19:// 月巡らざる、僕らの迷子教室
「要するにこの二人が黒幕ってことよね。」
「さすが諸悪の根源っ!」
「でも実際にやったのはみんなだから。」
〈母親〉が唯にアニメを見せたくなかったのは、もしかしたら、唯という存在がこれ以上変わってしまわないようにするためだったのかもしれない。
唯はよく言えば発想が柔軟、悪く言えば意志薄弱であって、その本質的な考え方や人生観までもは大して変わることはないが、表面的なものだけなら、見聞きしたものに簡単に影響されてきた。
読んだ本。
見たアニメ。
聞いた台詞。
遊んだゲーム。
そういったものを次々に取り込んで、消化されることのないまま唯を形作る一部分になっていく。もちろんそれは唯に限った話ではなくほぼ全ての人間に当てはまることでもあるのだが、その原型が他人よりも明らかに見えやすいというのは〈母親〉にとっては大きな問題だったようだ。
おそらく、唯がこのまま世界を知り続ければ、それは世界の集合であって唯ではない何か別のものになってしまうと考えたのだろう。実際、西日本人と関わる前と今の唯を比べれば、共通する要素なんて一つか二つくらいしかない。
〈母親〉にとって重要だったのは「情報を得て変化する前の」唯であって、すでに異形の怪物と化したあとの唯に注ぐべきものは何も持っていなかった。
はじめのうちは大切に守り育ててきたはずなのに、いつの間にかあるべき姿を失ってしまっていたもの。それがすでに手遅れだと分かったときはさぞ悲しかったに違いない。
しかし、何年も着ていれば服は汚れるし、家だって修繕する必要が出てくるもの。人間だけは変化しないのが当たり前なんて、そんなわけがない。
飼い猫が思い通りに動かないからといってその奔放さを非難し、こんなにも期待外れに育つくらいなら最初から飼わなければよかったと後悔しているようなものだ。
*
この世界は神の意志が流出することで作られたもので、その流出の過程を逆にたどっていけば神になれるらしい。どういうことなのかはさっぱり分からないが、これまで多くの魔術師が研究してきた結論だというのなら、この生命の樹を解析することに成功すれば唯も神になれるということだろう。
何をすればいいか分かったというのは大きな進歩だ。目標も分からないまま航海すれば情報の大海原で迷子になってしまうが、目的地が分かっていれば、少なくとも寄り道をしすぎることはない。
「またなんか新しいもの持ってきたのか……」
「むしろ超歴史あるものだと思うんだけど。」
唯は家で調べてきたことを落書き帳に書き出し、先生の前でばさばさと広げた。まだ少しもまとまっていない、ダウンロードした知識とアイデアを紙に写しただけのものがガラスのテーブルを埋め尽くす。
「ほら。見てるだけでも面白いでしょ?」
「いや別に。とりあえず今の解説を求む。」
一人で勝手に盛り上がっている唯の前で、ばらばらの紙切れから先生が情報を拾い上げ、その隙間を縫い合わせるように唯が解説として自分の思考の過程を言語化する。まどろっこしくて分かりにくいやり方ではあるが、唯が持ってきたアイデアを先生が検証するというのは、より直接的な復讐を考えていた頃とさほど変わらない。
「まあ私も詳しくは知らないんだけどね。でもなんか色々使えそうでしょ。」
「確かにエヴァのOPでも見かけるやつだなこれ。俺別に神話とか詳しいわけじゃないから知らないけど。」
「今日から毎日勉強しておくように。魔術師になるんでしょ?」
「俺は別に神になるつもりはねえよ。」
せっかく目の前に千載一遇のチャンスがあるのに勿体ない。先生はどうやら無欲なようだが、唯には確固たる使命がある。神の名を奪い取り、憎むべき敵から全ての領域を取り戻さなければならないのだ。
*
「それで結局、その神への道ってのはどこにあるんだ?」
カバラの面白さについて熱く語っていると、そんな質問が届けられた。
「いや私が知ってるわけないじゃん。知ってたら私ここにいないし。」
一人前の魔術師や召喚術師なら知っていたかもしれないが、残念ながら唯はまだ半人前。大雑把な知識や理論は分かっていても、具体的に何をどうすればいいのかまでは分からない。道がどこにあるのかを探すのが当面の目標となるだろう。
「とりあえずこの地図に書いてあるものを一個ずつ調べていくしかないんじゃない? 私に霊感みたいなのがあればもっと効率よかったんだろうけど。」
「まあ頑張れ。俺は見といてあげっから。」
「なんで他人事なのよ。仕事なんだから手伝ってよ。」
先生のあっさりとした態度に対して唯は不満げに命令しながら、自分で書いた生命の樹の図を見て色々と思考を巡らせる。ボードゲームの館となったこの場所で、サイコロの一つも振らず、駒の一つも動かさず、ただ魔術について話し合うだけの時間を送ったのは初めてかもしれない。
それにしても、神のいる場所とはどのような場所なのだろうか。
約ネバの七つの壁のような感じなのか、進撃の座標のようなものなのか。それともエヴァのマイナス宇宙が近いのか。早く確かめてみたいものだ。
*
セフィロトに関連する理論は探せば探すほど新しいものが出てきて、ネットをスクロールすればほんの少しずつアレンジの加えられた理論が浮かび上がり、アストラル界で意識を集中させれば、簡略化されて形骸化したものや他系統の魔術理論と融合して複雑怪奇になったなったものまで、キリがないほど流れ込んでくる。
「はい。また見つけてきた。これも面白そう。」
まだ一ヶ月も経っていないが、唯は既に何度も新しいアイデアを持ってきていた。というよりも、毎回決まって改善案と称した新理論を持ってきていたので、同じ話題になった試しがない。
「お、またか。今度はどんなのだ?」
「今回はこんな感じ。まあ先週のとはちょっと違うかな?」
唯はいつものように簡単な解説をしつつ、ここが好きだとか、逆にこれは嫌いだとか、あれこれと批評をして、先生にどの理論が最も正解に近いかを計算してもらう。先生にそんな魔術回路を計算するような機能が付いているかは分からなかったが、第三者の意見というものを聞ける場所がここしかなかった。
例えば〈母親〉にこれらを見せて判断を依頼したところで、まともな返事が返ってこないというのは明白だ。カバラは中華系の魔術ではないから仕方がない。
「なあ唯。これさ、こんだけ調べてんなら自分で新しいの作ればいいんじゃね?」
これまで何度も似たような図式を見せられて流石に飽きたのか、先生がふとそんな提案をしてきた。
今まで自分で新理論を構築するなど考えもしなかったが、その方が唯に最適化された魔術になって、より唯にとって通りやすい道を辿れるかもしれないというのも納得のいかない話ではない。仮に上手くいけば、本物の魔術を新たに開発したとして、科学世紀の魔術師として第一人者になれるかもしれない。
それに、新しい神への道を発見したとなれば相応の信奉者も集まるはずだ。
「……いいねぇ、それ。乗った!」
「お、やる気なった? いいじゃん。」
すっかりやる気になった唯はさっそく新しい紙片を取り出して、その空虚な白を見つめながら新たな紙への道を思い描く。これは自分が神になるまでの軌跡となるのだから、大切に作っていくのがいいだろう。
*
聖書から一歩進んで魔術の研究を始めていくと、唯はアストラル界でも前と同じように楽しむことができるようになった。多くの駄作を見ていく中で、人々の間に共有された法則、ある種の物理法則のようなものを統計的に導いてみようなどと考え始めたからだ。
それは決してキャラクターやストーリーを楽しんでいるわけではなかったが、どんな世界観ならリアリティがあって、魔法のルールも納得できて、キャラの人生が理不尽なサクセスストーリーにならないかという、物語を作る側としてはある意味正しいものの見方でもあった。
(……三点。)
今まではただ「クソつまんねえ」と一蹴していたなろう系たちももう一度見直して、仮に自分が作り直すとしたらこの設定をこうする、このキャラはこう動かすという感想を抱くようになっている。もちろんそれは「だから、それができていないこの話はクソつまんねえ。それを改善できる私ってやっぱり天才」という二言に集約されるのだが、何かしらの根拠を提示してから否定するのは唯にも理性が戻ってきたということでもあるだろう。第一征服者と仲がよかった頃のやり口と同じ、あの大敗北を喫した時と同じやり方に。
*
1781年7月25日。桜の花びらが風に吹かれて飛び散って、駅前の通りを淡いピンク色に染めている中、唯は退屈に殺されかけていた。非文明国が生意気にも建てた文化センターなる建物のホールで、入学式という名の集会が行われていたからだ。
「通信制のくせに入学式とかやってんじゃねえよ。少なくともリアルでやることじゃねえっつうの。」
「もいいから静かにしてなさい。」
もちろん、これは生徒のために行われる式典ではない。保護者向けの説明会兼写真撮影会のようなものだ。いくら期待外れで役立たずと思っていても、写真の一枚くらいは撮っておきたい――そう考える親は〈母親〉以外にもたくさんいるということだ。
生徒からしてみればいい迷惑なイベントだが、生徒自身が金を払っているわけではないから学校は生徒の要望を聞く必要はなく、親への好感度を稼いでいれば経営は成立する。そもそも子供は親の所有物なのだから、もし本人が嫌がっても親の命令で強制参加させられるという点でも理に適った式典といえよう。
「ほら唯。じいじとばあばに写真送るから笑いなさい。」
〈母親〉がカメラを向けて指示を飛ばす。レンズの前の唯は嘘つきな役者なので、今までのしかめっ面はどこへやら、すぐに満面の笑みで看板の隣にまっすぐ立った。これで生きていけるのだから、所有物というのもいい商売だ。
仕事を終えて建物の外へと向かっていると、その途中、人混みの中に懐かしい人間の姿が見えた。しかし、唯がここにいることを知っている人間は〈母親〉の他にいないはずなので、やはり他人の空似か勘違いだろう。
「おーやっぱり邪神様じゃん。久しぶりー。」
素通りしようとしたが、唯が感づいたたということは向こうも同じということ。むしろ、向こう側は唯よりも人間を見ている分確信の度合いが高かったらしい。唯だったら余計な人間関係を作りたくないので話しかけなかっただろう。
「……お前生きてたのか。」
「それこっちのセリフだよ。」
やり取りの温度感や重さも以前と変わらない。本物と見ていいだろう。たった一年しか会っていないはずなのに、もう五年くらい会っていないような気さえする。
*
唯は中学時代から都合よく使ってきた便利な友人Kを取り戻すことに成功した。あのときの二択はどうやら正解を選べていたということらしい。
「じゃあ途中まで一緒に帰るか。話したいこともあるし。」
つい先ほどまでは別人のリスクを考慮して話しかけすらしなかったが、昔の友人と分かれば話は別。むしろ、第一征服者に友人を一人奪われた今の唯にとって、友人Kの価値は以前よりも上がっていた。
「何言ってんの。まだ帰れないでしょ。」
「んぁ?」
唯と友人Kが思い出話に花を咲かせようとしたところで、〈母親〉が割り込んできた。
「これから制服の採寸あるんだから今帰ったらダメでしょ。」
「……あれ本気で買うつもりだったんだ。」
いつ行かなくなるかも分からない高校の制服を買ったところで、最悪来月には着なくなっている可能性は十分に考えられる。そこまでおしゃれな制服でもないのに。しかし、それが命令なら拒否権はない。十年前ならいざ知らず、まだ着せ替え人形としての価値があるとでもいうのだろうか。
「まあそれじゃあしょうがないな。じゃあ俺は先帰るから。またタイミング合ったら話そうぜ。」
「ん、じゃあな。」
唯は友人Kと別れ、恨みがましい視線で〈母親〉を一瞥すると、採寸が行われるという別室へと向かった。その軌跡にはこの世のあらゆるものに対する恨み言が零れ落ちていた。
やはり通信制の学校の制服を買おうとするもの好きはごく一部のようで、部屋で待たされているのは片手で数えられるほどしかいなかった。女子の方だと両手くらいはいるのだろうか。
「じゃあ次、そこの君、こっち来て。」
教師なのか制服の製造会社の社員なのか、一人の人間が唯をカーテンで囲われたブースの中に招いた。身体のあちこちを採点されている間、安物の人形のふりをしてやり過ごす。何センチ、何センチと明らかに余分に採点されると、やがて測定人がすっと離れて解放された。
(……やっと終わったか……説明なんていいから早く家帰せ。)
説明によれば、制服は後日家に送られる手はずらしい。今ここで渡されないというのは余計な荷物が増えないからいいことだ。何かの手違いでキャンセルされて返金してくれればもっといいのに。
*
この高校には生徒一人につきカウンセラー兼連絡員のような教師が担任という形で一人配属されるらしい。よほど人材が余っていて仕方ないのか、それとも全生徒に配属させないといけないくらい治安が悪いのか。
「えっと、初めましてだね。三年間よろしく。」
「ふん。いつまで担任でいられるか見ものだな。」
唯に割り当てられた時間は金曜日の一限目。ずっと不登校だった人間にいきなり毎週一回は朝早く起きろというのは中々に酷な気もするが、唯のような天才なら一切問題ない。月曜でなければどれも同じだ。
「じゃあ今日は最初だから、まずはこの学校の説明からするね。」
教育免許を取って間もなさそうな青二才が、時間割の書かれたプリントを見せながら色々と話してくる。こんないかにも素人ですといった風貌の人間に何ができるというのだろうか。時間割を見れば、この時間は唯の為になりそうな講義はやっていないらしい。だとしても、こんな真っ白い取調室のような場所で無意味な話し合いをさせられるとは、来週からの金曜日を思うと気が滅入る。
そもそもカウンセラーなら唯には最高級品がいるから十分間に合っているというのに。
「それと、これが今回のレポートね。この教科書見ながら解いてね。」
目の前に明らかに苛立っている人間がいるというのに、青二才は淡々とレポート、教科書、参考書といったものを渡してきた。
「……そんなにあんのかよ。まあいい。次来たときには終わらせてやるよ。」
こんない重いものを一度に寄越すというのは全くもって西日本人らしい不親切さだ。しかし、だからと言って先延ばしにすると集中力が削がれて研究に支障が出るのは予想がつく。ここはできるだけ早く片付けてしまったほうがいいだろう。いくらなんでも、早く終わらせたからといって次の課題が出ることもあるない。
「でもあれだな。リュック入る量じゃないからなんか袋くれ。」
唯は青二才にそう言いつけると、渡された薄っぺらい紙袋に紙の山を詰め込んだ。本格的に授業が始まるのは半月後とのことだが、果たして毎日制服を着るほどの価値があるのだろうか。
*
入学式から二週間も経たないうちに、最初のスクーリングの日がやってきた。逆に言えば入学から二週間もの間授業がなかったとも言える。毎日の講義の時間割があったり、毎週カウンセリングという名の登校日を設けていたりと、通信制のイメージとは乖離した体制を敷いているこの学校だが、一応は通信制ということか。
「行くのめんどくせぇ……」
「はぁ? 行かなかったら卒業できないでしょ。」
「そりゃそうだけどさぁ……」
朝から夕方まで窮屈なオフィスビルに閉じ込められるというのは気分のいいものではない。学校に行かないのが当たり前になってしまったからなおさらだ。だいたい、最後まで通えるかどうかも分からないのなら、最初から一回も行かないのと何が違うというのだろうか。
「ほら、早くしないと遅刻するでしょ? いいから文句言ってないで行きなさい!」
最近ずっと静かでいてくれた〈母親〉がキレた。学校に行く行為には意味を感じられないが、このまま家にいると空気がヘドロの味になりそうだ。確かに、あの学校の教職員はまだ罪を犯していないのだから、今日だけは行ってみるのも悪くない。あそこに通う人間たちが唯と同じ学校に在籍するに相応しいかを確かめる必要もある。
「あ~はいはい。そっちの方がめんどくさいから行ってきてあげますよ。感謝しろ。」
唯は面倒くさがりながらもゆっくりと体を動かし、〈母親〉から譲り受けたリュックに教科書を詰め、あと何回着るかも分からない制服に袖を通すと、久方ぶりに一人で家の外に出た。道中トラブルが起きないことを祈るばかりだ。
*
少なくとも、行きの通学路では問題は起きなかった。途中で友人Kの自宅に向けて手を振ってみたが返事はなく、どこかでゲームをしているか、あるいは寝ているかのどちらかだろうと予想した。唯は今まさに学校に通うという苦役を受けているというのに、不公平な話があるものだ。
「おはよう。よく来たね。」
「ふん。誰かに強制されたからな。」
家でぐだぐだしていた割にはある程度の余裕をもって学校に到着すると、担任の青二才に連れられて今日の教室へと案内された。教室にはざっと三十ほどの机が並べられていて、ここだけ見れば、少し変わったデザインの普通の学校だ。
「じゃあ授業頑張ってね。」
「なら精々頑張らないといけないものを用意することだな。」
唯はいつも通りに挑発的な返事をすると青二才を追い払い、退屈なこと請け合いの時間をどうやって潰すかを考え始めた。どうせ、唯のような天才に対しても舐め腐った内容の講義をするに違いない。
「はい皆さんおはようございます、初めましてですね――」
授業時間が始まると担当科目の教師が教室に入ってきて、まずは自己紹介から始まった。その後はこの一年間で何をするかという話が続き、終わり際になってようやく、本来の授業と思われる内容が始まった。
(うわつまんねー……)
しかし、その内容は唯が期待していたような難易度では決してなく、すでに全クリしたゲームのチュートリアルをもう一度やらされているような気分だった。それが二時間、三時間、四時間と続けば、唯がここで学ぶことはないと判断するには十分すぎる。そもそも唯はここで勉強をしに来たのではない。〈母親〉の希望により高校卒業の資格を買っておく必要があったから通っているだけだ。
唯はこの学校に早くも見切りをつけると、念のため持ってきていた落書き帳にセフィロトの図を描き始めた。有限の資源は有効に使わなければならない。ここでの授業は神になるための役に立たないから時間の無駄だ。
*
スクーリング一日目が終わり、唯が家に着いた頃には太陽はすっかり山の向こうでしばしの休息を取りに行ってしまっていた。こんなに遅い時間に外を歩いたのはいつぶりだろうか。おそらく一年以上前だろう。一人で、という条件を付け加えればもっと前になる。
「ただいま~。」
「おかえり。授業どうだった? ちゃんと電車乗れた? これからもちゃんと通えそう?」
まただ。ただの怒りに任せた説教ではなく、きちんと心配という形のオブラートに包んだもの。もはや懐かしささえ感じる軽蔑だ。仮にひとりで電車に乗れなかったとしたら、それはこれまでの間ずっと鳥かごの中にしまい込んで大切に育ててきた〈母親〉自身の責任だろう。
「通えないって言ったらどうする気なんだか。」
「は? そんなの許すわけないでしょ?」
許さないなら質問する意味もないだろうに。なぜ自分の機嫌が悪くなる結果が期待できる質問を投げてくるのだろうか。やはり〈母親〉の行動原理は昔から理解できないことが多い。この非文明的な田舎村に引っ越そうと思ったのはその最たる例といえる。
「いいからごはんちょうだい。腹減った。」
「はいはい。黙って待ってなさい。」
唯がテーブルを爪で叩きながら要求すると、〈母親〉はゆっくりと重い腰を上げてキッチンに向かった。泥棒猫の食事はもう終わったということだろうか。太陽が物語っているように、やはりかなり時間を食ってしまったようだ。
*
二日後の月曜日は普段と違って愚痴の多い会議になった。洋館の応接室では今日も魔術師候補生が生命の樹の秘密を解き明かそうと奮闘していて、向かい合った先生がその野望に付き合わされている。
「やっぱ全然ダメ。あんなん中学生レベルかそれ以下だよ。ある程度勉強してたら小学生でも解けそうなのばっかり。私のことバカにしてんだろあいつら。」
唯はいつもよりも早口でまくし立てた。好きな話題になると急に早口になる人間は多くいるが、唯の場合はむしろ逆で、嫌いな話題ほど早口になった。流石、第一征服者を人生の中心に置いているだけのことはある。
「なるほどな。やっぱ唯には物足りなかったか。唯はどっちかって言うと進学校とかに行ったほうが生き生きしてそうだもんな。マウント取るの好きだろ。」
「ダメダメ。そんなとこ行ったらまた西日本人の陰謀に巻き込まれて退学処分、ゲームオーバーだよ。」
先生の提案した可能性は、第一征服者がいなかった世界線の唯なら喜んで辿っただろう。天才としてむしろ自然な進路だ。しかし、この世界の唯は西日本人の卑劣さを誰よりも知っていた。自分を高めるよりも、敵を貶めたほうが簡単だと知っている人間が存在することを、いやというほど味わっていた。
「まあ卒業資格さえ買えれば勉強なんてどうでもいいんだけどね。試験なんて全部暗記で何とかなるし。」
「余裕だねえ。」
「当然よ。天才ですから。」
唯はいつもの仕事、神になるための研究に戻った。今の唯にとって、一番有意義だと信じられるのはこの時間。それが魔術によるものか、それとも目の前の人間によるものなのかは考えないままに。
*
唯が研究している魔術や神話はどれも西洋に起源を持つもので、東洋のものは意図的と思えるほどに避けられていた。
よく考えてみれば、唯が文明的と評価するものはサブカルチャーを除けばどれも西洋個人主義や合理主義、科学至上主義に由来するもので、本来の日本のもの、特に伝統的なものは例外なく非文明のレッテルを貼られていた。
常に国家目線で物事を考え、個人の事情を何一つ顧みない唯の国家観からしてみるとその全てが甚だ矛盾しているように見える。しかし、唯にとっては一応の理屈が通っているものであった。
月の彼方に存在した街並みはどれも高度な文明であり、それは言い換えれば西洋式の建築でもあった。対して非文明的な西日本には和風のものが残っている。
おそらく、唯にとって日本の古典的な文化は西日本と結びつく概念であり、破壊されるべきものに映るのだろう。対して西洋文明は東日本、月の彼方と結びつく概念であり、唯の日本人としての愛国心は結果的に西洋式の文明を採用する方向に向かっていったのだろう。だからこそ、東洋の文化が敵性文化として排撃され、西洋の文化が受容されるという矛盾が起きたのだ。
唯に言わせれば、これは既に日本の文化であり、もはや西洋文明圏のものではない、といったところだろうか。
ここで、唯はかつて、人は生まれた場所ではなく信仰する文明によって国籍を得るべきであると主張していたことを思い出してみる。
さて、それでは今の唯はいったいどこの国の人間なのだろうか。本当に日本人であると、月の彼方の市民であるといえるのだろうか。
「まあ、うちは世界唯一の文明国だから。」
「全世界同化すれば全部自分たちの文化ってね。」




