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第4話: 最後の一枠だけは、本物にしろ

 画面の中を、何万人ぶんの「外れた」が滝になって流れていた。


 ゲート街の片隅にある小さなホール。今日の現地席はたったの百だ。


 配信のコメント欄は抽選に落ちた人たちの声で埋まっている。


『また外れた。もう三回目』

『百席とか鬼でしょ、一生行けない』

『現地で見られた百人、一生ぶんの運を使ったな』

『行きたかった。ほんとに、行きたかった』


 その「行きたかった」のひとつずつが私の胸を小さく刺した。


 私はオペレーター室の机で当選者のリストを開いていた。


 裏方になってまだ何日も経っていない。初日にこの手で押したのは、本物の熱に合わせて鳴らす合図のボタンだった。けれど今日のこれは、あの合図とは違う。誰が当たって、誰が外れるか。その並びを、まだ始まってもいないうちから、私が決める側にまわっている。


 リストの並びをクロエさんに言われたとおりに直していく。


 ここはサクラ。ここは長く通ってる本物の常連。この席は——いちばん最後まで空けておく。


「最後の一枠は、本番でライブに見せるんだ」


 クロエさんが飲みかけのコーヒー越しに言った。


「九十九席はもう埋まってる。残りはひとつ。それを土壇場で『当たった人』に渡す画を作るのさ」


「……当たった人っていうのは」


「サクラだよ。十八番。前のほうの席で当選通知を握りしめて、わっと泣くとこまで段取りずみさ」


 私はリストのいちばん下の空欄を見た。


 そこに座る誰かはまだ決まっていない。決まっていないように見せるだけだ。


「あの……これ、ほんとに抽選してないんですか」


「してるよ。形だけはね」


 クロエさんは画面を見たまま気だるそうに答えた。


「何万人も応募させて、当落をライブで発表する。『残り十枠』『残り三枠』とカウントを見せて、最後のひとつでわーっと盛り上げる。中身が決まってたって、外から見たら誰にも分かりゃしないよ」


 私はおぼつかない指でリストの順番を入れ替えた。


 当たる人と、外れる人を。私が並べ替えている。


 画面の向こうで「行きたかった」と打っているあの人は知らない。


 自分が外れたのは運じゃない。この机の上で私がカーソルを動かしたからだなんて。


「手が止まってるよ、新入り」


「……あ、すみません」


「気にすんな。誰だって最初はそうだ」


 クロエさんは空のカップを振った。中身が無いのに気づいて、露骨に顔をしかめる。


「百席ってのはね。入れる百人を喜ばせるための数字じゃない。——まあ、それは終わってから話すよ」


 私は最後の一枠の空欄をもう一度見た。


 そこだけが、白いままぽっかりと残っていた。




 開演が近づくと、ホールの空気が変わった。


 オペレーター室のモニターに現地の客席が映っている。


 大会場とはまるで違った。すり鉢みたいな観覧席もない。ステージと最前列の距離が、手を伸ばせば届きそうなほど近い。


 百人ぶんの息が、狭い箱の中でひとつにこもっている。剥き出しの照明が、一人ひとりの顔を容赦なく照らす。


 汗ばんだ額。膝の上で握りしめたスマホ。もう泣きそうな目をした人もいる。


 みんな同じ顔をしていた。ここに、いられる。選ばれた百人のうちのひとりでいられる。


 配信のコメント欄は、その百人を羨む声でまた膨れ上がる。


『現地組ずるい、まじでうらやましい』

『一生に一度の席、いいなあ』

『せめて配信で見られるだけ、ましか……』


「数字、見な」


 クロエさんが同時接続のカウンタを指さした。落ちるどころか、開演前なのにぐんぐん伸びている。


「入れなかった奴が悔しがって、かえって食いついてる。百しか席を作らないと、こうなるんだ」


 私が口を開きかけたとき、ステージの奥がぬっと光った。


 燐光鹿スポットライト・ディア。角の燐光が、狭い天井すれすれで脈打っている。


 近い。最前列の客が思わず仰け反るのが、モニター越しにも見えた。


「さーて。今日は特別な百人だけの、特別な夜だ」


 ハルさんがマイクもなしに声を張った。狭いから、それで届く。


「言っとくけどな。距離が近いぶん、俺がぶっ飛ぶのも近いからな。前のほう、覚悟しとけよ——!」


 笑いが起きる。それがすぐに悲鳴へ変わった。


 鹿の前脚がハルさんの剣を弾いた。体が宙を舞って、最前列の手前まで転がってくる。


 百人がいっせいに息を呑んだ。その音が、モニター越しにも聞こえた気がした。


 砂が前列の客の靴にかかる。ホットドッグを持った手が、止まったまま固まっている。


 近すぎて、誰も逃げ場がない。痛みも唾も息づかいも、ぜんぶすぐそこにある。


「あー、痛ぁ……なあ、もうちょっと俺のこと好きになってくんねえか。命、かかってんだけど!」


 吹き飛ばされたまま、ハルさんが客席に手を伸ばす。目の前の女の人が思わずその手を取りかけて、自分でびくっと引っ込めた。


 近い。何もかもが近い。


 私は自分の仕事を忘れかけていた。


「——ナギ」


 クロエさんの低い声で、はっと我に返る。


「最後の一枠。十八番、スタンバイさせろ。山場の手前で、奇跡の席を見せるぞ」


「は、はい」


 私は座席図に目を戻した。十八番のサクラの席が赤く点っている。当選通知を握って泣く合図のボタンに、指をかけた。


 ——そのとき。


 ホールの入口を映したカメラに、ひとりの老婆が映っていた。


 小柄な白髪の老婆だった。手すりに掴まって、ゆっくりと自分の席を探している。


 その手に、当選通知のスマホが握りしめられている。


 画面の光が、皺の寄った頬を照らしていた。その頬が濡れている。


 まだ何も始まっていない。ただ席に着くだけのことで、その人はぼろぼろ泣いていた。


「……クロエさん。あの人」


 私は座席図とカメラを見比べた。老婆の向かう先は——いちばん後ろの、空けてあった最後の一枠だ。


「あの席、十八番じゃ……サクラじゃないです。本物が当たってます」


 クロエさんの半開きの目が、針のように鋭くなった。


 画面の中の老婆をじっと見ている。


 老婆はやっと席を見つけて、節くれだった手でおそるおそる背もたれに触れた。座るのがもったいないみたいに。何度も当選通知を見直している。


 夢じゃないかと確かめているみたいだった。


「……手違いか。形だけの抽選に、本物が一人引っかかったな」


 クロエさんが低くつぶやいた。


「どうします。十八番に、差し替えますか」


 私の指は、まだ十八番のボタンにかかっていた。本物を追い出して、段取りどおりのサクラを座らせる。それがたぶん、正しい手だ。


「……いや」


 クロエさんは空のカップをこつんと机に置いた。


「最後の一枠は、あのばあさんだ。十八番は引っ込めろ」


「えっ」


「サクラの涙は安いんだよ。段取りどおりに泣くだけだ。——でも、本物が一人まじってる。なら、そっちを立てたほうが、ぜんぶ高く跳ねる」


 クロエさんの指が座席図の上をすばやく滑った。


「奇跡の席の的、あのばあさんに変える。カメラもスポットもハルの最後の挨拶も、ぜんぶあっちに振るんだ」


 頭がついていかないまま、慌ててパネルに手を伸ばす。


「それと、ナギ」


 クロエさんが、いつもより低い声で言った。


「あの席にだけは、何も乗せるな」


「……何も、ですか」


「サクラも合図も、ぜんぶよけて通せ。あのばあさんのまわりに、サクラが三つ四ついるだろう。あれを全部、別の合図に振り替えろ。あの席の半径だけ、うちの仕込みが一個も触らないように空けるんだ」


 私は座席図を見た。老婆の席の近くに、赤い点が四つ。サクラだ。


「あの涙だけは——本物のままにしとけ」


 その一言が、なぜだか胸の奥に引っかかった。


 でも、考えている時間はなかった。山場がもう近い。


 私はパネルにかじりついた。


 十八番の合図を切る。老婆の左右にいた三番と七番を、別の列の波乗り役へ振り替える。後ろの二人は、反対側のブロックへ動かす。


 あの席の半径から、嘘を一個ずつ引き剥がしていく。


 手がうまく動いてくれなかった。さっき当たる人と外れる人を並べ替えたときより、ずっとややこしい手つきだ。


 ひとつの本物を守るために、私は、まわりの嘘を五つも六つも動かしていた。


 その間も、ステージのハルさんは吹き飛ばされ続けている。


 膝が笑っている。剣はもう、まともに振れていない。なのに立つ。


 百人が息を詰めて、それを見ていた。誰も、もう笑っていない。狭い箱の中で、百人ぶんの祈りがぱんぱんに膨れていた。


「——立て!」「ハル、まだいける!」


 ばらばらの声が、近い天井に跳ね返って、すぐひとつの塊になる。大会場の地鳴りとは違う。もっと近くて、熱い。


 その熱がモニターのスピーカーを震わせた。


「お——っ、来た来た来たぁ! お前らの好きが、効いてきやがるぅ!」


 決まり文句だ。客のほうが、もう続きを待ち構えている。百人の声が、ひとつにそろってあとを引き取った。


「力が——湧いてこい——っ!」


 その声に押し上げられるみたいに、ハルさんがぐらりと立ち上がる。


 よろよろだった体が、嘘みたいに滑らかに鹿の顎の下へ滑り込んだ。指が首筋をとんと叩く。巨体の動きが、糸の切れたみたいにふっと緩んだ。


 刃こぼれの剣が深く沈む。くぐもった一音。


 鹿が光の粒になってほどけていく。


 狭いホールが割れた。


 百人が総立ちで、泣きながら叫んでいる。目の前の逆転を、自分の手で掴んだみたいに。


「最後にひとつ、いいか」


 歓声のやまない中で、ハルさんがカメラを見る。それから——ゆっくりと、いちばん後ろの席を向いた。


 クロエさんがイヤモニに小さく合図を送ったのが分かった。


「今日この席に来てくれて、ありがとな。——いちばん後ろの、あんただよ」


 スポットライトが、すうっとあの老婆を照らした。


 老婆は両手で口を覆って、肩を波打たせていた。立ち上がることもできず、ただ何度もうなずいている。


 ありがとう、ありがとうと、声にならない口が動いている。


 まわりの百人が、その人を見てもらい泣きを始める。知らない誰かが、老婆の背中にそっと手を添えた。


 その席の半径だけ、うちのサクラはひとつもいない。


 あの涙は、本物だった。誰の合図でもない。その人が、その人の人生ぶんだけ泣いていた。


 配信のコメント欄が爆発した。


『え、なにこれ、こっちまで泣いてる』

『おばあちゃん、よかったね、ほんとによかったね』

『この席に当たった人、一生の宝物だわ』

『行けなかったの、めちゃくちゃ悔しい。来週こそ』


 私は、その光景を暗がりから見ていた。


 本物の涙がひとつ、百人のまんなかで光っている。私が、まわりの嘘を全部よけて空けてやった、その一点で。


 守れたのだと思う。たぶん。


 なのに、胸の奥がうまく晴れなかった。




 終演後のオペレーター室は、表の熱が嘘みたいに静かだった。


 モニターの中では、まだ百人が帰りたがらない。互いに肩を叩き合っている。


 あの老婆も、隣の客に支えられてまだ泣いていた。


「……あのおばあさん。最後まで、泣いてましたね」


「だろうな」


 クロエさんが新しいコーヒーを啜った。


「本物の涙ってのは、ああいうふうに止まらないんだ」


 私は、パネルを膝に抱えたまま訊きたいことを呑み込んでいた。


 訊いていいのか分からない。でも、訊かずにはいられなかった。


「クロエさん。さっき、終わってから話すって言ってましたよね。百席の話」


「ああ」


 クロエさんは、画面の数字をちらと見た。同時接続のカウンタは、まだ過去最高の桁を保っている。


「今日のホール、なんで百席だったと思う」


「……特別な、感じがするから」


「ちがうよ」


 クロエさんは半分閉じた目で言った。


「入れる百人を喜ばせる数字じゃない。入れなかった何万人の——損のためだ」


「損……?」


「人はね。手に入れた喜びより、取りこぼした損のほうを倍も重く感じる。だから先に九十九を埋めて、最後のひとつだけを見せるのさ」


 クロエさんの指が、コメント欄の「行きたかった」をつうっとなぞった。


「『あと一枠』。そこで何万人が、自分は失ったと思う。その損が、画面のこっち側の“好き”をいちばん高く跳ね上げるんだ」


 私は、自分が並べ替えた当選者のリストを思い出していた。


 当たる人と外れる人。あの「行きたかった」の一行ずつは、私が損をさせた人の声だったんだ。


「一生に一度の奇跡の席、ってのもね」


 クロエさんは、空でもないカップを軽く揺らした。


「何週間も前から、図面に引いてある。奇跡なんて、最初からここに設計してあったのさ」


 私はしばらく言葉が出なかった。


 あの老婆の涙さえ、この設計の中で起きた。そう思うと、足元がすうっと冷たくなった。


「……じゃあ、あのおばあさんも」


 声が硬くなった。


「あの人も、最初から仕込みだったんですか」


「いや」


 クロエさんはまばたきもしなかった。


「あれは本物だ。形だけの抽選を、まぐれで引き当てただけの一人さ」


「なのに——」


 私は、膝のパネルをぎゅっと握った。


「なのに、なんで。『あの席だけは本物にしろ』なんて言ったんですか」


 クロエさんはすぐには答えなかった。


 コーヒーを一口飲んで、まだ泣いている老婆を見ている。


「サクラの涙は安い。段取りどおりに泣くだけだ。本物が一人まじってるなら、そっちを立てたほうが高く跳ねる。——そういう計算だよ」


 それは分かる。冷たいけれど、分かる。


 でも、それだけじゃない気がした。


 クロエさんは、ふっと声の温度を落とした。


「……それにな」


「はい」


「あの席に、うちのサクラを乗せてみろ。あのばあさんの人生ぶんの涙が、こっちの安い嘘に踏み潰される。——それだけは、もったいないだろ」


 もったいない。


 クロエさんは、そう言った。数字の話みたいな顔で。


 だけど、その言葉だけは、どうしても数字に聞こえなかった。


 私は思い出していた。あの涙を本物のままにしておくために、私が何をしたかを。


 十八番のサクラを引っ込めて、まわりの合図をぜんぶよけた。あの席の半径に、嘘の壁をぐるりと立てた。


 たったひとつの本物を、守るために。


 ……守るために、私は嘘をもっと増やしたんだ。


「クロエさん」


「ん」


「本物を守るのに……どうして、嘘がもっと要るんですか」


 クロエさんは答えなかった。


 ただコーヒーを飲み干して、空になったカップを見て、いつものように顔をしかめただけだった。


 私は膝のパネルを見下ろした。


 十八番のボタンが、暗いまま黙っている。今日、本物を立てるために私が切ったボタンだ。


 あの老婆の涙は、本物だった。それは間違いない。


 なのに、その本物を本物のまま咲かせるために——私の指は、五つも六つも嘘を動かしていた。


 守ったのか。汚したのか。自分でも、もうよく分からない。


 その問いだけが、答えのないまま胸の奥に居座っている。


 私は、暗いボタンからまだ指を離せずにいた。

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