第9話: 数字という名の嘘の予算
廊下の突き当たりに、スポンサー看板の枠が三本並んで立て掛けてあった。
設営スタッフが幕を張っている。ふだんの回では使わない照明架台が組まれて、天井に向かって伸びていた。受付のカウンターに、見慣れないバインダーが置いてある。表紙に「コラボ出演:ライカ(A2)担当」と書いてあった。
私はそれを一秒見てから、打ち合わせ室に向かった。
ドアを開けると、ホワイトボードにはすでに数字が並んでいた。
クロエさんが振り向かずにマーカーを動かしている。ハルさんは机の端に腰を下ろして、ボードのほうを向いていた。
「今日はゲストを入れる」
「ゲストですか」
「A2ランクの探索者だ。ライカという。実力で知られてる。協会の推薦枠でコラボが入った。今日だけの特別枠」
「今日の流れを話す。ゲストが先行して入る。ハルは後から合流する」
「ゲストが先行、ということは——そちらのほうが格上に見えませんか」
「そう見える。それが狙いだ」
マーカーで縦線を引いた。
「人は絶対値でなく差で感じる。先に"比較される天井"を置くと、次に出たものが全部小さく見える」
「ハルさんが小さく見える」
「格上のゲストが先に本物の実力を見せる。観客はその基準で次を見る。ハルが後から入ると、比較で小さく映る」
「それが都合のいい理由は」
「小さく見えるものが大きなことをやると、印象が跳ね上がる。ゲストには当然のことが、ハルには奇跡に見える。天井があるから、その下のものが際立つ」
ペンを止めた。
「今日の仕掛けはそれだけだ。最初に天井を置く。後で観客の感情を最大化させる」
ハルさんがボードを一度だけ見た。それだけだった。
「数字は後で確認させる。始まる前に頭に入れとけ」
ゲストが来たのは本番一時間前だった。
ライカと名乗った女性は背が高くて動作が少なかった。部屋に入った瞬間、視線が室内を一周した。ハルさんには止まらなかった。探索者の認識票を下げて、クロエさんに向かって言った。
「本当に一緒にやるなら、台本より本気でいきたい」
クロエさんがマーカーを持ったまま止まった。
私が今まで見てきた中で、クロエさんが止まる瞬間は初めてだった。
「……構成は確認してもらいましたか」
「見た。流れはそれでいい。でも細かい動きは本気でやりたい」
ハルさんが立ち上がった。
「じゃあ本気でどうぞ。こちらは台本通りでいく」
ライカさんが振り返った。ハルさんはそのまま続けた。
「本気でやってもらったほうが助かります。台本の効果が上がる」
出口に向かって歩いて、部屋を出ていった。
クロエさんがライカさんに向かって言った。
「問題ない。本気でどうぞ」
空のカップを一度だけ見た。コーヒーはまだ入っていなかった。
会場に入ると、席の数がいつもと違うのがすぐ分かった。
ふだんの興行の倍以上あった。すり鉢状の客席が奥まで広がって、最後列が照明の端に消えかかっている。ステージ後方の壁にスポンサーの大型看板が三枚並んでいた。ネオンの光が紫と金色で脈打って、最前列まで届いていた。照明の数がいつもより多くて、白くなく色がついていた。足元から熱気が上がってくる感覚があった。
コメントが流れ始めた。
「でかい!!今日の会場デカすぎる!!!」
「コラボって本当だった!!!!」
「ライカさんだ!!本物!!!!」
「ハルとのコラボとか強すぎる枠では」
最初にステージに出たのはライカさんだった。
照明が正面から当たった瞬間、場が変わった。
観客の声のトーンが一段落ちた。ふだんの応援ではなく、何かを確認するような短い声が会場に散った。
魔物が二体同時に動いた。ライカさんの体が半歩、右にずれた。それだけで両方が倒れていた。
観客が一拍だけ黙った。コメントが一秒止まった。声より先に決着がついていた。次の秒に歓声が来た。
「……なんだこれ」
「本物だ。本物の探索者だ」
「強い……普通に強い」
「ハルとは違う次元」
コメントに「すごい」ではなく「強い」という字が並んでいた。
また二体来た。また一手で終わった。ライカさんの体の向きがほんの少し変わる瞬間があった。その直後に決着がついていた。何をやったのか、私には追えなかった。
観客が声を出すのを忘れる瞬間があった。見入っているから声が出ない。コメントが流れる速度が、一呼吸だけ落ちた。
「すごいじゃなくて、うまいんだ」
「本物だから、歓声が出ない」
ふだんの興行とは、声の出し方が違った。
「ハルが来ても対等にやれる雰囲気じゃないな」
「今日のハル、どうなるんだ」
「ライカがいて、どうやって勝てる」
ライカさんが中央に立った。一段落したサインだった。
次のタイミングでハルさんが入ってきた。
「ハルきた!!!!!!」
「ライカさんいるじゃん!!!!」
「これ勝てる……?」
「ライカさんと比べると……さすがにな」
コメントが変わっていた。
仕込みを知っているのに、「さすがにな」と流れるコメントを見た瞬間、一秒だけ本気でそう思った。
私はオペレーター席の端で画面を見ていた。クロエさんが隣で端末を読んでいる。
「比べてます。ライカさんのほうが強く見えてる」
「そうだ」
「でもコメントの数、ハルさんのほうが多い気がします」
「そうだ」
端末から目を離さずに続ける。
「強いものが強いのは当然だ。当然のことには、あまり声が出ない」
「ハルさんには出る」
「不利な状況で戦っているから、応援が本気になる。天井があるぶん、その下にいるものへの感情が乗る」
ハルさんが序盤から一歩遅れていた。ライカさんの後という順番で、観客の目に比較が刷り込まれている。何をしても「ライカより」という基準が先にあった。
「がんばれ!!!!!!!!!!!!」
「ライカがいるのに!!!!!!!!」
「ひとりで戦ってる!!!!!!!!!!!!!!」
「この状況でどうやって抜けるんだ!!!!!!!!!!!!」
コメントの密度が上がっていた。ライカさんのときより、明らかに高かった。
終盤、ハルさんの動きが変わった。
私はモニターの画面を、前のめりになって見ていた。
ライカさんが動くはずだったタイミングがあった。そこにハルさんが先に入った。
私は設計を忘れていた。さっき部屋で聞いた説明の全部を。天井を置く。差で感じさせる。ライカを先に出す——全部聞いた。それでも今、画面の中で起きていることを、設計として見られなかった。
「うわああ!!!!!!!!!!!!!!!!」
「ひとりで!!!!!!!!!!!!!!」
「ライカさんいるのに!!!!!!!!!!!!!!」
「なんで抜けられてるんだ!!!!!!!!!!!!」
さっきまで、ライカさんが天井だった。
そのライカさんがいる高さと同じ場所に、ハルさんが上がっていた。コメントの一個一個に「ライカより」という基準が刷り込まれていたから、その基準が今ひっくり返っている音がした。
台本の通りだったのだと、後から分かった。でも、そのとき私は設計を全部忘れていた。
クロエさんが端末を見たまま言った。
「数字、ついた」
ライカさんがステージの端に立って、それを見ていた。台本の流れと、起きていることの意味を同時に見ているような顔だった。
照明が落ちてから、クロエさんが荷物置き場の端に机を出していた。
折り畳みの机の上に、帳簿が開かれていた。紙のファイルだった。
廊下から、観客の声の余韻がまだ入ってきていた。さっきまでの熱が、帳簿の紙の白さと並んでいた。
「今日の収支を確認しとけ」
「はい」
「設営費、八〇〇万。魔物の調教個体の使用料と輸送、三〇〇万。クルー人件費、一九〇万。会場の拡張分、一六〇万。ゲスト謝礼と交通費、六〇万。その他、一〇〇万」
「合計は」
「一六一〇万を超える。収益は配信と客席と協賛で二三〇〇万超の見込みだ。これで黒字になる」
「一回の興行でそれだけ動くんですね」
「コンは商売だ」
ページをめくった。
「今日のアンカリングの仕組み、分かったか」
「天井を置くと、その下のものが際立つ」
「それだけじゃない。観客は一度"差"を感じると、そこに感情が乗る。ハルがライカより小さく見えた分だけ、逆転の瞬間にコメントが集まった。感情の乗った応援は拡散する。切り抜きになって、新規が入る。それが次回の大型回の根拠になる」
「数字が数字を呼ぶ」
「そうだ」
もう一枚ページをめくった。私も同じページを見ていた。
明細の末尾に、一行あった。
欄の左、名前が入るはずのところが横線だけになっていた。
——への仕送り 三二〇万
文字の意味が、脳に届くのに一瞬かかった。仕送り。仕送りだ。
数字は魔物の調教個体の輸送費より大きかった。
「……これは」
口から出てから、止まった。
クロエさんの指がファイルの端を押さえた。パタン、という音がして、帳簿が閉じた。私の視線に気づいていないか、気づいていて動いていないか、どちらかだった。
「以上だ。分からなかったことは次までにまとめとけ」
帳簿をファイルに戻した。立ち上がって、カップを手に持った。コーヒーが入っていないのを確認して、机に戻した。
部屋を出ていく前に振り返らなかった。
私は折り畳み机の上を見ていた。帳簿は閉じられていた。
三二〇万という数字が、頭の中に残っていた。欄の左側の、名前が入るはずの場所には、ダッシュしかなかった。
——への仕送り。
今日の興行で黒字になった数字の中に、それが入っていた。
誰への仕送りなのか、私には訊けなかった。




