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第8話: 一時間前の絶体絶命

 打ち合わせ室の蛍光灯は、白くて平らな光をしていた。


 ステージの照明とはまるで違う。あっちは色があって陰があって、観客の目に力を持って落ちてくる。こっちは何も盛らない、事実だけの光だ。


 壁際のホワイトボードに、マーカーの書き込みが詰まっていた。フローチャートの縦線と横線、数字と矢印、タイムラインと思しき区切り。私が入ったときにはすでに半ページ埋まっていた。


「来た。座れ」


 クロエさんが振り返らずに言った。


 空きカップが机の端に置いてある。コーヒーは入っていなかった。


 椅子に座って、ハルさんを横目で確認した。窓側のパイプ椅子に腰を下ろして、足を組んで、ボードのほうを向いている。


 部屋に来てから何も言っていないのか、机の上に何もメモがない。


「今日の設計を話す。本番前に頭に入れとけ」


「はい」


「構成から。ステージ中央に黒糸蜘蛛の群れを配置する。演者は最初から拘束状態で始まる。観客の働きかけに応じて、拘束が段階的に緩む仕掛けだ。具体的にはコメントを打つこと、席から立つこと、演者の名前を声に出すこと——それぞれをトリガーにして演出が反応する」


 マーカーでタイムラインに丸を打ちながら続ける。


「なぜこれが機能するか、分かるか」


 考えた。「観客が自分でやったという感覚を持てるから、ですか。コメントを打てば糸が解けた、自分がやったって思える」


「半分だ」


 クロエさんはマーカーのキャップを閉めた。


「小さな"参加"を積ませるほど、人は後から引けなくなる。コメントを打たせ、席を立たせ、名前を叫ばせた分だけ、応援が義務になる。最初の一個を打った時点で、その人はもう陣営に入ってる」


 ペンを持つ手が止まった。


「義務、ですか」


「そうだ。人は自分のやったことと矛盾する行動を取りたくない。一回でも呼べば、次も呼ばないと裏切りになる。それが積み上がっていく」


 私はそれをメモした。書きながら少し考えた。


「最初のトリガーは、どのくらい小さくするんですか」


「今日は最初のコメントの閾値を下げてある。一文字でも打てば反応する。入口のハードルが低いほど、深くまで入ってくる」


 ハルさんが視線を少しだけボードに向けた。それ以外は動かなかった。


「今日のピークは終盤だ。序盤と中盤で観客に十分積ませてから、終盤で一気に解放する。解放の瞬間に演者が何をするかが、あとの数字を全部決める」


「数字というのは視聴継続率とか、コメント密度ですか」


「それも含む。同接推移、アーカイブ再生数、翌日以降のシェア数。全部連動してる」


 メモを取りながら、ふと聞いた。「クロエさんはずっとそれを数字で見てるんですか。本番中も」


「そうだ」


「ステージは見ないんですか」


「見ながら数字を見てる。同時に」


 それ以上は説明しなかった。ボードの端に新しい数式を書き足している。


 私の質問がもう終わったことを、そのまま示していた。




 連絡が入ったのは、十五分後だった。


 クロエさんのスマホが短く光った。画面を一瞥した。それだけで立ち上がった。


「A-7、発情期に入ってる。演技を拒否してる」


 意味を理解するのに二秒かかった。本番まであと四十五分の話だ。


「A-3は」


「搬入済み。状態に問題はない」


「A-3で代替できないですか」


「今日の天井シークエンスはA-7専用の調教が組んである。A-3ではルートが通らない」


 クロエさんはボードを見た。三秒だった。


「糸の数を減らして、単独突破に変更する」


 ハルさんが初めて顔を上げた。


「A-7一匹で終盤を全部やるのか」


「天井シークエンスは全部カットする。代わりに最後の突破を一匹に集中させて、そこに演出の山を置く」


「……それで観客が付いてくるか」


「付いてこさせる。それがあたしの仕事だ」


 ハルさんは少し間を置いた。「分かった」と言って、また窓の外を向いた。


 私はボードを見ていた。天井シークエンスの欄に、クロエさんのマーカーで横線が引かれていた。消されている。


 代わりに終盤のピークの欄に新しい数字が二行書き足された。


 四十五分前に設計が変わった。クロエさんの手は止まっていなかった。


 ハルさんは立ち上がって、パイプ椅子を元の位置に戻した。部屋を出る前に一回だけ振り返った。ボードの横線を見た。一秒だけ見てから、出ていった。


 私はメモを見た。さっき書いた「義務になる」という言葉の隣に、「天井シークエンス——カット」と書いていた。




 一時間後——本番。


 照明が落ちた会場に、ステージの色が戻ってきた。明転の一瞬で二百の席が全部変わる。コメントが流れ始める。


「\きたきたきた!!/」


「今日も来たぞ!!!」


「ハルさーん!!」


「はじめて見るドキドキする」


 私はオペレーター席の端で画面を見ていた。クロエさんが隣で端末を読んでいる。


 ステージ上では、ハルさんが暗い中心に立っていた。糸が絡んで、腕が動かないような姿勢だ。本当の意味で動けないわけじゃないのは、一時間前の部屋で全部聞いた。でも画面越しに見ると、そう見える。


 最初のトリガーが演出側から入った。一文字打てば反応する、と聞いていた。最初に動いた人が一人いた。


 次の五秒で十人になった。糸が一本、解ける。


「コメントで呼べ!!って演出が言ってる!!」


「ハル!!ハル!!ハル!!!!」


「席から立ってる人増えてる!!!!」


 さっき聞いた通りの動きが、本当にそのまま起きていた。義務になる——という言葉を思い出した。いつの間にか、画面に身を乗り出していた。


 一回呼んだら次も呼ばないと裏切りになる。そういうことが、この会場でいま起きている。誰も気づいていないまま。


 糸が一本ずつ解けていくたびに、歓声が上がった。




 カゲのコメントは中盤から見え始めた。


「\はいはいヤラセヤラセ。糸の解け方まで段取り済みでしょ普通に/」


 何万もの「ハル!!」の中にそれが混じっていた。次の秒も、その人のIDがコメント欄に流れ続けていた。




 中盤を過ぎると、席から立った人の数がさらに増えた。


 もう八割は立っていた。座ってる人のほうが目立つくらいだ。演出の拘束は残り三本になっていた。


 コメントが流れるたびに一本ずつ解けていく仕組みは変わっていない。でも今は誰も仕組みとして見ていない。


 あと何本解ければハルさんが動けるか、それだけを追っていた。


「残り二本!!!!」


「もう一個打てええええ!!!!!!」


「ハルさんがんばれ!!!!!!!!!!!!!!」


 コメントの密度が上がりすぎて、流れが追えなくなってきた。


 クロエさんが端末で数字を読んでいる。静かだった。


 最後の一本が解けた瞬間に、会場全体が一度静まった。




 終盤、一度暗転があった。


 明転と同時に、A-7が天井から降りてきた。


 一匹だけだった。


 複数の糸が張られているはずの空間に、今日は一本の経路だけが残っている。A-7がその真ん中を垂直に突っ切って下りてくる。


 群れの複雑な動線じゃない。一匹の、まっすぐな線だ。


 客席が静まった。


 コメントが止まった瞬間があった。会場に、一秒だけ何も流れない時間があった。


 次の秒で爆発した。


「うわあああ!!!!!!」


「抜けたぁ!!!!!」


「ひとりで!!!!!!!!」


「なにこれなにこれなにこれ!!!!」


「ハルがんばれがんばれがんばれ!!!!!!」


 私も声が出た。計算された一匹の動線が、舞台の上で奇跡に見えた。


 それがそう見えるように設計されていたのは、一時間前の部屋で全部聞いていた。でも——そう見えた。本当にそう見えた。


 クロエさんは画面から一度も目を離さなかった。端末の数字を読みながら、一言だけ言った。


「ピーク、取った」


 コメント欄にはまだ「ひとりで抜けた!!」が流れ続けていた。一匹の動線を見た人全員が、同じ言葉を打っていた。


 群れを見ていた人間が、最後に一匹を見て奇跡と呼ぶ。それが計算の中に入っていた。


 そういうことが、今日の一時間前の部屋で話されていたのだと、今になって分かった。




 照明が落ちた後、クロエさんが端末を閉めた。


「数字、悪くない」


「さっきのA-7、すごかったですね。一匹のほうがよかったくらいで」


「そうかもしれない」


 素直に返ってきた。私は少し驚いた。クロエさんが感想みたいな返し方をしたのが珍しかった。


 立ち上がりながら、空のカップを見た。コーヒーはまだ入っていなかった。


 不機嫌そうに一回だけカップを見てから、それを机に戻した。


「一個だけ」


 私の方を向かないまま言った。


「台本の最後の行は、まだ書いてない」


 笑いながら言った。


 出口に向かう背中が、廊下の蛍光灯の下に入っていった。


 どういう意味か聞けなかった。事実だけの光が、まっすぐに当たり続けていた。

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