03:// 向日葵と境界と長い春休み
「ねえ、目を逸らさないで。物語が始まるよ。不快で愉快な、けれどとても大切な、忌まわしい物語が、ね。」
目が回るほどの白と灰色の上。魔女は帰り道を探すように、まるで世界から色が失われた後、あるいは世界に色が生まれる前のような無機質さの中を歩き続けていた。横を向いても、ただ白い景色が広がるだけ。
どれほどの時間が経っただろうか。白いひだ状のうねりの中を歩いていると、前から万年筆がからんからんと落ちてきた。白の世界には似合わない黒塗りのそれは、魔女の足元を通り過ぎて螺旋の彼方へと転がり、ついには虚空へと落ちていった。衝撃で歪んだペン先から、とめどなくインクが溢れ出る。
突然、一面に広がる白いキャンバスが瞬く間に深紅に染められた。黒くて気味の悪い、見たこともない文字が深紅の上を舞い踊る。
何の前触れもなく、目の前に和服の少女が現れた。どちらかがほんの少しでも動けばぶつかってしまいそうな距離。どことなく懐かしい雰囲気がする。
先に動いたのは少女のほうだった。
胸のあたりが熱い。いや、冷たい。寒い。視界が真っ赤に霞んでいく。
紅白に身を包んだ少女の右手には、衣装と同じように紅蓮の刀身が握られていた。切っ先からぽたりぽたりと血が滴り落ちる気配が響く。その様子を、上下左右、あらゆる方向から三十六万と五千もの瞳が見つめていた。
瞳の群れと少女は役目を終えたとばかりに空間の裂け目の奥へと消え去り、あとには色すらも残さなかった。はじめから何事もなかったかのように、世界は白紙に戻っていた。
色のない二つの光彩は沈黙を貫いて、魔女もまた白に浮かぶ螺旋階段を歩きだす。蜃気楼のような足場に波紋を広げながら階段の上を見ると、灰色の波が白い泡を輝かせて、眼下の虚空へと打ち寄せていた。
音もなく引いては満ちて、寄せては返してを繰り返す。そんな景色をぼんやりと眺めていると、急に灰色が濃くなって、波がいっそう高くなった。水しぶきが顔にかかって、そのまま黒に飲み込まれる。
頭が割れるような痛みとともに、またしても紅に彩られた世界に引き戻された。血糊を塗りつけたような天空にはどす黒い満月がぽっかりと浮かんでいて、全てを押しつぶすような漆黒の影だけを落としている。そんな月を見上げていると、覚えのない光景が渦巻く奔流となって流れ込んできた。
深々と抉られた地面。
突き刺さった長槍と狙撃銃。
もはや原型すら留めていない死屍累々。
懐かしい故郷の家の残骸。
誰かの墓標。
まるで千年もの間生きてきたかのように体が重くなって、魔女はその場に倒れ伏した。そのまま意識が遠のいていく。完全に意識を失う直前、青く冷たい風が吹いて、朽ち果てた木々が一斉にざわめいた。風は空と月さえも吹き散らし、あるはずのない記憶を押し流す。
次の瞬間には、魔女は何もかも元通りに真っ白な世界に取り残されていた。
どこまでも続く二重螺旋の階段を歩いていると、登っているのか、降りているのかさえ分からなくなる。もしかしたら、歩いているだけで進んでいないかも。
そんなことを考えていると、前方から糸で吊るされた折り紙の鳩が飛んできた。その先に目を凝らせば、コピー用紙を切って作ったような白一色の街並みが広がっている。家に近づいているという根拠のない確信に、魔女の足取りは少しだけ軽やかになった。
長い階段がようやく終わりを見せるころ、気がつけば白い虚空は澄んだ青空に、螺旋階段は陽の光のように輝く花畑に姿を変えていた。空を見上げれば、天に届くほどの高さかの石壁が世界を覆っている。視線が壁の上に釘付けになっていると、上から誰かが落ちてくるのが見えて――
ぱりん。
視界がひび割れて、空も花も光を失った。それだけではなく、世界ごと、足元の地面さえもがらがらと無音のまま崩れていく。空に向けて手を伸ばしても、掴めるのは灰色だけ。魔女は色を失った世界を見上げたまま、暗い水底へと落ちていった。
*
780年9月9日、月曜日。神話の終わりに相応しい、よく晴れた朝だった。
山の表面を撫でるように太陽が森の木々を通り抜け、村を覆い隠す木々は光を浴びて、歪に曲がりくねった枝をざわつかせる。光はさらさらと流れて一つの窓へと導かれ、白いカーテンをひらりと飛び越えた。
突き刺すような明るさが瞼に当たって、唯は思わず薄い布団の中で体を強張らせた。薄っすらと目を開ける代わりに、安物のファスナーをこじ開けて腕だけを伸ばす。
空振り。届かない。
突き出された腕はしばらく畳を引っ搔いていたが、やがて諦めたのか、うつぶせのまま僅かに布団を持ち上げて、蚊帳の網目越しに時計の文字盤を覗き込んだ。
五時三分。
「ん……もう朝……?」
足で隣を蹴ってみる。ぽす、と軽い音がしてマットレスが倒れた。誰もいない。
すでに起きたのか、それともアニメを見に行ったきり戻ってきていないのか。
どちらにせよ、あと一時間もすれば朝ごはんに呼ばれるはずで、ここでせっかく二度寝したのにすぐに起こされようものなら、一日の始まりが台無しだ。
唯は未練がましい動きで起き上がると、くしゃくしゃに丸めた布団を押し入れにねじ込んで、猫のように大きなあくびと伸びをした。まだ自分の一部がどこか遠いところに取り残されているような感じがぬぐい切れなくて、パジャマを引きずったままカーテンをめくる。
(う……まぶしい……)
ほんの少しの隙間から射す光が目を貫いた。目を細めて光さす方向をじっと見つめると、今日も空と森の境界線上に白亜の檻が聳え立っていた。高さ五十メートル、出入り口なし。いつからあるのか、誰が作ったのかも分からない。分かっているのは、あの壁の向こうに月の彼方があることだけ。
一日でも早く帰りたい。いや、帰らなければならない。しかし、これまで唯は壁を越えるどころか、近づくことさえもできていなかった。
『選民という幻想、世界から遺棄される真実――』
ふいにそんな言葉が頭に浮かんで、唯は半ば無意識に右手でカーテンを握りしめた。
私が神に選ばれた存在なのは幻想なんかじゃない、まぎれもない真実なんだと、そう自分に強く言い聞かせながら。
*
カーテンから手を離して振り返ると、剥がれかけた土壁と黄ばんだ畳が目に入る。古くて田舎臭い、薄汚れた一軒家。こんなところを家と呼んだら、他のちゃんとしたおうちに失礼だろう。
(そろそろ起きなきゃ……)
波打った畳はがたがたと揺れて、階段の一段一段もぎしぎしと軋みをあげる。一歩踏み出すたび、体の芯まで沈み込むような感覚がした。
「おはよう、唯。」
一階に降りたところで、キッチンのほうから〈母親〉の声が飛んできた。首だけを動かしてちらりとその方向を向くと、鍋のお湯が沸騰する音と、煮干しの匂いが微かに漂ってくる。
「ん。」
「今日から学校でしょ? 宿題やった? 時間割覚えてる? 持っていく物は?」
ラックの向こうから矢継ぎ早に放たれる質問に、唯は眉をひそめて舌打ちをした。
「あぁ、うん。」
「ここ三ヶ月ずっとゲームしかしてなかったでしょ。もう六月なのに、そんなんで本当に大丈夫なの? 来年からは――」
「……大丈夫だって言ってんじゃん。」
少し語気を荒げて答えてから、唯はキッチンから一番遠い襖に手をかけた。村そのものが歪んでいるせいでこの家も建付けが悪く、祖国の家のように簡単には開いてくれない。
……ががががっ。
襖を開けてリビングに一歩足を踏み入れた瞬間、、飼い猫の一匹が縮こまって、部屋の隅にあるケージの中に逃げ込んだ。別の一匹は対照的に、肉球を履き忘れたかのような音を立てて唯のそばに駆け寄って、物欲しそうに上目遣いで騒ぎ始めた。
「にゃあー、にゃあー、にゃあー」
「……うっさい! お前はちょっとくらい黙ってろ! これだから西日本は……」
足元に纏わりつく泥棒猫を雑に振り払いながら自分の席へ向かう。猫が来る前はこたつだった座卓。いつもの定位置に置いてある座布団に座って足を伸ばすと、床から机にかけてぐるりと一周するように広げられたものに囲まれて、少しだけ落ち着いた。
(ごはん出てくるまでレベル上げでもするか……)
唯は周囲を見回した。筆箱と落書き帳、まだ新しい教科書とノート、それから、もうほとんどの人は使っていないであろう、一昔前のゲーム機。この村と同じく時代遅れで、持ち主と同じく誰と繋がることもできない。それでも、今の唯が繋がることを許されているのはこれだけだった。
電源を入れてコントローラーを握れば、すぐにファンタジーの主人公になれる。左手で走り回って、右手で武器を振り回すこの時間だけは、余計なことを考えなくて済むから好きだった。
「唯。ごはんできたから片付けて。」
無心で指を動かしていると、〈母親〉の声が割り込んできた。視線だけを襖のほうへやると、その手には玄米と味噌汁の乗ったお盆が見える。
「えー、もうちょっと待って。あとメタル一匹。」
「は? 今日から学校なの分かってる? 早く食べないと――」
「……あぁもう、うるさいなぁ。はいはい。片付ければいいんでしょ片付ければ。」
唯はゲーム機の電源をぷつりと切ると、机の上に広げられたものをばさばさと薙ぎ払うように床に落として食卓を整えた。
「もっとちゃんと片付けなさい。」
「……別に綺麗になったんだからいいじゃん。いちいち文句言うな。」
結局、次のレベルまであと一桁か二桁というところで冒険は中断された。
*
食後、唯は歯ブラシを咥えたまま特に何をするわけでもなく、ただぼんやりと座っていた。
休校明け。
学校。
新学期。
断片的な単語が頭の中をぐるぐると巡る。
「いつまで歯磨いてるの? 早く行く準備しなさい。」
コーヒーの入ったマグを持った〈母親〉がキッチンから戻ってきた。
「んー、まだいいや。」
適当な返事。何がまだいいのか、言った本人もよく分かっていない。
「はぁ? いいわけないでしょそんなの。そんないつまでもダラダラして――」
「あーはいはい。支度すればいいんでしょすれば。」
無理やり膝に乗せていた泥棒猫がすり抜けた隙にキッチンに向かい、さっとうがいを済ませてリビングに戻る。
「あ~きなちゃん可愛いね~♡ おやつ食べる~? 持ってきてあげよっか~♡」
首根っこを掴んで外の森に投げてやりたいくらい、なぜだか無性にイライラした。そこはお前の席じゃない。そこは私の場所なのに。
「さーてーとー。それじゃあ準備してさしあげましょうかね~。」
「してあげるって何。自分のためでしょ。」
「はいはいそうかもね。」
泥棒猫に夢中の〈母親〉の声を軽く受け流して、散らかった床から学校支給の日記帳を拾い上げる。時間割のマス目にシャーペンの薄い書き込みが四つ。
(そっか。今日始業式だから午前だけなんだ。ラッキー。)
続いてその内容に目を通して、
「は? 授業あんの? マジ最悪ありえないんだけど。」
唯は日記帳を床に叩きつけた。裏表紙の角が折れる。〈母親〉のそばでおやつをねだっていた泥棒猫が真上に飛びあがって逃げ出した。
「ちょっと、せっかく来てくれてたのに逃げちゃったじゃん。」
「別にいいじゃん。さっさと洗い物してくれば?」
〈母親〉に八つ当たりしながら視線を上げると、部屋の隅の壁に吊るされた制服が目に入る。
「……クソッ、なんでこんなもの……今何年だと思ってんだ……」
手を伸ばしてハンガーから制服を引きずり降ろしながら、唯はぶつぶつと文句を垂れた。キッチンから聞こえてくる涼しげな水音をBGMにパジャマを脱いで、学生を纏っていく。透明だった自分に色がついていくような感覚。これが自分の好きな色だったらよかったのに。
着替えを済ませたら、時間割にあった科目の教科書とノート、筆箱、そして三ヶ月分の課題を乱雑に放り込んでいく。かちりという音を立ててカバンを閉じて、支度は終わり。そのまま右手で持ち上げてみる。
重い。
(これ無理だわ。今日はサボろっかな……)
「まだ支度終わんないの? 早くしないと遅刻するよ?」
そんな考えがよぎった瞬間、心を読んだかのように〈母親〉の声が飛んできた。
「あーはいはい。今行こうとしてたとこ!」
半分嘘になる返事を返事をキッチンに向けて投げ返して、唯は一旦カバンを開けた。教科書とノートは留守番させて、暇つぶし用の落書き帳と入れ替える。なんとか許せる重さになったところで、足取り重く玄関へと向かった。おしゃれさの欠片もない泥まみれの白い靴を履いて、引き戸に手をかける。ごろごろとドアを開けると、外は六月とは思えないほどに晴れ渡っていた。今年は梅雨も休校らしい。
*
(……うげ。暑っ。)
家を出て最初の感想がそれだった。まだ朝の八時だというのに、日差しは情け容赦の欠片すらなく、肌を刺すような熱が纏わりついて、喉が焼けるような息苦しささえ感じさせてくる。唯は一旦制服の上着を脱いで、肩に乗せ直した。袖を通さないだけで、息苦しさが少しだけ和らいだ気がした。
前庭は無駄に広く、雑草が好き放題に生い茂って、錆びついた門扉が捨てられている。山の向こう側にはまた山が広がっていて、青と緑の間にはやはり白い線が引かれている。
(はぁ……)
ため息をついて足元に視線を落とすと、ひび割れたコンクリートを雑草たちが侵蝕していて、余計に気分が落ち込んだ。目の前の階段はいつからか左半分が崩れていて、剥き出しの口を開けて奈落の底へと誘ってくる。階段の左右からは無秩序に伸びた枝葉が垂れていて、蜘蛛の巣がちょうど頭の位置に張られている。他の家はどれも森に呑まれて崩れ去っていて、なぜこんな場所に人が住めているのか不思議でならなかった。
身を屈めてもなお引っかかってくる蜘蛛の巣を、拾った木の枝でかき回す。家主の女郎蜘蛛は触れたくもないので見逃してやって、くねくねと曲がりくねった階段と斜面を下りきると、ようやく麓の道に出る。両側を家と店と駐車場に挟まれて、その隙間にアスファルトを流しただけの狭い道。
「ほんと、汚いまち――」
言いかけて、心の中でごめんなさいと訂正。二時間に一本のバス停にガタついて剥き出しの椅子が捨てられているような場所が「街」だなんて贅沢すぎる。ここはせいぜい村、集落あたりが相応しい。
自己紹介の台詞と振付を考えながら歩いていると、同じ制服の集団とぶつかった。通りを見回せば、似たような群れがちらほらと見える。三ヶ月ぶりの登校だからか、どの塊も意味のよく分からない話題で賑やかに談笑していた。
(クソどもが……! 横一列になりやがって邪魔なんだよ他人のこと考えろこの西日本人め……!)
カバンを持ち直して、背筋を伸ばす。このまま後ろにいるのは気に食わないが、下手に前に出ると後ろから殴られて路地裏に連れ込まれるかもしれない。
唯は数軒分悩んで、野蛮人に譲歩はしなくていいと結論付けた。イヤーマフを浮かせて、車が向かってきていないことを確かめてから、足早に、大きく回り込むようにして目の前の集団の一歩先へ。
「ふん、こんな群れちゃってさ……カッコ悪。」
そんな快感に浸って、無意識に笑みがこぼれた。心なしか足取りも軽くなる。
視界のずっと先には相変わらず例の壁が聳え立っていて、見たくもないのに視界に割り込んでくる。先ほどの自己中集団への怒りとまとめてちょうどいい侮蔑の語彙を探していたら、その前に目的地が見えてきた。
分不相応にも小高い石垣の上、新しくもなく、かといって田舎特有の趣深さもない、ただの古びた四角い箱。唯は塗装の剥がれた正門を見上げてまずため息をつき、それから歪んだ石の階段を一段ずつ上っていった。
途中、ふと今朝の夢のことを思い出す――確か、あそこでも階段を歩いていた。
目を覚ました瞬間は割と印象に残っていたのに、今や大事な部分だけがすっぽり塗りつぶされたように空白だった。
*
正面玄関をくぐれば、三ヶ月ぶりの喧騒が耳を突き抜けて頭が揺さぶられる。
(あ~、うるせぇっ! お前ら全員さっさと席戻って自習してろ!)
上履きに履き替えながら、唯は去年の自分を棚に上げて毒づいた。階段の中央に引かれた線の上を一段飛ばしで駆け上がる。途中で何人かとぶつかりそうになったが、関係ない。「星組」の札がかけられた教室の重いドアの隙間に滑り込み、薄い窓が割れそうな勢いでドアを閉め、がちゃん、がちゃんと鍵をかけたところでようやく静かになった。
「まったく、朝からやかましいガキどもめ……」
自分の席に腰を下ろして、重いカバンを机の横にひっかける。シャーペンと落書き帳を取り出して、先ほど騒いでいた生徒のクラスのホームルームが長引くように呪いをかけようとしたところで、今閉めたばかりのドアがばんばんと叩かれた。
「……なんだようっせえなぁ。」
「なに勝手に閉めとんねぇ~。はよ開けぇ~っ」
担任だった。相変わらずねっとりした嫌味な声で聞くに堪えない。唯は立ち上がってドアに向かっていたものの、ばんばんの主が分かるや否や引き返して椅子に座り直した。
「開けぇ言うとるじゃろぉ~。あくじゃ~」
がちゃがちゃと鍵が回る音がして、提出物を入れるカゴを持ったジャージ姿のブルドッグが入ってきた。教卓横の机にどんとカゴを置いて、気味の悪い笑みを浮かべながら唯のほうを舐め回すように見つめてくる。
「……こっち見んな。そんな気持ち悪い顔向けられたら老化が伝染るだろうが。」
「はぁ~? なんてぇ~?」
「……ふぅ、セーフ! あ、おはよーゆいとろっち。」
唯とブルドッグが睨み合っていたところに空気の読めない声が響いて、道徳家気取りの紫ポニーテールが入ってきた。
「あぁ、生きてたんだ。」
「そんな言いかたないじゃろぉ~。やっぱりあくじゃ~」
「うっせぇ黙ってろ。」
「はいはい、みんな集まったしホームルーム始めようねぇ~」
ブルドッグが「皆」と言ったとき、初めて教室の違和感に気がついた。席が二つしかない。去年の三年生が卒業したのだから減っているのは当然としても、唯、今来た第一征服者、そして都合のいい友人Kの三席ないとおかしいはずなのに。
「……あいつは?」
「はぁ~? 何寝ぼけとん~? 彼なら四月から虹組になったじゃろぉ~?」
「は? 四月?」
唯は自分の役を忘れて素っ頓狂な声を上げた。今年はパンデミックのせいで三月からずっと休校だったはずなのに、このブルドッグは何を言っているのだろうか。
「てか補習組ならこいつもセットだろ。なんであいつだけなんだよ。」
不満そうな表情で隣の席を指さしても、ブルドッグは嘲笑、第一征服者は苦笑を浮かべるだけ。唯は終始頭上に疑問符を浮かべたままだったが、この学校でただ一人と言っても過言ではない貴重な友人がもういないことだけは理解せざるを得なかった。
困惑顔の悪魔を置いて、ホームルームは静かに進む。面白みに欠ける一年間が確定した。
*
チャイムが鳴って、退屈な一日目の、退屈な一時間目が始まる。第一征服者に誘われて隣の教室に向かうと、よく知らない顔が三十ほど浮かんでいた。凍て刺すような視線がほんの一瞬だけ集まったが、すぐにばらばらな方向に散らばっていく。
唯は黙ってドアの近くの空席に座り、第一征服者はその対角にある窓際の席に座った。
「はい、皆さん、おはようございます。今日から休校明けということで――」
一組担任の梅干しは話が長いことで有名だった。時計をぼんやりと眺めて聞き流していると、あっという間に授業時間が過ぎていく。
帰ったら何をしようか。
その前に昼ごはんは何だろうか。
そんなことを考えていると、
「では、今からプリントを配りますので、一枚取ったら、後ろの人に渡してください。」
いつの間にか話は終わっていて、梅干しが端から順に薄っぺらい紙の束を渡していた。渡された生徒が一枚抜き取って、後ろの生徒に残りの紙を渡していく。星組では起こりえない、普通の学校のワンシーン。
頬杖をついて窓際の席を観察していると、唯のところにも順番が回ってきた。一枚抜き取って、残りを後ろに回すだけの簡単な仕事。そのはずだった。
唯に回ってきたのは一枚だけ。
「さっさとあまり寄越せよ」と口を開きかけたところで、前の生徒が立ち上がって、唯の後ろの席にプリントを回しに行った。
「はい。」
「サンキュー。」
(……またこれか。)
別に、プリント配りをしたかったわけじゃない。むしろ、面倒な仕事を他人が代わってくれるのだから、楽ができているぶん好待遇なはずだ。
それでも。
――外国から来た子だから。
――星組の子だから。
理由に心当たりがありすぎて、なぜか素直に喜べなかった。
*
「では、このあと席替えを行いますので、授業が終わったら、机を移動させてください。」
梅干しがそう言ったところで、ちょうどチャイムが鳴り止んだ。記憶にない幻の四月に決まったと思われる学級委員の号令で全員が立ち上がって、ありがとうございましたという掛け声とともに一礼する。
唯はというと、当然のように棒立ちだった。何の恩義も受けていないのにお礼を言わなければならないなんて納得できない。そもそも西日本人に頭を下げるという行為自体、プライドが許さなかった。
儀式が終わると休憩時間になって、生徒たちががたがたと動き始める。
「ねえ君、机動かしていい?」
星組に戻ろうとしたところで、一人の男子生徒が声をかけてきた。星組の生徒の席が変わることはないから、自分の席を移動させるのに邪魔だから一旦ずらしてもいいか、という意味だろう。
「ふん。好きにしたまえ。」
唯はそう言って、そのまま筆箱を持って教室を出た。もし「邪魔だから机どかして」などと言われていたら、絶対に痛い目に遭わせていたことだろう。
――ありがとう。
背後からそんな声が聞こえた気がしたが、気のせいだと思うことにした。傲慢な西日本人が東日本人に対して感謝するなんてあり得ない。
二時間目の終わりのチャイムが鳴ったころ。教科書を持ってこなかったせいで暇を持て余し、落書き帳をはみ出して机の上にシャーペンを走らせていると、第一征服者が明るい声で話しかけてきた。
「ゆいとろっち。次英語だから移動だよ。」
「んぁ? そうだっけか?」
記憶では英語は星組だった気がするが、これも四月に変わったものの一つなのだろうか。
「ほら、早く行かないと遅れちゃうでしょ? 行こ?」
「いちいちうっせえな……お前は私の母親にでもなったつもりか?」
第一征服者の言葉なんてあまり信用できないが、仮に違ったら責任を押し付ければいいだけのこと。唯は気だるげに文句を吐き出しながら、もう一度隣の部屋へ向かった。
「……おい。何勝手に座ってんだよ。邪魔だどけ。」
「え? いやここ俺の――」
教室に入ると、自分の席に知らない生徒が座っていた。なんて礼儀知らずな奴だ。憤りを隠さずに話しかけると、その生徒は無知な人間を心底哀れむような視線を向けた。
「……そっか。えっとね。さっき一時間目が終わったときに席替えがあったんだけどね。その時君の席はあそこになったんだよ。」
唯は一瞬耳を疑った。星組の生徒の席は一年間固定なのだから。どうせ適当なことを言ってごまかそうとしているに違いない――しかし、示された席のまわりだけ人が少なく、皆がそこを避けているように動いているのを見て、すっと納得がいった。
「……そういうことは先に言え。」
唯は独り言のように吐き捨てると、そのまま誰も近寄らない席に腰を下ろした。
教室の後ろには、見覚えのない自己紹介文が三十枚ほど貼られている。興味がないから当然だが、どの顔写真にも見覚えがない。村の全員が示し合わせて騙しているのだろうか。それともまだ夢の中にいるのか、あるいは並行世界に来てしまったのかもしれない。
そんな妄想を広げていると、
「あ、唯くん。久しぶり~」
隣の席から呼びかけられた。しかも名前を知っていなんて珍しい。
「なに
「せっかく同じクラスになったんだから、もうちょっと話そうよ。」
誰だお前、と訊こうとして振り向くと、ふいにパズルのピースがかちりとはまった。あるはずのない記憶が砂時計のように少しずつ流れ込んでくる。
「……あー! 巫女みこ天使さまだ! うん、おはよ。三年ぶり? 今年一年よろしくね!」
自分でも驚くほど素直で綺麗な言葉が飛び出してきた。西日本人に対して暴言から入らなかったのはいつぶりだろうか。
右隣から舞い込んでくる空気は、他の生徒とは明らかに違う色をしていた。決して触れてはいけない、しかし離れることもできない色。天使の羽は雲のように軽やかに、重しのようにのしかかってくる。
前言撤回。今年はきっと、楽しい一年になる。
*
「おかえり。学校どうだった?」
玄関を開けてすぐ、心配の仮面を被った説教が飛んできた。
キッチンかリビングか。料理の音がしないから、リビングで泥棒猫を愛でているのだろう。月でアニメでも見ていてくれればよかったのに。
「別に。普通に決まってんじゃん。」
キッチンで手を洗いながら、ぶっきらぼうに返事をする。授業以外のことで分からないことなら多々あったが、それを話したところで何かが変わるわけでもないし、むしろ病気を疑われて余計な説教を喰らうかもしれない。
「で? お昼まだ? お腹空いたんだけど。」
「……はいはい。今から作るから宿題でもやって待ってなさい。」
リビングに戻った唯の催促を受けて、〈母親〉は重そうに腰を上げて襖の向こう側に消えた。机の上には、作りかけの帽子がインスタント麺のようになって積まれている。
(何が宿題だよ。自分だって何もしてないくせに。)
カバンに手を伸ばしかけて、ふと思い出した。
宿題。そういえば渡されていない。よく思い出してみれば、これまで課題を出されたこと自体、これまでの学校生活の中でも数えるほどしかない。この前まで課題があったことのほうが異常なのだ。
選ばれし存在だから丁重に扱われているだけ?
すでに優秀だからわざわざ課題を出す必要がない?
いや、違う。あれは配慮や優遇なんかじゃない。あれは冷笑、憐憫、侮蔑、ありとあらゆる期待をしていないときの目だ。
――星組の子に皆と同じ事させるなんて可哀想。
――外国から来た子だから、きっと難しいことは分からない。
――あの子は何もできないんだから、私たちが全部代わりにやってあげないと。
「……っこのクソどもがぁっ!」
「はぁ? 急になに? うるさいんだけど。迷惑だからちょっとくらい静かにしてなさい。」
大声を上げてしまったせいか、パジャマを纏った般若の面が飛んできた。今にも襖が破られそうな空気がリビングに流れ込んでくる。声のトーンから察するに、右手の菜箸が真っ二つになるのは時間の問題だろう。
「だから別に何でもないってば。はいはい、黙ってりゃいいんでしょ。いいからごはん作りなって。」
説教や暴言ならいくら飛んできても何も壊れないから好きにすればいいが、癇癪で家がさらに壊れるのは流石に困る。唯は〈母親〉の命令通り、黙って机にへばりついた。
*
昼下がりの泥棒猫たちは傷だらけの縁側で惰眠を貪り食い、〈母親〉はブランド物の毛糸玉をニット帽の形に変えて、完成直前でふわふわの残骸に戻している。とても檻の中とは思えない、絵に描いたように平和な田舎の日常風景。もはやここが檻の中であることすら忘れている、あるいはあの壁そのものが見えなくなっているのかもしれない。
(まあいいや。夕飯までゲームしてよっと。)
唯はぱたりと寝転がると、無造作に右手を伸ばして――
「何ゲームばっかやろうとしてんのよ。勉強しなさい。」
すっと、〈母親〉の手に遮られた。
机の上の様子を見る限り、ひとり賽の河原に飽きて自分もゲームをしたくなったというわけではなさそうで、ただ唯にゲームを触らせたくないだけというのが透けて見える。
「いいじゃんゲームくらい。昨日まではやってたんだし。」
「いいわけないでしょ。もう学校始まってるのよ。いい? 今年は二ヶ月も授業遅れてるんだから、そのぶん自分で勉強しないといけないの。他の子たちは皆休校中もちゃんと勉強してたのよ? 追いつけるの?」
また始まった。普段は物静かなのに、勉強のことになると途端に饒舌になる。そもそも追いつくも何も、下水の整備も満足にできないような非文明国の人間たちに負ける要素なんてどこにもないのに、何がそんなに心配なのだろうか。
〈母親〉は作りかけの糸塊を床に下ろすと、無言でゲーム機を起動し、掃除や洗濯をしているときと同じ表情でボタンを連打し始めた。行き場の曖昧な怒りが指先に滲み出ている。とはいえ、なぜかプレイはしてくれるようなので、唯は昔のように〈母親〉の背後に回って観戦することにした。
「え? 新しく始めるんじゃないの?」
黒い画面に今朝の続きのドット絵が映し出され、キャラが意味もなくぐるぐると歩き始めると、黙って眺めていれば特に何も言われないだろうという唯の目論見は早くも瓦解した。流石に他人のデータでプレイするのは想定外だ。
「別に何でもいいでしょ。これだって元はママのなんだから。いいから早く席戻って勉強しなさい。」
言われてみれば確かに、つい二年前、友人Kを屈服させるまではゲーム機に触れる権利なんてなかったのだから、〈母親〉のゲーム機を借りられていた昨日までのほうが異常と言えるかもしれない。それでも、中にあるデータを好き勝手荒らしてもいいものだろうか。
「……じゃあさ。それ貸してよ。」
唯は〈母親〉の命令どおりに一歩自分の席へ引き下がると、いつも〈母親〉が使っている端末を見つめて何気なく呟いた。
「は? なにを?」
「いや、そっちがゲームしてるなら私がその間アニメ見ても――」
「そんなのダメに決まってるでしょ!」
コントローラーが机に叩きつけられた。特に怒鳴られる要素はない普通のお願いだったはずなのに、どうやら地雷を思いっきり踏み抜いてしまったらしい。
「何バカなこと言ってんの? 行っていいわけないでしょ! 何のためにここに来たと思ってるの? なんで今までずっと不登校でも許してきたと思ってんの? どんだけ苦労してここまで汚れないように育ててきたと思ってんの?」
その叫びの内容は意味の分からないものばかりだったが、ここで正しく反論したところで火に油を注ぐだけなのは第一征服者で実験済み。唯はすぐに全身を定位置の座布団内に収めると、飛んでくる破片が早く通り過ぎてくれることを祈りながら目を伏せて俯いた。
「……昔は連れてってくれたのにな……」
「は? 何? 言いたいことあるならはっきり言いなさい! だいたいアニメなんて子供が見るものじゃないでしょ! あぁもう、本当人生失敗した……」
叫び疲れたのか、途中から責め方がより陰湿になった。月の彼方にいた頃はこんな人間性ではなかったことを考えると、きっとこの村での長い生活が〈母親〉を蝕み、西日本化させてしまったに違いない。
やはりこのような非文明地域は全て灰色のもとに帰されなければならないのだ。
*
軽快な音楽の中で険悪なムードが漂う、まさにこの村を体現したような空気は夕方まで続き、これを打ち払ったのは意外にも、先程まで我関せずの精神で昼寝を決め込んでいた泥棒猫たちだった。
「にゃあ、にゃーあ、にゃぁーあ!」
「まーお! まーお!」
「……うるさいんだよお前ら!」
唯はイヤーマフを取って二匹の訴えを無視しようとしたが、ぱこん、ぱこんと街じゅうの樽を割る作業に興じていた〈母親〉はすぐにゲームを放り出して立ち上がった。
「あ~きなちゃん、そだね~お腹空いたね~♡ それじゃそろそろごはん食べよっか~♡ 今持ってきてあげるからね~♡ 唯、それセーブしといて。」
「……はいはい。つっても壷と樽割ってただけじゃん。」
先ほどとは別人のような指示を飛ばしながら襖の奥に消えた〈母親〉に呆れ声で返事をしつつ、教会まで一直線に駆けこんで冒険の書に記録。ちょうど電源の切れるところで、両手に餌の皿を持った看守様が戻ってきた。
「はいは~い、ごはんもってきたからね~♡ ん~、ちゃんと待てて偉いね~♡」
大声で鳴き喚きながら部屋を駆けまわるのは「待てている」とは言えない気がするが、どうやら認識の相違があるらしい。
それにしても、なぜ猫の、それも西日本原産の猫へのごはんが先に出てきて、人間の夜ごはんが後回しにされなければならないのか。十一年のアドバンテージがあったにも関わらず序列一位の座をあっさり奪われたことといい、つくづく憎たらしいやつだ。
「今日のごはん何がいい?」
泥棒猫の食事を見てようやく思い出したのか、何気ない調子で訊かれた。
「んー、何でもいい。」
唯は〈母親〉のほうを見ることもなく、書類の山に判子を押すような口調で返した。
コンビニの一つさえ歩ける範囲にないこの村では、買い出しに降りた時点で献立は決まってしまうのだから、この質問に意味があったことなんてほとんどない。もしも意味があるとすれば、料理前にすべき儀礼の一種だとか、親として民主的家庭を演出したいとか、あるいは月の彼方にいた頃の癖が残っているとか、そんなところだろう。
「はぁ? たまには真面目に考えてよ。」
いつもなら合格がもらえたのに、今日は採点基準が厳しめらしい。その日の気分次第で違う反応だなんて理不尽にもほどがある。
キャットフードが陶器の皿の上を跳ねまわり、鈴の鳴るような耳障りな音がリビングに響く。
背後から食器のぶつかり合う音が聞こえる中、泥棒猫が自分の皿を空にし、まだ足りないとばかりにもう一方の皿に頭を突っ込んで横取りする。
「にゃを。」
泥棒猫が舌なめずりをしながら分不相応にも我が物顔でリビングを跋扈する光景は、さながら猫のほうがこの家の主であり、人間がその下僕として仕えているかのようだった。非文明国の人間が文明国の猫に仕えるならまだしも、その逆があっていいはずがないのに。
「にゃーを! にゃーを!」
「黙れっての!」
夜ごはんを二匹分食べてもなお不満が口から溢れ出る泥棒猫に、唯は畳を殴りつけて怒鳴り返した。この家に上がり込んできて以来、この泥棒猫はずっと〈母親〉に猫可愛がりされて甘やかされてきたせいで、大声で鳴けばどんな要求でも通ると勘違いしているらしい。大した義務も果たさないくせに権利だけは叫ぶなんて、まったく、人間そっくりだ。
「にゃをぁ!」
「うるさいっつってんだろ!」
唯は手元にあったプリントの束を投げつけた。
「にゃぁー……」
泥棒猫は飛んできた紙束に驚いてか、キャットタワーの安全圏に逃げ込んで急にしおらしくなった。騒音問題の主犯が黙り込んだせいで、リビングに静寂が訪れる。
(……向こう行こ。)
*
キッチンに行ったところで、唯には料理を手伝う権利も義務も与えられていない。料理なんてしたこともない人間が狭いキッチンにいたところで邪魔にしかならないから、合理的と言えば合理的だ。
しかし無言というのはもの寂しいので、唯は今日も適当な話題を振って時間を潰すことにした。
「卒業したら向こう帰れるのかな。私達。」
「またそれ? そんなに帰りたいなら大人になったら一人で帰れば?」
大人になったら。昔からそう言われてきた。しかし、大人になったところで何か他の条件が増えて同じやり取りをするに決まっている。そもそも大人になったと認められるかすら怪しいものだ。おそらく、一生帰るつもりはないし、帰すつもりもないのだろう。
唯は次の話題を振った。
「今週いっぱい午前授業だって。」
「あっそ。わかった。」
フライパンの油がぱちんと弾けた。不機嫌な音がする。これ以上火種を持って近づいたら燃え移って家事になるかもしれない。
「あと今日初めて席替えがあって、巫女みこ天使さまと隣になった。」
「ほんと? よかったじゃん。」
〈母親〉は席替えの部分については無関心だったが、巫女みこ天使さまの名前が出ると声のトーンを一段高くした。好みの話題だったらしい。それならもう少し話を膨らませてみようと思ったところで、今度は〈母親〉のほうから口を開いた。
「いい? あの子の家には色々恩があるんだから、絶対迷惑かけないこと。別に話しかけてもいいけど、いつもみたいな態度とっちゃだめよ。分かった?」
「……はぁい。」
全然違った。新しい命令が一つ増えただけだった。
*
(つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて……ふん。)
なんだかんだ言ってすっかりゲームに没頭している〈母親〉を眺めながら、唯はテーブルの上に広げた落書き帳にペンを走らせていた。灰色のラインがふらふらと蛇行運転して、記憶が物質的な形に変換される。
もちろん、毎日寝る前には写真撮影の義務があるし、唯一の課題として日記をつけるようには言われているから、わざわざ安物の紙に何かを残しておく必要はない。とはいえ、写真は感情までは映さないし、何よりゲーム機を奪われた以上、持て余した時間の使い方がこれくらいしか思い浮かばなかった。
「ねえ、いつまでゲームやってんの?」
〈母親〉の口調を真似て訊いてみる。
「別にいいでしょ。それより勉強は? もし成績落ちたらどうするつもり? それにもう九時なんだから早く寝なさい。」
また始まった。こうも同じことを言われると、同じ時間をループしているのかと疑いたくなる。
「そういえばさ、今日って何月何日だっけ?」
「急になに? 六月一日でしょ。」
「そっか。じゃあ私そろそろ寝るから。はいカメラ。」
唯はデジカメを〈母親〉に手渡して、ぼろぼろのぬいぐるみを両手で抱えると、作り慣れた笑みでレンズを見つめた。ピッという音が響いて、六月一日の唯が切り取られた。世界がループしているかどうかは明日にでも分かるだろう。
世界は確実に流れていて、きっと前に進んでいる。それなのに、白亜の檻に囲まれたこの村だけは、時が止まったように静かで、重いままだった。
「誰か覚えてる?」
「さぁ? 昔のことは覚えてないからなぁ~」
「でもこんなだった気はするよ。」
「そうですか。では続きを。」




