第二話 大峡谷
王都西方――大峡谷付近。
森は静かだった。
静かすぎた。
鳥は鳴かない。
虫の羽音も聞こえない。
風だけが木々を揺らしている。
ローヴァンは足を止めた。
しゃがみ込み、土へ触れる。
馬。
騎士。
荷馬車。
全部で数十人。
足跡は森の奥へ続いていた。
帰ってきた跡は、一つもない。
折れた枝。
削れた樹皮。
血。
倒れた荷馬車。
荷物だけが散乱していた。
金貨は残っている。
食料だけがなくなっていた。
「……持っていったか」
さらに進む。
折れた槍。
砕けた盾。
そして、一人目の騎士。
胸当ては大きく潰れ、剣を握ったまま息絶えていた。
ローヴァンは剣を見る。
途中から折れている。
「受けたな」
木を見る。
「飛ばされた」
血を見る。
「まだ新しい」
立ち上がる。
足は止めない。
やがて、人の声が聞こえた。
「兄さん!」
女の声だった。
ローヴァンは声の方へ歩く。
木々の隙間。
一人の騎士が倒れていた。
腹は裂け、左腕は折れ、全身が血で濡れている。
その隣で、白い薬師服の女が必死に傷口を押さえていた。
「兄さん!」
「しっかりして!」
「お願いだから目を開けて!」
女は手を止めない。
薬草を傷へ詰める。
布で血を押さえる。
震えている。
それでも指は止まらなかった。
ローヴァンは一歩近付く。
傷を見る。
「まだ死なん」
女が勢いよく振り返る。
「……本当ですか」
「ああ」
「肺まで届いてない」
女は小さく息を吐いた。
安心したように、その場へ座り込む。
すぐに首を振った。
「まだ……まだ終わってません」
もう一度薬草を取り出す。
その時だった。
騎士がゆっくり目を開く。
「……リーナ」
「兄さん!」
「しゃべらないで!」
「今縫うから!」
騎士は苦しそうに笑う。
そしてローヴァンを見る。
「……冒険者か」
「ああ」
「団長が……」
咳き込む。
血が溢れた。
リーナが首を振る。
「無理にしゃべらないで!」
それでも騎士は続けた。
「大峡谷へ……」
「落ちた」
ローヴァンの目が細くなる。
「ガルスか」
騎士は頷く。
「生きてるかは……分からない」
「団長だけ……そのまま」
そこで意識が遠のく。
「兄さん!」
リーナは脈を測る。
規則正しく打っていた。
「大丈夫……」
「気を失っただけ」
ローヴァンは周囲を見渡した。
木。
岩。
血。
そして崖へ向かって一直線に続く跡。
「……あっちか」
歩き出そうとした、その時だった。
ガサッ。
木の上で枝が鳴る。
ローヴァンの足が止まる。
音は一つではない。
右。
左。
上。
何かが枝から枝へ飛び移っている。
リーナも顔を上げた。
「……何ですか」
返事はない。
風が止んだ。
次の瞬間。
ドンッ――。
何かが二人の前へ降り立った。
土が跳ねる。
落ち葉が舞う。
立っていた。
赤黒い長い毛。
異様に長い腕。
黄金色の瞳。
腰には、騎士の剣が一本差してあった。
人ではない。
だが、獣とも違った。
そして、人間のように二本の脚で静かに立っている。
その視線は、ローヴァンではなく。
傷ついた騎士へ向けられていた。
怪物はゆっくりと騎士へ歩み寄った。
敵を前にしているとは思えないほど落ち着いている。
ローヴァンは剣を抜いた。
「下がれ」
リーナは兄を引きずるように後ろへ下がる。
怪物は二人を見ない。
足元へ転がる一本の剣を見つめていた。
騎士が最後まで握っていた剣だった。
だが、拾わない。
代わりに近くの岩を片手で持ち上げる。
リーナが息を呑む。
「そんな……」
岩は人の頭ほどもあった。
怪物は軽々と振りかぶる。
狙いはローヴァンではない。
リーナだった。
「っ!」
岩が唸りを上げる。
ローヴァンが一歩踏み込む。
剣が閃く。
岩は真っ二つに割れ、左右へ飛び散った。
その瞬間には、怪物はもう動いていた。
長い腕が木を掴む。
身体を振り上げる。
枝から枝へ飛ぶ。
頭上。
横。
背後。
姿が消える。
「速い……」
リーナが思わず声を漏らす。
次の瞬間。
太い枝が折れ、ローヴァンへ降ってきた。
避ける。
着地と同時に拳が迫る。
受け流す。
地面が砕ける。
土が舞う。
怪物は笑っているようだった。
遊んでいる。
ローヴァンは小さく息を吐く。
「……頭も回るか」
怪物は正面から来ない。
必ずリーナを巻き込める位置へ動く。
守りながらでは攻め切れない。
ローヴァンは少しずつ立ち位置を変えた。
一歩。
また一歩。
崖の方へ誘導する。
怪物も追う。
あと数歩。
その時だった。
怪物が笑みを浮かべる。
腰の剣へ手を掛けた。
ゆっくりと引き抜く。
リーナが青ざめる。
「武器まで……」
ローヴァンの口元がわずかに緩んだ。
「惜しかったな」
リーナが目を向ける。
「え……?」
「それを持たない方が強かった」
怪物は剣を構える。
見よう見まね。
ぎこちない。
それでも速い。
一歩踏み込む。
剣が一直線に振り下ろされる。
ローヴァンは半歩だけ動く。
刃は空を切った。
二撃。
三撃。
どれも速い。
だが。
直線だった。
怪物は初めて止まった。
ローヴァンは受け流しながら静かに言う。
「それは積み重ねる武器だ」
怪物が唸る。
力任せに剣を振る。
刃が木へ食い込んだ。
一瞬、止まる。
その隙だった。
ローヴァンが踏み込む。
一閃。
怪物の首が静かに宙を舞った。
巨体が崩れ落ちる。
森が静まり返る。
リーナは息を呑んだ。
ローヴァンから怪物へ視線を移す。
首が落ちている。
「……終わった」
ローヴァンは血を払い、剣を納める。
怪物を見下ろす。
「剣を覚えたら面倒だったな」
そう呟くと、兄のもとへ歩いた。
リーナは傷口を押さえ続けている。
兄はゆっくり目を開いた。
「……団長」
「助けようと……した」
「押し返されて……」
「そのまま」
咳き込む。
血が滲む。
「谷の底は……見えなかった」
そこで再び意識を失った。
リーナは傷口を押さえ直す。
「まだ助かります」
「兄さんは、まだ助かります」
ローヴァンは立ち上がる。
崖へ向かう。
リーナが声を上げた。
「待ってください!」
ローヴァンは止まる。
「この崖を降りるんですか」
「ああ」
「無茶です!」
「帰れなくなります!」
ローヴァンは崖を見下ろした。
底は見えない。
冷たい風だけが吹き上がってくる。
「ガルスは同郷だ」
静かな声だった。
「生きてるなら、この目で見る」
「死んでるなら、この目で見る」
「確かめずには帰れん」
リーナは兄の手を強く握る。
そして静かに頷いた。
「……待っています」
「だから」
「必ず戻ってきてください」
ローヴァンは小さく頷く。
「ああ」
崖の縁へ歩く。
谷底から吹き上がる風が、黒い外套を揺らした。
ローヴァンは暗闇を見下ろし、口元をわずかに緩める。
「ここから先は――」
「未踏破だな」




