30:// クリミナルオーダー
「さあ、始めよう。運命の存在証明を!」
「自分ごとじゃないからって適当じゃない?」
「結局全て紛い物だったのだから何でもいいだろう。早く始めてくれ。」
〈母親〉の好感度は間違いなく下がっていた。元から首位争いでは泥棒猫に負けていたとはいえ、心証が悪化するのは決して気分のいいものではない。唯の中で〈母親〉とは独占契約を結んだ取引先であり、万が一契約解除を言い渡されたら明日から住む場所も食べるものもなくなり、何一つ成し遂げられないまま餓死してしまう。
とはいえ、ここ数年で失ったポイントを一気に回復させ、かつてのように序列一位の座に返り咲くほどのプランをさも確実に達成できるかのように語る術を唯は持ち合わせていなかった。
おそらく、唯は日々を送るごとにその価値を落としていき、ゼロになった時点で契約解除、実質的な死刑宣告が言い渡されるのだ。今の〈母親〉の好感度、あるいは信用がどの程度なのか具体的な数値は公表されていないので分からないが、そう遠くない未来のことだろうという予感はあった。
*
「――ってなわけでこの前の評価はちょっと修正、あそこは絶対選んじゃダメなとこだね。西日本人至上主義学校だったよあれ。」
「そか。まあ一旦落ち着けや。」
「まだダメ。な~にが卒業までをサポートだよ、ただし西日本人限定って書いとけ。あとこの生徒全員が安心してってのも嘘だからね。正しくは教職員、西日本人、身体障害者の三種類だけさ。まあこれまで西日本人しか入学してなかったんなら嘘にはなってなかったのかもしんないけど!」
スクーリングの直後に洋館を訪れた時、唯はその全てを否定する内容にレビューを書き換えておいた。さらには「いつかこの国を支配したらあの学校は絶対に解体してやる」とも言い、また一つ復讐計画が増築された。増築と撤去を繰り返した結果、冤罪で追放された事件当時とはその報復範囲すらも大きく変わっている。
「おかげでまた〈母親〉の評価下がったし、これでクビになったらどうしてくれんだ西日本人どもめ。」
「まあまあ、そのくらいで捨てるような親だったらもうとっくに捨ててるだろうし、冷遇はされても捨てられまではしないんじゃないか?」
唯がぼやくと、初代観測官は相変わらず一風変わった言い回しで励ましてくれた。確かに、既に小学校、中学校と何度も似たような事件に巻き込まれて、その都度扱いが雑になったり期待されなくなっていったりはしたが、ついぞ山に捨てられたことはなかった。むしろ監視と拘束が強くなったくらいだ。
「いやでも冷遇されんの嫌なんですけど。」
「それだとやっぱ素直に雇用主に従うしかないんじゃないか? 会社員なんてそんなもんだし。」
*
土曜日にあんなことがあっておきながら、次の火曜日には今まで通り学校に通うことを命じられた。これでまた何かトラブルが起きて呼び出しを喰らったらどうしようといった心配はしていないらしい。
二年前の冤罪事件や小学生時代を覚えていないわけではあるまい。しかし今通っているところは中学校のように徒歩だけで簡単に行けるところではなく、電車四駅分も離れているのだ。〈父親〉の勤めている会社からは車で十数分の距離にあるとはいえ、仕事中の人間に出頭命令を出す気なのだろうか。
「もしなんかあっても私は責任取らないからね。」
「何にもないようにすんのがあんたの仕事でしょ。何言ってんの。」
唯の責任逃れ宣言はもう聞き飽きた〈母親〉がトラブルを起こすなと命令が下されたが、これに限っては唯一人の努力でどうにかなる問題ではない。東日本人と西日本人とはアフラマズダとアンラマンユのようなもので、絶対に相容れることはなく、互いを憎むことがそのアイデンティになっているような民族なのだ。
もちろん唯が一方的に譲歩することができないわけではない。だがそれは小学生時代のような暴力事件やその後の排斥運動を招くだけ。居場所を守るために譲歩してその結果居場所を失っていたら、味わった屈辱に何の意味があるというのか。
対立している相手に対しては一歩たりとも後退や譲歩をしてはならない。こちらが一歩下がれば敵は一歩前進する。これを繰り返していると気が付いたときには手遅れなほどに差し込まれ、そのまま全てを失ってしまうのだ。
*
それは、ゴールデンウィークが始まろうとしている時のこと。
〈母親〉に早く寝なさいと急かされて、唯は昨日と同じ時間に二階の蚊帳の中に封印された。羽毛布団に包まっていると、身体だけでなく心の芯まで温まるような気がする。新しい呪文を唱えて右手を前に突き出したり、左手で片目を隠したりしているうちにいつしか睡魔が背後に忍び寄って唯の意識を刈り取り、ソムニアとは違うまた別の夢の世界へと連れ去られた。
空は黒く、その真ん中には小さな月が昇っていて、冬の寒さと夏の暑さから解き放たれた夜を照らしている。頭まで布団をかぶった唯に光は届かなかったものの、陽光よりも月光のほうがより強く唯と結びついていたのは間違いない。
――ゆさ、ゆさ。
「唯。」
夢に世界に攫われてからどれほどの時間が経っただろうか。床が軋むような音に続いて蚊帳のファスナーが開かれる音がして、羽毛布団越しに何かが唯の体を揺り起こした。二階に寝に来ること自体が珍しい〈両親〉だが、わざわざ唯を起こすとなるとさらに珍しい。
地震か津波、土砂崩れ、火災、一体何事か。
「……ぅん?」
「今からちょっと病院行ってくるから、悪いけど留守番してて。」
「……? ん~……」
「じゃあ行ってくるから。」
暗くてよく見えないが、声から判断すれば〈父親〉のほうか。なぜ急に病院に行くのか全く分からないが、留守番をしろというのはつまり今すぐ起きろということ。唯は状況を掴めないまま起き上がると這ったまま蚊帳を出て、一足先に明け方の山に消えた〈父親〉を見送り、誰もいなくなった一階リビングに進駐した。
時計を見てみると、針は全て右側を指差している。まだ泥棒猫も騒ぎださないほどの時間。こんな時間に起きているのは夜行バスに乗るときくらいだと思っていたのに。
「今日の夢、なんだっけ……」
*
すぐ戻るようなことを言っていたはずの〈父親〉はいつになっても戻ってこず、泥棒猫の叫び出す時間はとうに過ぎ、その日の朝食は唯が用意する羽目になった。
何グラム食べさせると吐くのかが今一つ分からないので気持ち少なめに、なるべく目の届くところに置いておくためにも全ての障子を閉めてから配給する。ちゃりちゃりという音が響くと一瞬だけ日常が戻ってきたが、
「まったく、こんなことは魔術師の仕事ではないだろうに。」
しばらくすると朝日が昇り、普段なら〈母親〉が昨日と全く同じ朝食を用意する時間になったが、今日は煮干しの袋が明けられる音も、炊飯器の蒸気の音も聞こえてこない。二人と二匹しかいない家はやけに静かで、外の世界で何か普通ではないことが起きた可能性を考えずにはいられなかった。
「ねえ、このまま帰ってこなかったら私たちどうするのかな……」
「やっと自由になれていいことじゃないか。まずはありったけの資産を持ち出して月の彼方に帰るとしよう。新しい資金源も必要だしな。」
〈父親〉は詳細を説明することなく出ていってしまったが、状況から考えれば〈母親〉を病院に連れていったと考えるべきだろう。ただ、その途中で事故に巻き込まれている可能性はゼロではないし、そもそも病院というのが嘘で唯を捨ててどこかに旅立った可能性も十分考えられる。
「今日中に戻ってこなければ私たちも動くとしよう。」
「……ん。そだね。」
座布団の上にちょこんと座ったまま、今後の予定の話し合いで空腹を満たし、二人は〈母親〉のスマホを目の前に置いて今日一日だけ待ってみることにした。泥棒猫もしんと静まり返り、この家で動いていたのは時計の針だけだった。
それから数時間が経って、次第に疑念が強まっていた頃。がちゃ、がちゃがちゃ、と鍵の回る音がリビングまで響いてきた。
「ん、おかえり。遅い。」
「ただいま。」
玄関まで出迎えると、帰ってきたのは〈父親〉だけ。
「……んにゃ?」
「緊急入院だって。またあとで病院行ってくるから。」
首を傾げただけの質問に、〈父親〉はまるで車を車検に出してきたような口ぶりで淡々と答え、そのまま手を洗いにキッチンに向かった。昨日まで怪我とも病気とも縁がなさそうだったのに、いったい何が起きているのだろうか。
「……とりあえず飯な。どうせ食ってないんだろ。」
*
家の主が入院して家にいないというのは不便でもあり、同時に今まで味わったことがないほどに自由でもあった。これまで十年以上唯を守ってきた鳥籠の扉の鍵が壊れているのだから当たり前だ。
病状がどれほど深刻なものか、正確なところは聞いていなかったのでよく分からない。しかし、緊急手術が必要だったこと、退院まで数週間を要したことから考えれば決して軽いものではなかったのだろう。
それでも、唯は数週間もいないということを悲しんだりはしなかった。数週間待っていれば元通りになって帰ってくるのだ。二度と目を覚まさないわけではないのならまた話す機会はある、手術に失敗して死んでしまったわけではないのだからと言い聞かせ、数日後にはまるで〈母親〉など最初からいなかったかのように振る舞えるようになっていた。
渚の場合はもっと早く、入院すると聞いた次の瞬間にはタブレットやスマホなどの各種端末を使い放題になったと考えていて、とても悲しんでいるようには見えず、むしろ都合がいいとさえ思っていた。
「いただきまーす。」
「はいあとこれね。」
とはいえ、〈母親〉の不在で最も深刻だったのは毎日の食事だった。料理担当がいなくなった影響は決して小さくなく、今までは健康を絵に描いたように質素な内容、米に一汁といったものだったが、朝から仕事に出なければいけない〈父親〉にそんな余裕はないらしく、一汁の部分が消え、茶碗一杯の玄米は皿一枚の食パンに変わっていった。パンは嫌いだと言っていたのに。
唯は元々パン派だったから最初のうちは文句はなかったが、二日ほど続くと次第に食パンが甘すぎるだの、トーストすると耳の部分が歯に挟まるだのと不満が膨れ上がっていった。玄米と食パンなら明らかに後者の方が文明的な食事で唯の好みに合っているはずだったが、何年も〈母親〉の味以外を口にしてこなかったせいで慣らされてしまったのかもしれない。
*
〈父親〉が会社に、唯が学校に行ってしまえば家はもぬけの殻。悪党が入り込むには絶好のチャンスだった。
「……まあバレなきゃ犯罪じゃないし。」
「仮にバレても法執行機関を屈服させれば犯罪じゃないんですよ。」
入り込んだのは唯と渚の二人組。普段なら〈母親〉が使っていて家の外に持ち出せないアストラルケーブルを家の外でも使ってみたいがための犯行だった。〈父親〉が会社に行って家に誰もいなくなったのをいいことに、充電しておいたケーブルを一台持ち出して学校へ向かう。せっかく携帯できるのなら外でも使わないと勿体ない。
唯は端末を起動すると浅く潜り、昔懐かしの曲を探し始めた。月の彼方にいた頃によく聴いていて、この未開の地に来てからはほとんど聴いていないもの。もう一度聴くなら今しかない。
現実の道路を踏み外さないように気をつけながら「けいおん」で検索してちょうどいいプレイリストかメドレーを探し、なるべく背景が動かないものを選んで再生。記憶にある通りのメロディが流れてくると、かつて過ごした月の彼方の景色までもが流れてくるようで、思わず涙が出そうになった。
「らっらっららっららっらっら~、らっらら~、らっらら~ん♪」
曲を聴いているうちにテンションが上がってきて、少しずつリズムに合わせた歩幅になっていく。五人のキャラソンが流れ始めた頃にはすっかり寂れた駅構内を歩いていたが、唯にはかつて暮らしていた都の景色が浮かんでいた。
*
唯は入院中の〈母親〉に面会したことは一度もなかった。そもそも病院に行くこと自体好きではなかったし、別に〈父親〉についてこいとも言われなかったし。あるいは、今どんな状態になっているか分からない〈母親〉を見ることで、その容態を確定させてしまうのが怖かったのかもしれない。いずれにせよ、その様子を見に行くのは〈父親〉一人の仕事だった。
入院からしばらく経って、そろそろ退院という頃。〈母親〉からの手紙ということで、一枚の紙を渡された。
『ゆいたんへ
元気にしてるー?
家事ちゃんと手伝ってね。
次に帰ったら玄米ご飯で大丈夫(炊きたてでよろしく!)
なので、健康的な食生活をします。
ママより
ところで、たんプレなにがいい?』
この呼ばれ方を見たのは久しぶりで、一瞬誰のことかよく分からなかった。
書かれている紙はどうやら入院する際に必要な備品などを記入するための用紙と思われるもので、もう少しマシな紙に書いてほしかったと思わなくもないが、病院内にレターセットがあるとも思えないので仕方ない。少なくともこれが書けるくらいには元気ということが分かれば今はそれで充分だ。
手紙は二つ折りになっていた片側で完結していたので、ふと気になってその裏側を覗いてみた。
「……なんじゃこりゃ。」
裏は空白ではなく、ナンプレを解いたメモのようなものが書かれていて、その上には刺繍、刺し子、布、紙といった何を指しているのかも分からない単語が並んでいた。退院したらやりたいことでも書いたのだろうか。手紙を書いてからこんなことを同じ紙に書くとは思えないから、これは元々ナンプレ用のメモで、あとから思いついた手紙がその反対側に書かれたと考えるのが自然だろう。
「はぁ。誕プレねぇ。渚は――」
「自由。」
「……ないってことね。」
ここで「早くママが元気になって帰ってきてくれればそれで十分だよ!」くらい気の利いたことを言えればもっと生きやすく、誰からも好かれる性格になれていたのかもしれないが、生憎と唯はそこまで器用ではなかった。
*
ゴールデンウィークの途中にスクーリングをねじ込むという嫌がらせも同然のスケジュールも、唯にとっては大してダメージにはなっていなかった。休みの日だからとどこかに旅行に出かけるような家ではなかったし、今年に限っては仮にアウトドア派だったとしてもそんなことを言っていられる状態でもなかった。
むしろ唯にとって嫌がらせに等しかったのは、〈母親〉に代わって所有権を一時的に預かった〈父親〉の扱い方だった。
特別仲が悪かったというわけでもないが、唯のほうから話しかけると大抵は「黙れ」「片付けろ」の二言しかなく、向こう側は唯に関心など微塵も持っていなかったので、今まではお互い存在しないかのように暮らしていた。
口を開けば、というよりも自らの存在を主張すればうるさい、黙れと言われるのだから、会話にすらならない。〈母親〉の命令書にあったように家事を手伝おうと無言で近づいても、邪魔だから手伝わなくていいと言われるのがオチだった。
――今までやったことないんだからどうせできないだろう。
――結局二度手間になるなら最初から一人でやった方が早い。
何から何まで完璧にこなせると勝手に期待して、少しでも期待外れの結果を出せば育て方を間違えたと嘆いてくる人間はそれはそれで居心地が悪いが、かと言って端から何の期待もせずに一切のノルマを課してこないというのも決して気楽というわけでもない。
これと似たような感情を、唯は数年前、まだ学生だったころによく知っていた。きっと〈父親〉は唯のことを無力で保護しなければ存在として見下しているのだろう。
安全至上主義者と父権主義者は考え方こそ違っても行きつく先は同じらしい。
*
親が倒れたなんてわざわざ不幸ぶって言いふらすことでもないが、唯にとっては「言わなくてもいい」ではなく「言ってはいけない」ことだった。これまで多くのトラブルの元凶になってきて、その大半に親をぶつけて生還してきた唯にしてみれば、今回の事件は後ろ盾が機能しなくなった状態に等しく、だからこそ本能的に大人しく、かつその変化に気付かれない程度には傍若無人というすれすれのラインを攻めていた。
ただしそれにも一つだけ例外があって、最初から敵対していない判定の初代観測官には今まで通りのわがままさで押し通していた。
「でもやっぱり私としてはエヴァ要素は残したいわけよ、私のルーツだし。だからカバラ部分をもうちょっと簡略化してこんな感じにしてさ……」
むしろ、家に話し相手がいなくなった分だけ饒舌かつ早口になっていて、おまけに〈母親〉のタブレットを勝手に持って行くようにもなっていた。
「先週はこっち残すって言ってなかったか?」
「そうだっけ? まあ先生が言うならそうなのかな? でも今日の私はこっちの方がしっくりくるんだよねってことでやっぱりこの設定はこっち採用しよ。また直したくなれば変えればいいじゃん。」
物語を考えていると、病気の家族が助からずに死んでしまうような展開はいくらでも転がっているし、実際、最後に助けてハッピーエンドな物語よりも、殺してしまった方がストーリーとしては綺麗で使いやすく都合がいい。特に唯が目指すのは「リアリティがあって救いのないファンタジー」だったので、親が死ぬ感覚を一度その身をもって知っておきたいと思ったことがないわけがなかった。
ここ最近、あまり整合性の取れていない設定が大量に思いつくのは、そんなクリエイター志望として都合のいい状況が自分の目の前に降りてきたことでテンションが上がっていたからなのか、それともそんなことを考えつく人格をかき消すためだったのか。
*
急な腹痛で倒れてからざっと半月ほどが過ぎて、退院の日が迫っていた。ちょうどゴールデンウィークと時期が重なったのは運がよかったのか悪かったのか。唯にとってはあまり関係ないことではあったが、頻繁に見舞いに行っていた〈父親〉からすれば、都度会社を休まなくてもよかった分ありがたかったのかもしれない。せっかくの連休が全然休めなかったという意味では不運だったという見方もできなくはないが。
「退院明日だっけ?」
「ん。だからちゃんと片付けとけよ。」
「えぇ……」
結局最後まで〈父親〉とはこの程度しか話せなかったが、あの過保護で指示厨な〈母親〉が戻ってきてくれるならもう話すこともないだろう。
*
退院の当日、唯はやはり留守番を選んだ。今まで一度も見舞いに行っていない人間に退院当日だけ来られてもいい気はしないだろう。それなら、部屋でも片付けて玄米ご飯を炊きながら待っていたほうがお互いの精神衛生のためだ。
今まで散々勝手に使っていたタブレットの履歴を全て消して充電をし、何食わぬ顔で元の位置に戻しておく。二枚重ねにしていた座布団の片方をスライドさせ、いつも〈母親〉が座っていた位置へ。あとは米びつからカップ二、三杯ほどすくって炊飯器の中に水と一緒に放り込んでおけば準備完了だ。
今日までの朝食は簡素というよりも安っぽい、ジャンクフードに片足突っ込んだようなものばかりだったが、明日からは食べ慣れた健康食品が戻ってくる。ようやくまともなものが食べられると考えるだけでも、玄関のドアが開かれる音が楽しみでならなかった。
「あれが帰ってきたらまた不自由な生活に逆戻りだというのに、そんなに楽しみかね。」
「うん。」
唯はしきりに縁側の外を見に行っては壁掛け時計を確認して、今か今かと待ちわびていた。ただの契約相手への態度としては歓迎しすぎな気もするが、これがいわゆる「失ってから気付くものの大切さ」というやつなのかもしれない。
もちろん、自分が思っているよりも衰弱して見るに堪えない姿になっているという可能性を考えなかったわけではない。むしろ、今までの人生が何一つ上手くいってこなかったことを考えると、その可能性のほうが高かった。
どれほど長い時間が経っただろうか。体感で数時間以上待ち続けて、家の前の階段を降りる足音が聞こえてきた。唯が襖を開けて玄関に顔を覗かせたのと、玄関ドアがごろごろと開いたのがほぼ同時。少し顔色は悪かったものの、〈母親〉はちゃんと生きてそこに立っていた。
「ただいま。」
「おかえり!」
*
今までと全く同じ、とはいかなかったが、〈母親〉は概ね先月の元気な状態に戻っていて、入院中の部屋がどんなところだったか、どんな食事が出たかといったことをよく教えてくれた。口数という意味ではむしろ入院前よりも増えたかもしれない。少なくとも、それが説教ではないというのはありがたいことだった。
「それで、これが病院食だったんだけど、これがほんとに美味しくなくて――」
「ほえぇ。見た目は普通の給食って感じだけど。」
「全然違うから。味しないし。」
「ふ~ん。でも私給食食べたことないから分かんないや。」
プレートに乗った皿、その上に乗せられている柔らかそうな食事。写真に写っているのはどれも似たようなものばかりで、まず米が真っ白というだけで食欲のそそられないメニューだが、その中身は霞でも食べているのかと虚しくなるような味らしい。
「まあ何にせよ今日からは普通のごはん食べれるんだからいいじゃん。」
「そうね。ちゃんとパパのお手伝いした?」
「え? あ~、まあ、うん。一応。」
手伝おうとはしたが断られた、というのはどちらに含まれるのだろうか。
「そう? ならいいんだけど。これからは唯も一人で生きていけるようになっておきなさい。」
ちょうど繋がったからか、今まで再三言われてきたような耳の痛い話題が回ってきた。せっかく平和な話題だったのに勿体ない。
「はいはい。そんなに怒ってると早死にするよ。」
「……じゃあ怒らせないでくれる?」
「こうして見ると、医者というのも私たちと似ているかもしれないな。」
「どちらも人を殺すのが生業だと?」
「死期を操れる程度の~って意味じゃない?」




