第一話 地図の終わり
王都西方――死海の森。
王都から徒歩十五日。
人類が地図を描くことを諦めた、西の最先端。
ローヴァンは岩山の上に立ち、眼下の森を見下ろしていた。
森の中を、巨大な影が歩いている。
オーガ。
人類にとって、最大級の脅威とされる魔物だった。
一体でも並の冒険者では相手にならない。
本来、群れを作ったとしても数体程度。
だが。
ここだけは違った。
ローヴァンは目を細める。
見える範囲だけで五十。
さらに森の奥から、いくつもの煙が上がっていた。
焚き火ではない。
一定の間隔で立ち上る煙。
木を組んだ柵。
粗末な小屋。
獣の皮を張った屋根。
道らしきものまである。
街だった。
オーガが、街を作っている。
森の奥まで含めれば、おそらく数百。
ローヴァンはしばらく観察した。
オーガは本来、これほどの数では群れない。
ましてや街など作らない。
「上位種がいるな」
群れをまとめている何かがいる。
ローヴァンは腰の剣へ手を置いた。
この森を越えたい。
その先には、人類がまだ見たことのない世界がある。
だが。
見えるだけで五十。
実際には数百。
さらに、その全てをまとめる上位種。
ローヴァンは少し考えた。
「一人じゃ無理だな」
剣から手を離した。
無理なものは無理だ。
「ガルスに相談するか」
第三騎士団長、ガルス。
あの男なら、この光景を見ても笑うだろう。
二人でも足りない。
騎士団を動かせるなら、可能性はある。
問題は。
ローヴァンは森の向こうへ目を向けた。
さらに西。
オーガたちの街の、その先。
山が見える。
その向こうは見えない。
何があるのかも分からない。
ローヴァンは革袋から一枚の地図を取り出した。
広げる。
王都。
街道。
村。
森。
山。
川。
人類が長い年月をかけて歩き、調べ、描いてきた世界。
その地図は。
ここで終わっていた。
死海の森。
その先は白紙。
何も描かれていない。
ローヴァンは、その白紙をしばらく見つめた。
何がある。
どんな生き物がいる。
どんな景色がある。
分からない。
だから見たい。
だが、今日は行けない。
ローヴァンは地図を畳んだ。
革袋へ戻す。
「帰るか」
岩山を下り始めた。
この時。
ローヴァンはまだ知らない。
この日を境に。
自分の地図が、世界ごと書き換わることを。
――アルネ村近郊。
西方アルネの森。
死海の森から八日程歩いていた。
森は静かだった。
静かすぎた。
鳥の声がない。
虫の羽音もない。
風だけが木々を揺らしている。
ローヴァンは足を止めた。
遠くから音が聞こえる。
枝が折れる音。
荒い息。
そして。
「うわああああっ!」
少年の声。
ローヴァンは音の方へ歩いた。
木々の奥。
一人の少年が必死に走っている。
足がもつれる。
転ぶ。
立つ。
また走る。
その後ろ。
黄色い目がいくつも見えた。
ゴブリン。
十。
二十。
もっといる。
少年が振り返った。
その瞬間。
木の根に足を取られた。
「うわっ!」
地面へ倒れる。
振り向く。
ゴブリンの群れが迫っていた。
その奥。
一際大きな影が歩いてくる。
大人ほどの背丈。
異様に太い腕。
丸太ほどの棍棒。
少年の顔から血の気が引いた。
終わった。
そう思った。
その時だった。
一人の男が、少年の前へ出た。
黒い外套。
使い古された革靴。
右頬を走る一本の古い傷。
男は静かに剣を抜いた。
「走れ」
低い声だった。
少年は動けない。
巨大なゴブリンが棍棒を振り上げた。
男へ向けて振り下ろす。
カン――。
乾いた音が森へ響いた。
少年は目を見開いた。
棍棒が真っ二つになっていた。
遅れて。
巨大なゴブリンの体が崩れ落ちる。
男は一歩も動いていなかった。
「止まるな」
「……っ!」
少年は立ち上がった。
走る。
一度だけ振り返る。
ゴブリンが男に、一斉に飛び掛かる。
一閃。
また一閃。
黄色い目が次々と消えていく。
気づけば森は静かになった。
男は剣についた血を払った。
足元にはゴブリンの山ができていた。
――数日後。
王都。
冒険者ギルド二階。
ここへ上がれるのは、C級以上の冒険者だけだった。
昼前。
酒を飲む者、依頼書を眺める者、仲間と次の仕事を相談する者。
いつもと変わらない光景だった。
窓際。
一人の男が依頼掲示板を眺めている。
黒い外套。
使い古された革靴。
右頬を走る一本の古い傷。
ローヴァンだった。
依頼書を何枚か見た。
護衛。
採取。
討伐。
どれも違う。
受付嬢が苦笑しながら声を掛けた。
「ローヴァンさん」
「何だ」
「何を探してるんですか?」
「未踏破」
「またですか?」
「ああ」
「死海の森調査へ行ったばかりですよね」
「ああ」
「何かありました?」
ローヴァンは少し考えた。
「オーガが増えた」
「何体です?」
「数百」
受付嬢の笑顔が止まった。
「街を作っていた」
二階にいた冒険者たちが振り向く。
「オーガ数百?」
「街って言わなかったか?」
ざわめきが広がり始めた。
その時だった。
階段を駆け上がる音が響いた。
「皆さん!」
一人の受付嬢が二階へ駆け込んできた。
手には一枚の依頼書。
「ギルド長から緊急依頼です!」
空気が変わった。
冒険者たちが受付嬢を見る。
「西方アルネ村近郊の森で、ゴブリンの巣が確認されました!」
ローヴァンの手が止まった。
「確認されているだけで五十以上。上位種もいる可能性があります」
一人の冒険者が眉をひそめる。
「五十?」
「ああ、面倒だな」
「村までどれくらいだ?」
「徒歩八日です」
「馬車で三日か」
「危険度は?」
「緊急依頼です。被害が広がれば赤紙になります」
ざわり。
空気が少し重くなる。
「報酬は?」
「金貨十二枚」
「安いな」
「馬車代引いたら赤字だ」
「五十に上位種だぞ」
「せめて四人は欲しい」
「A級が一人は必要だ」
受付嬢が全員を見回す。
「どなたか受けられる方はいませんか?」
誰もすぐには手を挙げない。
その時。
「もういない」
声がした。
受付嬢が振り向く。
ローヴァンは依頼掲示板を見たままだった。
「……何がですか?」
「ゴブリンだ」
「はい?」
「その巣なら、もうない」
二階が静まり返った。
受付嬢が瞬きをする。
「……どういう意味でしょうか」
「帰り道にいた」
「帰り道?」
「アルネの森だろ」
「そうです」
「なら同じだ」
「ちょっと待ってください」
受付嬢が依頼書を見る。
もう一度ローヴァンを見る。
「いつです?」
「六日前」
「何をしたんですか?」
「駆除した」
「……一人で?」
「ああ」
「五十以上ですよ?」
「ああ」
「上位種もいた可能性が――」
「いた」
「いたんですか!?」
「ああ」
酒を飲んでいた冒険者が立ち上がった。
「おい、ローヴァン」
「何だ」
「巣を潰したって、全部か?」
「全部だ」
「……討伐証明は?」
ローヴァンが受付嬢を見る。
「必要か?」
「必要です!」
「外だ」
「……外?」
「置いてある」
「どうして外なんですか?」
「重い」
受付嬢は額を押さえた。
「確認してきます……」
階段を下りていく。
数十秒後。
「きゃああああっ!」
悲鳴が響いた。
二階にいた冒険者たちが一斉に立ち上がる。
階段を駆け下りた。
ギルドの外。
石畳の上。
巨大な首が転がっていた。
ゴブリン。
そう呼ぶには、あまりにも大きい。
大人の男より太い首。
牙。
額から伸びた一本の角。
誰も近寄らない。
「……上位種か?」
「こんなの見たことねぇぞ」
「これを一人で?」
受付嬢がローヴァンを見る。
「これが巣に?」
「ああ」
「危険度は?」
「知らん」
「強かったですか?」
ローヴァンは少し考えた。
「オーガより弱い」
「比較対象がおかしいです!」
誰かが吹き出した。
笑いが広がる。
受付嬢は深く息を吐いた。
「……確認します。緊急依頼についてはギルド長へ報告します」
「ああ」
ローヴァンは二階へ戻った。
また依頼掲示板の前へ立つ。
「未踏破はないのか」
「今それ聞きます?」
「ああ」
受付嬢が呆れたように息を吐いた。
「本当にそればっかりですね」
ローヴァンは黒パンを一つ注文した。
窓際へ座る。
袋から地図を取り出した。
開く。
西を見る。
死海の森。
その先の白紙。
「ガルスが戻ったら――」
そう呟いた時だった。
ギィ……。
扉が開いた。
笑い声が止まった。
ギルド長が入ってくる。
その顔を見ただけで。
誰も口を開かなくなった。
手には、一枚の紙。
端まで赤く染められていた。
赤紙。
先ほどの緊急依頼とは違う。
ギルドが、冒険者へ出す最高度の警告。
ギルド長は二階を見回した。
「赤紙だ」
誰も笑わない。
「王都西方、大峡谷付近」
ローヴァンが顔を上げた。
「第三騎士団が消息を絶った」
椅子が鳴った。
一人の冒険者が立ち上がる。
「第三騎士団?」
「ガルス団長のところか?」
「ああ」
「バカな」
「ガルスは武闘会の優勝候補だぞ」
「騎士団ごとか?」
「確認できている限りではな」
ギルド長は続けた。
「予定日を過ぎても帰還せず、偵察隊を出した」
「その偵察隊も戻っていない」
二階から音が消えた。
ローヴァンが立ち上がる。
「ガルスもか」
ギルド長が見る。
「ああ」
ローヴァンは少しだけ黙った。
「最後に確認された場所は」
「大峡谷の森だ」
「相手は?」
「不明」
「生存者は」
「確認できていない」
「谷へ落ちた可能性は?」
「ある」
「谷底は」
ギルド長が一瞬黙った。
「分からん」
ローヴァンの目が動いた。
「調査されていないのか」
「ああ」
ギルド長は赤紙を机へ置いた。
「地図にない」
ローヴァンは赤紙を取った。
「行く」
「おい」
一人の冒険者が声を上げる。
「待ってくれ」
ローヴァンが見る。
「何がいるのかすら分からねぇ」
「情報がなさすぎる」
ローヴァンは赤紙を畳んだ。
「だからだ」
「……何?」
「分からないんだろ」
「ああ」
「なら行く」
革袋を肩へ掛ける。
黒パン。
干し肉。
水袋。
薬草。
針と糸。
地図。
それだけだった。
「ローヴァン」
ギルド長が呼ぶ。
足を止める。
「死ぬなよ」
「ああ」
ローヴァンは扉を開けた。
外へ出る。
ギィ……。
扉が閉まった。
二階には、しばらく誰も口を開く者はいなかった。
王都西方――大峡谷付近。
木々の奥。
一人の騎士が倒れていた。
鎧は砕けている。
剣は折れている。
その傍らへ。
巨大な影がしゃがみ込んだ。
赤黒い長い体毛。
人間より遥かに大きな体。
黄金色の瞳。
影は騎士の鉄兜を拾った。
眺める。
指へ力を込めた。
ギリッ。
鉄へ指が食い込む。
そのまま。
紙のように潰れた。
足元には、折れた剣が何十本も転がっている。
影はその中から一本を拾った。
まだ折れていない騎士の剣。
柄を握る。
一度。
振った。
止まる。
剣を見る。
もう一度。
振る。
先ほどより。
わずかに速かった。
黄金色の瞳が剣を見つめる。
そして。
その怪物は。
ゆっくりと騎士の剣を腰へ差した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ローヴァンと共に、地図の先を歩いていただけたら嬉しいです。
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