫女みこ天使さまのおうち行ってもいい?」
「は? なんで急にそんな話になるの?」
キッチンで料理をしている背中に顛末を話してみると、案の定なトーンが返ってきた。背中越しでも眉間に寄った皴の本数を数えられそうだ。
「いいじゃん別にマンガくらい。もう行く約束しちゃったし。」
「……まぁ、あの子が読んでるなら……」
〈母親〉はまだ少し不安げな表情ではあったが、巫女みこ天使さまの名前が出ているからか、思ったよりもあっさり承諾した。天使の異名は伊達ではないということだろう。
*
その週末は唯にとって人生で一、二を争うくらい重要な日となった。
巫女みこ天使さまの家は山を下りてから南の川のほうへ車で何分か進んだ所にあって、まだ唯が一人で出歩くことを許可されてはいない区域だった。〈母親〉の車が近くに停まると、唯は助手席のドアを開けてぱっと飛び降りる。
「ほら、どうせついてくるんでしょ? 早く早く。」
「もっと大人しくしてなさい。嫌われたらどうするの?」
「大丈夫だって。」
呆れる〈母親〉を引っ張るようにして、唯は巫女みこ天使さまの自宅、もとい店のドアを開けた。
「お邪魔しまーす……」
店は厳選されたものだけを扱っているようで、家の名声の割には小さめと言える。しかし、ガラスケースの中に入っているものたちがどれも歴史の教科書でしか見かけないようなものばかりで、仮にぶつかって壊しでもしたらいくらになるのだろうかと思うと、流石に少し怖くなった。ショーケースの道を抜けると奥は休憩室のようになっていて、巫女みこ天使さまは約束通りそこで唯を待っていた。巫女服でも制服でもない巫女みこ天使さまを見たのは初めてかもしれない。
「来てくれたんだ。ついてきて。」
巫女みこ天使さまはそう言って、前の通りを少し歩くと、一見ごく普通そうに見える家のドアの前で立ち止まった。もしかしてここの通りが全て領地なのだろうか。
「ふーん。大貴族でも結構普通の家に住んでるんだね……」
「そもそも貴族じゃないって言ってるでしょ……ここで待ってて。」
巫女みこ天使さまは玄関の奥に消えると、すぐにマンガの束を持ってきた。
「これ。絶っ対面白いから!」
「へー……これが……」
「読んだらちゃんと感想教えてね?」
「わかってるって。」
持ってきた手提げ袋に詰め込んで、唯はすぐに巫女みこ天使さまの家を離れた。もう少し話してもよかったが、それは次回に取っておいた方がいいだろう。
「もういいの?」
「うん。早く帰って読みたいし。」
「……なんか失礼な態度取ってないよね? 大丈夫なの?」
〈母親〉は心配そうな表情で車を発進させ、家に着いたあとはさっそく、手を洗って、いつもと違って丁寧に乾かしてからページをめくっていく。
(……なんか思ってたのとちょっと違うかも。)
巫女みこ天使さまの人物像からは日常系、空気系を想像していたが、五巻まで読んでみたところ思ったよりもダークな雰囲気だ。これをお勧めするということは巫女みこ天使さまも案外闇を抱えていたりするのだろうか。それとも唯の闇を見てお似合いだと思ったのだろうか。
「で? どんな話なの? 見せなさい。」
「え~……はい。」
なんだか少し嫌な予感がしつつも、唯は袋ごと〈母親〉に手渡した。〈母親〉は少しずつページをめくっていって――
「唯。早く続き借りてきなさい。」
いともたやすく釣り上げられた。
*
コロナのおかげで体育祭が中止になって喜んだのも束の間、唯にとって最も忌むべきバレーの授業が始まった。これだけ教科書が分厚くて何の役にも立たない知識が書かれているというのに、なぜ毎年馬鹿の一つ覚えのようにバレーだけをやらなければならないのか。嫌がらせもいいところだ。
今年は三年目ということもあってか座学はほとんどなく、すぐに複数人でペア、グループを組んで野蛮人に相応しい時間が始まった。
「ほい、じゃあ唯君は……皆とやるのが苦手なら俺とやろうか。」
唯が自分一人のペアを組んで体育館の隅に座ってボールと戯れていると、まだ経験の浅そうな新人体育教師が目の前に座り込んだ。この不良生徒を授業に参加させることができたら自分の評価が上がるからとか、そんな理由だろう。
「だが断る。私は球技には参加しないと聞かされていないのか? 愚か者め。」
「いやでも……」
「私はお前たちと違って暴力的嗜好は持っていないし、お前の嗜虐性を満たすための人形でもない。いいか? 私は二度と球技、特にバレーだけは絶対にやらないと一年の時に決めてんだ。これ以上顔面粉砕されてたまるかっての。だからさっさとあっち行け。」
唯は立ち上がってボールを遠くに投げ、早口でまくし立てた。一年前は同じやり方でサボることに成功したのだから、今年も同じようにすればいい。
「じゃあ私とやらない?」
「はい?」
いくら巫女みこ天使さまの頼みといっても、歯が折れるかもしれないようなことは嫌だ。ただ、今ここで巫女みこ天使さまの機嫌を損ねると約ネバの続きが借りられなくなり、〈母親〉に怒られるのは火を見るより明らかだ。仕方ない。悪意ある大人とやるよりはマシだろう。
「……わかったよ。ちょっとだけね。」
*
巫女みこ天使さまは基本的に何でもできることが分かって少し経った頃。この日の体育は高く打ち上げられたボールを受け取るという内容で、二年前に唯の顔面を強打したのと同じものだった。一年前の唯なら何を言われようとコートに出ることはなかっただろう。しかし、せっかく巫女みこ天使さまが普通の生徒として生きるチャンスをくれた以上、サボるという選択肢はいつの間にか唯の頭の中から消えていた。
「じゃあ行くよ。」
巫女みこ天使さまがボールを高く打ち上げると、ボールが大きくカーブを描いて天井近くまで舞い上がた。放物線のちょうど真ん中で一瞬、ぴたりとボールが止まる。ボールがくるりと唯のほうを見つめた気がした。
そして次の瞬間、ボールはほとんどまっすぐ床に向かって落ちていった。唯がそれを取りに行こうとすると、急にボールが動く向きをほんの少し曲げて、唯の手に向かって真っすぐ飛び込もうとして――
ぐきっ。
ちょうど唯の親指を一本、かすめ取るように通り過ぎていった。唯のすぐ後ろの床にボールがどすんと落ちる。
「ごめーん……大丈夫?」
「……もうやだ。二度と体育やらない。」
巫女みこ天使さまが巫女みこ撲殺天使さまになった。ナースに転職して治療してもらわないと。
*
家に帰ってから〈母親〉に親指を見せると、心配というよりも仕事が一つ増えたことを恨むような視線を向けられた。たまたま電話対応した客がクレーマーだったとでも言いたげな皴の寄り方だ。
「折れた。これ絶対折れてるよ痛いもん。」
「折れてたら動かないでしょ。それに唯の指なんて元から折れてるようなもんでしょ。」
「でも痛いものは痛い。」
「はいはい。じゃあ明日病院行く?」
「うげ。でもしょうがないかぁ……」
その翌日の空は曇っていて、しかし雨は降っておらず、まさに唯の心境をそのまま映したような空模様だった。山を下りて少し開けた場所にある診療所は聞いたこともない名前で、大して規模も大きくなく、その代わり人も少なかった。
待合室に座って、壁と天井の境目をぼんやりと目で追っていると、すぐに名前を呼ばれて順番が来た。椅子に座った医者は半分くらいボケていそうな白髪の老人で、白衣を着ているのもあってほとんど背景と同化している。空気みたいなやつだ。
「えっと、見せてもらっても?」
「バレーボールが指にぶつかっただけです。」
唯は右手を差し出しながら冷静に答えた。物理的にあり得ない軌道をしていた点を除けば事実だ。それについて話しだしたら、きっと精神科に回されるのだろうから、ここで話す必要はない。それからちょっとした検査を受けた後、唯は大げさな包帯を巻かれ、軽傷なので問題なしと告げられた。
「よかったじゃん。折れてなくて。」
「でも体育は金輪際やんないからね。」
〈母親〉はそのまま唯を学校まで連れていった。今日くらい休んでも普通でいられそうな気はしたが、家にいたら説教の雨あられなのは想像がつく。それなら、右手が使えなくても学校に行って巫女みこ天使さまと雑談でもしたほうがずっといい。
*
学校に着いたのは授業中で、いつもはイヤーマフなしではとても通り抜けられない昇降口もやけに静まり返っていて、水槽の水音がうるさく聞こえるくらいだった。足音を立ててはいけないような雰囲気に圧されて、唯は忍び足で職員室前の廊下を歩いていく。しかし、ちょうどドアの手前で生徒指導のヤクザに捕まってしまった。
「おい何しとんじゃコラァ!」
「何って。授業出ちゃ悪いのか?」
「遅刻した理由を聞いてンだよアホが! ああん?」
ヤクザが唯の体をどついてきた。西日本人はこうやって口と同時に手が出る奴ばかりだからだめだ。そもそもこんな暴力団員に生徒指導をさせようという発想が間違っている。
「あ? 見て分かんねえのか? 病院行ってたんだ悪いか?」
唯は右腕に巻かれた大げさな包帯を見せた。実際はもう痛みなんてあまり感じないが、痛そうな演出には役に立つだろう。本来誰かに憐れまれるのは嫌いな性分だが、こういう面倒な状況を打開するのに有利に働くなら許してもいい。
「だったら学校来る前に連絡しろや! 規則だろぅが!」
しかし、残念ながらヤクザには大して効き目がなかったようだ。しかしイメージ通りと言えばイメージ通りかもしれない。
「ああそうかい、次から遅刻しなくていいようにしたいもんだね。それじゃ。」
「あ、おい待てやゴルァ!」
唯はヤクザを腕をすり抜けて階段に飛びつくと、脱兎のごとく駆け上がって星組の机にカバンを置き、できるだけ平静を装って一組の教室に入った。
「あ、おはよ……って、その手大丈夫なの?」
巫女みこ天使さまがすごく心配そうな目で右手を見ている。唯は少しだけ意地悪をしてみようという気になった。貴族家のお姫様に上から目線で何か冗談を言えるのは今だけかもしれないから。
「ちょっと折れてるかも……」
「え、嘘!?」
巫女みこ天使さまが心配を通り越して悲壮な表情になった。このくらいにしておこう。これ以上は普通の生徒生活に支障が出かねない。
「嘘。」
「よかった……でも昨日はほんとごめん……!」
「え~、どうしよっかな~。あ、これからもマンガ貸してくれるならいいよ。」
言ってから、ふと思った。罪悪感を拘束力の一種として使えるなら、もっと重要なこと、例えば「これからも普通の生徒として扱って余計な気遣いをしないこと」でも要求しておけばよかった。
*
数日後には手に巻かれた包帯が外れ、唯の怪我人状態は無事に終了した。誰からも注目を浴びなくなるというのはほんの少し寂しくはあるが、唯の今年の目標を考えればそれでいい。特に、巫女みこ天使さまが変な罪悪感を持たなかったのはラッキーだったと言っていい。
「巫女みこ天使さま~、次いつなら行ってもいい?」
「んー……試験終わったらとか?」
試験――嫌な言葉だ。唯は一瞬顔を曇らせた。
「っていうかちょっと聞きたいんだけど。」
唯の表情に雨雲がかかったのを察したのか、巫女みこ天使さまは話題を変えてきた。
「なになに?」
「その巫女みこ天使さまって何?」
「これ? んー、なんていうか、なんかこの呼び方が一番しっくりくるんだよね。見た目巫女さんだし、性格天使さまだし。」
唯はすらすらと答えてのけた。ブルドッグが聞き耳を立てていたらさぞ喜んで、吐き気のするような満面の笑みを浮かべるのだろう。実際のところ何故こんな愛称をつけたのかは分からない。ただ、この呼び方が唯の中で馴染んでいるのも事実だった。今さら他の名前で呼んだとしても、どうせ癖が出てくるだに決まっている。
「普通に名前で呼んでくれていいのに……」
「え~、やだ。」
そして六月が終わり、七月が始まる。唯が普通の人間になれるかどうかの、最初の関門の足音が近づいてきていた。
「……なんか、結末知っちゃってると楽しめないね。」
「そうかな。語り手次第だろう。」




