第6話: 嘘が、正しい場所に落ちた
照明の色がいつもと違った。
オペレーター室のモニターに会場が映っている。普段ならぎらつく白い光で塗りつぶされている場所だ。なのに今日は夕暮れみたいなあめ色の光が、すり鉢の底にゆっくり満ちていた。
スポンサー看板のネオンも半分まで落としてある。
スピーカーから流れる音もいつもの煽る重低音じゃなかった。ゆるくてどこか懐かしい旋律だ。聴いているうちに胸の底をそっと撫でられている気持ちになる。
客もいつもより静かだった。
発煙筒は焚かれない。野次も飛ばない。ただ目の前のリングを一秒でも長く焼きつけようとするみたいに、みんなが見上げている。
「……今日、お葬式みたいですね」
私が言うと、クロエさんは飲みかけのコーヒーから口を離した。
「うまいこと言うじゃん、新入り」
「えっ」
「葬式の親戚ってのは財布の紐がゆるいんだ。——今日のテーマはそれだよ」
クロエさんがモニターの隅を指した。配信のタイトルが出ている。
『ハル & スポットライト・ディア —— 最初で、最後の一戦』
「最後……? ハルさん、引退するんですか」
思わず声が大きくなった。クロエさんは鼻で笑った。
「するわけないだろ。あいつが舞台を降りるかよ」
「じゃあ、なんで」
「『かもしれない』を売るのさ」
クロエさんはコーヒーを啜った。
「引退試合がなんであんなに泣けるか分かるか。次がないからだ。『もう二度と見られない』——その損が、人をいちばん泣かせる」
「損……」
「だから今日は引退でもないのに引退の空気だけ借りる。『今日が最後かもしれない』って思わせるだけでいい。中身はいつもの興行と同じさ」
リング奥の闇から燐光鹿がのっそり姿を現した。角の燐光があめ色の照明の中で淡く脈打っている。
「あの鹿もわざわざ前のと同じ顔のを選んだ。『思い出の相手』に見せるためにな」
その言い方があんまり平らで、私は少し寒くなった。
あの感傷的な曲も。落とした照明も。「最初で、最後」のタイトルも。
全部が、損をさせるための道具だ。
「——よう、お前ら。今日も来てくれてありがとな」
リングの中央でハルさんが両手を広げた。
いつもの調子のはずなのに、その声がほんの少しゆっくりだった。
「なあ。こうやってお前らの前で無様にぶっ飛べるのも……あと何回あるんだろうなァ」
会場がざわっと揺れた。「やだ」「言わないで」と、あちこちで声が漏れる。
「なんてな。——でも今日のこいつは、ちょっと特別なんだ」
ハルさんが燐光鹿を親指でさした。
「俺がいちばん最初に戦った相手でよ。こいつともう一回だけ、お前らに見ててほしくて呼んだんだ」
客席がほうっと息を漏らした。もう何人かが目元を押さえている。
まだ何も始まっていないのに。ただ「最後かもしれない」と聞かされただけで。
私はモニターの座席図を眺めていた。今日もサクラはちゃんと散らしてある。赤い点がすり鉢の斜面にいくつも灯っていた。
その時、最前列に毛色の違う客がひとりいるのに気づいた。
白髪の痩せた老人だった。
まわりがスマホを構える中で、その人だけが何も構えていなかった。
膝の上で色のあせたタオルをきつく握っている。プリントはもう掠れて読めない。けれど、たぶんずっと昔のハルさんのグッズだ。何年も使い込まれて端がぼろぼろにほつれていた。
その人は泣いてはいなかった。ただまばたきを惜しむみたいに、リングのハルさんを見つめている。
一秒も見逃したくない。そういう目だった。
「……クロエさん。あの人」
私は最前列のその老人を指した。
「あの人、なんだかほかの人と違う気がします。今日の空気に煽られて泣いてる感じじゃ、なくて」
クロエさんの半開きの目がすっとモニターへ向いた。老人をしばらく見ている。
針みたいに鋭くなった目が、その人のタオルの上でほんの少し止まった。
「……ありゃ、本当に『最後』にしに来たクチだな」
低い声だった。
「あの歳だ。足も目も、もう辛い。それでも来た。たぶん自分で、区切りをつけにな」
それきりクロエさんは何も言わなかった。
ただちらりと私を見て、座席図のその席を指の先でとんと押さえた。
目だけで合図された。あそこには何も乗せるな、と。
——あの夜と同じ指示だった。
本物の老婆を守るために、まわりの嘘を全部よけた、あの夜と。
私はパネルに手を伸ばした。老人の席のまわりに赤い点が四つ散っている。サクラだ。
ひとつずつ別の合図へ振り替えていく。声出し役を隣のブロックへ。手拍子の口火を後ろの列へ。
あの席の半径から、嘘を一個ずつ引き剥がす。
集音マイクの向きもそっとずらした。あの一角だけこちらの音を拾わないように。
あの席にだけは、何も届かないように。
たったひとつの本物を立てるために、私はまた、まわりの嘘を動かしていた。きっと今日もあの人を高く跳ねさせるための段取りなんだろう。
その時の私は、そう思い込んでいた。
戦いが始まると、あめ色の会場がゆっくり熱を持ちはじめた。
ハルさんが鹿の角に弾かれて砂を巻いて転がる。いつもの様式美だ。
でも客の声が、いつもと違った。
「立って……っ、お願い、まだ終わらないで!」
「行かないで、ハルさん——!」
悲鳴に惜別が混じっていた。
今日でこの景色が終わるかもしれない。その「かもしれない」が、ひとりひとりの声をいつもの倍も切実にしている。
「効いてるな」
クロエさんが同時接続の折れ線を顎で示した。数字が落ちる気配もなく跳ね上がっていく。
「『最後』ってのは、よく効く。手に入れた喜びより、失う痛みのほうが、人にはずっと重いんだ」
「……みんな、引退だなんて思ってもないのに」
「思ってなくていいのさ。『かもしれない』だけで、人は勝手に惜しむんだ」
モニターの中でハルさんがまた吹き飛ぶ。膝が笑っている。剣はもう刃こぼれだらけだ。
なのに立つ。倒れそうで倒れない。
あめ色の光の中で、千を超える人が同時に祈っていた。今日が最後かもしれないと、本気で信じて。
鹿が最後の突進に入る。角が高々と振り上がった。
会場じゅうが息を止める。
「——よし」
ハルさんがふっと笑った。
よろよろだった体が嘘みたいに伸びる。鹿の顎の下へ滑り込んで、首筋を手のひらでとん、と押さえた。
崩れた一点へ刃こぼれの剣が吸い込まれる。
くぐもった一音。
巨体が光の粒になってほどけていった。
会場が割れた。
あめ色の光の中で、千の人が総立ちで泣きながらハルさんの名前を呼んでいる。
『最後とか言わないで、一生見たい』
『今日の、何回でも見返す』
『この景色、忘れない。ぜったい忘れない』
『ありがとう、ずっと好きでいる』
「ここだ」
クロエさんがイヤモニに口を寄せた。
「幕切れ、いくぞ。カメラ正面。——今日いちばんの一枚を、ここで取る」
今日の締めは何日も前から決めてあった。
カメラを正面から見て、汗まみれの顔でにっと笑う。その一枚を何百万人の記憶へ焼きつける。
切り抜かれて、拡散されて、見逃した何万人をもう一度悔しがらせる。幕切れの一秒が明日の客を呼ぶ。
ハルさんが息を整えて、メインカメラのほうへ顔を上げかけた。
——その時だった。
ハルさんの視線が止まった。
最前列の、あの老人の上で。
カメラはもう正面の笑顔を待っている。クロエさんの指は次の合図の上にあった。
なのにハルさんは——カメラに背を向けた。
千の歓声に背を向けて、たった一歩、最前列の柵のほうへ歩いていく。
そしてあの老人の前で、膝を折った。
「……ちょっと」
クロエさんの指が、合図の上で止まった。
その一角にはもうマイクが向いていない。さっき私が全部よけた。
だからハルさんが今そこで何を言っているのか、こちらの音声にはひと言も乗らなかった。
モニターの中のハルさんは、背中を向けたまま低く何かを話している。
唇の動きだけが、かろうじて読めた。
「……じいさん。長えこと、来てくれてたんだってな」
老人の握りしめたタオルの上に、ハルさんの手がそっと重なる。
「もう無理して並ばなくていいからよ。家で寝転がって見ててくれりゃ、それでいい」
老人の口がわなないた。何か言おうとして声にならない。
ハルさんはちょっと困ったみたいに笑った。ショーのまばゆい笑顔じゃない。もっと素っ気ない顔だった。
「な。約束だ。——だから、そんな顔すんなって」
老人の手の甲に、ぼたっとしずくが落ちた。自分の涙だった。
ハルさんは立ち上がった。くるりとカメラに向き直る。
次の瞬間にはもう、まばゆいショーの顔に戻っていた。
「——なんてな! まだまだ終わらせねえからな、お前ら! 来週も無様にぶっ飛びに来いよ——!」
すり鉢じゅうがもう一度割れた。歓声があめ色の天井を殴る。
誰も気づいていなかった。
たった今ハルさんが、今日いちばん高く売れる一秒を、カメラじゃない場所へ置いてきたことに。
ただ最前列で、白髪の老人が色あせたタオルに顔を埋めて、肩を波打たせていた。
その涙にはスポットライトも当たっていない。誰の合図も乗っていない。
私がまわりの嘘を全部よけて、空けてやった、その一点で。
終演後のオペレーター室は、表の熱が嘘みたいに静まりかえっていた。
モニターの中では客がまだ帰りたがらない。互いに肩を叩き合っている。
あの老人も隣の客に支えられて、ゆっくり出口へ歩いていた。タオルをまだ握ったままだった。
「今日のテーマ、分かったか。新入り」
クロエさんが新しいコーヒーを淹れて戻ってきた。
「……損、ですよね。『最後かもしれない』っていう」
「それと、もうひとつ。今日の本命はそっちだ」
クロエさんは空のカップを指で回した。
「人の記憶ってのはな。一部始終を平らになんか覚えちゃくれない」
「平らに……?」
「山場の一秒と、幕切れの一秒。——覚えてるのはその二点だけだ。だからそこさえ本物に見せりゃ、あいだが全部嘘でも、感動は本物になる」
私は今日の会場を思い出していた。
あめ色の光。惜別の声。「行かないで」と泣いた、千の人。
あれはぜんぶ作りものだった。引退でもないのに引退の空気だけを借りた。「最後かもしれない」と思わせただけだ。
なのに、あの人たちの涙は本物だった。
そして——あの老人の涙も本物だった。
二つは同じ会場で、同じ色をして流れていた。
仕込まれた「最後」に泣いた千人と、本当の「最後」を抱えて来たひとり。
その涙が、私には見分けられなかった。
「クロエさん」
自分でも驚くくらい声が低かった。
「今日の感動……あれ、嘘なんですよね。引退でもなんでもないのに」
「ああ」
「でも、ほんとに泣いてました。みんな。あのおじいさんと、おんなじ顔で」
クロエさんは答えなかった。
「——嘘のほうが」
言いながら喉が詰まった。
「嘘のほうが、ちゃんとした感動を作れてる気がするんです。本物より上手に。それが……怖い」
言葉にしてしまうと、その怖さが急に、はっきりと形を持った。
「本物の感動って、なんなんですか。嘘でこんなにきれいに作れるなら。ほんとの気持ちと作られた気持ちは、どこが違うんですか」
クロエさんはしばらく黙っていた。
それからコーヒーを一口飲んで、ぽつりと言った。
「……怖いくらいで、ちょうどいいんだよ」
「え」
「その怖さが分からなくなったら、おしまいさ。嘘と本物の見分けが、つかなくなる」
クロエさんは、モニターの中の出口へ向かう老人の背中を眺めていた。
「今日、あいつ、カメラに背中向けたろ」
「……はい」
「あの一秒が、今日いちばん高く売れる一秒だった。何百万人に届く、いちばんいい画さ。それをあいつは——マイクも届かない、たったひとりのために捨てた」
クロエさんは空のカップをこつんと置いた。
「数字にしたら、ばかみたいな話だよ。……でもな。あいつがああやって背中を向ける相手だけは」
そこで言葉を切った。
「あれだけは、あいつの嘘じゃない。——たぶん、この世でいっこだけな」
その声の温度が、いつもの毒舌とは違っていた。
私は暗いパネルを見下ろした。
今日も私は、本物を守るために嘘を動かした。あの老人の席から嘘を全部よけた。
そのおかげで、ハルさんの「いっこだけ」の本物は、どこにも届かないままあの人の胸にだけ落ちた。
嘘は、正しい場所に落ちると——本物の感動になる。
じゃあ、本物は。
誰の合図も、誰のカメラも乗っていない、あの老人の涙は——いったいどこへ落ちたんだろう。
その問いだけが、答えのないまま私の胸に残っていた。




