第3話: 三つの席の温度
糸だ。
黒い糸がハルさんの右腕にぎちりと巻きついた瞬間、オレは握っていたスマホを取り落としかけた。
黒糸蜘蛛。リング奥の闇から、見上げるほどの巨体がのっそりと這い出してくる。
八本の脚の関節が照明を鈍く弾いた。腹から吐かれる糸がつぶれた銀色に光っている。
「うわ、でか……っ」「今日の相手、やばくない?」
すぐ後ろで知らない誰かの声がうわずった。会場じゅうのざわめきがひとつ高くなる。
オレは今朝始発でゲート街に来た。最前列の柵が取れる整理券のために四時間並んだ。
汗と発煙筒の匂いの中、足の裏まで人の熱が伝ってくる、この最前列がオレの居場所だ。
ハルさんの興行は一回だって落としたことがない。アーカイブも全部台詞まで覚えてる。
なのに今日のオレは、最初の一手から心臓がもう痛い。
「うわ、糸……っ、足にも巻いてる」
隣でスマホを構えた女の子が声を裏返した。たぶん、現地は初めてだ。
「だ、大丈夫なんですか、あれ……」
「平気。ハルさんは、いつも最後に勝つから」
「でも、あんなにぐるぐる巻きにされて……」
「見ててください。ぜったい、抜けるんで」
そう答えたオレの声のほうがよっぽど上ずっていた。喉がからからで生唾がうまく飲み込めない。
糸がハルさんの両腕を背中で縛り上げる。膝が落ちる。蜘蛛がぐ、と糸を手繰った。ハルさんの体が宙へ吊り上げられていく。
「あー……これ、まずいかもなァ」
吊られたままハルさんがへらりと笑った。
「なあお前ら。正直に言うとな、今日の俺、ちょっと“好き”が足りてねえ。このままだと——巻かれて終わりだわ、これ」
……足りない。
その一言がオレの背中に氷を入れた。
知ってる。ハルさんの能力は“好かれた数だけ強くなる”。オレたちが好きでいるぶんだけ、あの人は強くなる。
じゃあ、足りないってことは。オレたちの好きが足りないってことだ。
「……っ、足りないなんて言わせるかよ」
オレはスマホを両手で握り直した。バイト代の残り全部だ。指がこわばってなかなかボタンを押せない。
『トキ:ハルさん今日もかっこよすぎ、好きだよ、スパチャ全部いくからね!!』
送った。一万円ぶんの赤いコメントが滝みたいなコメント欄を割って、画面のいちばん上で光る。
効いてくれ。一円でも、一文字でも、あの人の力になってくれ。
『自分も投げた、ハルさん届いて……!』
『みんなで好き送ろう、いまだよ!』
『好き、好き、好き、ありったけ送る!』
『ハルさんのために投げたの、初めて』
『負けないで、こっちまで泣きそう』
オレのスパチャにぽつぽつと赤が続く。ひとつ、ふたつ、見る間に列になっていく。
糸がまた締まる。ハルさんの口からぐ、と苦しげな音が漏れた。さっきの軽口がもう出ない。
『これマジで危なくない??』
『糸、ガチで食い込んでる』
『え、これいつもの演出だよね? だよね?』
『今日のだけ、なんか違う気がする』
『ハルさん声出てない、初めて見た』
『演出にしては、やりすぎでしょこれ』
『心臓に悪い、はやく抜けてって』
『冗談抜きで、今日のはほんとやばい』
『だれか運営呼んで』
コメント欄がざわつきはじめる。冷やかしの「よっわ」がだんだん消えていく。
「無理しないで……っ、もういいから、逃げてください!」
隣の女の子が画面に向かって叫んだ。さっきまで他人事みたいに笑っていた口がもう必死だった。
「立ってよ……立ってください、ハルさん」
隣の女の子が両手で口を覆ったままちいさく祈っていた。
オレの何列か後ろでしわがれた声がぽつりと上がった。
「……がんばれ。逃げろ、ハル」
その一声がオレの喉のつかえをどんと押し出した。
「——がんばれ! ハルさん、まだいける、まだ——っ!」
気づいたらオレは柵から身を乗り出して叫んでいた。
「立て——っ!」「ハル、負けんなよ!」
右隣が、左隣が、後ろのスタンドが。ばらばらだった声が足の裏から地鳴りになって、すり鉢の底へ集まってくる。
その揺れが靴底から脛を駆け上がってくるのが分かった。
「ハルさぁん!」
さっきまで怯えていた女の子がもう泣きそうな声でいっしょに叫んでいた。
オレの好きもその中にある。ちゃんと、ある。
「立て、ハル!」「うしろ、気をつけろ——っ!」
『鳥肌やばい、頼む頼む頼む』
『ここで抜けてくれ、お願いだから』
『もう演出とかどうでもいい、勝ってくれ』
『指、動いた!? いまの見えた人いる!?』
『うわ、ほんとに動いた——っ!!』
『いけえええ、ここだ——っ!』
「ハル! ハル!」
吊られたハルさんの指先がぴくりと動いた。
次の瞬間たわんでいた糸が——ぶつっ、と切れた。
どうやったのかは見えなかった。
ただ、自由になった体が嘘みたいに滑らかに宙で回って、蜘蛛の脳天めがけて落ちていく。
刃こぼれの剣が深く沈む。くぐもった一音。
巨体が糸ごと光の粒になってほどけた。
ゲート街が割れた。
オレは泣いていた。みっともなく、声をあげて。
間に合った。オレたちの好きがちゃんと間に合った。
『勝ったああああ!!! 神、神すぎる』
『何回見ても泣く、ハルさん最高だよ』
『今日いちばん泣いた、声出た』
『鳥肌止まらん、何だこの試合は』
『泣きすぎて前が見えない、ありがとう』
『この人を好きでいる自分が、誇らしい』
『最後の一撃、何回でも見返したい』
『ハルさんありがとう、また明日来る』
『ついてきてよかった、一生推す』
『トキ:勝ったあああ、好きが届いた、間に合った、ありがとうハルさん!!』
スマホを握る手が涙でぐしゃぐしゃに濡れている。
リングの真ん中でハルさんがカメラに向かってゆるく手をあげた。
「——また会おうぜ、お前ら。好きでいてくれよ、明日もな」
いつもの締めの一言。たったそれだけで、すり鉢じゅうがまた揺れた。
隣の女の子が鼻をぐすぐす鳴らしながらオレの袖を引っぱった。
「……勝った。勝ちましたね、ほんとに」
「でしょ。ハルさんは、いつも最後に勝つんですって」
オレの声も涙でぐちゃぐちゃだった。
この人を好きでいてよかった。明日も、あさっても、オレは並ぶ。何時間でも並ぶ。
オレの好きがあの人を生かすなら。
またこのパターンかと俺は鼻を鳴らした。
黒糸蜘蛛の拘束芸。半年前にもやった。一年前にもやった。糸で吊って、絶体絶命を作って、客が泣きそうになった頃にぶつっと抜ける。判で押したみたいな逆境ナラティブだ。
俺はスタンドの中ほど、人の頭の隙間からリングをだるそうに眺めていた。なんで毎回来てるのか、自分でも分からない。
来るたびにこんなくだらねえもんに、と思う。思うのに、気づいたら整理券を取っている。
隣で見知らぬ男が連れに笑いかけた。
「お、始まった始まった。今日はどんだけ派手に負けるかね」
「……どうせ、三分で抜けるよ」
訊かれてもいないのに俺は低く吐き捨てていた。男がきょとんとこっちを見る。俺は目をそらした。よけいなこと言うんじゃねえよ、俺。
『カゲ:はい拘束ね。どうせ三分で抜けるやつw 茶番乙』
打ち込んで送る。だろ。当ててやる。次は“好きが足りねえ”とか言って、客に金をせびる流れだ。
「なあお前ら。正直に言うとな、今日の俺、ちょっと“好き”が足りてねえ」
……ほら来た。
『カゲ:はい来た物乞いタイム。好きが足りない=スパチャよこせ、の言い換えw』
俺は冷笑した。全部見えてる。台本も、客の操られ方も、ぜんぶ。
吊られたハルがぐ、と苦しそうな声を漏らす。糸が食い込む。客がざわつきはじめる。
『これ演出? ガチ? わかんねえ』
『糸、ほんとに食い込んでるって』
『これマジのやつじゃね、運営はやく』
『見てるこっちが苦しい、もうやめて』
『今日のだけ、ガチで様子おかしくない?』
ばかが。釣られてやがる。俺はコメント欄を鼻で笑った。
『カゲ:はい、ここで“まさかの本物”演出ね。怖がらせて引き止める常套手段w』
——で、ここで誰かが口火を切るんだ。「がんばれ」って。
案の定、前のほうの席でしわがれた声が上がった。「がんばれ。逃げろ、ハル」。
俺は思わず舌打ちした。サクラくせえ。いや、サクラだろ、絶対。タイミングが良すぎる。客が一番不安になったちょうどその秒に上がりやがった。
そう、分かってる。分かってるんだ。手口なんて最初から最後まで見えてる。
『カゲ:はいはい、どうせ抜ける。何回同じの見せんだよ』
打って送る。指がなんでか少し汗ばんでいた。
なのに——。
俺の目は吊られたハルの指先から離れなかった。
あいつの腕に食い込んだ糸が本当に痛そうで。膝が本当に笑っていて。あの軽い口が本当に塞がっていて。
茶番だと知ってるのに。台本だと言い当てたのに。
俺の心臓は勝手に速くなっている。
気づけば、俺はスタンドの手すりに胸がつくほど身を乗り出していた。冷笑してたはずの、この俺が。
周りの「ハル! ハル!」の地鳴りの中で、俺だけが歯を食いしばって、黙ってあいつを睨んでいた。
抜けろ。
——抜けてみせろよ、お前。
糸がぶつっと切れた。
自由になった体が宙で回り、蜘蛛の脳天に剣が沈む。光の粒。総立ち。
『うおおおおお!! 鳥肌!!』
『何度見ても、ここで泣く』
『やっぱハルが最強なんだわ』
『今日のいちばん痺れた、保存案件』
『これにはアンチも黙るしかないわw』
『一生ぶんの好き、置いてくわ』
ちっ。ばかみたいに沸きやがって。アンチも黙る、ねえ。
俺は立っていなかった。ひとり、椅子に座ったまま手すりに齧りつくみたいに、拳だけを握っていた。
「兄ちゃんも、結局ノってんじゃん」
隣の男がにやにやしながら俺の肩を小突いてきた。
「……は? 別に」
俺はあわてて背を起こした。それでも、手すりを掴んだ手はすぐには離せなかった。
手のひらに爪の痕が食い込んでいた。いつから、こんなに力を入れていたんだ。ゆっくり手を開くと、赤い半月が四つ、並んでいた。
『カゲ:……今の抜け方は、まあ、悪くなかった』
打ってから消した。打ち直す。
『カゲ:はいはい茶番茶番。次も見にきてやるよ、仕方なくな』
認めない。認めるもんか。こんなのぜんぶ作りもんだ。
最後にあいつが「また会おうぜ」と手をあげるのを俺はやっぱり、座ったまま見ていた。
なのに、なんで俺は——こいつから目を離せないんだろうな。
モニターの中の歓声はここまでは届かない。
俺の仕事場は会場じゃない。自宅のコメント監視用の小さな机だ。配信の画面と、流れるコメント欄と、削除ボタン。それだけ。
二十年配信を見てきて、いつのまにかこのチャンネルの古参モデレーターになっていた。荒らしを消し、晒しを消し、救助要請を運営窓口へ回す。地味な裏方の裏方だ。
モデレーター用の業務チャットがちかりと光った。今月入ったばかりの若いのだ。
『ヤナさん、今日もすごい人ですね。同接、過去最高だって』
『そうだな』
『ヤナさん、ほんと毎回静かっすね。配信、見てます?』
『見てるよ。見るのが仕事だ』
俺は短く返して、コメント欄に目を戻す。よけいな雑談はしない。
画面の中でハルが糸に吊られていく。客が沸く。コメントが滝になる。
いつもの拘束芸だ。俺はもう、何百回これを捌いてきたか分からない。こいつは毎回ちゃんと抜ける。心配はいらない。
糸が締まった。コメント欄の温度がすっと変わる。
『これマジで危なくない??』
『糸ガチで食い込んでる、運営仕事しろ』
『だれか救助、救助はよ』
『これ演出? ガチ? わかんねえ、こわい』
『手に汗にぎってきた、これ大丈夫なやつ?』
『初見だけど、こんな怖い配信なの……』
『運営、ほんとに見てるの!?』
『誰でもいいから、助けてあげて』
『お願いだから、誰か止めて』
救助要請がぱらぱらと増えはじめる。
『ヤナさん、救助要請のコメント、増えてきました。これ、止めなくて大丈夫ですか』
『いつものだ。本気のやつだけ、運営に上げとけ』
『コメント欄では、返さなくていいんですか?』
『ああ。上げて、流す。それだけだ』
『……ヤナさんは、心配じゃないんですか』
『あいつは、抜ける。毎回な』
打ちながら、口の中が少し苦かった。
俺は手を動かす。該当のコメントに目印をつけ、運営窓口の番号へまとめて転送する。荒らしじゃない。本気で心配して打っているやつもいる。だが、ここで個別に返してやる権限は俺にはない。
『<モデレーター>ヤナ:救助要請のコメントは運営窓口へ。コメント欄での連投はお控えください』
定型文を貼る。何百回も貼ってきた同じ一文だ。
貼った瞬間、指の先がわずかに止まった。
——昔も、こうやって。
その続きを俺は思い出さなかった。思い出さないようにした。手のひらに急に薄く汗がにじんでいる。
息が知らないうちに浅くなっていた。何でもない。古い手癖が勝手に何かをなぞっただけだ。
茶を口に運ぶ。とっくに冷めていた。
画面の中のハルが糸を切って、宙で回る。剣が沈む。光の粒。
コメント欄がいっせいに歓喜へ反転した。
『神試合、鳥肌止まらん』
『泣いた、ハルさんほんと最高』
『さっきまでビビっててごめんww』
『この瞬間のために通ってるわ』
『毎週これが見たくて、生きてる』
『無事でよかった、ほんとに』
『今日も持ってった、さすがすぎる』
『今日も泣かされた、完敗です』
『一生ついていきます』
さっきまで「こわい」と打っていた連中がもう「神」「最高」「泣いた」で埋め尽くしている。
救助要請はその下にあっという間に流れて、見えなくなった。
『ヤナさん、無事終わってよかったあ。さすがハルさん、毎回持ってきますね』
『……ああ。今日も、無事だ』
無事。そう打った指がほんの少しだけ、遅れた。
いつもどおりだ。今日も無事に終わった。
俺は目印をつけた救助要請のリストを閉じた。誰も、本当には助けを必要としていなかった。——そうだろう?
『<モデレーター>ヤナ:本日もお疲れさまでした。お気をつけてお帰りください』
最後に一行だけ貼って画面を閉じる。
部屋が急に静かになった。机の上で、ノートパソコンのファンだけが低く回り続けている。
その単調な音がやけに大きく聞こえた。
画面の歓声はやっぱりここまでは届かない。届かないほうがいいのかもしれない。
オペレーター室の暗がりで私は息を詰めていた。
壁いっぱいのモニターに、さっきの会場がいろんな角度で映っている。観客席。リングの俯瞰。吊られたハルさんのアップ。滝みたいに流れ続けるコメント欄。
机の上には、飲みかけのコーヒーが三つ。
裏方に入って、今日が初日だ。私の手元にはクロエさんから渡された小さなパネルがひとつ。
仕込みの席に座る人たちの耳元のイヤモニへ合図を送るための、ボタンの並んだ盤だ。
モニターの隅に会場の座席図が出ている。いくつかの席が赤く点っていた。
「赤いの、ぜんぶ……サクラ、ですか」
訊いた声が自分でも掠れていた。
「そう。十二人」
クロエさんは画面から目を離さずコーヒーを啜った。
「十一番が“がんばれ”の口火。三番と七番が、そのあと重ねる係。残りは波が来たら立つだけ」
「……そんなに、細かく」
「客は、ひとりが動くだけじゃ動かない。最初の三つが要る。一個じゃ浮く、二個でも足りない。三個重なって、はじめて“みんな”に見える」
クロエさんがようやくこっちを見た。半開きの眠そうな目。
「数字、見てな。新入り」
同時接続の折れ線が客の飽きに合わせて、すっと落ちていく。糸に吊られたハルさんが苦しげな声を漏らす。グラフがまた少し下がる。
「……そろそろ、口火ですか」
私はパネルの十一番に指を置いた。
「待て」
クロエさんが低く制した。
「現地、見ろ。前列の客が、もう自分から動きかけてる」
モニターの中で最前列のひとりの少年が——朝から並んでいたらしい、目を真っ赤にした子が柵から身を乗り出して、何か叫びかけていた。
「サクラより、本物が先に動いたら台無しだ。わざとらしさが、一発でバレる」
クロエさんの指が虚空でとんとリズムを取る。
「本物の波に、サクラを“後乗せ”する。あの子が叫んだ、半拍あと。いいか、半拍だ」
心臓が鳴っていた。少年の口が開く。「がんばれ」の形。その声が空気を震わせた、その——半拍あと。
「——今だ。押せ」
私は十一番を押した。
しわがれた合図がどこかの席の、誰かの耳元で鳴ったはずだった。次の瞬間、会場の何列か後ろから別の「がんばれ」が重なって上がる。
本物の波の、すぐ後ろに、ぴたりと。
ばらばらだった声が見る間にひとつの塊になって、すり鉢の底へ雪崩れていった。
モニターの中で、あの赤い目の少年が泣きながら拳を握って叫んでいる。
その熱の、いちばん根っこに——たった今、私が押したこのボタンがある。
糸が切れる。逆転。総立ち。歓声でモニターのスピーカーが割れそうに鳴った。
私は押したばかりのパネルを見下ろしていた。
「上手いじゃん。初日にしては」
クロエさんが空のカップをかしゃと振って、中身が無いのに気づき、露骨に顔をしかめた。
パネルを両手で抱えたまま私は動けずにいた。十一番のボタンから指が離れない。
何も言えなかった。
あの少年の涙は本物だ。あの地鳴りも本物だ。
なのに、そのいちばん深いところで人を動かしていたのは——才能でも、奇跡でもなくて。半拍の、間合いだった。私の、指だった。
昨日まで、私もあの最前列にいた。柵にしがみついて、声を嗄らして、本気で泣いていた。
柵を握る指が痛いくらいだった。あの熱を、手のひらはまだ覚えている。
その私を泣かせていた“誰か”の側に、私は今日、立ってしまった。
手のひらにボタンの感触が残っている。表の客みたいに泣いたときの、あの熱とはまるで違う。冷たい感触だ。
「……あの子も」
声がひとりでに漏れた。
「あの子も、自分の好きで勝たせたって、信じてるんですよね」
クロエさんは答えなかった。新しいコーヒーを淹れに立っただけだった。
明日も、私はここに座る。このボタンをまた押すんだ。
誰かの本物の涙の、半拍あとに合図を出す、冷たい指になって。
その自覚だけが、初日の終わりに静かに芽生えていた。




