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最強未踏破―人類最強のおっさんは、まだ何も知らない―  作者: レイヴ
第一章 未踏領域

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第四話 神秘の泉

 巨人は振り返らなかった。


 ただ、ゆっくりと歩く。


 時折、後ろを確かめるように首だけを向ける。


 ローヴァンも何も言わず、その後を追った。


 抱えられたガルスが、小さく息を吐く。


「お前が来たのか」


「そうだな」


「この化け物……敵じゃなかったんだな」


「ああ」


「助かった」


「俺もそう思う」


 巨人は森の奥へ進んでいく。


 戦いの跡は、少しずつ消えていた。


 折れた木がなくなる。


 血の匂いが消える。


 湿った風が頬を撫でた。


 気付けば空気まで違っていた。


 柔らかい。


 土は黒く、水を多く含んでいる。


 見たこともない草が一面に広がっていた。


 葉は掌ほども大きく、朝露を受けて静かに揺れている。


 ローヴァンは一枚摘み取った。


 指で揉む。


 爽やかな香りが立つ。


「薬草か」


 巨人が一度だけ振り返る。


 静かに頷いた。


 ローヴァンは少し驚く。


「……分かるのか」


 巨人は答えない。


 また歩き始めた。


 さらに奥へ進む。


 木々の色が少しずつ変わる。


 幹には淡い緑色の苔。


 枝には見たこともない花。


 紫色の花弁は七枚。


 花の中心には金色の雫が揺れていた。


 蜜を吸う虫も初めて見る姿だった。


 羽は四枚。


 ガラスのように透き通り、陽の光を受けるたび虹色に輝いている。


 ローヴァンは足を止めた。


 辺りを見回す。


「全部初めてだ」


 思わず声が漏れる。


 ガルスが笑った。


「そんな顔するんだな」


「してるか」


「子供みてぇだ」


 ローヴァンは否定しなかった。


 その時。


 森が途切れた。


 目の前が、一気に開ける。


 ローヴァンは立ち止まった。


「……」


 言葉が出なかった。


 崖に囲まれた巨大な泉。


 底まで見えるほど澄んだ水。


 青ではない。


 わずかに緑色を帯び、陽の光を受けるたび柔らかな輝きを返している。


 風が吹く。


 湖面へ幾重にも波紋が広がった。


 どこからともなく湧き水の音が響く。


 ローヴァンは岸へしゃがみ込み、指先を水へ浸した。


 冷たい。


 雪解け水のようだった。


 その時だった。


 巨人がガルスを静かに降ろす。


 岸辺へ生えた薬草を摘み始めた。


 一種類ではない。


 三種類。


 四種類。


 葉の形も色も違う。


 それを平たい石の上へ並べる。


 別の石で丁寧に潰した。


 青い汁が滲む。


 巨人は迷いなく、その汁を泉へ流した。


 ゆっくりと緑色が水へ溶け込んでいく。


 ローヴァンはその手元を見つめた。


「……泉じゃない」


 巨人が振り返る。


「薬泉か」


 巨人は静かに頷いた。


 ガルスを抱え上げる。


 裂けた傷が浸かるよう、ゆっくりと泉へ沈めた。


「冷てぇ……」


 ガルスが顔をしかめる。


 しばらく何も起きない。


 だが。


 数十秒後。


 裂けていた腹の傷から血が止まった。


 さらに。


 ゆっくりと皮膚が閉じ始める。


 ガルスが目を見開く。


「何だこれ……」


 ローヴァンは黙って見つめる。


 裂傷は確かに塞がっていく。


 しかし。


 折れた腕は曲がったまま。


 胸へ触れる。


 肋骨もそのままだ。


「骨は治らんか」


 巨人は短く頷いた。


 ローヴァンも納得したように息を吐く。


「万能じゃない」


 その方が自然だった。


 巨人はガルスを泉から上げる。


 深く裂けていた傷は、薄い赤い線を残すだけになっていた。


 その時だった。


 森の奥で枝が揺れた。


 ローヴァンの手が自然と剣へ伸びる。


 だが。


 巨人は首を横へ振った。


 敵ではない。


 そう言うように。


 木々の間から、一頭の大きな鹿が姿を現した。


 肩には深い裂傷。


 乾いた血が毛並みにこびり付いている。


 鹿はローヴァンたちを見た。


 逃げない。


 警戒もしない。


 そのまま静かに泉へ入っていく。


 傷口が水へ浸かる。


 しばらくすると、ゆっくりと血が止まり始めた。


 さらにもう一頭。


 今度は大きな角を持つ羊のような獣。


 脚を引きずりながら泉へ近付く。


 誰も争わない。


 誰も追い払わない。


 順番を待つように、水辺へ集まってくる。


 ローヴァンは静かに呟いた。


「……そういうことか」


 巨人は泉を見つめたまま、小さく頷いた。


 巨人は泉のほとりへ歩いていく。


 岸辺に生えた薬草を静かに摘み取り、束ねる。


 その一部を石で潰し、革袋へ入れた。


 そして、ローヴァンへ差し出す。


「……くれるのか」


 巨人は頷く。


 ローヴァンは革袋を受け取る。


 中には泉の水。


 薬草の香りが微かに漂っていた。


「借りる」


 巨人は何も言わない。


 ただ、静かに胸を叩いた。


 ローヴァンも胸へ拳を当てる。


「ああ」


 それだけで十分だった。


 巨人は背を向ける。


 森の奥へ消えていった。


 ローヴァンはしばらくその背中を見送る。


「……変な奴だ」


 ガルスが笑う。


「お前もな」


 ローヴァンはガルスを背負った。


「帰るぞ」


「惜しくねぇのか」


「惜しい」


 珍しい返事だった。


 ガルスは少し笑う。


「また来たいと思ったか」


「ああ」


「一人で来るなよ」


「何故だ」


「お前、絶対住み始める」


 ローヴァンは真顔で少し考えた。


「悪くない」


「やっぱりな」


 二人は笑った。


 湖から離れるにつれ、水音は少しずつ遠ざかっていく。


 やがて日が沈み始めた。


 森はゆっくり夜へ変わる。


 その時だった。


 一本。


 また一本。


 木々が青白く光り始めた。


 岩肌へ張り付く苔も。


 倒木へ生えた茸も。


 谷底全体が淡い光に包まれていく。


 光る虫がゆっくり宙を舞う。


 まるで星空が地上へ降りてきたようだった。


「……綺麗だな」


 ガルスが呟く。


「ああ」


 ローヴァンも見上げた。


 しばらく二人とも言葉を失う。


 やがて歩き始める。


 夜の森は静かだった。


 静かすぎた。


 ローヴァンは歩きながら言う。


「帰るぞ」


「もういいのか?」


「夜に何が出るか分からん」


 ガルスも黙った。


 昼だけでも十分だった。


 夜に何が歩くのか。


 想像したくもない。


 やがて巨大な崖へ辿り着く。


 ローヴァンは岩壁を見上げた。


「登る」


「……正気か」


「ああ」


 太い蔓を何本も切り落とす。


 一本ずつ引っ張る。


 裂ける。


 捨てる。


 さらに太い蔓を探す。


 岩へ巻き付け、自分の体重を掛ける。


 軋む。


 耐える。


「これだ」


 何本も編み込み、一本の太い縄へ変えていく。


 ガルスは目を丸くした。


「そんなことまで出来るのか」


「崖は落ちたら終わりだ」


「だから覚えたのか」


「ああ」


 ローヴァンはガルスを背中へしっかり固定した。


「おい」


「何だ」


「俺、人間だよな」


「ああ」


「荷物じゃないよな」


「ああ」


「何で荷造りされてるんだ」


「一番安全だ」


「納得できねぇ!」


 ローヴァンは崖へ手を掛けた。


 一歩。


 また一歩。


 決して急がない。


 急げば落ちる。


 落ちれば終わる。


 夜風が岩肌を撫でる。


 何度も岩を叩き、安全を確かめながら登っていく。


 途中、岩が崩れた。


 蔓が軋んだ。


 腕が痺れた。


 それでも止まらない。


 東の空が少しずつ白み始める。


 最後の一歩。


 草を掴む。


 土を掴む。


 二人は崖の上へ転がり込んだ。


 朝日が顔へ差し込む。


「生きてるな」


「ああ」


 その時だった。


「冒険者さん!」


 リーナが駆け寄ってきた。


 兄の姿を見る。


「繋ぎ止めたか」


 ローヴァンは革袋を差し出した。


「これを傷へ」


 リーナは恐る恐る兄の裂傷へ水を流す。


 ゆっくりと。


 本当にゆっくりと。


 裂けた傷が閉じ始めた。


「……そんな」


「こんな薬、見たことありません」


「骨は治らん」


 ローヴァンは短く答えた。


 リーナは兄の腕を見る。


 折れたままだった。


 それでも涙を拭き、小さく笑う。


「ありがとうございます」


 ローヴァンはガルスを背負い直した。


 そしてリーナへ尋ねる。


「兄を背負えるか」


 リーナは兄の身体を抱えようとした。


 肩へ腕を回す。


 力を込める。


 少しだけ浮いた。


 だが。


 すぐに膝をつく。


「っ……」


 何度やっても同じだった。


 兄の身体は動かない。


 リーナは悔しそうに俯いた。


「……無理です」


 ローヴァンは静かに頷いた。


「そうか」


 辺りを見回す。


 倒れた騎士。


 散乱した荷物。


 折れた槍。


 そして、少し離れた場所に横転した荷車。


 ローヴァンは荷車へ目を向ける。


 何も言わない。


 ただ、じっと見つめていた。


 その時だった。


 ふと。


 ローヴァンは谷の向こうを見た。


 反対側の崖。


 朝靄がゆっくり流れている。


 その向こうに。


 誰かが立っていた。


 人のような姿。


 だが、人ではない。


 朝日を浴び、金色の体毛が静かに輝いていた。


 距離は遠い。


 表情までは見えない。


 それでも。


 異様に大きかった。


 広い肩。


 長い腕。


 岩の上へ静かに立ち、こちらを見下ろしている。


 その足元には。


 巨大な白い骨が転がっていた。


 長く伸びた顎。


 剣のような牙。


 見覚えがある。


 昨日、巨人と共に倒した、あの巨大な肉食獣によく似た骨だった。


 ローヴァンは目を細める。


 風が吹く。


 朝靄が流れる。


 金色の影が、ゆっくりと顔だけをこちらへ向けた。


 ローヴァンの背筋に、冷たいものが走る。


「……あれは、やばいな」


 その一言だけだった。


 もう一度、風が吹く。


 朝靄が崖を包み込む。


 次の瞬間。


 金色の影は消えていた。


 白い骨だけが、朝日に照らされていた。

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