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36:// 母がひん死でチャンスです

「もう話すことないし、さっさと本題いっちゃおっか。」

 人間は他者の痛みを知ることができる生き物だと聞いたことがある。

 つまり、生来の魔女である渚には人の感じる苦痛というものが一切理解できないが、少なくともある瞬間までは人間だったことがある唯には人の痛みがある程度は理解できるということだろう。

 例えば、今のように自分の親が苦しんでいるという状況。座布団の上に丸まって、怪我した猫のような姿勢の〈母親〉を前にして自分の心身までもが痛みを感じれば人間ということだ。この観点から言えば、少なくとも唯は「元人間」ではなく現役で人間をやれているということになる。

「神様、どうかあまり苦しむこともないまま寝ている間にでも天国に旅立ってくれますように。」

「どうせその身体ではロクに動けまい。明日死ぬのも来月死ぬのも大して変わらないだろう。それなら、家族への負担が小さいうちに身を引くべきではないかね。」

 その心の声を聞く限りでは、どちらもすでに魔女になってしまっているようにしか思えない。


          *


 心の広さや器の大きさといったものは本人の気性以上に体調に影響される部分が大きいらしい。その証拠に、周囲に怒りをまき散らす体力が落ち始めた頃の〈母親〉はこれまでの暴君時代とは全くの別人になったと言えるほどに優しくなっていたのに、日々の活動にまで支障が出るほどに衰弱した今はむしろ真逆、かえって攻撃性を増していた。

「唯。もっとちゃんとしなさい。」

「うぁ~い……」

 きつい口調で言いつけられ、面倒くさそうに受け流す。自分の体調が思うように治っていかないことへの焦りと苛立ちは己の無力さへの嘆きを上回り、〈母親〉は目の前でのうのうと過ごしている唯に八つ当たりすることが増えていった。

「ちゃんとやってるじゃん……」

「いい? 私だっていつまで生きられるか分かんないんだから。」

 だからもっとしっかりしなさい、一人で生きていけるような仕事をしなさいと長話が続く。もう真っすぐ立って歩くことさえも辛そうだという状況なのに、いったいどこにそんな体力が余っているというのか。こんなことに使う力があるならちゃんと安静にしていてほしいものだ。

 それはある意味では今までの〈母親〉に戻ったとも言える変化で、もしもこれが〈母親〉の癌の進行が巻き戻っていることの副作用というのならまだ許容できただろう。完治の前兆ということなのだから。

 しかし、実際には完治どころか病状は日に日に悪化していて、見たくもない容態だけでなく聞きたくもない説教までもを聞かされた唯は徐々に疲労し蓄積していった。


          *


 週四回の登校日は受ける講義の都合でそれぞれ帰宅時間が違っていて、昼頃に帰る時もあれば夕方まで帰らない時もあった。しかし最近は〈母親〉の体調に伴って関係が悪化していたからか、夕方ごろの講義は全てサボり、金曜日と同じく昼頃には帰るようになっていた。

 本来であれば、関係の悪化している人間が自宅にいるなら何かと理由をつけて学校に居座るところだったろうが、なぜか唯が選んだのは、その張本人である〈母親〉とより多くの時間を一緒に過ごすという道だった。明らかに矛盾した選択だが、理由は今でも分からない。

「ういったーだいまー……んにゃ?」

 容態が急激に悪化してから数日、金曜日でもないのに家の鍵がかかっていた。ここ最近の体調でどこかに遊びに行けたとは考えづらいが、実際に家はもぬけの殻。〈母親〉は麓の病院以外にもどこか遠くへ不定期に通っているようでもあったので、友人と一緒に出掛けているのかもしれない。

 まったく、無謀なことをする人だ。

「どこかで野垂れ死んでいなければいいがね。」

「……嫌なこと言わないでよ。想像しちゃうじゃん。」

 しばらくの間、仲睦まじく眠っている泥棒猫を眺めていると、ゆっくりとした足音に続いて玄関ドアが開かれた。

「あいおかえり。」

「唯……もう帰って、たんだ……」

 声のトーンがこの前のと同じだ。重病に冒されているのにバスも使わずに病院までの道を往復し、その最後に山の崩れかけた斜面と階段を上ってきた後の声。まだリビングへの襖が開かないことからすると、先週と同じように玄関でばたりと倒れているのだろう。

「……おかえり。立てる? 引っ張ってこうか?」

 唯は急いで玄関に向かうと〈母親〉のそばにしゃがみこみ、そっと手を差し伸べてリビングまで引きずっていった。これまではほぼ全ての事柄に一週間もすれば適応できていた唯だったが、こればかりは何週間かかっても適応できそうになかった。


          *


 曰く、あと二日の定期診察すら待てないほどに腹部の痛みは激しくなっていたのだという。

 ぐったりとして動けずにいる〈母親〉から聞き出せたのはそれだけだった。

「……そのさ。」

 ここ数日、唯の前で見せる姿は決して今までのような気丈なものではなく、そのどれもが見ている者にまで末期癌を転移させそうなほどに痛々しくて、唯の身体にはそれを見つめるたびに心臓を握りつぶされるような痛みが走っていた。

「なに?」

 唯が追加で情報を引き出そうと話しかけると、いつもより二段ほど低い声で返事が返ってきた。それは明らかに拒絶を意味していて、この次に唯が何を言ったとしても確実に断っていただろうし、それ以外にも何かしらの攻撃が飛んでくるのは間違いない。それでも、唯はこの一言を言わずにはいられなかった。

「その、最近すごく痛そうだけど……入院とかって……しなくていいの?」

「は? そんなの、するわけ、ないでしょ……!」

 なるべく遠慮がちに提案として言ったつもりではあったが、〈母親〉はやはり「お前はもう不用品だ」という意味に解釈したようで、息を切らしながら泣きそうな声で言い返してきた。流石唯の価値感の根底を躾けただけのことはある。彼女もまた、人間の価値を数値としてしか見ていなかったのだろう。

「でも私、もう痛そうなとこ見てたくないよ……」

 それは決して〈母親〉の完治を願うような綺麗なものではなくて、むしろもっと恐ろしいもの。

 しかし、やっぱり間違いなく本心だった。


          *


 二日後の金曜日。

 この日は本来の定期診察が行われる日であって、珍しく〈父親〉が家にいる日でもあった。

「ほんとにごめんねぇ二人とも。」

「ううん。私は大丈夫だから気にしないで。」

 〈母親〉が申し訳なさそうに言うと、唯は間髪入れずに大して意味のないフォローを入れた。なんの被害も受けていない唯には謝罪される道理はないのだから、これはあくまでも〈父親〉への謝罪がメインで、唯へのものはおまけに過ぎない。しかし〈父親〉はこういう場面ではあまり喋らないので、唯ばかりがリアクションを取っていた。

「にしてもまあ、よくリモートワークなんて許してもらえたね。」

「残業できないけどな。」

「ふーん。でも元から残業代でないんならいいじゃん。」

 給料という報酬形態をとる仕事に就く予定が何もなかったので、唯はその重みについてまったくの無関心だった。むしろ、実際にパソコンの前に座っていると証明できるわけでもないのに報酬を渡さなければならないなんて理不尽だと使用者の側に立っている始末だ。かつて個人を蔑ろにしてでも国家の発展を支持した唯らしいと言えばそうかもしれない。

「いいからお前はさっさと学校行ってこい。」

 ぐだぐだと雑談を続けていると、〈父親〉から早く仕事に行けと急かされた。

「はーいはい。」

 唯はその言葉に忠実に玄関へ向かい、靴を履いて、ふと思い出したように膝立ちでリビングに戻ると二人にこう訊いた。

「なんか欲しい本あったら探してきてあげるけど、なんかある?」

「本なんか読むわけないだろ。めんどくさい。」

 〈父親〉というのは実に貧しい人間だ。紙の本もまだまだ楽しめるというのに。


          *


 もはや一人で外出することすらできなくなった〈母親〉は、その機嫌こそ終始斜めのままだったが、ついには唯に対して強く当たることすらもなくなっていた。もうその体力すらなくなっていたのだ。

「おっはにゃん。げ元気ぃ~……なわけないないか。」

「……」

 せめて最後くらいは明るい家庭を見せてあげたいという優しさか、それとも、もう二度と抑圧されることなどないという勝利宣言だったのか。唯は下手に心配するふりをするのをやめ、昔のようになるべく明るく、軽い態度で振舞うようになっていた。

「じゃ、今日も早めに帰るから待っててね~。」

 もう返事が返ってくることはめったにない。まるで唯の存在を認識できなくなってしまったかのように〈母親〉は褒めも叱りもせず、ただ無言で唯を送り出すだけだった。唯はそんな〈母親〉の表情を直視することはできなかったが、その脳内では苦痛に歪んで悶えている顔と、安心して眠るようなものが不自然なほど矛盾なくコラージュされていて、その望む〈母親〉像をよく表していた。

「万が一あれが治ったら、私はどうする?」

「う~ん……元気になったなら生きてほしいかな。」

「それが私の道を阻む者だったとしてもか?」

 学校に着くとその明るさは一切失われ、普段と同じく暗く淀んだ渦が全身を包むモードに変身する。

 最近の唯がハマっていたのは日商簿記とFPの講座で、その瞬間だけを切り取れば、〈母親〉の願いどおりに人並みの経済感覚を持って、適度な幸福を噛みしめられる真っ当な仕事を目指しているのだと思ったかもしれない。

 確かに、経済の知識を身に着けようという意味では願い通りではあったのだが、唯、あるいは渚がわざわざ拝金主義的な学問を修めようとした理由はもっと即物的だった。

「どうせ遺産なんて全部〈父親〉が管理するんだよ。私たちには要らなくない?」

「そうかな。あいつが死ねば次は〈父親〉だ。二人の遺産を手に入れれば必要な資産額が手に入るとは思わないか? そして、その時には私達だけで生きる必要が出てくるんだぞ。ちょうど今死にかけのやつが常々言っていたようにな。」


          *


 自分の死期が目前に迫っていることを悟ってようやく、〈母親〉はこれまでの人生において使いもしないものをひたすらに買い込んでいったことを後悔しているようだった。今の〈母親〉には二階で写真を撮るどころかタブレットで商品を出品することさえも辛いらしく、メモ帳とペンを手元において何かを書き記した痕跡を残すのみだった。

「……ねえ、二人は私の通帳の場所とかちゃんと知ってるの?」

「知るわけないじゃん。自分の財布すら持ってないんだから。」

 唯はきっぱりと否定し、〈父親〉は無言だったがそれが何よりの回答だった。の家の財産管理は全て〈母親〉が一括して行っていたので当然だ。この家の所得税率は一〇〇パーセントだったので、〈父親〉が稼いだ分は全て〈母親〉のポケットに納められていた。

 そもそも唯は辺境の山奥という一人で行ける範囲に店が何もない場所に住んでいたので、お小遣いというものを貰ったこともないし使ったこともない。欲しいものや必要なものがあれば全て〈母親〉に駄々をこねれば手に入ったので、必要自体がなかった。

「まったく、私の毛糸たちも含めてちゃんと把握しておきなさい。」

 そう言った次の買い出しでは一冊の終活用のノートが要求され、重要事項を書き留めるのに必要な何日間かはテーブルの上に「死」が置いてある形となった。こういうアイテムこそが死を引き込んでいそうな気がする。


 それからしばらく経って、唯はふと押し入れの中から一冊のノートを見つけ出した。

「これあれか……」

「ああ。いつでも引き出せるように見ておくべきだろう。」

 まだ見ていいものではないだろうとは思いつつも、ほんの少しだけめくってみる。

「……は?」

「簡単には盗らせないってことか。」

 しかし、そのノートは何かを書き込まれたような形跡は一切なく、まだ新品のままだった。


          *


 金曜日でもないのに病院に行くという例外が発生してからちょうど一ヶ月後。その日は金曜日だったので〈父親〉はリモートワーク、つまり〈母親〉を病院に連れていく日だった。

「じゃあいってらっしゃい。お仕事頑張って。」

 唯には体温計排外主義者のカウンセリングに付き合うという無意味な任務があったので、嫌々ながらも学校に行くことになり、〈父親〉の「いってら」という言葉に送られて玄関のドアを開けた。


「おはよう。今日も元気?」

「ふん。元気、か。よくもそんなことが言えるな。」

 一時間目、特例によって九時過ぎに始まったカウンセリングは例によって険悪なムードで始まった。家とは真逆の空気だが、東日本人で構成されたコミュニティと西日本人で構成されたそれでは唯への受容度に天と地ほどの差があるのは当然のことでもあった。

「いいか。私はいたって健康だ。私の心はもはや傷つくことはない。この身が朽ちることなどあり得ない。」


 この日はなぜか図書館に行く気にならず、友人Kを無視するという前代未聞の暴挙に出ると、まっすぐに大通りを走って駅に向かい、そのまま家に帰った。

「ただいまー……んぁ、ちょうどタイミング悪かったか……」

 玄関ドアを引くと鍵がかかっていて、唯はぶつぶつと文句を言いながら背中のリュックを前に持ってきて鍵を取り出し、真ん中の鍵穴に差し込んで家に入り込んだ。二人が帰ってきたらなんというかは分からないが、少なくとも〈母親〉にはもう怒る気力は残っていないのだから、何かを咎められる心配はもうない。

 しばらく待っていると鍵の音がして、お待ちかねの人間二人が帰ってきた。

「おっかえり~。わざわざ早めに帰っ……て……」

 唯が満面の笑みで玄関まで向かうと、そこに立っていたのは〈父親〉一人だけだった。壁に手をついて這うように家に入ってくる〈母親〉の姿はどこにもない。

「また入院? 帰りいつ?」

「……もう帰ってこない。」


          *


「帰ってこないって? まさかもう――」

「目を覚まさないって。」

「……そうか。回復の可能性はないのだな。」

 〈父親〉の一言に反応して即座に問い詰めると、まだ死んではいないが、目を覚ます見込みもほとんどないと医師に告げられた、という話を聞かせてくれた。

 その昼、そして夜は唯は食事をとる気にもならなかったが、せっかく〈父親〉が作ってくれるというのであれば残すわけにもいかず、唯は色々と考え事をしながら完食し、もはや二度と誰かほかの人間に磨かれることもない歯を丁寧に磨くと、さっと風呂に入って寝る支度をした。

「唯。今から外出るから着替えて。」

 そろそろ二階に上がろうという時、ふいに〈父親〉が話しかけてきた。

「どこ?」

「病院。」

 要するに、もう目を覚まさない〈母親〉に一度会いに行くということだ。行っても何かがある、例えば童話の世界のように目を覚ますわけではないが、唯の次の所有者はこの男であり、今から機嫌を損ねると後の生活に支障が出かねない。

「分かった。上着だけでいい?」

「いい。いくよ。」

 言われるままにコートを着込み、真っ暗闇の世界を黒い車両が走る。南に十分ほど進んで川のそばに辿り着くと、〈父親〉は病院の受付で看護師と何やら話をし、唯はそれについていった。エレベーターで上層階の入院病棟へ。川に面した窓際の病室に案内される。

「ほら。なんか声かけて。」

「これを生きているというのかねぇ。」

「……おはようママ、まあ夜だけど。」

 車の中ではもっと長い演説を思いついていたし、もっと気の利いたことを即興で紡ぎあげて語りかけるはずだったが、やつれきって管に繋がれてベッドに横たわるその姿を見てしまうと、途端に言葉が浮かばなくなった。

「十分話し終わったら言って。」

「うん。もう死んじゃったんだよね……ばいばい。今までありがとう。」

 この日、唯は十七年と半年を共に過ごしてきた支配者に別れを告げた。


          *


 その光景は、これまで心臓のあった場所の肉を一ポンド丸ごと切り取られたような色をしていて、しかしそれ以上に大きな感情が湧き上がることはなかった。むしろ今この瞬間に死を受け入れてしまったことで、最期の日に取っておくはずだった感情を使い切ってしまっていたのかもしれない。

「そろそろ帰るよ。」

「はいよ。」

「帰ったらすぐ寝ていいから。」

 帰りの車内の助手席で、思いのほか冷静沈着だった唯がはっきりと自覚していたことは、もう〈母親〉に関することで悩み、悲しむ必要がなくなったということ。将来どんな道を歩んだとしても、それを咎めてくれる者はもう現れないということだった。

「これで私たちの勝ちだな。もはや邪魔者はいなくなった。」

「なんか言ったか?」

「ううん。何でもない。帰ったら早く寝ないとね~って話。」

 この〈父親〉は十五年ほど前、唯への期待外れさから一切の興味を失い、自ら所有権を放棄したような人間だ。関心がありすぎて何かと唯の将来を案じ、それゆえにこんなにも早く死んでしまった哀れな被害者と比べれば、よほど持続可能な関係と言える。しかし、それは同時に、〈母親〉のものとは大きく主旨の異なる欠落をまた一つ唯に背負わせることでもあった。

「……ふん。これで邪魔者は一人もいない。」


          *


 一月前から予想できていたからか、〈母親〉の入院、それも二度と戻ってこないという備考付きの入院生活には史上最速、僅か一日で適応していた。内心ではずっとその日を覚悟していた、あるいは心待ちにしていたのだから、至極当然のことと言える。

「唯……なんか最近疲れてないか?」

 いくら〈母親〉はもう何もできない存在とはいえ、彼女が生前に交わした契約はまだ健在。そのおかげで、唯は土曜日でも初代観測官の送迎によって洋館に訪問できるようになっていた。

「そう? まあこれからは疲れも取れてくから安心しなって。」

 ここ一ヶ月の家の様子を盗撮していたわけでもあるまいに、相変わらず鋭い人だ。

「そうだ。私からそっちに一個大事な話があるんだったわ。」

「ん? また大型アップデートがあったんか?」

「いや。まあ近いうちにそうなるかもしんないけど。私が言ってんのはそういうことじゃなくって、もっと私自身の将来に関する話よ。」

 これまでも初代観測官には復讐の計画をあたかも確定した未来を覗き見てきたかのように言っていたが、実際には〈母親〉の強引な行動一つ、例えば高校を卒業したらすぐにどこかの会社に押し込めるような、そんな暴政一つで簡単に消し飛ばされてしまう儚く脆い未来でもあった。しかし、今やその専制君主が目覚めることは永遠になくなり、ここに唯の勝利が決まったのだ。

「ふっふっふー、なんと! あの〈母親〉が私の仕事を認めてくれたってわけですよぉ。これぞ奇跡ってね。」

 口にして初めて、一月前の〈母親〉が口癖のように奇跡が起こると言っていたことを思い出した。それは末期癌の患者が最後に縋った藁だったが、結局〈母親〉にはそんな都合のいい結末は用意されていなかった。

 ――奇跡なんか、ないのだ。


          *


 正直言って、唯は〈父親〉のことをもっと感情のない人間だと思っていた。少なくとも、〈母親〉が病気になって家事ができなくなったら冷静に切り捨て、唯が老後の資金源として運用できる見込みがなくなれば次の日には段ボールに詰めて孤児院に送りつけるくらいの合理性は持ち合わせている人間だという確信を抱いていた。

 しかし、唯の想像とは裏腹に、実物は案外義理堅い、あるいは情に厚い人間であるようだった。

「唯。今日も病院行くから上着取ってきて。」

 つい昨日行ったばかりだというのに、〈父親〉は今夜も見舞いに行くと言い出した。たった二十四時間足らずで何かが変わっているわけでもないだろうし、そもそも容体が急変したとかいう状況であれば病院のほうから連絡が来るだろうから、なにも来ていないのにわざわざ予約を入れてまで行く必要もないはずだ。それでも、この男はそんな非合理的な選択をするらしい。

「病院閉まっちゃうから早くして。」

「……うい。」

 半年前の慣例に則れば留守番でもよかったが、ある種の怖いもの見たさが唯を同行するように導き、結局今日も助手席に縮こまって〈母親〉に会いに行くことになった。

 昨日と同じ流れで昨日と同じ部屋へ行くと、やはり昨日と同じく意識のない〈母親〉がベッドに置かれて眠っている。

「手握ってあげな。」

「うん。」

 〈父親〉が部屋の隅から持ってきたパイプ椅子に座ってからシーツの下をまさぐって、すっかり細くなった手にそっと触れてみる。

「あったかくない……」

「半分以上死体なんだから仕方ないだろう。」

「じゃあ、今ここで殺して楽にしてあげたほうがいいのかな……」

 小声故に誰かに聞こえることはなかったが、仮に聞かれていたら〈母親〉より先に唯がこの場で殴り殺されていたかもしれない。


          *


 〈母親〉の入院は今回が初めてではなく、ちょうど半年ほど前も手術で入院していた。数週間で帰ってこれるか、もう帰ってこないのかという違いはあったが、家の中に誰も監視者がいなくなるというのは同じことだった。

 状況が同じであればやることも同じ。

「……行ったな。」

 リモートワークができるようになったとはいえ、それは毎日在宅でいいというわけではないらしく、結局〈父親〉は頻繁に会社に通う羽目になっていた。

 一方で唯は通学の圧力が永遠になくなったことで完全なサボり魔となっており、もう持ち主に使われることのない機材を一式、自分のテリトリーに運び込んでは私物化して勝手に使っていた。

「……来年になったら買ってくれる約束だったのに。」

 ふと、そんな約束を思い出した。あの頃の唯たちがこの未来を完全に予見できていたら、もっと他の関係を築くこともできたのだろうか。

「そっか。じゃあ結果的には余命どおりだったってことか。」

「だからそう言ったじゃん。」

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