32:// W.L.O.世界自由機構
「ここから先の人生ってあんまりインパクトないから困るよね。」
「だからといって無理に事件起こさなくてもよかったんじゃない?」
例年なら、庭の草むしりはゴールデンウィークの午前中にすることになっていた。
唯は蚊の羽音が嫌だからという理由ですぐにリビングに逃げ帰るのがお約束で、実際に手伝っている時間はほんの数十分程度ということが多かった。仕事の遅いことに定評がある人間が仮に午前中いっぱい手を貸したところでさほど貢献できなかっただろう。実際に作業をしていたのは〈両親〉の二人で、実際の作業量の大半を〈父親〉が担っていた。
いつもならそうして雑草が伸びすぎないようにするのだが、今年に限ってはちょうど草刈り日和の連休中は〈母親〉の入院している病院に通うのに忙しかったのが災いして前庭はまだ荒れ放題。〈父親〉が一人で片付ければよかった気もするが、片や入院中、片や家の中でサボり中とあってはやる気も起きなかったのだろう。実際、唯も渚も、同じ条件でやったかと言われれば間違いなく「手伝わない」と答えていた。
幸い〈母親〉が退院して以降の土日であれば十分な時間があったので、朝早く、まだ日が昇るよりも前に二階から庭を見下ろせば、一人で草をむしって干し草の山を積み上げていく〈父親〉の姿を見ることができた。
「自分だけが重労働を強いられている」とその圧政に対して度々苦言を呈している割には仕事熱心なのは矛盾しているようではあるが、唯も似たようなところはあるので人のことは言えない。
たとえば唯自身、〈母親〉に遊んでないで勉強しなさいと言われた時は、最初のうちは反発したりするものの、もう一度圧力をかけられると従順になることが多かったし、不俱戴天の敵である西日本人の教師たちの命令も、素直に聞き入れたことは一度もなかったが、最後まで反抗し続けていたこともなかった。
これが唯に受け継がれた奴隷根性なのか、全ての人間に共通する精神性なのかまでは分からないが、あれこれと不満を言いつつも結局最後は服従している〈父親〉を見て、唯は自身との関連性を見出していた。
*
春夏秋冬や四季といった言葉は春、夏、秋、冬の四つが一年間を四等分していると思わせてくるが、実際の感覚では、季節は夏と冬の二つがあって、その中間の遷移期がそれぞれ春、秋と呼ばれているといったほうが実態に近い。
特に最近は地球温暖化の影響か秋がなくなってしまったし、春も消失しかけているので、このままだと数十年後にはいくつかの言葉が死後になっているに違いない。とはいえ、その頃まで唯が生きているとは思えないので関係ないが。どうせなら住みよい春と秋が夏と冬を駆逐してくれればよかったのに。
「暑い。エアコン。」
「除湿器でいいでしょ。」
「あれうるさいからやだ。」
夏の何よりも過ごしにくいのは暑さではなく蒸し暑さ。実際どうなのかは分からないが、南欧諸国の夏は気温こそ高いものの湿度が高くないから日本よりも過ごしやすいと地理の授業で聞いたことがある。もしそれが本当なら、この湿気を全て押し付けてやりたいところだ。ヨーロッパがアジアよりも快適だなんて許せない。
そんな不快なことこの上ない夏の始まりともいえる梅雨どき。じめっとした土と雨粒の臭いを受け付けないために窓を閉め切っていると、湿気た畳や襖がより一層波打って見え、どれだけぴんと伸ばしても寝ぐせのように端が持ち上がる落書き帳の一ページに苛立ちが湧き上がってくる。
「やっぱ私もアナログ卒業したほうがいいのかなぁ。」
鎌首をもたげた紙の角を突きながら、ぽつりと呟いてみた。いずれ創作の世界に携わるならソムニアでの創作活動をする感覚に慣れておいたほうが将来の役に立つ。しかし、あの世界は何か秘密を守るという観点から評価すればとことん向いておらず、不完全な作品が世に出回ることを忌避する性分のせいで、唯は実践的なことを何もできていなかった。
「じゃあ何に書くのよ。」
「ん~、スマホのメモ帳とか?」
唯はあまり深く考えずに言ってみたが、スマホの画面の大きさを考えると、どう考えても紙に書いたほうが便利だろう。ただ、月で何かを作る感覚はネットのそれと近い部分もあるというし、アストラル界で何かを実際に作ってみる前に、一回ネット空間でリハーサルをするのは創作のスタイルとして悪くないかもしれない。
「そんな一日中貸すわけないでしょ。別に紙で困ってないんだから紙使いなさい。」
深く考えもせずに口を突いて出た言葉だからか、あっさりと否定された。別に困っているわけではないし、来年の誕生日になれば一式買ってくれるらしいので構わないが、「貸せ」ではなく「返せ」という感情が浮かんでくるのが不思議だった。
*
雨が降る中洋館に向かう日は、送迎車両の停まっている駐車場まで行くのが億劫でならなかった。こんな滑りやすい階段を上らないと道路に出ることすらもできないなんて流石は非文明国、家もまともに建てられないような人間が国を興したところで統治できるわけがないのだから、やはり西日本は唯の祖国である東日本に併合され、徹底的に同化されるべきなのだ。
「この車ってうちの階段のとこまで来れないもん?」
「行けるわけねえだろ。」
「使えないなぁ。」
窓ガラスを叩く雨音に負けないように明るく声を張り上げて軽口を応酬するのが挨拶の代わり。挨拶に使う言葉を使うのは初代観測官だけで、唯はそれら儀式用の言葉には挨拶ではなく雑談を振ることで答えていた。
「先生は多少雨に濡れたくらいじゃ死なないだろうけど、私は雨当たったら死んじゃうんだよ。」
「それは流石に貧弱貧弱すぎんだろ魔術師。」
当然嘘、というか相当の誇張を入れた表現だが、物語の設定としてなら悪くないかもしれない。洋館に着いたらメモしておこう。
こういう時はさっと取り出せるスマホのほうが便利かもしれない。
「今日もいつもみたいに設定作ってきたのか?」
「まあね。ただせっかくだからもっと有意義な物語にしようと思ってさ。またちょっとアップデートしてきたんだよね~。」
「またかよ。いつになったら完成するんだよそれ。」
初代観測官が呆れ気味なのも無理はない。エヴァの影響を強く受けて作られた初期の設定の詳細は自分でも覚えていないが、大きく路線が変わっている自覚はある。毎週少しずつ変わっていき、数ヶ月に一度大きく方針ごと変化するような作品が完成に近づいているとは思えないというのには唯自身も同意するところだったが、一人のクリエイター志望者として、作品をより良くするためのアイデアが思い浮かんだらそれを採用しないわけにはいかなかった。
きっと、これまで唯に散々批判されてきた連載型の原作者も、似たように考えていたのだろう。唯はまだ一歩も動いていなかったから古いアイデアを白紙に戻してゼロから考え直すことができただけで、本質的なところは大きく違っていないのかもしれない。
*
灰色の雲が空を覆い、青かった空が暗く翳る。洋館の二階は今日も変わらず白い光が部屋を照らしていて、ガラスを挟んでソファに沈み込んだ二人とその間に置かれたアイデアメモにスポットライトを当てていた。
「んで? 今回は何見てきたんだ?」
初代観測官は唯に差し出された裏紙をぱらぱらとめくりながら訊いた。時期と内容を考えれば自ずと予想はできるはずだが、勘違いをしたまま話を進めるといつか大きな破綻を招くので前提は共有しておきたいということか。
「まあそっちの予想通りよ。この前のゆっくり茶番劇のやつ見ててさ、もっと人民に表現の自由の重要さを啓蒙したほうがいいかなって思ったわけよ。月を守るためには自由は絶対に必要でしょでしょ? だから俺TUEEEとかにしか興味ないノンポリを再教育できるような話にしようかなって。」
ワードチョイスがすでに車に乗っていた時のものではなくなっていたが、こういうことを言いだすのは唯ではないから仕方ない。もっとも、じきに唯も必要に応じて渚の喋り方を真似するだろうが。
「なんかクリエイターから革命家になってないか?」
「そう? まあ革命家なら最強の免罪符装備できるからそれでもいいけど。でも私はあくまでクリエイター道を踏み外すつもりはないよ。」
初代観測官のツッコミはある意味ではまさにその通りで、今回のアップデートは一言でいえば、唯のクリエイターな側面と渚の思想家としての側面を融合させるというもの。今までのように創作物としての面白さよりも思想宣伝としての面を前に押し出すのだから、そう感じても無理はない。
「まあこれで面白くできるならいいんじゃないか? 俺はちょっと気になっちまったからな。」
どうやら、少なくとも唯と同等の知能を持つ人間が相手ならば一定の効果がありそうだ。また新しいものが思いつくまではこの路線で作っていいだろう。
*
海賊といえば、眼帯やカットラスを装備して髑髏の旗を掲げ、帆船やトランクに乗っているというイメージがあるが、ソムニアで活動しているものは少し違った。月世界において海賊といえば、ほとんどの場合は外見的なイメージよりも思想や活動を指し、同じくプリヴォルヴァを拠点としながらも魔女会と対立している非合法な集団、魔女の利益を犯す悪質な連中としての意味合いが強い言葉だった。
そして、そんな海賊の名を冠した派閥がソムニアには存在する――海賊党と呼ばれているものだ。
渚が魔女会の次に目を付けたのはここだった。
魔女会側の人々からしてみれば、テロ組織と言っても過言ではない彼らと手を組むなんて、魔女の風上にも置けない裏切り者だと非難され、堕落したクリエイターたちに命を狙われるのは簡単に予想がつく。それでも、このまま魔女というだけで体制派の一人だと思われるのは嫌だったし、平和的な口論だけで月の自由を取り戻せるとは思えなくなっていた。
「海賊党ってあれだろ? 著作権の廃止を掲げてる。」
「そそ。こういうのはクリエイター側が言い出さないと意味ないからね。」
「それだとお前まだ設定考えてるだけでクリエイターにはなってないんだから意味ないじゃんか。」
渚が考えたのは次のような計画だった。
まず、渚が海賊としてブルジョワに独占された多くの知的財産を解放、社会化する。唯は解放されたものを利用して創作を行い、作品の中で海賊行為がプリヴォルヴァの自由の理念に合致した正当な行為であると宣伝する。これで先導された民衆は渚の統治下でさらに多くの情報を社会化する――全世界の自由化が達成されるまでこれを繰り返すといものだった。
「にしても今回は随分デカく出たな。まあ俺はここから見てるだけだから普通に応援しとくよ。」
「やっぱ私天才でしょ。」
このやり方なら同時に神になることもできるだろう。まさに一石二鳥の策だった。
シナリオだけは、という括弧書きつきだが。
*
窓ガラスを一枚挟んだ外で黒い雨が降っていても、生きる明確な理由を持っていれば死に誘われることはない。
「それじゃあ唯は魔術師だけじゃなくて海賊も名乗るわけだ。肩書多くて大変だな。」
「まあ二つ名なんてあればあるだけいいものだから。そっちもなんか考えてみたらどう?」
言ってからふと気づいた。目の前の男は観測者を自称して二人の夢物語に付き合っているのだから、既に自分用の肩書は持っているということだ。渚のセンスだといささか消極的で、もっと仰々しい名をつけたいところではあるが、本人がそれに満足しているなら口を挟むところでもない。
「いや、先生にはすでにぴったりの二つ名があるんだったね。」
先生と呼ぶにはここ最近はかなり対等になってきている気もするが、契約によってつながった関係なら条件が満たされる限り関係は続く。初代観測官との関係は唯にとって史上最も安定したものとなり、今後築かれる対人関係の理想的なモデルとされた。
「だから設定ってのはさ、この大陸はどんな形になってるか~とかもいいけど、やっぱこのへんが一番面白いんだよね。」
「まあ唯は中学のころから社会好きだったもんな。」
厳密には世界史の一部と公民、あと一番のお気に入りは社会ではなく星組限定の道徳だったが、初代観測官の見方は概ねあっていると言っていい。
「そういえばそうだったわ。最近やってないから政治成分が足りてないのかも。」
残念ながら今通っている学校では倫理学の講師なんてものはおらず、最低限の教科しか教えてくれないし、その中に政治、経済、倫理といったものは含まれていなかった。数学や外国語と違って、どんな生き方をしても関係があることなはずなのに。
「じゃあその辺も取り扱う感じのストーリーにしよっか。」
「小説っていうか思想書になりそう。」
初代観測官は懸念すべきことのように言うが、むしろ唯が書くのならそのほうがいいだろう。
*
「とりあえず自由に関する話にするのは決定として、あとはその周辺っていうか、どういう自由を扱うかだよねぇ。自由って言っても私たちが欲しいものと今の政府が保障してるものは別物じゃん。まあ私みたいな外人にはその保障されてるものすらないんだけど。」
一年前の今ごろは魔術ブームの真っ最中で、この場所には魔術とはほとんど関係のないカードゲームが広がりながらどうすれば神の領域に辿り着けるかというオカルトを真剣に議論していた。
今年は去年よりも幾分か現実的な話ではあったが、相変わらず一般人の共感を得られないような話題に白熱しているのは同様で、むしろ神の領域に辿り着いて成長を遂げた唯、厳密には渚は色々な意味で初代観測官を超えつつあった。
「まず海賊党だけど、これって普通はリバタリアンの過激派みたいな位置に置かれるけど、財産権の放棄を訴えてるんだからどっちかって言うと共産主義者っぽいイメージなんだよね。」
「ふんふん。でも唯はどう考えても資本主義者だよな。しかも社会主義台頭する前のやつ。」
確かに、富の収奪を正当な権利だと主張するような存在が社会主義勢力に近い発想をするのは違和感があるかもしれない。
「じゃあ、知的財産権そのものは既に人類が発見したから権利として存在するのは認める。けど、表現の自由を侵害するような形で行使するの許さないってことにして独占は認めない。これでどう?」
「だとするとお前も結局人の権利を抑圧してることにならないか?」
「いや、それは別に問題じゃないよ。海賊は解放してるんじゃなくて略奪してるって言っちゃえばいいじゃん。あなたが得るはずだった利益を私たちは強奪しますって。むしろ世界零和理論としてはこっちのほうが正しい説明でしょ。奪ったものを私物化しないで公開してあげるなんて海賊は良心的だねぇ。」
渚の口調に罪悪感のようなものは一切感じられない。本気で正しいことだと思っているのだから当然だ。渚の理論では複製が容易な情報には希少価値がないのだから無料開放しても大した損失にならないのだろう。
「わざわざ嫌われるようなことを言っていくのか……なんていうか、お前らしいな。」
「誉め言葉ってことで。」
*
設定資料集と書かれた落書き帳の中に書き込まれていくものは物語のアイデアであると同時に現在の世界に対する唯と渚二人の解釈全集でもあった。
「……正直、去年のやつは魔術の解説書みたいになっててあんま小説っぽくねえなとは思ってたけど、今年のも大概だな。」
「そりゃどういう意味じゃい。」
「ぶっちゃけこれ下手にラノベにしなくてもさ、もっとデカい組織で研究してちゃんと検証して論文とかにしたほうがいいんじゃないか?」
初代観測官の提案はある面では至極真っ当なものだった。唯に物語作家としての才能があるか怪しいのなら、もっと他の場所でそれを発表したほうがいいだろうし、国家機関に勤める研究者にでもなれれば〈母親〉も喜ぶだろう。
しかし、これはそう簡単な問題でもなかった。渚にとってサブカルチャーとは絶滅危惧種であり、今ここで自分が介入しなければ数十年もしないうちに完全に消失してしまう文化だと認識していたし、記憶を共有する唯も同様に考えていた。
「だが断る。これはあの場所での戦争に使われないといけない理論だから。サブカルっていうのはエヴァでいう人類、プリヴォルヴァは第三新東京市みたいなもので、魔女が全力で使徒を殲滅しないと滅亡しちゃうんだよ。なのに今の魔女会は日和見主義と修正主義ばっかりだからさ、使徒が攻めてきたら道譲って戦わないの。このままだとターミナルドグマ占領されて人類滅亡しちゃうのにだよ。だから私が一人で全部倒さなきゃいけないの!」
今一つ要旨の掴めない比喩で熱弁した。意味は分からなくても危機的状況なのは伝わってくれただろうか。流石の初代観測官も翻訳にしばらく時間をかけていたが、ようやくかみ砕き終わったのか、ごくりと飲み込んでぽつりと返事をした。
「でもあれカヲルはターミナル着いてたけど人類滅びてないじゃん。」
「まあエヴァではそうだったけど、でも今の月にいるのはカヲルと違ってもっと攻撃的だから。ゼルエルみたいなのが来てるんだよ。インパクト起きなくても十分滅びるって。」
*
唯は学校に行くときも落書き帳やメモ帳の類は持って行っていて、いつでも思いついたことを書き留めておけるようにしておいたが、一度浮かんだアイデアが消えてしまうまでの時間は思いのほか短く、どうやって言語化しようかと考えているうちに消えてしまうものが多かった。
「……あ。」
「何か降りてきたか?」
「……うん。でも忘れた。」
「小さい紙を前にすると思考が小さくなるからアイデアは大きな紙に書け」と何かの動画で教わったので、唯はそれに忠実に、持っている中でも一番大きい紙である落書き帳に書き留めておくことにしていた。
しかし、リュックから取り出して机に広げ、ペンを握って書き残そうとした時には既に、思いついたことの八割がたがどこかに流れ出てしまった後ということばかり。一応残された二割は書いておいたものの、新しい世界観を作るにはどこか欠落した部分が多すぎるように感じ、結局消しゴムをかけてしまうことばかりだった。
その代わりに増えていったのは、本を読んでいる時に見つけた印象的な戦術や台詞のような、もう一度同じページを見返せば思い出すことができるもの。要するに何かから引用した設定であり、分不相応にもゼロから作品を作りたい夢を捨てていなかった唯にとっては素直に喜べる「アイデア」ではなかった。
「やっぱり私って才能ないのかな。」
「少なくともこの業種においては天才ではないんだろうな。だがそもそも創作は無から有を生む作業ではないから問題ないだろう。神と呼ばれる者たちですら、結局本当の意味でゼロから考えついたことはないんだからな。奴らも何かから引用して作っているにすぎん。それを自分の発明品だから誰も使うなと叫ぶなど甚だ図々しいと思うだろう?」
*
魔術の研究をしていた時の成果を惜しみなく使っても、物語とは思い通りには作れないものらしい。だとしたら何のためにカバラの研究に一年近い時間を費やしたのかと思うが、あれについては趣味も兼ねていたし、まだ何の成果が出なくても許されるだろう。結局のところ、復讐の達成が困難になるだけなのだから。
しかし、クリエイターになると決めてから才能がありませんでした、というのは少しわけが違う。唯にとってクリエイターとはただやってみたい仕事というだけではなく、人生の全てを擲ってようやく見つけた未来なのだ。今さら他の将来を探すなんて、あの時覚悟を決めた自分自身に示しがつかない。
それがなぜかは分からないが、唯にとって、過去の自分への誓いというものは命よりも重いものだった。だからこそ、唯は復讐を完遂する義務があるし、クリエイターの道だけを突き進む義務があると、そう認識しては強く言い聞かせていた。
*
唯の創作活動がお世辞にも順調とは言えない、少なくともエンターテインメントとしての方向から逸れつつある時、〈母親〉は多少なりとも体力が回復していたらしく、自分の友人と共にどこか遠くに遊びに行く程度には元気になっているようだった。
自分のことが思い通りに進んでいない時に他人が好調なのを見ると実に不快、その調子のよさをストローか何かでちゅうちゅうと吸い取ってしまいたくなるが、運が悪ければ先月死んでいたかもしれない人間なのだと思うと、唯は何とか踏みとどまることができた。
「今日はどこ行ってくんの?」
「ん? 今日は隣の県までちょっとね。いい病院があるんだって。」
病院。一ヶ月以上も経てば体調が悪い状態がある種のデフォルトになって、それが健康状態だと勘違いしてしまいそうになるが、どうやら〈母親〉はまだ完治しているわけではないらしい。手術で体の一部を切り取ったとすればその部位は空っぽになるのだろうから、元通りという意味での完治は一生しないのかもしれない。
「まあ私も今日は学校あるし行ってきますわ。今死なれると困るからあんまり無理しないようにね。」
「はいはい。死なないためにちゃんとご飯とか気遣ってるでしょ。」
普段とは違って唯のほうが心配する側だ。一人芝居かと思うほど返事の仕方が似ているのは、やはり子は親に似るということなのだろう。
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梅雨が始まってから一ヶ月ほどが経つ。ごく一部の例外を除けば梅雨というものは一ヶ月で日本の気候に飽きてどこかに行ってしまうらしい。ちょうど唯の周囲の人間に月が巡るのと同じくらいの期間なのは何かの嫌がらせだろうか。
*
〈母親〉がキッチンにいる時にこっそりと資料を読み漁っていた唯は、根治の可能性のある治療法、と題された紙を見つけだした。それはおそらく〈母親〉の病気を治療する方法が書かれていると思われるもので、全二十一箇条からなる。
「超高濃度ビタミン……? 水素……?」
すでに第一条から怪しげな単語が並んでいて、どうにも〈母親〉お気に入りの中華系魔術の亜種のような匂いがした。
唯は興味本位で全条文を読破したが、理解できた文言は「乳製品」「緑茶」「エノキダケ」「ガン治療」「高麗人参」くらいだった。いくつかの条文にはバツ印がつけられていたが、その意味もよく分からない。
「なんだこれ……」
すでに怪文書としか思えなかったが、それと一緒にくっついていたメモ用紙のようなものはもっと直接的に意味が分からなかった。
薬、サプリ、と書かれた欄に並んでいるカタカナは、理解できないが少なくとも薬品の名称だということまでは見当がつく。しかし、その下の欄に書かれているものはその大半が聞いたことがないどころか存在するのかすら怪しいものばかりだった。
『梅エキス
クエン酸』
ここまでは分かる。少なくとも読める。
『①ニニジン
③ブッッユリー
②カソフヴフー』
『高泡調玖
白米、玄Y
砂乃、黒砂み、高比城』
「なにこれ。」
「Triple H以外は私も初耳だな。」
しかし後半に書いてある食材については、少なくとも唯は聞いたこともないものばかりだった。漢字のほうはバツ印がついていたので、順当に解釈すれば食してはならないという意味だろう。
白米以外はそもそもどこに売っているのだろうか。
「これ誰か解読できた?」
「できるわけないよね。」
「無理。」
「私も。」




