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第7話: 直らないもの

 油の匂いがした。


 いつもの発煙筒と汗の匂いじゃない。機械の整備に使う、少しばかり鼻につく油の匂いだった。


「棚卸し、午後中に終わらせといて」


 オペレーター室でクロエさんが画面から目を離さずに言った。


「分かりました。リストは——」


「昨日の版を使え。更新がまだ来てないから。あと機材倉庫の左奥、昨日の点検で管理番号のずれが出てるから確認しておいて」


「ずれ、というのは実物と一致してないということですか」


「そう。報告書はいつもの様式でいい」


「了解です。あの、ハルさんは今日——」


「機材の維持点検。非興行日は毎回ここに来る。搬入も重なってるから、会場と倉庫を行き来するときは北口から回れ。搬入路は混む」


「北口から。分かりました」


 クロエさんはそれ以上こっちを見なかった。コーヒーを口に運んで、画面に向き直った。


 私はメモを手に会場へ向かった。




 本番のない日のゲート街というのは、こういう顔をしているのか。


 すり鉢の底のリングに、工場の作業灯みたいな白い光が入っていた。観客席はがらんとしていて、いつもあそこに詰まっているはずの熱が、一枚ずつはがされたみたいになかった。整備スタッフが何人か、リングに敷いた養生シートの端を処理しながら低い声でやりとりをしている。照明機器のそばで配線を確認している人がいる。搬入路から大型コンテナ車がゆっくりとバックで近づいてくる音がした。荷台の横腹に、管理番号がスプレーで太く書かれていた。


「コンテナ入りまーす。下の方、通路端へ寄ってください」


 声が飛ぶ。私は壁際に寄って車をやりすごした。


 排気の匂いが広がって、また静かになった。


 棚卸しの作業は予定より三十分早く終わっていた。次の打ち合わせまで間がある。オペレーター室に戻る前に、足が一度だけ会場のほうへ向いた。それだけが理由じゃなかった。




 きっかけは先週の仕事だった。


 古い機材の部品取りを扱っている業者の連絡先を調べていたとき、「旧型放送用リレーユニット、廃番品の部品対応。ご相談ください」という一行を見つけた。そのとき、ハルさんの左手首にあるものが頭に浮かんだ。


 理由はうまく説明できない。ただ、「あれは、ちゃんと預かってる」という一言が——あの夜、クロエさんが声の温度を変えて「何に使うか、聞いてない」と言ったこと——ずっと引っかかっていた。壊れた中継機の一部だとは分かっていた。修理できるものかどうか、それまで一度も考えたことがなかっただけで。


 業者のページをブックマークして、一日置いた。一日経っても気になったので昨日の夜、もう少し調べた。型番か現物写真があれば相談できるケースがある、と書いてあった。どちらにしても、まず本人に話すしかなかった。


 話しかけるかどうか、朝から迷っている。




 ハルさんは搬入路の近くにいた。


 整備スタッフが二人、ハルさんの前にメモを広げていた。


「魔物の個体、今日の搬入はA-3とA-7が来ます」


「A-3はこの前の公演で糸の調子が戻ってなかっただろ」


「一ヶ月調教しなおしてもらいました。担当から問題なしの報告出てます」


「そうか。本番じゃA-7を使う。A-3は当面バックアップ扱いで」


「了解しました。それからリング北側のスプリング、交換候補が二本出てます」


「今日できるか」


「部品はあります。搬入前なら午前中に上がります」


「頼む。南側の固定も一緒に確認してくれ」


「分かりました。照明の分岐は先週の報告で問題なかったですが、スタンド奥のスピーカーが低音少し弱くなってる可能性があって」


「今日は後でいい。来週の本番前に見てくれれば」


「了解です」


 スタッフが二人とも資材を抱えて奥へ引っ込んでいく。


 ハルさんがひとりになった。


 いつものショーの軽口は、一言もなかった。


 左手首のストラップが見えた。塗装はほとんど剥げていて、紐の端がほつれて毛羽立っている。ハルさんは右手の指の腹で、その表面をゆっくりとなぞった。意識しているのかどうか分からない手つきだった。ショーの本番前に楽屋の鏡の前でも同じ動きをしていたのを、一度だけ見たことがある。あのときも、声をかけられなかった。


 近づこうとしたら、近くにいたスタッフのひとりが先に私に気づいた。


「あ、スタッフロールのスタッフの方ですか」


「はい、そうです」


「搬入の間、なるべくリング側には入らないようにしてもらえると助かるんですが」


「分かりました。ここにいれば大丈夫ですか」


「そちらなら問題ないです。何かご用事がありますか、ハルさんに」


「あ、えっと……少し」


「もう少しかかりますが」


「はい、大丈夫です」


 スタッフが戻っていった。


 視線をハルさんのほうへ向ける。三歩近づいた。


「ハルさん」


「……ん。棚卸し、終わったのか」


「はい、さっきまで」


「そうか」


「あの、少しいいですか」


「ああ」


 スマホを出して、ブックマークしておいたページを開いた。


「昨日から調べてたんですけど。そのストラップ——旧型の放送用中継機の部品ですよね。古い機材の廃番品を扱ってる業者があって、型番か写真があれば相談できるって書いてあって」


 ハルさんの目がスマホの画面に落ちた。


 何も言わなかった。


「修理できるかもしれないと思って。もし一回確認してみるなら——」


「……無用なお世話だ」


 短く、言われた。


「でも、同じ規格の部品が残ってる可能性があって」


「持ってこなくていい」


「修理したくないんですか」


「そういう話じゃないって言ってる」


 一言で、切られた。


 今度はもう少し低かった。


 私は口をつぐんだ。スマホをしまうことも、引き下がることも、どちらもうまくできなかった。


「……じゃあ、どういう話なんですか」


 ハルさんは答えなかった。


 搬入路の方向を向いたまま、ただそこに立っていた。こっちを見なかった。


 私も動けなかった。理由がうまく分からないけれど、引き下がることができなかった。


 遠くでスタッフが呼び合っている。コンテナの扉が閉まる重い音がした。油の匂いが少しだけ濃くなった。


 ハルさんの指が、ストラップの表面をまたゆっくりとなぞった。


 来る前から、半分分かっていた気がした。型番を調べて、業者に連絡して、部品が見つかって、直ったとして——それで何かが解決するわけじゃない。ハルさんが「そういう話じゃない」と言ったのは、たぶんそういうことだと思った。修理の話をしているんじゃない。それは分かった。


 でも、なぜここへ来たのかも、分かった気がした。


「ハルさん、北側終わりました。確認お願いできますか」


 スタッフのひとりが戻ってきた。ハルさんがすっと答えた。


「ああ、今行く」


「南側のスプリング、二本とも問題なく交換できました」


「そうか。写真、ドライブに上げといてくれ」


「はい。記録してあります」


「ありがとう、お疲れさん」


「お疲れさまです」


 スタッフが引っ込んでいく。


 ハルさんは戻ってこなかった。搬入路の横で、こっちに少しだけ背を向けた格好で、そこに立っていた。


「……いい」


 声がした。


「ありがとな」


 それだけだった。


 踵を返して、搬入路の奥へ歩いていく。後ろ姿だった。左手首のストラップが、歩くたびにゆっくりと揺れた。




 コンテナ車が出て行った後、会場はまた静かになった。


 作業灯が一本消えた。養生シートを畳む音がする。遠くでまた誰かが何かを呼んでいる。いつもの興行の熱はどこにもない。ヤナさんがモデレーターとして監視しているわけでも、クロエさんがオペレーター室から数字を読んでいるわけでもない、ただ整備の続く昼間のゲート街だ。


 しばらく、同じ場所に立っていた。




 オペレーター室に戻ると、クロエさんが画面に向かったままで言った。


「終わったか」


「はい。倉庫の確認も問題なかったです。管理番号、全部一致してました」


「入力しといて。フォームはいつものやつ」


「分かりました」


 入力を終えて、席から立とうとしたとき。


「ハルと何かあったか」


 クロエさんが画面から目を離さずに言った。


「……少し、話しました」


「そうか」


 しばらく間があった。クロエさんはキーボードを叩いていた。


「怒ってたりしましたか」


「……怒る場合は、もうちょっと分かりやすい」


「そうですか」


「気にすんな。明日は朝から打ち合わせ。九時に来い」


「分かりました」


 部屋を出た。


 廊下を歩きながら、ずっと「ありがとな」のことを考えていた。


 演技だったのか、そうじゃなかったのか。判断する材料が私にはない。


 あの人の声は興行の夜でも楽屋でも、いつも何かを向いている。観客の方を、数字の方を、次の一手の方を向いている。声には常に目的地がある。だからこそ、クロエさんの言うピークエンドは機能するのだし、あの人は五万人の前に立てるんだと思っていた。


 だから今のが、何を向いていたのかが分からなかった。


 あめ色の照明の入ったどの夜でも、私が一度も聞いたことのない温度だった気がした。


 それだけが確かで、それ以上は何も分からなかった。

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