第2話: ようこそ、裏側へ
リングの裏手は薄暗く、表の熱狂が嘘みたいに静かだった。
通されたのはモニターがずらりと並んだオペレーター席だ。十いくつもの画面に、さっきの会場がいろんな角度で映っている。
観客席。リングの俯瞰。ハルのアップ。流れ続けるコメント欄。机の上には飲みかけのコーヒーが三つ。
胸は、まだ熱いままだった。
「すごかったです……!」
気づいたら、私は早口でまくし立てていた。
「ハルさん、何度も吹き飛ばされて、それでも立って……みんなの"好き"をちゃんと力に変えて、あんな格上を——」
「あー、はいはい」
クロエさんは私を見もせずコーヒーを啜った。
皺だらけのパーカー。雑に結った髪で片目が隠れている。眠そうな低い声だった。
「あの鹿ね。調教済みだから」
一瞬、言葉の意味が入ってこなかった。
「……え?」
「前の晩から芸を仕込んだ、うちの個体。興奮のツボを押せば猛って見えるし、押すのをやめればおとなしく退く」
モニターの一つに、ハルが鹿の顎の下へ滑り込む最後の瞬間がスロー再生で映った。
ハルの指が鹿の首筋をとんと叩いている。たったそれだけで、巨体の動きがふっと緩んだ。
「……でも、ハルさんの能力は。好かれた数だけ——」
「無いよ、そんなの」
クロエさんはあっさりと言った。
「"好かれると強くなる"なんて力、この世のどこにもありゃしない。ぜんぶ嘘。あいつが言い触らしてる、ただの設定さ」
頭の奥がしんと冷えた。
「じゃあ……『今の俺じゃ勝てない、お前らが好きでいてくれないと』っていうのも……」
「芝居。『好きが足りねえ』ってのもね」
クロエさんの指が別のモニターに触れた。同時接続の折れ線グラフだ。何度かぐっとへこんでいる箇所がある。
「ここ。客が飽きかけて数字が落ちる。その秒に合わせて、ハルはわざと派手に吹っ飛ぶんだ」
画面の中の数字が、本当に落ちかけては、また跳ね上がっていた。
「さっき、あんたのすぐ後ろで『負けないで』って叫んだ母親がいたろ。あれもサクラ。数字が下がる一秒前に、こっちが合図して言わせてる」
息が、止まった。
あの声を、私は覚えている。最前列で柵にしがみついた私の、ほんの後ろから上がった、たったひとつの「負けないで!」。
あれが口火だった。あの一声から、会場がうねりはじめたのに。
「カゲってアンチがいたろ。あのいちばん意地悪な冷笑コメント。あれも仕込みさ。三番目のサクラだよ」
「カゲさんが……仕込み……?」
信じたくなかった。"はい最弱ぅ"も、"雑魚すぎでしょ"も、ぜんぶ。
あんなに憎たらしかったから、会場が「守ってやらなきゃ」って燃え上がったのに。
「アンチが一本煽ると、ファンは『守らなきゃ』って燃える。見下す奴と庇う奴。両方が沸いて、注目は倍になる」
「……でも、最後、カゲさんは『認める』って」
「あれが仕上げさ。いちばん意地悪な奴が、最後に膝を折って認める。"アンチすら落ちた"——それを見せられたら、もう誰も冷静じゃいられない」
クロエさんが、やっとこっちを向いた。半開きの眠そうな目。だけど、その奥だけが針みたいに鋭い。
「いいかい、新入り。人ってのはね——見下せる相手からは、目を離せないんだよ」
その一言が、やけに深く刺さった。
自分よりダメな奴を笑ってる間が、人はいちばんいい気分でいられる。
だからハルは毎回、自分から笑われに行くんだ。
だとしたら、と私は思った。あの人が本気なら、鹿なんて一瞬で終わっていたはずだ。
なのにあの興行で、あの人は何度も何度も吹き飛ばされ続けた。一瞬で勝てる相手に、わざと。
「勝つだけなら一瞬さ。でも一瞬で勝ったって、誰の心も動かない。とことん見下させてからひっくり返す。低く見せたぶんだけ、逆転は高く跳ねるんだよ」
モニターの中で、総立ちの観客が泣きながら叫んでいる。
ついさっきまで「よっわ」と笑っていた、あの坊主頭のおじさんが、いちばん大きな声で。
「で、最後に勝って『君らの"好き"が、俺を勝たせた』って思わせる。自分が勝たせたと信じた客ほど、いちばん深く惚れ込むのさ」
私は、何も言えなかった。
さっきまで胸を焼いていた熱が、引いていくのが分かった。
あの涙。総立ちの歓声。「みんなの"好き"で勝った」と本気で信じた、ついさっきの自分。
手のひらに、まだ拍手の熱が残っている。それが急に、ひどく恥ずかしいものに思えた。
私はその手をぎゅっと握って、熱を握りつぶした。
頬には、さっき流した涙の跡が乾いて張りついている。
手のひらの火照りと、涙の乾いた頬の冷たさ。そのちぐはぐが、たまらなく恥ずかしかった。
あんなに本気で泣いたのに。総立ちの大人たちにまじって、いちばん前で、いちばん子どもみたいに泣きじゃくっていたのに。
それも全部、仕込まれた手のひらの上の涙だったなんて。
「……ひどい」
声が、自分でも驚くほど硬かった。
「みんな本気だったんですよ。本気で笑って、本気で祈って、本気で泣いて……それ、ぜんぶ最初から計算だったんですか」
クロエさんは、空のカップをかしゃと振った。中身が無いのに気づいて、露骨に不機嫌な顔をする。
それから少しだけ、私を気の毒そうに見た。
「でも、勘違いするんじゃないよ。客の感動は本物。涙も本物。——ただ、それを起こした手口が、ぜんぶ作りものってだけさ」
それだけ、なんかじゃない。
椅子を蹴るように立ち上がっていた。
「……それだけ、なんかじゃないです」
声が震えた。
「私、今日生まれて初めて現地で泣いたんです。明日からこの人たちの一員になれるって、夢みたいだって……それも全部、手のひらの上だったって言うんですか」
「そうだよ」
クロエさんは、まばたきもしなかった。
嘘で、ここまで人を幸せにできてしまう。
私はそれが、許せなかった。
「……なんで、そんなことまでして」
喉が詰まった。
「人の"好き"を、そこまでしてかき集めて……ハルさんは、いったい何がしたいんですか」
クロエさんは、しばらく黙っていた。
それから新しいコーヒーを淹れに立った。背中のまま、ぽつりと言う。
「さあね。あいつがかき集めた"好き"を、最後に何へ使うつもりなのか。あたしも全部は聞いてない」
振り返らないまま、続ける。
「知らないほうが、長生きできる。あんたも、そうしときな」
その声の温度が、さっきまでの毒舌とは違っていた。
まるで、本当に何かを怖がっているみたいに。
——その時。
「お疲れ、クロエ。今日のもいい興行だったろ」
通路の奥から、ハルが現れた。
ショーの時の、まばゆい笑顔はもうどこにもない。
汗を拭った素顔は、思っていたよりずっと静かだった。疲れて、ひどく大人びて見えた。
彼の左手首には、古いストラップが巻かれていた。何かの機械の、壊れた部品みたいなそれ。
塗装はほとんど剥げ、紐の端はほつれて毛羽立っている。
何年も肌身離さず触れてきたのが、ひと目で分かる手つきだった。
ハルは無意識みたいに、その表面を指の腹でそっと撫でている。
その横顔を見た瞬間、私の中で何かがぐちゃぐちゃになった。
「……どうして」
止める間もなく、口が動いていた。
「どうして、あんな嘘を。みんな、あなたのこと本気で好きなのに……! それを利用して……っ」
ハルが、私を見た。
一瞬。ほんの一瞬だけ、その目からショーマンの軽さが消えた。
ストラップに触れた指が、止まる。
「……好きでいてくれんのはな」
低い、静かな声だった。
「利用するためだけじゃ、ねえよ。——あれは、ちゃんと預かってる」
預かってる。
何を。誰の。どこに。
私の目は、彼の左手首のストラップへ吸い寄せられていた。
さっきまで軽口の道具みたいに聞こえていた「好き」という言葉が、その古びた部品の上では、まるで違う重さを帯びて見えた。
それは何ですか——そう訊こうとして、声にならなかった。
ストラップを撫でる指は、止まったままだった。その沈黙が、どんな言葉よりも雄弁だった。
この人が「好き」をかき集める理由は、きっとこの一点に繋がっている。
利用するためだけじゃない。なら、何のために——。
「——なんてな!」
ぱっと、いつものショー用の顔に戻って、ハルは私の肩をぽんと叩いた。
「ようこそ、裏側へ。明日からよろしくな、新入り。せいぜい、いい嘘、作ろうぜ」
軽い。へらへらしている。さっきの静けさが、まるで私の見間違いだったみたいに。
——その切り替えの速さが、なぜだか、いちばん怖かった。
帰ろう、と思った。
人の心を弄ぶ場所。嘘で出来た夢。今日かぎりで忘れてしまえばいい。
常識で考えたら、そうだ。そうに決まってる。
なのに。
通路を歩き出した私の足は、出口じゃなくて、楽屋のほうへ向かっていた。
明るい出口には目もくれず、薄暗い廊下の奥の、楽屋の灯りのほうへ。
あの人が何を「預かって」いるのか。
あんなに上手に嘘をつく人が、たった一瞬だけ見せた、あの静かな顔の本当のところ。
——知りたい、と思ってしまった。
どうして足が止まらないのか、自分でも分からなかった。
ただ、いちばん上手な嘘つきの、いちばん性質の悪い嘘に——私はもう捕まりかけているのかもしれない。




