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29:// 魔女たちに居場所はない

「さあ、もう一度あの感情を聴いてみよう。」

「レティ、フラン、ザラ――本当に懲りない奴だな。私も何かしたほうがよかったか。」

「いや、それは私の……ぅっ」

「どうかした?」

「ううん、なんでもない。」

 学校の試験の難易度を無理ゲーだと感じたことは一度とてないが、少なくとも中学時代のものは試験勉強をしておこうと思わせる程度のレベルには仕上がっていた。それに引き換え、この学校の退屈さときたら、中学どころか小学校に逆戻りしたのかと思うほどにレベルが低く、理解力というよりも速記力を問うような問題ばかりだった。

 その上、試験が終わっても結果はブラックボックスで、どのくらいの成績だったのかを知ることはできないという、控えめに言って勉強する理由を見つけるほうが難しい。

「試験どうだった?」

「さあ? まあ余裕だったんじゃない?」

 試験を終えて家に帰ると、予測変換で作ったような質問がまっすぐ放たれた。去年までの唯なら間違いなく、もっと期待値の低めな回答をしていただろう。実際のところは毎回九十点台だったとしても、期待値を上げないための努力は欠かさなかった。

 しかし、結果が唯の体感による自己申告だけというのなら、ここで期待値を下げる発言をすればそれはそのまま唯の価値が下がることになる。よって、唯は今までとは違い、必要以上に余裕ぶることにしていた。

 生徒の安心のためにあらゆるリスクを排除するという思想は現代社会そのもので、どうみてもデメリットの方が大きいことは明らかだった。人道主義は人類の発展の結果生まれたものなのかもしれないが、こうして無力な人間を保護し、有能な人材を埋もれさせ、自由に能力を発揮することをハラスメントだと糾ぶような社会が長続きするはずがない。


          *


 定期を買うことを強要してきたり、講義のレベルが低かったり、通信制の割には高頻度で通う必要があったりと、一年を過ごしてからこの高校についてレビューを書けば不満点はごまんと出てきて、初代観測官に正直な感想を訊かれたときは、他人に勧められるものではないと結論付けるに十分なほど酷評した。

「ふーん。なるほどねぇ。実際はそういう感じなのか。」

「そりゃプロパンフに悪いことは書かないし、説明会とかでも欠点まで話したりはしないでしょ。」

 唯の評価には幾分か誇張されたことも含まれていたが、全く的外れというわけでもなく、宣伝用に書かれた高評価点をちょうどいいくらいに削るところをついていた。第一征服者のように完全に嘘をついても信頼されるのが理想だが、今の唯にはそこまでの力はなかったので仕方ない。

「じゃあ他のとこのほうがよかったか?」

 あまりにも容赦なくこき下ろしていたからか、初代観測官が素朴な疑問として尋ねてきた。

「どうだろ? 他のとこ行っても似たようなこと言ってたんじゃない?」

 唯は少しだけ別の世界線に意識を飛ばし、しばしの間思案して、結果この結論に至った。

 そもそも、最初は裏切り者の通っているところに行くつもりだったのに、そこの教師たちがあまりにも独善的で唯の話に聞く耳を持たないからと理由で急遽変更された結果が今の高校なのだ。同じ商品を取り扱っている企業がそれぞれ最適解に辿り着いた姿があれなのだとすれば、他の会社も似たような経営方針である可能性は高い。

「ああ、でもねぇ。」

「ん?」

「この私が一年通っても何も起きなかったってのは褒めてあげていいポイントなんじゃない?」

 それは随分と悲しい判断基準だったが、唯を一年間も受け入れられた存在はそう多くない。文句を言いながらでも唯を許すことができたというのは、彼らの実績として正当に評価してもいいだろう。


          *


 試験期間とでも呼ぶべきか、二月の半分以上を占めた空白期間が終わり、学校はまたしてもつまらない日常のレールを滑りだした。日常と言っても大したものではなく、ただ疲労だけを積み上げる通学路に、何位役にも立たない知識を聞かされる講義が混ざり合い、貴重な記憶域を食い荒らしていくだけのものではあったが、家にいたところで〈母親〉に嫌味を言われるだけだと考えれば、何も考えずに習慣化した行動を繰り返しているほうがずっと楽なことでもあった。

「ほれ。来週もちゃんと同じ紙を持ってくるようにな。」

「……定期のほうがいいって言ってるのに……」

「黙れ。それが嘘であることはすでに証明されていると言っただろう。」

 体温計排外主義者が毎度のように定期券を使うようにと押し売りしてくるのを突っぱねて回数券を買うのも、はじめのうちは最悪だと思っていたが、こう何ヶ月も続くと欠かせない日常の一部になっていく。

「それじゃあ今週は金曜日に時間取れないから今カウンセリングしておくくけど、最近何か相談したいことはあるかな?」

「安心しろ。貴様の手の届く範囲にそんなものは一切存在しない。」

 世界はかくも平和なのだから、と付け加えたのは実に渚らしい。ついこの間ソ連が失地回復のためにウクライナに戦争を仕掛けたばかりだというのに。

「まあ今は昔とは違うからねぇ。」

「そうだな。今は何をやっても差別だと一方的に叩かれる世の中だからな。血で血を洗い合ったあの時代のほうが生きやすかったというものだよ。」

 世界史教師を自称するなら現代の戦争、せめて現実世界で起きているものについては語れた方がいい気もするが、中国大陸の近現代史しか知らないほど視野の狭い人間なら大陸の向こう側のことには興味がなくても致し方のないのかもしれない。


          *


「渚は戦争好きだよね。」

「当然だ。生存資源の収奪は全ての生物に許された権利だからな。生きるために必要な行為を躊躇う人間に他人の命を預かる資格はない。」

 家までの帰り道、二人は今しがた上がりかけた話題を消化しながら春色に染まりつつある通りを歩いていた。友人Kともなんだかんだ言ってほとんど会っていないまま一年が過ぎた唯にとっては、一人でいる時も話し相手がいる、しかも絶対に内容についてこれる相手というのは革命的だった。傍から見ると寂しい人間にしか見えなかったかもしれないが。

 現実で戦争が始まったときは大きく話題になり、ネットニュースやスブヴォルヴァは連日その話題で盛り上がっていたが、その反対側に位置する享楽の都は普段とさほど変わらない景色を保っていた。プリヴォルヴァは第三次世界大戦の元凶が集まって作られたような国なのだから、その手の非常時には慣れきってしまっていても無理はない。今でも世界中から正義を志す勇者たちが魔王城ルナリアの完全破壊を目指してやってくることがあるのだから。

「あれどうなるんだろうね。どっち勝つのかな。」

「最後に勝つのが私たちでなければどちらも同じだよ。せっかくの機会だ。私たちも失地回復をしてもいい頃合いかもしれないな。」


          *


 春休みがいつからなのかはスケジュール表に書いていなかったので分からないが、少なくとも年度の最終月最終週には講義が入っていなかったので春休みと言っていいだろう。四月から新しいアニメが配信される関係で一挙配信が多く行われるのは年末年始と同じだが、春になるとやはり春を題材にした作品が多く出回るようになり、今年の唯にとってはそれが一層楽しみなものに映っていた。

 一部と呼ぶにはあまりにも多すぎる例外はあるが、学生を主人公にした物語は高校二年生が主役なことが多く、唯はその年齢がまだ遠いうちはぼんやりと眺め、年齢が近づいてくるにつれ、自分はどんな主人公になれるのだろうか、実際にこんな充実した人生になるわけがないではないかと、その日のテンションによってあれこれ妄想を捗らせていた。

 そしてついに今年、その答え合わせができるのだ。子供の頃に考えていたような学校ではないし、そもそも人と呼べる姿ですらなくなってしまったから、アニメのようなシナリオにはならない可能性が高い。それでも、これだけ題材にされるのだから何か特別なことが自分にも起こるに違いないと、そういった微かな期待を抱いて来月を待っていた。

 渚は戦争、唯は青春、サブカル世界を全て堪能できるなんて、なんて便利な存在に生まれ変われたのだろうかと。


          *


 四月。唯が高校に進学してからちょうど一年が過ぎていた。

 隣の山の上に植えられた桜は家の窓から見えるほど咲き誇り、廃村と化した山の中腹とは対照的に華やいでいて、さらにその奥を通る下水道の両脇に植えられた桜並木も風に揺られて花弁をまき散らしていた。

「今年は土筆取りに行ったりしないの?」

「するわけないでしょ。子供じゃあるまいし。」

 しかし、いくら世界が色に満ち溢れていたとしても、それに興味を示さない人間には枯れ木と何ら変わらない。東日本人のくせに自然を好んだ〈母親〉は例外だったが、西日本の非文明的な景色を見ても何一つ心の動かない唯に、せっかくの休日くらい家で寝ていたい〈父親〉が揃って反対票を入れていたこの家では、そう言った四季折々のイベントにはもう何年もかかわっていなかった。桜を見るだけなら買い物ついでに道路脇のものを見れば十分、わざわざ土手に入り込んで土筆を拾って食べるなんて卑しい行為は文明国の出身者のすることではない――反対していた理由としてはそんなところだった。

「はいはい。ほんと家でゴロゴロしてばっかりなんだから……」

「だって人混みとか嫌だし。」

 いつもの〈母親〉であれば、唯の文明観による反対意見など意にも介さず、〈父親〉を無理やりにでも叩き起こして車を出させていたが、不思議とこの手のイベントに関しては無理に参加しようとはしなかった。多数決で否決されたくらいで諦める性格ならそもそもこんな非文明国に来てすらいないので、実際のところはそこまで参加したいわけでもなかったのだろう。唯が成人してから酒瓶と一緒に行けばいいと思っていたのかもしれない。


          *


 春休みのいいところは、世間全体で見ればそのほぼ全てが平日ということだ。年末年始のように社会全体が冬眠してしまうと、せっかくの休みなのに家でだらだらと過ごすしかなくなり、洋館へ遊びに行って創作の進捗について話し合うような有意義な使い方ができなくなる。

「そういや唯ってもう二年になったんだったか。」

「んにゃ……まあたぶん。そもそも私の頭脳で留年とかないから。」

 先週思いついたアイデアを協議しながら、ふとそんな話題になる。せっかくの貴重な時間をそんなどうでもいい話題で浪費したくはなかったが、せっかく初代観測官が提示した話題であれば無下にするのもよくないだろう。

「まあ通信制の内容だったら唯には物足りないか。」

「ん、プロゲーマーが最弱AIと戦わされてる感じかな? 知らんけど。」

「じゃあ一応一流の高校出てる俺が教えてあげようか?」

「いやそれはいいよ。そんなのよりも仕事手伝ってけれ。」

 話を強引に切り上げて、唯はガラスのテーブルに敷かれた世界観の図式を指し示した。それは現実と空想が何重にも入り乱れ、その境界すらも曖昧になった世界。唯の今まで見てきた全ての物語と、渚の描く世界像を無理やりに継ぎ接いだように混沌としたキャラクターとストーリー。とりあえず書きたいものを全部詰め込みましたと評するのがこれほど相応しいものもないだろう。

「なんか世界観デカくなりすぎじゃね?」

「そう?」

「もうちょっと絞んないとどっかでわけわかんないことになるぞ絶対。」

 天才なのだからそれくらいできるに決まっているだろうと言い返したかったが、実際にまだ一文字も形にはなっていない。なっているとしても歴史書の一節のようなものばかり。せっかく思い浮かんだものを捨てなければいけないのは気が乗らないが、神になるために必要なら仕方ない。

 唯はこの世界観のどこを省略するか、来週の自分に決めてもらうことにした。


          *


 2782年8月15日。春休みの時期すら曖昧な学校では新学期の始まりもまた同様に曖昧で、唯のスケジュールではその日が新年度の始まりだった。

 今日は幸いなことに土曜日、かつ〈両親〉に買い物の予定があったようで、唯は〈父親〉の車に乗って学校まで送迎されることを許された。本来は校則によって親の送迎は禁止されていたが、この法に関しては誰一人として守っておらず、またそれを咎める教師も誰一人としていなかった。

 電車で四駅分の距離を車で移動しようとすると、所要時間はおよそ一時間ほど。皮肉なことに、徒歩と電車を組み合わせて学校に向かったときとほとんど変わらなかった。

「……んだよこいつウインカー出せや。」

 バイパスに入ってすぐ、〈父親〉の苛立ちが口からこぼれ出た。一切減速することもなく、まるで自分こそが直進しているのだと言わんばかりに猛スピードでバイパスに入ってきた無法者への怒りではあったが、いきなり怒号が飛ぶと自分に向けられたものかと思ってしまう。

「なんでお前入ってくんだよアホか。」

「ったく、これだから西日本人はダメなんだ……」

 家にいる時は寝ているか月に行っているかの二択な〈父親〉だが、車に乗せて西日本の土地を走らせればすぐにこの調子だ。しかしそれは〈父親〉が短気だからというよりも、本当にマナーのなっていない、ルールを守らない運転手が我が物顔で道を走っていることへの義憤のようなものだと唯は解釈していた。少なくとも、西日本人の非道さを批判する行為は称賛されるべきことだ。

 西日本人がいかに礼節に欠けた民族であるかの糾弾が一通り済むころには隣町についていて、やがて車は図書館近くのコンビニに滑り込んだ。

「うい。いってらっしゃい。」

「あい。んじゃ帰りもよろ。」

 ここから歩いて行けば三分とかからない。汗一つかかずに学校に行けるという意味ではスクーリングのほうが楽かもしれないと思いながら交差点を左に曲がり、ストーカーと化しつつある担任の立つ場所へと早足で向かう。

「はいそこで止まって~。」

「……何やってんの。」

 つい数週間前までとは様子が違った。


          *


 正化三十四年度は考えつく限り最悪の形で始まった。

 目の前にいるのはインチキな体温計を持った警備員の男が数人、どれも腐肉の塊が目に前に転がっているかのような顔に白いマスクを着けていて、黄泉の縁から這い出てきた死者を見るような視線が唯に向けられている。西日本では、外国人に体温計を向けるというのは「拒絶」を意味するサインだった。

「……貴様ら。私に何の用だ。」

「おはよう。今日はスクーリングに来たんだよね?」

 戦列から一人が前に出てきて、唯に銃口を向けながら言った。顔の半分が白い不織布で覆われているせいでよく分からないが、声を聞く限りいつも担任を自称する人間のものによく似ている。言動の愚かさもそっくりなので同一人物とみて間違いない。

「その通りだ。理解できているなら道を譲りたまえ。」

「うん。でもその前に体温と体調に何か変化がないかを――」

「不許可だ。」

 体温計排外主義者は唯の前髪を掴んで額に体温計を押し当てようとし、唯は一歩後ろに飛びのくと同時に、突き付けられた体温計を手で払い落した。後ろで玄関ドアを塞いでいるバリケードがざわめく。

「でも今はコロナあるからルールで決まってて――」

 そもそもコロナなんて一年前に終わったというのに、今さら何を言っているというのか。

「私が契約した一年前の時点ではそのような条項は存在しなかった。よってそのルールは私には適用されない。契約の更新を要求するというのならはっきり言おう。却下だ。」

「だったら学校に入れるわけにはいかないよ。」

 体温計排外主義者が切り札とばかりに殺し文句を言ってきた。これで唯が縋りついて謝罪するとでも思っているのだろうか。唯ならなんだかんだ言って受け入れたかもしれないが、今この体を支配しているのは渚のほうだった。

「そうか。それなら別に構わない。私は今日付けで中退することにするよ。」

 月が巡るのはいつだって突然のこと。それがたまたま今日だったというだけのことだ。


          *


 玄関前の階段で一人の生徒と大勢の教師が言い争っている間も、それ以外の生徒はビル内に入っていき、そのたびに唯は自分がどういう存在であるかを見せつけられた。唯以外の人間、おそらく西日本人であろう生徒は大の大人数人に囲まれて体温計を突き付けられることはなく、そのまま校舎内に立ち入ってから玄関の端に置いてあったカメラにスキャンするだけで授業へ参加することを許されていた。

 車椅子の生徒はさらに優遇されていて、エレベーターでカメラよりも内側の領域に直接入る関係上、検温自体が免除されていた。あれではただの特権階級だ。

「おい。不法入国者がいるぞ。取り締まってはいかがかね。」

 体温計排外主義者と罵詈雑言を掛け合いながら、それを見逃さなかった渚がすぐに糾弾した。全員に等しく体温計を突き付けてその人間性を疑うというのなら平等なので、その暴政もただの民族差別ではない、一定の正当性がある政策と言えるだろう。

「いや、あの子はいいの。それよりも君こそ早く体温測らないと。もう授業始まっちゃうよ。」

 しかし、唯を取り囲む防疫官は誰一人として動くことはなかった。車椅子の人間に体温計を突き付けることは物理的に不可能ではないのだから、彼らは意図的に非合理的な優遇措置を取っていることになる。

「ふん。たかが足一本へし折っただけで貴族になれるとはいい時代になったものだな。私も切り落としてしまおうか。それで卒業資格が買えるなら安いものだろう?」

 あるいはコロナは西日本人には感染しないから調べる必要がないとでもいうのだろうか。優生思想かつ民族主義、この高校の理事長はOTOかナチスの支持者に違いない。

「それで、いつになったら退学手続きは終わるのかね。」

 そろそろ一時間目が始まるというのに、唯を取り囲むバリケードは少しも撤去される様子がない。それだけこの学校はホワイト企業ということだろう。そのしわ寄せは顧客に回ってくるわけだが、就職先としては最高だ。

「うん。えっと、今お母さん呼んでるからもうちょっと待ってね。」

「……ああそうか。」

 結局一年で中退したとなれば、〈母親〉からの評価は著しく悪化するだろう。最悪家も追い出されるかもしれない。しかし、それが唯に与えられた人生だというのなら運命に従うほか道はなかった。


          *


 買い物に行く途中だったであろう〈両親〉の車は、学校から緊急の呼び出し電話がかかってきたことでUターンせざるを得なくなった。

 月の彼方のナンバーが刻まれた黒塗りの車両が学校の正面に停まり、助手席から〈母親〉が出てくると、そのやわらかそうな仮面で覆い隠した般若の面を垣間見たのか、唯を包囲していた教師たちは慌ててその陣を解いて校舎内に逃げ帰っていった。

「あんた今度は何したの。」

「何もしてない。この西日本人どもがいきなり追放してきただけ。」

「ええ、彼が体温を測るのを嫌がって……」

 〈父親〉は近くの駐車場に車を停めに行くと言ってその場を離れ、その場に残った唯たち一行は話し合いのためと称して校舎内に入れられた。本当に生徒の安全を守るためなら、〈母親〉に対しても体温計を突き付け、その非人間性を叫んで叩き出すべきだったはずだが、たとえ東日本であっても金を払っている人間にそんな無礼な態度はできなかったのだろう、おかげで唯もそのおこぼれにあずかることができた。

「え~と、つまり体温を測られるのが嫌だったと……?」

「貴様らは首筋にナイフを突きつけられて何も恐れを抱くことはないのかね。大した度胸だ。」

 三階、生徒の立ち入りが禁止されている部屋。ある程度の地位がありそうな老人を向かい合って座らされ、〈母親〉も含めた三人で話し合いが行われている。今回は誰の陰謀なのか全く分からないが、唯にとって不利な展開で進むことに違いはない。

「でも体温測ってないと、コロナかもしれない人と一緒に授業受けるのは皆不安じゃろう?」

「ほう? ではその皆の中に私は入っていないというわけだな。よろしい。今すぐに退学手続きを始めたまえ。交渉は以上だ。」

「は? 退学ってそんなの許すわけないでしょ? 何勝手に決めてんの。体温測るだけでいいんだからそんくらいしなさい。」

 渚の最後通牒に最初に反応したのは〈母親〉で、案の定、そんなことは認めないという命令だった。しかし、仮にここに留まったところで、排外主義者が体温の異常を理由に授業への参加を認めなければ、唯は単位が取れなくて卒業資格が買えないということになる。資格が買えないのならここに残る意味は何かあるだろうか。

「は? 誰がこんな排外――」

「わかったよ。行きゃいいんでしょ行きゃ。」

 しかし、渚がいくら反対したところで、現実では主格とその所有者が命じたならば結果は覆せない。

「……誓約しろ。検温の結果によって通学の可否を判断しないと。これが私からの条件だ。」

「ああ、そうするとも。それじゃ、退学はしないってことだね。ほら、授業行ってきなさい。」

 法的拘束力を持たない口約束には本来何の意味もない。しかし、そもそも高校卒業資格が欲しいのは〈母親〉であって、出資者も彼女自身。仮に留年を繰り返したところで損をするのは自分ではないのなら、このあたりで折れてもいいだろう。家がなくなるよりはマシだ。


          *


 行きは回数券の節約の意味もあって買い物ついでの車に乗せてもらったが、帰りは一人で電車に乗って帰らなければならない。唯は回数券を改札に吸い込ませながら、ふと考えた。

 毎週約二千円。それがどのくらいの価値があるものかは分からないが、あの場所にそれほどの価値があるのだろうか。

「あるわけがないだろう。あんな場所、月一回でも十分だ。」

 進学も就職もする予定はないのだから、それ単体でブランドにならない学校の卒業資格なんて持っている意味もない。資格であれば何でもいいから持っておいてほしいというコレクターが所有者であるために集めさせられているだけだ。

 非文明国の基準では栄えているといえる地域から乗る電車は夕方になると騒がしい学生で込み合っているのが常で、それは土曜日であるはずのこの日も大して変わっていなかった。太陽を追って走る二十分。イヤーマフを着けていてもなお聞こえてくる談笑の一つずつに呪詛を吐きかけながら二列シートの椅子を占領していると、車窓の外から聞こえる歌が次第に緑色に染め上げられていき、時間が数十年ほど巻き戻されていく。

 最寄り駅に降り立つと、先程までの混雑は嘘のように閑散として、夕日に照らされた廃屋とつぶれた店がその薄暗さをさらに加速させていた。

 今電車が通った道に沿って歩道を歩くと、二度手間だという気がしてならない。ただでさえ一日中椅子に座らされて体じゅうが痛いというのに、さらに重い教科書の束を持って微妙な勾配を登っていかなければならないというのだから苦痛でしかない。

「……向こうの学校にいたらこんなことにはなってないのに。」

 唯は歩幅を狭くしながらぽつりと呟いた。月の彼方にいれば唯は異民族として扱われることもなく、本来あるべき家族の形のまま暮らし、普通の人間としての人生を送れたはずなのに。たった一度の震災のせいで、いや、あの心配性で陰謀論が大好きな〈母親〉が何かを思いついてしまったせいだ。もっと無神経で唯に何の期待もしていないような人間が「母親」役をやってくれていれば、こんなことにはならなかった。


          *


「……ただいま……。」

「おかえり。ちゃんと熱測った? 授業受けた? またなんか先生に怒られるようなことしてない?」

 疲労困憊、満身創痍の状態で玄関を開けた唯にはその全てに的確に答える気力は残っていなかった。〈母親〉は唯の帰りの時間を覚えていたようで、キッチンで料理をしている姿が玄関からでも目に入る。

 唯は一旦荷物をリビングに放り投げると〈母親〉のもとへ向かい、手を洗いながら適当にさっきの質問への返事をしていった。

「――で、ご飯はもうできる感じ?」

「そうよ。だからさっさと部屋戻って机片付けなさい。」

 カセットテープに録音したものを流しているような不自然な命令。今帰ってきたのだから机に店が広げられているはずがないのに、何を言っているのだろうか。しかし、いつまでもキッチンに立っていたところで邪魔だしやることもない。唯は命令を受領すると床を軋ませてリビングに戻った。


「だからさ、私もうスクーリング以外で学校行くの辞めよっかなって。」

「は? 何考えてんの?」

 ぽんと軽く放り投げた話題のせいで食卓が凍り付いた。午前中と同じ色の空気が漂いはじめる。

「……小学校の時はずっと学校行かなくて、中学なってやっと通い始めたかと思ったら途中で行かなくなるし、何? 高校でも繰り返すわけ? 私に自由時間ってないの? ねえ?」

 今回の〈母親〉は怒りではなく悲しみを装備しているらしい。戦いづらいタイプだ。

「よく言うよ。いつも家で好き放題やってるの知ってんだからね。」

「何言ってんの。あんたがいつも呼び出しくらってるから家にいなきゃいけないんでしょ! 誰のせいだと思ってんの?」

「怠慢な教師と教育委員会。排外的民族主義分子。自己評価だけが高い無能な西日本人。」

「うるせえよ! お前は一回黙って食え!」

 とっくに食べ終わって月に旅立っていたはずの〈父親〉から怒鳴り声が聞こえてきた。〈母親〉に逆らうと食料を絶たれるかもしれないが、〈父親〉に逆らえば殴り殺されるかもしれない。この家で最も身分の低い唯は、こういうときに押し黙るしかなかった。

「……こんな人間、二人まとめて消えてしまえ。」

「ご安心を。私たちはどこにいても変わることはありませんので。」

「人間じゃなかったからね。」

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