33:// ゆびさきコレクション
「今が夏だから……あと半年ないくらいかな。」
「まあいいペースじゃない?」
判読のできない黒いインクが白い紙の上を舞って書き上げたナンセンス文学はその内容が理解できないからこそ印象的で、意味が理解できてしまえば記憶には残らなかっただろう。ほんの少しだけ理解や解釈の余地が残されている単語の下段に書かれた、読み方すら分からないような漢字の羅列だからこそ、それには人を惹きつける何か妖しげな魅力があった。
対してもう一枚の紙に印刷されていた条文は、その第一条から最後の第二十一条に至るまでがまるでSF小説の世界の民間療法のようなものばかりで、こちらは明朗に理解されることを拒んだ結果そのまま整理整頓の最中にごみ箱に捨てられた。残されたのは、いくつかの条文に書かれた食品名と病名だけ。全対的に理解のできない言語で書かれていたせいか、今度ははっきりと理解できる言葉だけが頭に残ってはなれなかった。
〈母親〉は自分の病状を隠しているつもりだったようなので、実はこっそり見てしまったことを隠蔽するためにも唯は二枚の機密文書を元の封筒に戻し、壁に立てかけられていた傾き具合までも正確に再現しておいた。注意深く観察していればすぐに気づく程度の隠蔽工作でも、病人の体調では気が付けなかったようで、特に追及されることはなかった。
「おは~。まだい生きてる~?」
「おはよう。ちゃんと生きてるから大丈夫。」
唯は医学には何の興味も持っていなかったが、癌といえば一度罹れば治ることのない死の病というイメージが強かった。しかし一方では、何か奇跡のような出来事が起きて不治の病が完治するという伝承は昔からたくさん存在する。
奇跡など起きるはずもないと言いたいところだが、唯自身が魔術的な手法で復活を遂げているのであまり否定できなかった。〈母親〉自身がその奇跡が起きると信じているのなら、一歩引いたところから見てみるのもいいかもしれない。
*
夏の田舎は物語の舞台として使う分には利用しやすいモチーフを多く含んでいて、それゆえに魅力的な世界像として描かれる作品が多いが、本当に田舎、山奥、未開の地に住むことを余儀なくされた唯に言わせれば、そんなものはまやかしであり、実際はとても人の住めた場所ではないというのが結論だった。
生活に必要なものを買うには隣町まで行かねばならず、その隣町ですら品揃えが充実しているわけではない。食料品一つ買うのにも車が必要で、車や免許を持っていない人間はバスを使うしかないが、その運行は毎年間引かれていき、今では一、二時間に一本通ればいい方という。乗り物に乗るのに数時間も待たねばならないとは、遊園地のアトラクションにでもなったつもりか。
「けほっ、このクソが……!」
自分を追い越していったバスに排気ガスを吐きかけられ、唯は思わずせき込みながら毒づいた。むわりと暑くて臭い息を吹きかけられれば気分が悪くなる。大して生活を便利にもしてくれないくせに、通行人に毒ガスを吸わせてそのまま去っていくとはなんてやつだ。
石でも投げつけてやりたいところだったが、次に何か問題を起こせば今度こそ〈母親〉はストレスが爆発して死んでしまうかもしれない。まだ完治する可能性があるというのなら、今は下手に刺激しないほうがいいだろう。
唯は釘を踏んづけて奈落の底に落ちる呪いを念じながらバスの通った道を追いかけ、いつもと同じ電車の席を占領した。電車内はエアコンの風が当たって涼しい瞬間があるから嫌いじゃない。
*
何もかもが欠乏しているこの村にただ一つ救いがあるとすれば、辛うじてネットは繋がるということだった。
そもそもネットが存在しない時代であれば余計な知識を拾い上げることもなく、一生無知のまま月の彼方で幸せに暮らせていたような気もするが、少なくとも不必要な外出を避けて日々の買い出しも〈父親〉に任せることが増え始めた〈母親〉にとっては、自家用車よりも重要なインフラになっていた。
「たっだいまぁ……なにこれ。」
唯が家から帰ってくると、スーパーの野菜売り場に積み上げられているような段ボール箱が一つ、玄関を上がってすぐの部屋にどすんと置かれていた。
「おかえり。それで癌が治るんだって。手洗うついでに隣の部屋の端っこに移動させといて。」
「またなんか怪しいものを……」
訝しげな疑問の声に反応してか、襖の向こうから目の前の荷物を運搬するよう命令が飛んできた。それくらい自分でやれと言い返したくなるが、病気のせいであまり重労働ができないなら仕方がないか。
「……この貴族階級め……! 病人だからって人をこき使っていいわけじゃないぞ……っ。」
両腕で段ボールを抱えて持ち上げようとしたが、箱いっぱいに治療薬が入っているせいか全然持ち上がらない。これは唯には持ち上げられないやつだ。
仕方ないので、雑巾がけの要領でキッチン隣の倉庫まで押していくことにした。帰ってきたばかりで身体の節々が痛いというのになんてひどい仕打ちだろう。
「……持ってったよ。感謝しやがれ。」
「うん、ありがと。」
帰宅早々重労働に従事したのち、流れ作業で手を洗ってからリビングに入ると、涼しい空気と共に感謝の言葉を与えられた。感謝の言葉は鳥肌が立つほどむず痒いが、
「えあこん! つけたんだ。」
「だって暑いでしょ?」
部屋が涼しいのは大歓迎だ。自分が暑かったら我慢しないというのは不公平極まりないが、その恩恵に与れるなら何でもいい。
*
文明国出身のくせに科学文明を嫌っていて、身の回りのもの、特に体内に入れるものに関しては自然界に存在するものであることに強いこだわりを持っていた〈母親〉であれば、いくら癌が進行していたとしても、そう簡単に西洋式の治療法を受け入れるはずがない。
むしろその価値観に則れば人工的なものは不健康であり、自然なものこそが真の健康食品なのだから、体調が悪い時ほど人工物を排し自然に回帰した食生活を送るべきということになる。
「ふ~ん……そーなのかー。」
「らしいよ。実際これで治った人がいっぱいいるんだって。」
〈母親〉はネットで読んだ論文の話やこれから試すつもりの治療法の話などを色々と聞かせてくれ、唯は胡散臭い宗教勧誘に怪しげな壷を勧められているような気分で聞いていた。家族六人がいる席ではあったが、うち二匹はテーブルの脚の周りを徘徊していて、一人はそんなインチキな話には聞く耳を持っていなかったし、一人は物質的に顕現する肉体を持っていなかったので、実質的に一対一の会話だ。
「じゃあその何とかってやつすれば治るんだ。」
「だから心配しなくていいからね。唯はちゃんと自分の将来のために勉強してなさい。」
安定した生活を送ってほしいのは癌になった後でも変わらないらしく、熱心に勉強し、人並みの大学に行って人並みの会社に就職して人並みに幸せな人生を送るようにと繰り返し言い聞かせてくる。完璧な成績を上げて人並み以上の市場価値を発揮しろと言わなくなったのは丸くなったと言えるのかもしれないが、唯も渚も、目標とするところは普通、人並みの世界は最も遠い場所だった。
「わかったわかった。そっちが元気に生きてる間は私も普通に生きるから。」
「そう? じゃあじゃあ約束ね、ちゃんと普通に生きて幸せになるって。」
「はいはい。そんな何回も言わなくても分かるってば。」
――心配しなくていい。
――大丈夫。
――問題ない。
唯にはこれらの言葉が自分に向けられている気がしなかった。どうにも、〈母親〉自身に言い聞かせているような気がしてならなかったのだ。
*
山ほどの人参が家に届いてからというもの、〈母親〉の朝食はグラス一杯の人参ジュースになった。食事としてはあまりにも質素、これを食事と呼んでいいのかと言いたくもなるが、食事をオレンジ色一色にするだけで不治の病が治るというのなら、完治する日まではこれで我慢するというのは十分に納得できる。
「いっただっきまーす……」
「唯はちゃんと健康に気を遣うようにね。」
「私は誰かさんに洗脳されてるからね。変なものは食べれないのさ。」
もちろん健康体のままである唯と〈父親〉は普通の食事。今まで通り玄米に味噌汁という、こちらは健康食品というよりも精進料理のようなメニューだったが、二人ともこれが日常になっていたし、目の前の野菜ジュースだけの生活よりかはマシということで文句は出なかった。
生来のコレクター性のためか、それとも結構高い人参を使っていたからか、、〈母親〉はジュースを作った搾りかすを毎回ジップロックに入れて冷凍庫で保存していた。「いつか使うかも」といって廃棄処分を免れたものは結局最期まで使われないのがお約束だが、今回はその限りではなく、きちんと有効に再利用された。
「いっただっきまーす……なんか変なの追加されてるんだけど。」
「変なのって何。ちゃんとしたご飯でしょ。」
「いやこれどう見てもその人参なんですけど。これ栄養あるの?」
朝食の茶碗、汁椀に追加されて出されるようになった小鉢には、明らかに人参ジュースの搾りかすが丸く盛りつけられていて、おまけとばかりにナッツの破片とオリーブ油がかけられていた。見た目だけなら割と美味しそうだ。
二人が新メニューをぺろりと平らげて箸を味噌汁に突っ込むと、そこにも深緑色の海藻の一緒にオレンジ色の塊が侵食していた。
「……うわこれ味噌汁にも入ってる。」
「余ってるんだからしょうがないでしょ。」
「分かってるって。捨てるの勿体ないから食べますよぉ。」
こうして、唯たちも毎日健康人参生活を送ることになった。健康食品といえば大抵不味いイメージがあるが、これはそこまで不味くない、むしろ普通に食べられる部類だったのは幸いだった。
*
正直言って、食事を少し改善したくらいで体調がよくなるとはとても思えないが、意外にも〈母親〉は活力を取り戻したらしく、趣味の活動に勤しむくらいの余裕とでも呼ぶべきものが生まれていたようだった。ただ、今まで〈母親〉の趣味として唯が認識していたものとは少し違っていた。
これまでの日々のルーチンの観察によれば、趣味と呼べるものは主に二つ、かぎ針編みで帽子を作って完成直前で元の糸玉に戻すことと、楽天とメルカリを一番下のページまで見て気に入った商品を手当たり次第に買っていくこと。しかし、今の〈母親〉はそのどちらもせず、今まで買い集めてきたブランド物の毛糸やら生地やらをメルカリに出品しようとしているのだった。
「……明日からまた梅雨になるの嫌なんだけど。」
「は? どういう意味よそれ。」
かなり分かりやすく「珍しいこともあるものだ」と言ったつもりだが、写真撮影に熱中するあまり聞いていなかったのか、うまく伝わらなかったらしい。
「なんでもない。そろそろ学校行かなきゃ。」
実際電車の時間があと三十分に迫っていたし、それ以上に今の〈母親〉を見ていたくなかったので、唯は足早に玄関へと向かってそのまま家を飛び出した。
「死期の近い人間、といったところかね。」
鼻歌まじりに通学路を歩いていると、渚が話しかけてきた。
「死期?」
「気づいていないわけでもないだろう。既に癌が進行しているなら断捨離くらい普通だと思うが。」
「でもまだ死ぬ気なさそうだけど。」
「別に死ぬ予定がなくても死を予感することはあるだろう? 死を願うことと死に備えることは別だ。私たち以外の人間の場合はね。」
言われてみればそうかもしれない。身辺整理をすることと自ら死を願うことは必ずしも一致しない。
だとすると、今しがた唯が感じたものは死の気配と言うべきものへの忌避感だったのだろうか。
*
死期の近い病人を一人家に置いておくのが正解だったかどうかは分からない。
もしも家に誰もいないときに死神の鎌が振り降ろされたとしたら、家に帰った後にどういう感情になるか――渚なら何とも思わないか、自由が手に入ったと喜ぶか。少なくとも悲しむという可能性はあり得ない。しかし、唯は自分がどう思うのか予想すらできなかった。
「早く学校終わんないかな……」
授業などさっさと切り上げて家に帰ってもよかった、なんならもう学校に行かなくてもよかったのかもしれないが、いつまでも家にいたらそれはそれで「学校をサボるな」「真面目に勉強しろ」といった説教が飛んでくるのは明白で、色々と悩みぬいた結果、唯はその間を取って学校隣の図書館に入り浸るというよく分からない結論に達していた。
「むしろ最初からこうしていればよかったな。よほど有意義というものだ。」
「まあそれは確かにそうかも。」
図書館は建物の大きさの割にそこまで広くなく、特にサブカルチャーに関連するコーナーなど棚二つ分ほどしかなかったが、家に一冊もこの手の本を置いていない唯からすれば、リアルでもサブカルに触れられるということそのものが大きな意味を持っていた。
「……あ! これアレじゃん! ちょっと何冊か借りてこっと。」
「私の好きにすればいい。」
背表紙を撫でながら歩いていると、ふと数年前、唯が冤罪事件に巻き込まれた時にハマって見ていたアニメの小説版が置いてあった。正しくは小説のほうが原作なのだが。
「案外月のものでも置いてあるんだね。」
「サブカルは今や日本の主要産業だからな。人のアイデアを金儲けの道具にしやがってブルジョワどもめ。これでは米帝と同じではないか。」
*
根がまめな〈母親〉はメルカリともそこそこ相性はよかったらしく、何冊かの本でノウハウを勉強してから始めただけあってか、ずっと前に古本を売ろうとして全く売れなかった時とは違い、そこそこ順調に売れているようではあった。
麓の郵便局に封筒や小箱を持っていく程度の運動ならそこまで体への負担にもならないのか、それとも多少は体を動かさないと完治した後で動けなくなってしまうと思ったのか、商品が売れたときは〈父親〉に配送を命じるだけでなく、時折自分の足でも山を下りるようになっていた。
これもひとえにあの人参や漢方薬をはじめとする健康食品のおかげとでもいうのだろうか。ここまで効果覿面だと人参というよりもマンドラゴラでも服用しているのかと疑いたくもなる。とはいえ、健康体であれば思う存分長生きしてくれて構わない、というよりも長く生きてくれた方がいいので、唯は余計な想像はせずに怪しげな薬たちを信じることにした。
自身も魔術師の端くれとはいえ、唯が研究した魔術は精神系。流石に万病に効くほどセフィロトも万能ではない。
*
――ピンポーン。
「ちょっと取ってきて。」
「あいわかった。」
チャイムの音、泥棒猫がケージに逃げ込む音が響くと、唯は〈母親〉に命令されるまま玄関まで転がり、印鑑を持って玄関を開けた。最近は毛糸ではなく、よく分からない漢方薬や〈母親〉の審査を通過したサプリのようなものばかりが運ばれてきたから、今回もそのどれかだろう。
しかし、その予想は大きく外れ、配達員から渡されたのは一枚の封筒だった。一瞬配達ミスではないかと思ったが、宛先も宛名も間違っていない。少し曲げてみると、ビニールの包装が折れ曲がる音がした。
「……はい。これ何。」
「ありがと。これは端切れ。」
唯から封筒を受け取った〈母親〉はさも正月に年賀状が届いたのと同じくらいの温度感で封を開け、中から薄っぺらい布の切れ端を包んだビニールを取り出すと、満足げにゆっくり頷き、商品が届いた旨を伝える報告のメッセージを送ると、丁寧に封筒に戻してまたメルカリの商品棚をスクロールし始めた。
「……で、今のなんだったの。」
「あれ? 安かったから。もうちょっと高く売れるでしょ。」
唯が氷のような視線を送ると、一切悪意のない声が返ってきた。
「いや相場とか私知らないから。」
人間という種族は、新しく始めたことが少しだけ成功した時にしばしば調子に乗るもので、それは健康状態や人生経験にはあまり影響されないらしい。
重度の癌という、誰であっても死を意識せざるを得ないような状況から始まったと思われる出品作業は、いくつかの商品が順調に売れ、買った当初よりも高く売れた商品がぽつぽつと出てくると、「もう使わないものを処分しよう」という本来の動機はいつしか「安く買って高く売ればその分儲かる」というビジネスへと姿を変え始めていた。
*
夏休みになって家を出る理由がなくなり、暇潰しがてら、更新された〈母親〉のルーチンを観察していると、死ぬ気なんてものは微塵もないというのがひしひしと感じられた。
「じゃあなんか荷物来たら受け取っといて。」
「はいはい。二階持ってきゃいい?」
太陽が昇り始めてからまだ世界が暑くなりきる前の時間。この短い時間は写真撮影タイムらしく、朝食を飲み終わると〈母親〉はタブレットを持って二階に籠城することが多かった。いつもならその後についていって適当な雑談でもするところだが、流石にエアコンが効いた一階を離れることはできず、唯はその間を一人寂しく創作活動にあてていた。
あの金を浪費することしかしてこなかった〈母親〉が自分のコレクションを売り捌いてでも資金調達をしているのだ。金に価値を見出したことはないが、仕事の真似事をするのも悪くない。
「ただいまー。ちゃんと勉強してたー?」
「もちのろん。」
二階が暑くなってくると一階に戻ってきて、今撮った商品の説明を書いて出品。そばで見ているだけなら唯でもできそうな作業だが、このガラクタたちを買ったときの値段とインフレ率、現在の市場価値に送料を考えて値段を設定するのは購入者本人にしかできないことだろう。何も知らない唯や〈父親〉が値段を付けたら一律三百円だ。
「……お仕事って大変だね。」
「でしょう? だから唯も大人になってから苦労しないように今のうちに色々勉強しておきなさい。」
出品作業が終わると今度はお買い物の時間。不当に安く売られている可哀そうな商品を買い集めて正当な価値をつけてあげる時間らしい。同じプラットフォームに売るのはただの拝金主義的な転売行為な気もするが、皆やっていることなら別に構わないのだろう。
この最後のフェイズがある限りこの家が片付くことは一生ない気がするが、食事療法の効果で永遠に生き続けるつもりなのだろうか。
*
「……これって売れんの? 送料的に割に合わなそうなんだけど。」
突如として家に大量に配備されたリカちゃん人形の軍団を指さして、唯は呆れとも怒りともつかない曖昧な抗議の声を上げた。今までの理屈だと、なるべく薄くて軽いものが商品として適しているのであって、少なくともこの人形はどちらの条件も満たしていない。
「ああ、それは別にいいの。」
赤字になるのではないかという唯の懸念を〈母親〉はあっさりと退けた。どうやらこれは売り物ではなく、家で使うためのものらしい。
「いや、流石の私も人形遊びはしないよ? 子供じゃないんだから。」
「何言ってんの。それは私のよ。」
「はぁ?」
四十代のおばさんが人形遊びを始めるというのは流石にどうなのか。ずっと前に図書館から借りてきたAnotherに今さら影響されたとでも言う気だろうか。正直言って縁起が悪いのでやめてほしい。
「ほら、この服とか自分で作ったら楽しそうでしょ? あとはこれとか、これとか――」
唯がドン引きした表情で〈母親〉と人形とを交互に見ていると、どこかから印刷してきた洋服の型紙、ただし人形サイズのものが大量に入ったクリアファイルを渡された。
メイド服。
巫女服。
着物。
「……なんじゃこれ。」
「今まで唯のものしか作ってなかったし。せっかくだから作ってみようかなって。」
言われてみれば、〈母親〉の数少ない完成品はそのほとんどが唯のために作られたものだった。
残念ながら唯が不登校だったせいで活用されることはなかったが、本当はそんな備品ではなくこういう衣装を作りたかったのかもしれない。いや、まだ唯が幼稚園や小学校に通っていた頃の〈母親〉は唯のことを生体着せ替え人形か何かだと思っていた節があるので、間違いなくそうだろう。理由は分からないが、今になってあの頃唯に着せられなかった服を人形に着せて遊びたくなったということだろう。
*
唯はまだ世界観の設定しか考えていないがこれでもクリエイターを目指す者で、表現の自由を最高法規とする渚の主格でもある。よって、職業上の義務感が混ざっていなかったとは断言できないものの、少なくとも〈母親〉の趣味については否定することなく応援しておいた。人形については心の底からどうでもいいが、その衣装には多少なりとも興味があったのは否定できない。
「……またなんか届いてるんだけど。」
「新しく買ったからね。パターン引くなら原型必要でしょ。」
つい数ヶ月前まで影も形もなかったリカちゃん人形の一族は、衣装を着せるマネキンとしてなら一体あれば十分な気がするが、今やクローンで作ったのかと言うほどにその構成員を増やしていた。
メルカリで稼いだポイントは食料や日用品などにも使われていたが大部分がここに費やされ、二階は唯の寝室から人形置き場に姿を変え始めている。
「で? なんか人形だけじゃなくて布も増えてるんですけど。」
どうやら人形の衣装はある程度固めの布で作ったほうが見栄えがいいらしい。実際どうかは知らないが、少なくともネットにはそう書いてあったのだろう。
一度やる気のスイッチが入ってしまったら自分が満足するまで止まらないところ、実際に作り始める前に十分すぎる準備をしないと気が済まないところ。〈母親〉の創作への向き合い方は、良くも悪くも唯のそれと全く同じだった。唯が自らの創作活動の手本とした人物が〈母親〉なのだから当然と言えば当然である。厳密に言うと、唯の身の回りに何かを作るという行為をしている人間がそれしかいなかった。
「まあ何でもいいけど、これ全部遺して死ぬのだけは勘弁してよ……?」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと治すから。」
*
猛暑での夏バテという分を差し引けば、〈母親〉の体調はそこまで深刻な状態にはなっていないように見える。
山の麓にある病院に一人で歩いていく程度には体力も回復しているようだし、少なくとも本人の行動を見る限りはまだ自分が死の直前であると認識していないだろうことは予想がつく。藁にも縋るようにあらゆる論文を読み漁っては片っ端から試していたような人間がここまで復活するなんて、主人公が無双して何でも解決する系のつまらないラノベを思わせるが、世界が初めて唯に都合のいいシナリオを用意してくれたのかもしれない。
神に感謝するつもりは毛頭ないが、これからもご都合主義の展開を見せてほしいものだ。月の彼方を離れてこの未開の地へ島流しに遭ってから十年。十年も不幸を味わい続けているのだから、あと十数年くらいは何もかもが上手くいってもいいだろう。
雇い主は無事快復し、月では外敵を一匹残らず駆逐し、作ったストーリーはことごとく称賛され、あらゆる方面から崇拝され、絶対的な信用と権威を得る――それくらいの贅沢をしないと割に合わないような人生だったのだから。
「うちでメイド服が似合うのはセレンくらいだろうね。」
「許されないと思うが。」
「私は別にいいよ?」




