15:// 世界樹のセンセーと人間不信の魔女見習い
「Twice upon a time, there lived――」
「あ、thriceじゃないんだ。」
「二人目だもんね。」
全ての闇をしまい込んだ小道に、線香花火の色の灯りが明滅する。魔女がその細い足を一歩前へと差し出すたび、温かく小さな明かりはぽとりと消えて、また点いてを繰り返し、足元からはバイオリンを引っ掻いたような不協和音が鳴り響く。
ぽとり。
またしても花火が落ちた。じじ、と音がしてまた幽かな光が戻ってくる。その光は小道を真っ白に、そして真っ赤に照らして――
黒い烏のなく声が遠く聞こえる。
真っ暗な空間を歩いていると、緑がかった白い光がぼんやりと漂ってきた。光は奈落まで続く螺旋階段から仄かに流れていて、魔女は誘われるように階段を降りていく。無限とも思える階段を一段ずつ進んでいくと、その終着点は不気味なほどに静かで、ただ緑色の天蓋に覆われた棺が一つだけ置かれていた。
ふいに、内側からすっと伸びた蝋燭のような指先が棺を開け、一人の少女が姿を現した。感情を閉じ込めて溶かしてしまった瞳と目が合う。
夕焼けの空。
かたく閉じられた城門。
緑色。
光を映さない緑に吸い込まれると、そこは真っ赤な空に沈む、真っ黒な森。枯草の揺れる中で、一人の少女が立っていた。一歩だけ足を踏み出すと、足元の枯草がざわめいて、少女は片目だけで、瞬きもせずに魔女の姿をじっと見つめている。
その吸い込まれるような瞳と目を合わせて、ぱちりと一度瞬きをすると、森の姿はどこにもなく、もとの奈落が静かな灯りを歌っていた。
緑の天蓋があったはずの場所には、青い天蓋に覆われた棺が一つだけ立て掛けられている。棺の蓋は開け放たれていて、青いドレスに白色とピンク色の桔梗を握りしめた少女が眠っている。
呼吸いくつ分かもわからないほどの時間が経った。その華奢な手はいつしかだらりとほどけ、花束がするりと地面に落ちていく。桔梗の花弁は地面に当たると硝子細工のように砕け散り、魔女の視界もまた暗く閉ざされていった。
*
1781年1月16日。灰色と黒色の混ざり合った空は一人の人間の喪に服すように沈黙し、地上を行き交う人々はそれを意にも介さずに正しい時を刻み続ける。
何もかもを失った痛みは想像を絶するもので、傷を負った体は痛みという感情だけが抜け落ちてしまったように、悲鳴を上げることすらない。そこにあったのは、見たくもない現実と虚ろな怒りだけ。
一晩ぐっすりと眠っても、その胸の内を渦巻いて全身をかき回すような感情が薄れることはなく、むしろ味わわされた屈辱が脳の深いところにこびりついたような感覚さえした。
唯は布団を蹴って起き上がり、今日が日曜日なことを思い出すと、器用に足を動かして布団を手元まで持ってきて、もう一度頭まで被って枕に飛び込んだ。
「……ああ、やってらんね。寝よ寝よ。」
本当ならもう、二度寝をするのにカレンダーも時計も確認する必要はないし、そもそも早寝早起きをする必要がない。しかし習慣からはなかなか抜け出せないものでもある。唯は自分の体の一部をどこかに置き忘れてしまったような空白を感じながら、それに気がつかないために目を瞑って寝息を立てた。夢の中まであと少し。
(うぅ、お腹すいた……。)
大した食欲があるわけでもないのに、ぐりぐりと腹部を押されるような音が鳴って眠れない。目と耳を閉じているので十分外界からは遮断されているが、そのぶん内側から聞こえてくる声はより大きく、まだ心臓が動いている音、まだ全身に血が流れている音が頭に響いてくる。
鬱陶しい。うるさい。
唯ははっきりと目を開け、耳を澄ませて自分の鼓動を聞いていた。
*
歪んだまま回り続ける世界は、自らがまっすぐ立っていないことに気がついていない。そして、歪んでいない者こそを異常と呼んで憎み、蔑み、彼らが人として生きることを許さないのだ。
唯もまたそんな世界の歪みを許していなかったが、どれほど力があったとしても、世界の意志とでも呼ぶべき力には抗えず、こうしてただ一つ残された家に閉じこもって、これ以上何も失わないように守りを固めながら、世界の外を見ないようにするしかなかった。
「唯。いつまでそうしてるつもり?」
「さあ。死ぬまでじゃない?」
座布団を並べて作った布団に寝転がりながら、相手の顔も見ずに答える。自分が取った態度が〈母親〉にどんな表情をさせるかくらいなら、十分なデータを取っているので簡単に予想がつく。心配、失望、諦観、そういったものが眉間の皴に一つずつ刻まれているのだと。
「もう放っといてくれていいよ。」
「そういうわけにもいかないでしょ。」
誰が何と言おうと、もはや逆転のしようがないところまで来てしまったのは明白で、唯もそれを受け入れざるを得なくなっていた。いや、受け入れて正当化したほうが楽だと気づいてしまっていた。
自分の人生を粉々に打ち砕いた第一征服者たちの存在は到底許せるものではない。しかし、敗北は無力さの証明とは唯自身の弁であり、唯がこうして怠惰な日々を送っていることそれ自体が、唯の西日本人に対する劣性を示す動かぬ証拠になっていた。
それが正々堂々行われたものかどうかは関係ない。ここに結果がある以上、唯は敗北者であり、加害者であり、裁かれるべき悪なのだ。
*
世界は残酷だ。弱者が、弱者の仮面を被った者が、そうでないものを容赦なく食い荒らしていく。
唯は画面の向こうにいる敵に向けて剣を振り下ろしながら、ついこの間悟りを開いて受け入れたはずの理不尽に対しての不満を叫んでいた。理屈としては自分の悪行の数々を理解できても、だからと言ってそう易々と恨みを忘れられるというわけではない。
「ねえ、高校どうすんの?」
〈母親〉が挨拶代わりに問いただしてくる。別に自分の人生というわけでもあるまいに、この台詞を言われたのは何度目だろうか。挨拶だとしたら頻度が多すぎる。
「……行くとこがない。」
「はぁ?」
規則正しくボタンを押して攻撃を続けながら短く返事をすると、さらに短く詰められた苛立ちの声が返ってきた。こんな一瞬の言葉に「ゲームばかりしていないで次の進学先を考えなさい」という意味が詰まっているのだから、驚異の圧縮率だ。
「だってさ、どこ行ったって結局一回はスクーリング行くんでしょ。じゃあ無理だね。」
「なら高校行かずに働く気? 働けんの?」
横からも攻撃が飛んでくる中での戦闘はなかなか集中できず、キャラが一度力尽きたところで電源が切られた。心配という名目であれこれと指示を出されるのにはもううんざりだ。
「さあね。まあ何とかなんじゃない? 私だし。」
「なるわけないでしょ!」
わざわざ正面を向いて答えたというのに、急に怒鳴られた。慣れてるとはいえ心臓に悪い。きっと、このやり取りは唯が〈母親〉の納得する将来に進むまで形を変えて続くのだろう。
世界は残酷だ。そして、こんなにも残酷な世界を作り上げた神こそ、この世の誰よりも残酷で邪悪な存在に違いない。
*
追放された主人公が多くの人間から崇拝され、すぐに追放者に勝利して幸せな日々を送るという現代日本の生み出したシンデレラストーリーはナーロッパでしか通用せず、現実はむしろ逆で、一度搾取される側に落ちてしまったら這い上がることはできない。這い上がるために必要なリソースを奪われてしまうからだ。
今までは暇さえあればアニメを見に行っていた唯だったが、家に閉じこもるようになってからは不思議なことに、次第にゲームに比重が傾いていた。今まで信じていた物語が幻に過ぎないと分かってしまった故の失望からくる反動だろう。
もちろんおとぎ話の世界それ自体には何の罪もなく、そんなファンタジーと現実が同じ法則で動いていると考えていた唯の方に問題がある。しかし、今の唯は彼らの成功譚を聞けば聞くほどに、そうなれなかった自分の惨めさが際立たせられているようにしか聞こえなかった。わざわざ自分から惨めになりに行くほど唯はマゾヒストではない。
今まで見ていたもの、今でも最新話が更新され続けているものに関しては、未完成品や中途半端をとことん嫌う厄介な性分により追い続けなければならなかったが、それ以外のものはもはや見る意味もない。
(……クソッ。あいつさえ、あいつさえいなけりゃ……! もっと私に力が、誰も逆らえないような力があれば……!)
部屋の中に、プラスチックのボタンが連打される音が響く。右斜め前の席では毛糸の残骸に隠れてスマホをスクロールする無音が響く。アストラル界に潜るためのデバイスは、今日もテーブルの下にぽつりと置かれたまま。少し前まではあんなに引っ張りだこだったのに。
*
唯が一切の勉強をせずにゲームに明け暮れる日々を過ごしている間、〈母親〉は新しい押し付け先を探そうと奔走していた。どこに置いたところで一ヶ月もすれば返品されるというのに、ありもしない希望を追い求めるさまはかつての唯と同じ、実に滑稽な姿だった。
季節は無為に過ぎていき、短い秋が終わろうとしていたある日。〈母親〉は唯の手を引いて、隣の山の麓にある小さな洋館に連れていった。
洋館は二階建てで、上半分はくすんだ黄色、下半分は白いペンキが剥がれてところどころ灰色が剥き出しになっている。屋根は黒い森のような深緑色で、窓から内側を覗き込んでみると、名前も知らないが怪しげな道具がいくつも置かれているのが見えた。人間というよりは、怨霊や吸血鬼が住むのにおあつらえ向きの建物に見える。
今日客人が来るということは洋館も把握していたようで、〈母親〉が洋館のドアをノックすると、すぐにその主が出迎えた。
「お待ちしていました。こちらへ。」
玄関を開けてすぐのところにある急な階段を上り、応接室のソファに通される。灰色に沈み込んでガラスを見つめていると、応接室のドアが再び開いて、洋館の主と、見るからに軽薄そうな若い男が入ってきた。
「初めまして。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
三人の大人が互いにお辞儀をする中、唯は目の前の男を値踏みするように睨みつけていた。殴りつけても霧のように手応えのなさそうな飄々とした雰囲気はどうにも、唯が最も憎むべき人間のうち一人を想起させて仕方がない。
*
洋館の主と〈母親〉の話し合いが始まると、唯は先生に連れられてまた別の部屋へと通された。廊下の奥の部屋は外観とは似ても似つかない和室になっていて、しかし唯の家のそれとは比べようもなく整えられていた。
「じゃあお母さんの話が終わるまでは俺と話してようぜ。なんかゲームでも持ってこようか?」
唯の正面から少しずれたところに座った先生が言った。この手の職業に就いている人間にしては珍しく、あの憐みと蔑みを混ぜ合わせてとろ火で煮詰めたような喋り方をしてこない。見た目も若いし、まだ仕事に慣れていないのか、それとも、もっと別の職に就いているのか。
「……いいだろう。貴様がこの私の相手に相応しいか、私自らが判断してやろう。」
「ほーん。いいぜ。何すればいい?」
先生の目が挑戦的に、にやりと光った。自分の力量に相当の自信があるのだろう。しかし、自己評価と実態が伴っていない人間を唯をよく知っている。実力のない者ほど自己評価を高めに見積もるものだ。
「そうだな……何もしなくていい。ただ貴様が私にしたいことを好きにすればいい。その代わり、私もそうさせてもらう。」
何か特別なことをさせる必要はないし、むしろそんなことをしたら意味がない。この洋館が唯のことをどう認識しているのか、その本性を暴くのだ。唯の前では、長くても一ヶ月で本性は見えてくる。
「そういえばさっきゲームって言ってたけど、何ならできる?」
「俺? ここにあるのは一通りってとこかな。今から勝負しようか?」
「いいよ。受けて立ってやる。」
唯が同じ目をして勝負に乗ると、先生は一旦部屋を出て、すぐにボードゲームを一つ持って戻ってきた。
*
「じゃあ始めようか。ルールは分かるよな?」
「変な独自ルールがなければね。それとも今から何かつくる?」
用意されたのは何の変哲もないオセロ。特段得意でもないが、苦手というわけでもない。
「順番は? 俺はどっちでもいいよ。」
「じゃあ私黒ね。」
ゲームが始まると途端に無言になって、ぱちん、ぱちんと石をひっくり返す音だけが和室に響く。別に人生がかかっているような勝負というわけでもないので、お互いにあまり深く考え込むこともなく順調に石が置かれていく。
(……あれ?)
最初に石が返されてから数分が経って、唯はふと戦況がおかしいことに気がついた。いつの間にか角の部分がほぼ全て取られている。その上、一番置きたくない場所にしか置ける場所が残っていない。最初は真っ黒だったはずの盤面が、いつの間にか真っ白になりつつあった。
「はい俺の勝ち。いぇーい。」
「……ぐにゅにゅ……。」
安っぽい煽りが非常に腹立たしいが、盤面だけ見れば清々しいほどの負け方だ。こういう場所にいる大人は常に勝ちを譲ってくるものだとばかり思って無意識に舐めプしていたのかもしれないが、だとしてもこんなに惨敗することはないだろう。しっかり四隅を独占しに行っているあたり、最初から勝つ気しかなかったに違いない。
「ふーんだ。大人げないやつめ。」
「勝負なんだから勝ちに行くのは当然だろが。」
真っ当な意見だ。相手のレベルに合わせて本気で戦わないというのは、それは相手への配慮や優しさではなく、相手の力量を決めつける愚かな行為であり、侮辱に他ならない。なかなかよく理解しているではないか。
「唯、終わったよ。」
何にせよ悔しいものは悔しいのでリベンジしようとしたところで、〈母親〉と洋館の主が和室に入ってきた。どうやら契約は終わったらしい。今日リベンジできなかったのは残念でならないが、契約が終わったならおそらくここが新しい居場所になるのだろう。一ヶ月かけて倒してやればいいだけのことだ。
*
一階部分が占いの館のようになっている洋館はこの前までの学校もどきと違って人気がある、あるいは人手不足らしく、毎週月曜日の一時間しか予約が取れなかった。一週間に一時間なんて物足りない気もするが、毎日何時間も惨敗し続けるよりはいいかもしれない。
「今回はちゃんと問題起こさずに過ごすのよ?」
「なんじゃそりゃ。私がいつ問題起こしたってんだ。」
酷い言いがかりがあるものだ。今年に入ってからというもの、唯は問題行動をして追放されたことは一度もない。政治的陰謀と勘違いにハメられただけなのに。
「いい? 勘違いしないように。私は本質的には悪くないの。あの戦争で負けたから悪くなっただけで、悪かったから負けたとか、そういうことじゃないから。」
そう。戦いが始まる前、決着がつく前はどちらかを悪と断ずることはできない。物事の善悪とは勝敗の後についてくる概念に過ぎないのだから。よって、唯は自分が悪かったとは認めつつも反省はしないし行動を改める必要もないという結論に達しつつあった。実際は敗北に繋がった行動は改めるべきなのだろうが、それが西日本人への屈従を意味するならば、東日本人として最後まで誇りを貫くべきだとされた。
普段よりも少しだけ早い昼食どき、〈母親〉が唯に話しかけてきた。
「今日もオセロしてくるの?」
将来や人格とは何の関連性もない質問だったので、唯は一瞬思考がフリーズした。珍しいこともあるものだ。しかし、すでに今年に入ってから二つも領土を失陥していることを考えると、今回もそうなるのではないかと懸念するのは当然ともいえる。かくいう唯自身が一ヶ月程度で追放される前提なのだから。
「まあね。勝てないまんまだとムカつくじゃん。」
今回は全力で挑んでみよう。向こうが本気で勝ちに来てくれるなら、こちらとしても舐めてかかっていては失礼というもの。今まで出会ってきた人間の中では珍しくまともな感性を持っている、すなわち西日本的でないということだから、先生はこの村の中では貴重な人材だ。
*
襲い来る鬼を待ち構えるかのように玄関に立っていると、インターホンが甲高い声を上げた。どうやら時間が来たようだ。
「おう唯、ちゃんと準備してきたか?」
「当然。今日は逆にボッコボコにしてあげっから。」
ほとんど初対面にしては随分と馴れ馴れしいやり取りだが、最初に「好きにしてよい」と許可を出しているので、これが先生にとっての普通の態度ということだろう。
いつまで続くかはさておき、態度自体は悪くない――唯はそう採点した。
洋館に辿り着くと、エントランスに入ってすぐの階段を上ってすぐ正面の応接室に通される。この前来たときも同じ場所だったことを考えると、誰かが先客がいれば和室、そうでなければ応接室、という規則なのだろうか。
応接室を出てすぐのところに前回惨敗させられたオセロやその他色々なボードゲームが置いてあるところから見ると、この館はボードゲームをやりながら人の悩みを聞くような場所で、一対一、かつ対等に扱われるということだろうか。冷静になってみれば当たり前のことをしているだけなのだが、その程度の接客もできていない収容施設を多く見てきた唯からすればかなりの好待遇に見えた。
「よぉしそれじゃ始めるぞ。」
「おーけぃ。」
前回と同じように無言で、しかし前回よりもよく考えてから石を置いていく。せめて四隅の半分くらいは欲しいものだ。
「ほい。今日も俺の勝ち。」
「また負けたぁ~!」
しかし四隅に執着しすぎたせいか、またしても唯は大差をつけられて敗北した。一番得意だからこそ持ってきたのだろうが、それにしても強すぎる。まるでAIと戦っているような気分だ。
*
「ほら次!」
「了解。勝ち方教えてやろうか?」
「ふん! 余計なお世話だ! かかってこい!」
次の勝負は白と黒を入れ替えてやることになった。今までは自分と同じ闇属性らしい色合いの黒を選択していたが、よく考えてみれば黒は収縮色。対して白は膨張色。より大きく見える白のほうが陣地戦には有利だろう、とそんな判断だった。
「ん~……あんま変わってないか……。」
「そりゃそうだろ。枚数は変わんねえんだから。」
正論でツッコまれながらも勝負は終始先生有利で進み、結局石の色を変えた程度では結果を覆すことはできなかった。見かけ上は確かに今さっきよりも有利に見えるが、いざ積み上げてみるとやはり大きな差があった。
「どうだ? もう一回やるか?」
「いや、なんか勝てそうにないからもういいや。先生の勝ちでいいよ。」
先生は次の勝負を誘ったが、唯は今の勝負でエネルギーを使い果たしたのか、すっぱりと諦めて敗北を認めた。三回連続で似たような惨敗をすればまぐれとは言わないだろう。これは実力差で負けているから、おそらく今何回やったところで勝てはしない。
「なんだよ諦めんのか?」
「そうそう。時には撤退も重要ってね。」
悔しさが表に出ないように気を付けて、平然とした風を装って石を揃えて片付ける。第一征服者のような明らかに力で劣っている者に敗北するのは納得できないが、この男はそうではない。それなら、ここまでコテンパンにやられたとしても納得できるというものだ。そういうことにしておこう。
*
送迎の車内で少しだけ雑談をした後、唯は崩れかけた階段を降りて家の玄関を開けた。
「たっだいま~。」
「おかえり。どうだった?」
襖一枚を挟んだ向こうから〈母親〉の声が聞こえてくる。何がどうだったのかを明示していない以上、唯の解釈でどうとでも答えられる質問だ。
「んー、あれ無理だわ。」
本来なら楽しかったの一言で終わらせるべきところだっただろう。しかし、唯は珍しく全く歯が立たなかったとことに焦点を当てた。〈母親〉は唯に完璧な人形であることを求めているので、本来ミスや敗北と言ったものは許されておらず、自身の価値を損なうような発言は控えたほうが身のためだったはずだ。
「ふーん。強かったんだ。」
「うん。」
しかし、今日は〈母親〉も珍しい日だったようで、完璧な存在であるべき唯が敗北を告白してもそれをこと細かに追求して改善を迫ったりはしてこなかった。
(……そっか。私はもうそんなに価値がなくなってるんだ……。)
怒られなかったこと自体は喜ばしいこと。しかし、〈母親〉の怒りは失望に由来するものばかりだったことを考えると、怒られないというのはすなわち、失望するほど期待していない、それほどまでに唯の市場価値が下がっていることを暗示するものでもあった。
*
第一征服者には策謀能力で大敗を喫し、先生にもゲームで勝てない。敗北という実績を積み重ねていくたび、唯は自分の価値を何かもっと別の場所に見出す必要性に駆られていた。それは必ずしも本人の確固たる自覚によってのものではなかったが、あとから振り返るとそうだったと言えるだろう。
唯にとって自分の価値とは〈母親〉に与えられるもの、彼女の評価によって付加されるものであり、人には生まれながらの価値があるという道徳の教科書の一節が嘘であることを経験として知っていた。
「なんかもっと面白いものないかなぁ……。」
「先生に訊いてみたら?」
ゲームのコントローラーを弄りながらの会話はお互いの言葉が半分くらいしか入ってこない。全てを受け止めようとすると説教が余分にうるさく聞こえるので、ちょうどいい距離感だったのかもしれない。唯は自己価値がどうこうと考えながらも特に何か行動するわけでもなく、ただ思案しつつゲームで時間を潰すばかり。
考えるだけで結局行動はしないのだから実に怠惰な性質と言えるが、途中まで行動して完成一歩手前で自らそれを台無しにする〈母親〉を見てみると、結果だけ見れば似た者同士といえるかもしれない。どちらも成果物はゼロなのだから。
「白は侵略色だからね。黒より強いのは当然。」
「まあフラン語ではそうだけど、普通は白が反動なんだよ。」




