第10話: 好きって、誰のもの
会場に入った瞬間、音が壁になっていた。
いつもの倍の、そのまた倍だった。すり鉢の底まで人で埋まって、最後列が天井の闇に溶けている。
ステージ正面の巨大ビジョンを、コメントが滝になって流れていた。読める速さではなかった。スパチャの効果音が途切れずに鳴り続けている。一件鳴るたびに、客席のどこかで小さな歓声が上がった。
同時接続の数字が、画面の隅で回り続けていた。けたがひとつ多い。
私はオペレーター席の端に座っていた。クロエさんが隣で四つの画面を同時に見ている。
「今日は最後まで席を立つな」
「分かりました。あの、この同接って——」
「過去最高だ。倍以上ある」
「倍、ですか」
「今日でひとつ完成する。見とけ」
何が、とは言わなかった。
「今日のために有給取った!!!!」
「最前の者だけど、もう空気が違う!!」
「ハル!! ハル!! ハル!!!!」
「右ァ!! 左に負けてるぞ!!」
「全員こぶし上げろ!!」
「上がってないやつ、配信バレてるからな!!!!」
名前を呼ぶ声が波になって会場を回っていた。
誰かが始めて、隣が乗って、塊になる。コールの形がもう出来上がっていた。
観客が自分たちで音頭を取っていた。運営はマイクで一言も煽っていない。客が客を動かしていた。
でも、私は知っていた。
この「自分たちで」が作られたものだということを。
「クロエさん。今の『右と左』のコール」
「ああ」
「先週、リストに足した名前のアカウントが最初に投げてます」
「よく見てる。そうだ。最初のひと転がしだけ、こっちが押す。あとは勝手に転がる」
マウスのホイールを一度回した。
「転がり始めたら、もう客のものだ。客が自分で叫んでると客が思う。それでいい」
足の裏から、振動が上がってきた。あの熱は誰が作ったんだろうと思った。
画面を見ているうちに、いやな感じで、いろんなものが繋がり始めていた。
最初の回、観客はハルさんを見下していた。弱いと笑っていた。あれは逆転を高く跳ねさせるためだった。
その次は、みんなが好きだと思わせた。サクラを混ぜて好きの形を見せた。
次は、最後の一枠だと煽った。見逃す損を二倍に感じさせた。
次は、先に手紙を配った。借りを作らせた。
次は、最後を見せた。引退試合に見立てて、幕切れの一秒だけを記憶に刻ませた。
次は、小さなコメントをひとつ打たせた。名前を叫ばせた。立たせた。
昨日は、格上を先に出して、その下でハルさんを大きく見せた。
全部、別々の回の、別々の手口だと思っていた。
違った。
「クロエさん」
「なんだ」
「ぜんぶ……同じことだったんですね」
「どういう意味だ。言ってみろ」
「笑わせる。叫ばせる。打たせる。流させる。立たせる。やってることが違うだけで——全部、客に『何かをやらせて』ます」
クロエさんが初めて画面から目を上げた。一秒だけ私のほうを見た。
「やらせた分だけ、どうなる」
「客が……『自分がやった』と思う」
「そうだ」
また画面に目を戻した。
「名前を叫ばせて、涙を流させて、こぶしを作らせる。その全部を客が自分の手でやる。やったのは自分だ。誰のせいにもできない」
「だから——」
「自分がハルを勝たせたと思う。叫んだのも泣いたのも自分だからな。だから誰より深く好きになる」
「……信者だ」
「信じた者が信者になる。今日でその仕組みが回りきる」
声に力みはなかった。事実を読み上げているだけの声だった。
それがいちばん効いた。
会場の二万人が、自分の手でハルさんを担ぎ上げている顔をしていた。
誰も、担がされているとは思っていなかった。
その手を動かしてきたのは、私でもあった。
初めてサクラの十一番を押したのもこの指だ。抽選の数字に手を入れたのも、段取りの一行を覚えたのも。観客に何かをやらせる側に、私はもう何度も立っていた。
外から仕掛けを眺めていたつもりで、ずっと内側にいた。
そのとき、コメントの色が一か所だけ変わった。
「これ、作られた空気じゃね?」
打ったのはカゲさんだった。仕込みの、疑う役。
いつもの段取りなら、この一行は流れて消える。
消えなかった。
「言われてみれば不自然」
「コールの最初、毎回同じIDじゃね?」
「サクラ多すぎだろ正直」
別のアカウントが次々に乗った。仕込みじゃないアカウントだった。
「クロエさん、これ」
「本物のアンチが出てきたな。カゲの火が、燃やす予定のなかった場所に飛んだ」
「止めますか」
「待て。見てろ」
コメント欄が二つに割れた。
「はぁ? 何が作られた空気だよ」
「こっちはずっと応援してきたんだよ!!」
「にわかは黙ってろ!!!!」
「今日の同接で何言ってんだアンチ!!」
守る側がいきなり強くなった。
さっきまで応援していた人たちが、今度は別の相手に牙を向けていた。声の矛先が変わっただけで、熱はそのまま乗り換わっていた。
「クロエさん、守る側が……勝手に戦ってます」
「そうだ。ここだ」
クロエさんの手が速くなった。止める動きは、一ミリもなかった。画面をいくつも切り替えた。
「一貫性のコミットを今出す。予定より十分早いが」
「前倒しで、いいんですか」
「ここまで叫んだやつは、もう引けない。引いたら自分の今までが嘘になる。だから守る」
固定コメントが切り替わった。
「ここまで一緒に応援してくれた、あなたへ」
その一行が画面のいちばん上に留まった。
「その意地を、今、薪にくべる」
守る側がそれを旗にした。
「そうだよ俺たちが作ってきたんだよ!!」
「最初からいる!! 文句あるか!!!!」
二分割が片側に大きく傾いていく。疑う声は応援の波に巻かれて、奥へ流れて見えなくなった。
火は消したのではなかった。
大きいほうの火に足したのだった。
「……消さないんですね」
「消す必要がない。燃やせば、こっちの薪になる」
ステージで、ハルさんが最後の構えに入っていた。
いつもなら、ここで決めの一言が来る。観客に向かって両腕を大きく広げる。
その手前で、ハルさんが一度だけ止まった。
マイクに息がかかった。
「……見ててくれ」
それだけだった。
会場に向けてでも、配信に向けてでもなかった。腕も広げなかった。声も張らなかった。
いつもの、五万人に語りかける声じゃなかった。
私は、その一言だけ台本で読んだ覚えがなかった。
上演が一瞬だけ止まった。
隣で、クロエさんの手も止まっていた。
「クロエさん。今の」
「……台本にない」
それだけ言って、また画面に戻った。
誰に言ったのか分からなかった。たぶん、誰にも言っていなかった。
次の秒には、もういつものハルさんに戻っていた。腕を広げて、最後の一手が決まって、会場が割れた。
二万人が立ち上がっていた。
全員が、自分の手でここまで来たという顔をしていた。
自分で叫んで、自分で泣いて、自分で勝たせた。
だから誰より深く好きになる。
その「好き」は、誰のものなんだろう。
客のものなのか。作った側のものなのか。私の指が押したボタンの分も、あの好きには混じっているのか。
答えは出なかった。出したくない気もした。
ただ、さっきの「見ててくれ」だけが、この会場で唯一、誰のものでもない声だった。
売り物の声じゃなかった。あれだけが。
あの声を聴いて私の中に残ったこれは——誰のものに、なるんだろう。
照明が落ちた。クロエさんが端末を閉じる前に、最後の数字を見ていた。
同接も収益も、けたが変わっていた。これまでのどの回とも違う数字だった。
「今日の数字、見るか」
「見ます」
「過去最高だ。一気に二段上がった」
クロエさんがその数字を見たまま、小さく言った。
「この数字、そろそろ縣に見られる頃だな」
「縣?」
訊いた。
クロエさんが端末の画面を消した。
「寝ろ、新入り。明日も朝からだ」
立ち上がってカップを取った。コーヒーはまた入っていなかった。
それを一度見て、机に戻した。
部屋を出ていく前に振り返らなかった。
私は、暗くなった画面を見ていた。
縣。
誰の名前なのか、私は知らなかった。
ただ、クロエさんが数字を見ながら誰かの名前を出したのは初めてだった。
いつも数字の話で終わる人が、今日だけ、数字の先に人の名前を置いた。
それがずっと頭に残っていた。




