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9/10

第9話: 数字という名の嘘の予算

 廊下の突き当たりに、スポンサー看板の枠が三本並んで立て掛けてあった。


 設営スタッフが幕を張っている。ふだんの回では使わない照明架台が組まれて、天井に向かって伸びていた。受付のカウンターに、見慣れないバインダーが置いてある。表紙に「コラボ出演:ライカ(A2)担当」と書いてあった。


 私はそれを一秒見てから、打ち合わせ室に向かった。


 ドアを開けると、ホワイトボードにはすでに数字が並んでいた。


 クロエさんが振り向かずにマーカーを動かしている。ハルさんは机の端に腰を下ろして、ボードのほうを向いていた。


「今日はゲストを入れる」


「ゲストですか」


「A2ランクの探索者だ。ライカという。実力で知られてる。協会の推薦枠でコラボが入った。今日だけの特別枠」


「今日の流れを話す。ゲストが先行して入る。ハルは後から合流する」


「ゲストが先行、ということは——そちらのほうが格上に見えませんか」


「そう見える。それが狙いだ」


 マーカーで縦線を引いた。


「人は絶対値でなく差で感じる。先に"比較される天井"を置くと、次に出たものが全部小さく見える」


「ハルさんが小さく見える」


「格上のゲストが先に本物の実力を見せる。観客はその基準で次を見る。ハルが後から入ると、比較で小さく映る」


「それが都合のいい理由は」


「小さく見えるものが大きなことをやると、印象が跳ね上がる。ゲストには当然のことが、ハルには奇跡に見える。天井があるから、その下のものが際立つ」


 ペンを止めた。


「今日の仕掛けはそれだけだ。最初に天井を置く。後で観客の感情を最大化させる」


 ハルさんがボードを一度だけ見た。それだけだった。


「数字は後で確認させる。始まる前に頭に入れとけ」




 ゲストが来たのは本番一時間前だった。


 ライカと名乗った女性は背が高くて動作が少なかった。部屋に入った瞬間、視線が室内を一周した。ハルさんには止まらなかった。探索者の認識票を下げて、クロエさんに向かって言った。


「本当に一緒にやるなら、台本より本気でいきたい」


 クロエさんがマーカーを持ったまま止まった。


 私が今まで見てきた中で、クロエさんが止まる瞬間は初めてだった。


「……構成は確認してもらいましたか」


「見た。流れはそれでいい。でも細かい動きは本気でやりたい」


 ハルさんが立ち上がった。


「じゃあ本気でどうぞ。こちらは台本通りでいく」


 ライカさんが振り返った。ハルさんはそのまま続けた。


「本気でやってもらったほうが助かります。台本の効果が上がる」


 出口に向かって歩いて、部屋を出ていった。


 クロエさんがライカさんに向かって言った。


「問題ない。本気でどうぞ」


 空のカップを一度だけ見た。コーヒーはまだ入っていなかった。




 会場に入ると、席の数がいつもと違うのがすぐ分かった。


 ふだんの興行の倍以上あった。すり鉢状の客席が奥まで広がって、最後列が照明の端に消えかかっている。ステージ後方の壁にスポンサーの大型看板が三枚並んでいた。ネオンの光が紫と金色で脈打って、最前列まで届いていた。照明の数がいつもより多くて、白くなく色がついていた。足元から熱気が上がってくる感覚があった。


 コメントが流れ始めた。


「でかい!!今日の会場デカすぎる!!!」


「コラボって本当だった!!!!」


「ライカさんだ!!本物!!!!」


「ハルとのコラボとか強すぎる枠では」


 最初にステージに出たのはライカさんだった。


 照明が正面から当たった瞬間、場が変わった。


 観客の声のトーンが一段落ちた。ふだんの応援ではなく、何かを確認するような短い声が会場に散った。


 魔物が二体同時に動いた。ライカさんの体が半歩、右にずれた。それだけで両方が倒れていた。


 観客が一拍だけ黙った。コメントが一秒止まった。声より先に決着がついていた。次の秒に歓声が来た。


「……なんだこれ」


「本物だ。本物の探索者だ」


「強い……普通に強い」


「ハルとは違う次元」


 コメントに「すごい」ではなく「強い」という字が並んでいた。


 また二体来た。また一手で終わった。ライカさんの体の向きがほんの少し変わる瞬間があった。その直後に決着がついていた。何をやったのか、私には追えなかった。


 観客が声を出すのを忘れる瞬間があった。見入っているから声が出ない。コメントが流れる速度が、一呼吸だけ落ちた。


「すごいじゃなくて、うまいんだ」


「本物だから、歓声が出ない」


 ふだんの興行とは、声の出し方が違った。


「ハルが来ても対等にやれる雰囲気じゃないな」


「今日のハル、どうなるんだ」


「ライカがいて、どうやって勝てる」


 ライカさんが中央に立った。一段落したサインだった。


 次のタイミングでハルさんが入ってきた。


「ハルきた!!!!!!」


「ライカさんいるじゃん!!!!」


「これ勝てる……?」


「ライカさんと比べると……さすがにな」


 コメントが変わっていた。


 仕込みを知っているのに、「さすがにな」と流れるコメントを見た瞬間、一秒だけ本気でそう思った。


 私はオペレーター席の端で画面を見ていた。クロエさんが隣で端末を読んでいる。


「比べてます。ライカさんのほうが強く見えてる」


「そうだ」


「でもコメントの数、ハルさんのほうが多い気がします」


「そうだ」


 端末から目を離さずに続ける。


「強いものが強いのは当然だ。当然のことには、あまり声が出ない」


「ハルさんには出る」


「不利な状況で戦っているから、応援が本気になる。天井があるぶん、その下にいるものへの感情が乗る」


 ハルさんが序盤から一歩遅れていた。ライカさんの後という順番で、観客の目に比較が刷り込まれている。何をしても「ライカより」という基準が先にあった。


「がんばれ!!!!!!!!!!!!」


「ライカがいるのに!!!!!!!!」


「ひとりで戦ってる!!!!!!!!!!!!!!」


「この状況でどうやって抜けるんだ!!!!!!!!!!!!」


 コメントの密度が上がっていた。ライカさんのときより、明らかに高かった。


 終盤、ハルさんの動きが変わった。


 私はモニターの画面を、前のめりになって見ていた。


 ライカさんが動くはずだったタイミングがあった。そこにハルさんが先に入った。


 私は設計を忘れていた。さっき部屋で聞いた説明の全部を。天井を置く。差で感じさせる。ライカを先に出す——全部聞いた。それでも今、画面の中で起きていることを、設計として見られなかった。


「うわああ!!!!!!!!!!!!!!!!」


「ひとりで!!!!!!!!!!!!!!」


「ライカさんいるのに!!!!!!!!!!!!!!」


「なんで抜けられてるんだ!!!!!!!!!!!!」


 さっきまで、ライカさんが天井だった。


 そのライカさんがいる高さと同じ場所に、ハルさんが上がっていた。コメントの一個一個に「ライカより」という基準が刷り込まれていたから、その基準が今ひっくり返っている音がした。


 台本の通りだったのだと、後から分かった。でも、そのとき私は設計を全部忘れていた。


 クロエさんが端末を見たまま言った。


「数字、ついた」


 ライカさんがステージの端に立って、それを見ていた。台本の流れと、起きていることの意味を同時に見ているような顔だった。




 照明が落ちてから、クロエさんが荷物置き場の端に机を出していた。


 折り畳みの机の上に、帳簿が開かれていた。紙のファイルだった。


 廊下から、観客の声の余韻がまだ入ってきていた。さっきまでの熱が、帳簿の紙の白さと並んでいた。


「今日の収支を確認しとけ」


「はい」


「設営費、八〇〇万。魔物の調教個体の使用料と輸送、三〇〇万。クルー人件費、一九〇万。会場の拡張分、一六〇万。ゲスト謝礼と交通費、六〇万。その他、一〇〇万」


「合計は」


「一六一〇万を超える。収益は配信と客席と協賛で二三〇〇万超の見込みだ。これで黒字になる」


「一回の興行でそれだけ動くんですね」


「コンは商売だ」


 ページをめくった。


「今日のアンカリングの仕組み、分かったか」


「天井を置くと、その下のものが際立つ」


「それだけじゃない。観客は一度"差"を感じると、そこに感情が乗る。ハルがライカより小さく見えた分だけ、逆転の瞬間にコメントが集まった。感情の乗った応援は拡散する。切り抜きになって、新規が入る。それが次回の大型回の根拠になる」


「数字が数字を呼ぶ」


「そうだ」


 もう一枚ページをめくった。私も同じページを見ていた。


 明細の末尾に、一行あった。


 欄の左、名前が入るはずのところが横線だけになっていた。


  ——への仕送り   三二〇万


 文字の意味が、脳に届くのに一瞬かかった。仕送り。仕送りだ。


 数字は魔物の調教個体の輸送費より大きかった。


「……これは」


 口から出てから、止まった。


 クロエさんの指がファイルの端を押さえた。パタン、という音がして、帳簿が閉じた。私の視線に気づいていないか、気づいていて動いていないか、どちらかだった。


「以上だ。分からなかったことは次までにまとめとけ」


 帳簿をファイルに戻した。立ち上がって、カップを手に持った。コーヒーが入っていないのを確認して、机に戻した。


 部屋を出ていく前に振り返らなかった。


 私は折り畳み机の上を見ていた。帳簿は閉じられていた。


 三二〇万という数字が、頭の中に残っていた。欄の左側の、名前が入るはずの場所には、ダッシュしかなかった。


 ——への仕送り。


 今日の興行で黒字になった数字の中に、それが入っていた。


 誰への仕送りなのか、私には訊けなかった。

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