35:// 雪に願う嘆死曲
「皆は人を殺したこと、あるよね。」
「らしいな。」
「ないはず。」
「ないと思います。」
「あれは人じゃないから。」
「……あるみたい。」
「あるはずだ。」
第一征服者の陰謀の手があらゆる方向に伸ばされ、その一つである裏切り者によって命を奪われてからちょうど二年。唯を取り巻く環境は当時とは大きく変わっていた。
この西日本という国が唯のような外国出身の人間を歓迎しておらず、ここにいる限り居場所がないのは十年前から変わっていないものの、それ以外のところ、例えば家の中はあの頃のように日々険悪というわけではなく、むしろ関係は良好だった。少なくとも、将来の在り方を巡って激しく罵倒し合うようなことにはなっていない。
「おはよん。」
「おはよう。今ご飯作ってるからね。」
「うい。」
相変わらず〈母親〉の体調は芳しくはなかったが、それでも問題なく会話は成立する。家事に関しても、洗濯物を干すのと掃除機をかけるのは〈父親〉に任せていたが、日々の食事を作ることはまだ自分の仕事として譲らず、誰が手伝うことも許さなかった。
「今日もまた人参ですか。」
「そう。美味しいからいいでしょ。」
昔から下手な冒険をしない性格ではあったし、毎日同じものが出てくると分かっていたほうが安心するのも確かにその通りだ。毎日の献立を考えるのは無駄に労力を使うから、それを省略するというのも体力温存の方法として重要といえる。
「はい。じゃあこれ持ってって。」
「はいは~い。」
しばらく料理中の背中を見ていると七つの容器にそれぞれの食事が収容され、唯はそれらをお盆に乗せてリビングまで運んでいった。いただきますと三つの声が響いて、今日という一日が始まる。あと何日までならこの平和な日常を享受できるのか、それを考えるのは今ではない。今はただこの日々を心から楽しもうと決めていた。
*
癌は少しずつ家の日常を侵蝕し、唯たちはそれぞれ別の方面から悩み苦しんではいたが、同時に避けようのない事象、受け入れなければならない事実として適応してもいた。
「それじゃ買い物行ってくるから。」
「よろしく。」
「いってらー。」
この頃になると週末の買い出しは〈父親〉一人の仕事になり、〈母親〉の仕事は一週間の献立に必要なものをメモに書いて送り出すことに変わっていた。〈父親〉は文句も言わずにその紙を受け取ると、指定された「安全」な店で必要なものを買って帰り、冷蔵庫に詰め込んでいく。
〈母親〉は自分のできることの範囲が少しずつ狭まっていることを自覚していてか、今までの傲慢さやわがままさといったものは次第に鳴りを潜めて謙虚かつ寛大になっていき、かつてのように口を開けば心配で彩られた説教ばかりということは減っていった。
「唯はクリエイターになりたいんだっけ?」
「え? まあそうだけど。」
普段ならここで唯がどう答えても次に返ってくるのは安定したまともな仕事に就けという説教ばかり。しかし、最近はほんの少しだけ変わり始めていて、
「そう。ちゃんと結果は出すのよ。」
「……ほぇ? いいの?」
「ちゃんと結果を出せるならね。」
激しい口調で全否定をしてくることはなくなった。むしろ応援しているような口調にも感じられる。
見方によっては、病に伏したことでようやく改心したとも言えるかもしれない。少なくとも唯の表面的かつ客観的なQOLは上がっていた。しかし、あえて贅沢を言うなら――
「どうせならもっと早く優しくしてくれればよかったのに。」
*
平和な日常の対価としてはあまりにも大きな代償を払った結果、この家の平穏は半ば約束されたものとなっていた。いつもトラブルの最たる要因になっていた二人の口論がそれぞれの理由でめっきり減ったのだから当然のことと言える。
それがよいことだったのかは今となっては分からない。しかし、少なくともこの瞬間においては、唯は死の病がもたらしたひとときの平穏に感謝していた。
「ただいまーっと……またにゃんか変なにおい……」
「おかえり。今日学校どうだった?」
週明けになって学校から帰ってくると、薬草を燻製にしたような匂いと〈母親〉の声ががキッチンから漂ってきた。普段なら一直線にキッチンに行って手を洗ってからリビングに入るところ、今日は先にリビングへ向かって荷物を降ろした。
「ほいちょっとどいてにゃ。」
道具を片付け終わり、きちんと傷口を隠したころを見計らってキッチンに向かうと、いつも通りに平静の仮面を被り終えた〈母親〉がゆっくりとした動きでリビングへ戻るところだった。すれ違いざま、ついその腹部へと目がいってしまう。
「……早くよくなるといいね。」
「心配してくれてありがとう。唯が大人になる頃にはちゃんと治ってるから。」
表面的な感情で塗り固められた綺麗な言葉の応酬。今の〈母親〉にはあれこれ唯の身を案じるほどの気力はなく、唯は病人に対して余計な気遣いをし、互いに本音を言わなくなっていた。
*
あの日以来、〈母親〉は唯の前で傷痕を見せることはなかった。そこにだけ異形の怪物が棲みついているかのような傷が見えなければ、その日々の行動は怠惰なだけで健康なままの人間とそう変わらないように見え、脳裏にこびりついて離れない光景のほうが唯の勘違い、夢か幻の類であったかのように錯覚してしまう。
それが勘違いだったらどれほどよかったか。手術があった四月から今日までの全てが悪い夢で、本当は〈母親〉は健康なままでいればどれほどよかったか。
しかし病は非情で、現実は少しずつ、ほんの少しずつ〈母親〉の身体を蝕んでいった。
「……ほんとに大丈夫? ちゃんと治りそう?」
「治す。治すから。せめてあと三年。唯が大人になるまでは絶対に……」
リビングの定位置でぐったりと、しかし見た目だけは生気を保ったまま、〈母親〉は束の間の秋の午後を過ごしていた。今までずっと自分が唯の将来を一方的に心配していたというのに、今やその相手に明日を生きられるかという心配をされているのだ。〈母親〉は唯のように歪みきった性格をしているわけではないのでその心配を嫌がってはいなかっただろうが、だからといって素直に喜べたわけでもないだろう。
「三年……うん。頑張って。ちゃんと信じてるから。」
唯は宥めるように言葉をかけると、その表情を見ないようにまっすぐ机の正面を向いて俯いた。
早く治ってほしい。
助かってほしい。
けれど、あと三年も一緒にいるなんて耐えられない、いっそ今すぐ死んでほしいという本音も確かに存在して、それが〈母親〉の癌が進行するにつれて少しずつ膨れ上がっているのに気が付くと、唯は自分を酷く嫌悪せざるを得なかった。
*
「ほら唯。仕上げ磨きしてあげるからおいで。」
何を思ったのかは分からないが、〈母親〉はそんなことを言い出した。
確かに、中学のころまでは朝食と夕食の終わりになると〈母親〉が歯ブラシを持って唯を膝の上に乗せ、幼い子供にしてやるように歯を磨いてくれていた。それは一人では歯すら満足に磨けないだろうという心配か軽蔑からくるものだったのか、それとも唯へ対する過剰な愛情ゆえのものだったのか。いずれにせよ、気が付いたときにはそのような習慣はなくなっていて、一人で最後まで磨くのが当たり前になっていた。
そのはずなのに。
「……いや別に私一人でも歯くらい磨けるよ?」
「いいから。ほら早く。」
ついこの間までは自分一人の力で生きていけるようにと強く言っていたというのに、一体どういう風の吹き回しだろうか。
もう高校生にもなった人間の頭を膝の上に乗せるなんてこと、自分の体調のことを考えれば決してやるべきではない。下手に腹部を刺激して傷口が開きでもしたら、本当に寿命が縮んでしまう、最悪死んでしまうかもしれないのだから。
とはいえ、それが〈母親〉の望みで、危険を分かっていての命令だというのなら、所有物としては叶えてやらねばならないだろう。
「……分かったよ。こうでいい?」
「うん。じゃあ口開けて。」
唯は覚悟を決めると、足を伸ばした〈母親〉のもとにゆっくり丁寧に滑り込み、幼少期を再現するようにその膝の上に頭を預けて口を開けた。〈母親〉の持った歯ブラシに歯磨き粉がつけられて、口の中に突っ込まれる。
「むぐ」
懐かしい。口の中が泡だらけになっていく感覚。そう、昔は毎食後にこうやって〈母親〉の顔を見上げていたんだった。あの頃とは状況があまりにも違うが、今見上げたところに浮かんでいる顔は昔とあまり変わっていない。
しかし、その表情をよく観察していると、ほんの少しだけやつれているようにも見えた。
「はい、おしまい。うがいしてきなさい。」
「ぅぁ~ぃ。」
泡のせいで閉じられたままの口をもごもごと動かして返事をし、キッチンに向かって口をゆすぐ。ほんの少しだけ、時間が巻き戻った気がした。
*
〈母親〉は自分の癌をきっと治るものだと常々言っていたが、秋色が薄れて白く染まる頃になると、少しずつ言葉や行動の端々に死の気配が纏わりつくようになっていて、当の本人に自覚があったかは分からないが、唯は青ざめた馬の足音を敏感に聞き取っていた。
人間の心理や感情といったものには全くの無知なのに、そういう気配だけはしっかりと捉えられるのは流石人形と言うべきか、実に皮肉なことだった。
「はい。これ今週の本ね。」
「また図書館寄ってきたの?」
「いいじゃん。どうせ暇でしょ。」
学校帰りに寄って借りてきたラノベを〈母親〉の席の前にぽんと置き、そのまま落書き帳を開いてとりとめのないことを書き始めた。目を合わせるとどうにも死の色が見えてしまう気がして直視はできなかったが、あまり関わり合いになりたくないと思っていた割には雑談は弾む。
「そういえば最近商売の調子はどう?」
「まずまずってとこ。でも全部売り切るのは難しいかな。」
まただ。まるで死期があと数日に迫っているかのような言い方。口調にはまだ元気が残っているが、その実もうあまり時間がないということを認識してしまっているのかもしれない。
「まあ、病気治ったら毎日きりきり働けってことだね~。」
「そうね。ちゃんと治さないとね。」
信じたくない。仮にも十七年〈母親〉だった人間なのだから。しかし、考えれば考えるほど、嫌な予感が脳内を支配していく。
*
頭に浮かんでは消える〈母親〉の死に様は必要以上にグロテスクで、唯の想像を満たしたのは臓器の一つ一つが内側から腐り落ちるようなものや、逆に腫れ上がった腹部が破裂して裂け目から腸が飛び出すもの、何も食べられなくなって全身が骨と皮だけのミイラになってしまうものと、想像することのほうが恐ろしいようなものしか浮かばなかった。
「ねえママ。まだ元気?」
いかにも純粋な気持ちで心配していそうな声と表情を作って、横から覗き込むようなポーズで訊いてみる。言葉の定義通りの意味で元気かと言えば、半年前の時点でそれは破綻していただろう。今聞いているのは「完治の可能性はあるか」「まだ動けるか」という意味に近く、ここ最近はずっとそちらの意味でのみ使用されていた。
「……急にどうしたの。元気に決まってるでしょ。」
「でもなんか最近体調悪そうだよ?」
実際〈母親〉は体調は良好、快方に向かっているように振舞ってはいたが、その生への執着が強く表に出れば出るほど、裏にある死の気配がより強く輝きだしていた。
「大丈夫。唯が思ってるほど酷くはなってないから。ママが色々やってるのは知ってるでしょ?」
確かに、これまでに試した治療法の数を数えればかなりの数になるだろう。それこそが〈母親〉の生きようという意志であり、この世界に希望を見出した証でもある。
「そだね。色々頑張ってるから……大丈夫だよね。きっと何とかなるよね。」
*
奇跡。
それはどうせ起きないと分かっている事象に付けられる名でもあり、同時に、もしかしたら起きるかもしれない、きっと起きるに違いないと信じているからこそ付けられる名でもある。
もしもそれが絶対に起きないと信じ、自らに都合のいい万が一を一切想定していないのであれば、それは諦めであり、この境地に達した人間は往々にして無気力になる。逆に絶対に起きるのだと信じて疑わないのであればそれは奇跡でも何でもない、ただラプラス的に決められた未来でしかない。
人間という生き物は不思議なもので、理性では存在しないと理解しているものに対して、それがあるかもしれないという矛盾した希望的観測に基いて行動できる生き物だった。
「唯は奇跡って信じるほうだっけ?」
「奇跡ぃ?」
「そう。例えば私の病気が急に治るとかね。」
〈母親〉がどういう回答を望んでいるのかは知らないが、唯に言わせれば世界は決定論的であり、神の奇蹟というのも実際はそうなるように予め伏線が仕込まれていた結果ということになる。今回の例で言い換えれば、この〈母親〉という人間に癌の完治というごく低確率の結果が用意されているかどうか、といったところだ。
「まあ、あるんじゃない? 私が今存在するのだって奇跡みたいなもんでしょ。」
唯が言った意味を正しく把握していたかは分からないが、その言葉を聞いた〈母親〉は唯を強く抱きしめていた。
「ふえ?」
「そうだよね。唯が生まれてきてくれたのも奇跡だもんね。」
どちらかというと不幸が積み重なってできた結晶と呼んだほうが実態に合っている気もするが、せっかく勘違いしているのならそのままにさせておいた方がいいだろう。
*
十一月に入った頃には体調の悪化が危険な領域に達しているのは明らかで、今まであれだけ強がっていた〈母親〉もその苦痛に屈し、気丈に振る舞うことはもはやできなくなっていた。
毎週金曜日は唯も〈母親〉もそれぞれカウンセリングと通院で外出する用事があったが、唯の帰宅時刻についてはほとんどルーチン化されて決まっていたので、〈母親〉はその時間までには家に帰れるような時間に予約を入れていた。
そこまでして唯が一人で自由に過ごす時間を作りたくなかったとは流石の執念だが、
「ただ~いま~……あれ?」
その日は玄関に鍵がかかっていて、まだ〈母親〉が家に戻っていないことを玄関ドアが告げていた。
唯はいつもと同じように友人Kと雑談をしながら歩いて帰ってきたのだから、普通であれば〈母親〉が先に帰っていて、鍵を開けっぱなしにしたままキッチンかリビングで唯の帰りを待っている。しかし、この日は唯のほうが先に家に着いたようだった。
「……まだ帰ってないんだ。」
一瞬嫌な予感、例えば帰る途中の道路で倒れてそのまま車に轢かれてばらばらになっている可能性などを本気で考えたが、リビングの歪んだ畳の上を何往復もしているうちに鍵の回る音が聞こえたので、唯はすっかり安心して玄関まで家主を迎えに行った。
「おっかえり~。今日はどうやら私の方が早かったようだな!」
「た……だいま……はぁ……」
唯は満面の笑みで歓迎の意を表したが、家に入ってきたのは壁に手をついて息を切らし、靴を脱ぐのと同時に畳の上にばたりと倒れ伏す〈母親〉の姿だった。
*
「大丈夫……じゃあ、ないよねえ……」
「……本気でそう見える?」
キッチンまでの通路には段差があったからか、〈母親〉は手を洗うこともなくリビングまでの道を這いずって進み、いつも座っている定位置に辿り着くと、長い旅を終えた後のようにぐったりと動かなくなった。背中側から見ると本当に死んでいるかのように見えてしまうが、声は出ているので少なくとも生きてはいるらしい。
「……帰ってきたら病院行く?」
今まさに病院に行ってきた人間に対して使う言葉ではなかったかもしれないが、その死体の物真似のようなポーズを見せられると黙って眺めてはいられなかった。
「……今ちょっと話しかけないで。話してるだけでも結構辛いの。」
これまで何年もの間あれこれと心配の言葉をかけられていた分、意趣返しとしてお礼をしてもよかったが、苛立ちが沸騰しかけている声を聞くとその企みはすっかり萎れてしまっていた。
単純に今までのようにキレられる気配を感じてそれを恐れたのか、あるいはこれ以上怒らせて体調が悪化してほしくなかったのか――唯の性格だと前者だろう。
「……うん。」
唯はそれっきり口を噤み、目の前の涅槃像の痛みが引いて起き上がれるようになるまでの間を俯いたまま過ごした。これは今日たまたま体調が悪いのか、それともこの先ずっとこの状態なのか。心の奥底に、何度も封印したはずの歪んだ愛情が再び目を覚まし始めていた。
*
黄泉の国に片足を踏み入れつつあるその人間は、夕方が近づいてきた頃にようやく現世に戻ってきた。
「お、おはようございます……」
「今何時?」
さっきまで死んでいた人間の最初の質問として合っているかは分からないが、会話相手もまた普段から意味の分からないことを言ってばかりなのでお互い様かもしれない。
「まだ夜ごはんの時間じゃないよ。痛いならもうちょっと寝ててもいいんじゃない?」
ここにいる面子は全員揃いも揃って傲慢な性格の持ち主だったが、ここでは一番気弱な唯が環境に合わせる役になった。車椅子の人間を特権階級だとして敵視するような魔女が中に入っているとはいえ、明らかな重病人に一切の容赦をせずに働かせるほど鬼畜でもなかった。
「えっとさ、別に無理して作んなくてもいいよ? 今日一日食べないくらいなら……」
「ダメに決まってるでしょ。動けるうちに作るから。」
しかし今の〈母親〉は家事の大半を〈父親〉に任せて自身は治療に専念していたので、料理くらいしか家での役割というものを持っていない。それすらもやらなくなったら本当に自分の存在価値がなくなってしまうと思ったのか、明らかに苦しそうな体に鞭打ってキッチンの襖を開けていた。
本来は無理にでも止めて寝かせておくべきだったかもしれないが、自らの価値を失くさないための行動を止めることは唯にはとてもできなかった。自分が今まで同じような目に遭ってきていたから。
*
普段の何倍もの時間をかけ、途中何度も休憩を挟みながら完成した夕食は、当たり前のことではあるが普段と同じ味だった。
「いただきます。」
「ぅん。」
「……。」
三人で食卓を囲むというのも、この状況でなければ平和な家庭の象徴として機能していたのだろう。しかし、今は少しだけその意味を変えていた。
〈父親〉はブラック企業勤めだったのでサービス残業は当たり前だったが、〈母親〉が倒れてからは夜遅くまで残業してなどいられないということでリモートワークをするようになったり、会社に行った時も定時で帰ってくるようになった。真のブラック企業なら家庭の事情など一切考慮せずに深夜まで働かせてもおかしくはなかったが、そこまで悪徳でもなかったらしい。あるいは黒だから弱者には優しいのか。
「正直どう思う?」
「体調のこと?」
食後、まだ〈父親〉が月に行ってしまう前。唯は何がとは言わずに訊いてみた。〈父親〉は普通の人間なのでその意味するところを理解できたらしく、珍しく会話が成立した。
唯の声そのものを嫌っている〈父親〉であればいかなる話題であったとしても怒鳴りつけてその忌まわしい声を封殺してもおかしくはなかったが、流石に重病人を前に大声を上げるのは躊躇われたのか、普通に会話に応じてくれた。
「うん。今は動けてるけど、お昼はなんかアレだったし……」
「……あんまりいい状態じゃないかもな。」
〈父親〉は少し考えるような素振りをした上で、何とも曖昧な返事をした。しかし、その意味するところが「かなり悪い状態」だということを察せないほど唯は鈍くはなかった。
*
「……あれってさ。」
「ああ。もうじき死ぬか、仮に生きたとしても何かできる状態ではないだろうな。」
ゴールデンウィーク以降、二階の蚊帳の中は事実上、唯の私室となっていた。〈母親〉はこの家の急な階段を上り下りするのを避けて一階で寝るようになっていたし、〈父親〉も急な容態の変化に対応するためか布団を一階に下ろしていた。
もっとも、二人は元から一階でアニメを見て夜を過ごすのが常だったのであまり変化はなかったが。
「つまり寝たきりってこと……? そんなの死んだのと一緒じゃん。」
「ああ。同じだな。」
誰もいない布団の中では存分に夜更かしができるということで、唯と渚は同じ羽毛布団に包まってひそひそと秘密の会議を繰り返していた。
今までは布団二枚が置いてあった蚊帳だったのに、今やその半分しか敷かれていない。それは空間の温度までもを半分にしてしまったようで、羽毛布団でそれを中和しないと凍え死んでしまいそうだった。
「やっぱりあんなの見てらんないよ。あんなに痛そうなまま生きるなんて。」
「ああ。今は料理だけはできている、じきにそれすらもできるだろう。そうすれば本当に不用品だな。」
「不用品って……そこまでは流石に……でも苦しいだけの命だったらないほうがいい、よね……」
「……そうか。それなら、そろそろ考えてもいいかもしれないな。」
「でもこれが運命だったんだよね。」
「そうだね。」
「なら私たちのも運命だから問題ないな。」




