第5話: 先に渡す手紙
差し入れの団子の匂いが楽屋いっぱいに立ちこめていた。
私は紙袋を抱えたまま半分開いたドアの前で固まっていた。
量販店のジャージを着た中年の男の人が、ひとり椅子に座っている。襟元から保温インナーがのぞいていた。膝の上に台本を広げて蛍光ペンでせっせと線を引いている。
口の端にあんこがついていた。
「あの……差し入れの団子です。クロエさんに、楽屋へって言われて」
「わ、ほんとですか。ありがたいなあ」
男の人がぱっと顔を上げた。人懐っこい気弱そうな目だった。
「いや、あの、白状すると、そこにあったぶんは僕がさっき全部食べちゃって。あれは自前です。これは正規の差し入れってことで……すいません、僕、卑しくて」
早口だった。腰がやけに低い。私はぽかんとしてしまった。
スタッフにしては見たことがない。探索者にしては覇気がなさすぎる。
「失礼ですけど、どちらの方ですか」
「あ。申し遅れました。茅野です、茅野健。——今日の、悪役です」
「……悪役」
「ええ。ほら、ハルくんに、こう、ばーんと立ちはだかる係で」
茅野さんは串を一本くわえたまま自分の腰のあたりをさすった。
「いやあ、緊張するなあ。腰、まだ完全には治ってないんですよ。今日の受け身、いけるかなあ」
この人が、悪役。
目の前のヘコヘコした中年が、ハルさんの立ちはだかる敵を演じる。どう想像しても像が結ばなかった。
「あの、悪役って……本物の、探索者の?」
「本物ですよ。一応ね。腕は、まあ、その……Bランクどまりですけど」
茅野さんは台本にまた線を引いた。蛍光ペンがキュッと鳴る。
「でも演技は、ちょっとだけ自信あるんです。お客さんに本気で怖がってもらえると、こう、ぞくっとくるんですよね。役者冥利っていうか」
その横で台本の隅に「ここでもっと“勝てない感”」と几帳面な字が書き込まれているのが見えた。
「お、団子来たか。ナギ、サンキューな」
通路からハルさんがひょいと顔を出した。紙袋から串を一本かっさらっていった。
その机の端に白い封筒の束がきちんと積んであった。ずいぶんな数だ。表に一通ずつ手で名前が書いてある。
「それ、手紙ですか」
「おう。今日の客に配るやつ。二百人ぶん、全員に手描き」
ハルさんが団子を頬張りながらこともなげに言った。
私は束を見た。便箋には短い文と下手な落書きみたいな絵が添えられている。一通ずつぜんぶ違う。
二百通。これを、ぜんぶ手で。
胸の奥がことりと動いた。配信の向こうのファンにここまで手をかける人だったんだ。
茅野さんが団子の最後のひとつを名残惜しそうに食べ終えた。ぽつりと言った。
「ハルくん。僕ね、この仕事、嫌いじゃないんですよ」
「あ?」
「こんな僕でも、面を被れば、誰かに本気で怖がってもらえる。……必要と、されてる感じがして」
ハルさんが串をくわえたまま、止まった。
ほんの一瞬だった。いつものへらへらした顔から表情がすっと抜けた。何か言いかけて、言わなかった。
楽屋の空気が半拍だけしんとなった。
「……お前、団子食いすぎだろ」
ハルさんが串をくるりと回して笑った。もういつもの顔だった。
「本番前に腹下したら、笑えねえぞ。滅獄卿が便所に駆け込む絵面、配信できねえからな」
「やめてくださいよ、もう」
茅野さんがふにゃっと相好を崩す。
私はそのやりとりを出口の手前で見ていた。さっきハルさんの顔から抜けた表情の意味を、まだ掴みかねたまま。
開演前のロビーはいつもの興行と少しだけ違っていた。
入ってくる客がみんな両手で何かを大事そうに抱えている。さっきの白い封筒だ。
受け取った男の子が走り出しそうな勢いで封を開けて便箋を読んだ。それから泣きそうな顔になった。
「えっ……名前、書いてある。俺の名前、知ってくれてる……」
「いつも最前来てくれてんだろ。顔も名前も、覚えてるって」
配布を手伝っていたハルさんがその子に一通を手渡した。にっと笑った。
子はもう何も言えずに便箋を胸に押し当てていた。となりの女の人も封筒を両手で包んでいる。何度も表書きをなぞっている。
みんなもらった手紙を宝物みたいに抱えている。会場へ吸い込まれていく。
私も配布を手伝っていた。その手元のひとつひとつを見ていた。
あったかい、と思った。嘘で人を集める場所だと私はもう知っている。なのにこの光景だけはどこにも嘘がない気がした。
手紙をもらった人たちはもうハルさんを「見に来た客」じゃなかった。
名前を覚えてもらったひとりの人になっていた。
舞台の袖で私は小さなモニターとイヤモニを渡された。
耳の奥でクロエさんの低い声がする。
『そこで見てな、新入り。今日のは段取りが多い。茅野が入ると、画が一段派手になる』
会場の照明が落ちた。客席のざわめきがぴたりとやむ。
暗転の中で低く重い音楽が這い上がってきた。
ステージ奥の闇がぼうっと紫に染まる。そこに、影が立っていた。
漆黒の甲冑。床まで届く長いマント。さっきまで腰をさすっていた中年の人が別人みたいに大きく見えた。背筋がぴんと伸びている。
「——ふは。ふははは!」
会場を笑い声が震わせた。茅野さんの声じゃない。腹の底から響く凶悪な声だ。
「よくぞ来た、贄ども! 我が名は——滅獄卿! この地の底より甦りし、滅びの司教よ!」
カラコンの入った目が、ぎらりと客席を睨む。最前列の子どもが本気で母親の腕にしがみついた。
『うわ、なにあれ、こわ……』
『今日の悪役、ガチで強そう』
『ハルさん大丈夫なの、これ』
コメント欄がぞわりと波打つのがモニターに映った。
あのヘコヘコした人がいま二百人を本気で怖がらせている。私は袖で肌を粟立てた。
「我が眷属よ——来い!」
滅獄卿がマントを翻すと、ステージ奥から燐光鹿が躍り出た。角の燐光が紫の照明の中で青白く脈打つ。
「その角で、最弱の小僧を血祭りに上げよ! 数百万の目の前で、無様に散らせてくれるわ!」
「いやー、出たよ出た。中ボス感、すげえな今日のは」
ハルさんが剣の腹で肩を叩きながらのんびり登場した。客がどっと沸く。
「言っとくけどな、俺は今日も最弱だ。お前らがちゃんと好きでいてくれねえと、あの強そうなおじ……お兄さんに、一瞬でやられる」
「おじ、と言いかけたな小僧!」
「言ってねえって。気のせい気のせい」
笑いが起きる。次の瞬間、鹿の前脚がハルさんの剣を撥ね飛ばした。
乾いた音。ハルさんの体が、袖のすぐそばまで吹っ飛んでくる。床を擦って止まった背中が本当に痛そうだった。
『はやっ、もう被弾』
『今日のは押されてる、まじで』
『立って、ハルさん立って』
「あー、痛て……なあ滅獄卿さんよ、もうちょい手加減って言葉知らねえ?」
「知らぬなあ! 我が辞書に慈悲の文字は無い!」
滅獄卿が高笑いした。マントを大きく広げる。客席がその威容にしんと呑まれる。
「見るがいい、これが——絶望よ! 我が秘術——」
その、見得を切った瞬間だった。
大きく踏み出した足が自分のマントの裾を踏んだ。
ぐらり、と巨体が前のめりに泳ぐ。立て直そうとしてもう一歩。今度は完全に足がもつれた。
漆黒の甲冑が盛大な音を立てて舞台に這いつくばった。ガシャン、と。
会場がしんと白けた。低く重い音楽だけが間抜けに鳴り続けている。
二百人がどう反応していいか分からずに固まった。モニターの中でコメント欄まで止まった。
「——おい」
その静けさをハルさんの声がすぱっと割った。
「お前、いちばんいいとこで転ぶなよ。秘術の前フリ、全部持ってかれただろ」
「……すいません。撮り直し——」
うつ伏せのまま滅獄卿が小声で言った。さっきまでの凶悪な声がすっかり茅野さんに戻っている。
一拍おいて、会場が爆発した。
笑いだ。さっきの恐怖がまるごと笑いにひっくり返った。手を叩いて笑う人、椅子から崩れ落ちる人。
「な? 見たかお前ら」
ハルさんがカメラに向かって転んだ滅獄卿を指さした。
「こいつ、俺がこえーんだよ。だから足がもつれる。——よし、起きろ悪役。続きやんぞ。今のは無かったことにしてやる」
「お、おう……じゃなくて、ぐ、ぐぬぬ! 覚えていろ小僧!」
あわてて立ち上がった滅獄卿がもう一度ヒールの声を作る。客はまだ笑っている。でも、その笑いの熱はさっきまでの緊張とそっくり同じ温度だった。袖から見ていてそうわかった。
白けかけた場がハルさんのたった一言で前より熱くなっていた。
『今の最高すぎるww』
『ハルさんのアドリブ天才か』
『悪役かわいくて草、でもなんか応援したくなる』
『この空気、ぜったい現地で見たかった』
戦いがまた動きだす。
鹿が猛る。ハルさんが転がり、いなし、また転がる。剣はもう刃こぼれだらけだ。何度も吹き飛ばされて膝が笑いはじめる。
でも、立つ。倒れそうで、倒れない。
さっきまで笑っていた二百人が、いつのまにか身を乗り出していた。手の中の手紙を握りしめて息を詰めている。
「立て——っ!」「ハル、負けんな!」
ばらばらの声が天井に跳ね返った。ひとつの塊になった。
『耳を貸すな、鹿よ! 小僧を踏み潰せ!』
滅獄卿が叫ぶ。けれどその声はもう客の声援に押し負けていた。
「効いてきた——お前らの好き、ちゃんと届いてんぞ!」
吹き飛ばされた体を起こす。ハルさんがカメラに吼えた。
「もらったぶんは、きっちり耳ぃ揃えて返すからな——!」
その声に押し上げられるみたいにハルさんが地を蹴った。
よろよろだった体が嘘みたいに伸びる。鹿の脚の間をかいくぐって横っ腹へ。すれ違いざまに燐光の角の付け根を手のひらでぽんと押さえた。
たったそれだけで猛っていた巨体の動きがふっと緩む。
崩れたその一点へ刃こぼれの剣がすうっと吸い込まれた。
くぐもった一音。巨大な鹿が光の粒になってほどけていく。
「ば、馬鹿な——! 我が眷属が——!」
残された滅獄卿が大仰に天を仰いだ。それから、ハルさんの剣の切っ先がこつんと甲冑の胸を小突く。
「悪いな、滅獄卿。今日のとこは、俺の勝ちだ」
「……おのれ。だが、次こそは——!」
捨て台詞を残して滅獄卿がマントを翻し袖へ駆け戻ってくる。私のすぐ横を通り過ぎながら、こっそり親指を立てた。にっと笑った。茅野さんの顔だった。
会場は総立ちだった。
二百人が手紙を掲げてハルさんの名前を呼んでいる。
「今日も来てくれて、ありがとな」
ハルさんがゆるく手をあげた。
「手紙の返事は、また次の興行で書く。——だから、また来いよ。約束だ」
その一言ですり鉢じゅうがもう一度揺れた。
手紙を抱えた客たちが、泣きそうな顔で何度もうなずいていた。
終演後のオペレーター室は表の熱が嘘みたいに静かだった。
モニターの中では客がまだ帰りたがらない。互いの手紙を見せ合っている。
「あの転倒、ひやっとしましたね」
私が言うと、クロエさんはコーヒーを啜った。軽く首を振った。
「茅野のあれは、想定外だよ。ほんとに足が滑った」
「えっ。じゃあ、あれも演技じゃ……」
「ないない。あの人、ああいうとこあるんだ。詰めが甘い。——でも、ハルが拾った。白けた場を、笑いに替えて、前より沸かせた。あれが地力さ」
クロエさんはモニターの中の客を眺めていた。
「段取りの崩れを、その場で山場に化けさせる。ああいうのは、台本には書けない」
私は客の手元の白い封筒を見ていた。
あの手紙だけは本物だと思った。今日のいろんな嘘の中で、あれだけは。
「クロエさん。あの手紙、すごいですよね。二百人ぜんぶ手描きで、名前まで」
「ああ、あれ」
クロエさんが机の引き出しを開けた。
中に書きそこないらしい便箋が何枚か丸めて突っ込んであった。同じ下手な絵が、何度も描き直されている。
「前の晩に、あたしが書いた」
耳の奥がしんと冷えた。
「……え?」
「二百通。ハルの字を真似てね。さすがに手が痛くなったよ」
クロエさんは丸めた便箋のひとつを広げた。それをこちらに見せた。
ハルさんが客に渡していたあの手描きの手紙とまったく同じ筆跡だった。
「でも……ハルさんが、ロビーで自分で渡してました。名前も呼んで……」
「渡すのは本人がやる。そこは本物に見せなきゃ意味がない。中身を書くのが、あたしの仕事だ」
頭がうまく追いつかなかった。
あの男の子の「名前、知ってくれてる」も。便箋を胸に押し当てたあの手も。
「なんで……なんで、わざわざ手紙なんて」
「先に、渡すためさ」
クロエさんが空のカップを机に置いた。
「いいかい、新入り。人ってのはね——先に何かをもらうと、“返さなきゃ”って気になるんだよ」
その一言がすとんと胸に落ちた。
「もらいっぱなしは、居心地が悪い。だから、もらったぶんを返したくなる。手紙をもらった客は、その借りを声援とスパチャで返すのさ。——だからハルは、ショーの前に必ず先に何かを渡す」
モニターの中で、客たちが手紙を掲げて笑っている。さっきいちばん大きな声でハルさんの名前を呼んでいた人たちだ。
あの声援は借りの取り立てだったんだ。先に手紙という借りを作られた。それを返さずにいられなくなった人たちの。
「……ひどい」
声がまた硬くなった。
「あの手紙、みんな宝物みたいに抱えてました。名前を覚えてもらったって、本気で喜んで……それも、ぜんぶ計算だったんですか」
「そうだよ」
クロエさんはまばたきもしなかった。
「贈り物まで、仕込みなんですか」
私は引き出しの中の書きそこないを見た。何度も描き直された下手な絵。本物そっくりに真似た、誰かの字。
「いちばん、やさしく見えるものが」
私は自分の声がうわずるのを抑えられなかった。
「いちばん、嘘なんですね」
クロエさんは答えなかった。空のカップを軽く揺らしてそれきり黙った。
私は楽屋で見た光景を思い出していた。
団子の最後のひとつを食べ終えた茅野さんが、ぽつりと漏らした一言を。
——こんな僕でも、誰かに必要とされてる感じがして。
あのときハルさんの顔からふっと表情が抜けた。何か言いかけて、言わなかった。串をくるりと回して軽口でごまかしたけれど。
あの半拍の沈黙がなぜだか今になって胸に引っかかっている。
手紙も声援もぜんぶ計算だとクロエさんは言った。
でも、あの楽屋の沈黙だけは——あれにも計算の続きがあったんだろうか。
私にはそれだけがどうしても分からなかった。




