第三話 谷底
ローヴァンは崖を見下ろした。
底は見えない。
吹き上がる風だけが、黒い外套を揺らしている。
「……深いな」
そう呟くと、迷いなく崖へ足を掛けた。
岩肌へ指を掛ける。
木の根を掴む。
一歩ずつ身体を下ろしていく。
途中、足元の石が崩れた。
カラン。
カラン。
カラン――。
音は、いつまでも返ってこなかった。
ローヴァンは思わず笑う。
「面白い」
さらに降りる。
岩肌には生々しい傷跡が残っていた。
誰かが滑り落ちた跡。
乾き始めた血。
折れた剣。
砕けた盾。
第三騎士団のものだった。
「ガルス」
返事はない。
ただ風だけが吹いていた。
どれほど降りただろうか。
ようやく両足が地面へ着く。
ローヴァンは顔を上げた。
「……」
ただの谷底ではなかった。
そこには、もう一つの世界が広がっていた。
見上げても枝が見えないほど高い木々。
人の背丈を超えるシダ植物。
腕ほどもある葉が幾重にも重なり、昼だというのに森は薄暗い。
湿った土の匂い。
知らない花の甘い香り。
聞いたことのない鳥の声。
上の世界とは、何もかも違っていた。
ローヴァンは深く息を吸う。
「……知らんな」
口元がわずかに緩む。
歩き出す。
血痕はまだ続いていた。
折れた枝。
削れた岩。
倒木。
途中、青白く光る茸が群生している。
一つ摘み、匂いを嗅ぐ。
「毒だな」
そのまま捨てた。
紫色の花。
四枚羽の虫。
透明な羽を持つ小鳥。
どれも初めて見るものばかりだった。
「……広いな」
土に残る足跡が変わる。
人ではない。
人の倍はある裸足の跡。
その横には、何かを引きずった跡が続いていた。
「生きてる」
ローヴァンの歩幅が少し速くなる。
森を抜ける。
視界が開けた。
小さな広場だった。
ローヴァンは反射的に木の陰へ身を隠す。
そこにいた。
灰色の肌。
人間の三倍はある巨体。
太い腕。
一本の木を削っただけのような棍棒。
その巨人は、片手でガルスを持ち上げていた。
ぐったりと力の抜けた身体。
腕から血が滴る。
ローヴァンは剣を抜く。
「……間に合え」
一歩踏み出した。
その時だった。
巨人はガルスを岩の上ではなく、大きな葉の上へ静かに寝かせた。
近くの葉を摘む。
石で潰す。
緑色の汁を傷口へ塗り込む。
さらに蔓を裂き、丁寧に傷を縛っていく。
動きはぎこちない。
だが、驚くほど優しかった。
ローヴァンは動きを止める。
「……治療?」
ガルスが苦しそうに咳き込む。
巨人は慌てることなく身体を支え、水を飲ませた。
敵ではない。
そう思った瞬間だった。
ズシン。
地面が揺れた。
巨人の手が止まる。
顔色が変わる。
初めて見せる表情。
恐怖だった。
ズシン。
もう一度。
森が静まり返る。
鳥が鳴き止む。
虫の音も消えた。
風まで止まる。
巨人はガルスを抱え上げた。
そして振り返ることなく走り出す。
ローヴァンも木陰から飛び出した。
追う。
だが、その足が止まる。
ズシン。
目の前の巨木が、ゆっくりと傾いた。
メキメキ、と嫌な音を立てながら倒れる。
一本。
また一本。
森が割れていく。
ローヴァンは静かに剣を構えた。
巨人は振り返る。
その顔は、青ざめていた。
逃げる。
それしか頭にない顔だった。
ローヴァンは巨人を見る。
森を見る。
ガルスを見る。
「……」
一瞬だけ迷う。
未知へ向かうか。
ガルスを追うか。
ズシン。
再び地面が揺れた。
ローヴァンは巨人の後を追って駆け出す。
背後で。
空気を裂くような咆哮が、谷底全体を震わせた。
巨人はガルスを抱えたまま走る。
一歩が大きい。
それでも必死だった。
何度も後ろを振り返る。
ローヴァンも木々の間を駆け抜ける。
だが。
巨人が突然、足を止めた。
ガルスを地面へ寝かせる。
逃げない。
棍棒を握った。
低く唸る。
その声は、自分を奮い立たせるようだった。
ローヴァンも足を止める。
「守るのか」
巨人は答えない。
黄金色の瞳だけが、ローヴァンの背後を見つめていた。
バキッ。
ローヴァンが振り返る。
巨木が折れた。
一本。
また一本。
そして。
森が割れた。
巨大な顎。
剣のような歯が幾重にも並ぶ。
黄色い瞳。
太い首。
木々より高い頭。
吐き出す息だけで葉が舞い上がる。
その巨体が、一歩踏み出した。
ドォン――。
ローヴァンは思わず笑った。
「……でかいな」
巨人が先に動く。
雄叫びを上げながら突進した。
棍棒が唸る。
轟音。
だが、巨体は止まらない。
太い尾が横へ薙ぐ。
巨人が吹き飛んだ。
何本もの木をなぎ倒しながら転がる。
土煙が舞った。
巨大な顎がガルスへ向く。
「させん」
ローヴァンが踏み込む。
一閃。
刃が右脚の腱を裂いた。
鮮血が噴き上がる。
巨体が初めて吠えた。
耳をつんざく咆哮。
空気が震える。
だが倒れない。
振り向きざま、巨大な顎が迫る。
ローヴァンは紙一重でかわす。
歯が地面へ突き刺さる。
岩が砕け散った。
「重いな」
その瞬間だった。
巨人が立ち上がる。
咆哮。
背後から巨体へ飛び付き、首へ両腕を回した。
全身で押さえ込む。
巨体が暴れる。
木が倒れる。
地面が割れる。
それでも巨人は離さない。
ローヴァンを見る。
一瞬だけ。
視線が交わる。
十分だった。
ローヴァンが走る。
踏み込む。
跳ぶ。
巨人の腕を足場にさらに高く跳び上がる。
首筋。
一閃。
深く。
さらにもう一閃。
巨体が大きく揺れた。
巨人が咆哮を上げる。
最後の力で首を押し倒す。
轟音。
大地が震えた。
やがて森は静かになる。
ローヴァンは剣の血を払った。
「……強かった」
巨人はゆっくり立ち上がる。
ローヴァンを見る。
そして静かに頭を下げた。
言葉はない。
ローヴァンも頷く。
「礼はいらん」
巨人はガルスを抱え上げる。
数歩歩く。
そして振り返った。
ローヴァンを見る。
また歩き出す。
途中で、もう一度振り返る。
ローヴァンは苦笑した。
「……付いてこい、か」
巨人は嬉しそうに鼻を鳴らすと、森の奥へ歩き始めた。
ローヴァンはガルスの顔を見た。
まだ息はある。
剣を納める。
「案内してもらう」
そう呟くと、巨人の後を追って、誰も知らない森の奥へ消えていった。




