表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/10

第1話: 最弱の下剋上

 歓声が、床から突き上げてきた。


 足の裏から膝へ、背骨へと駆け上がる。


 最前列の柵にしがみついたまま、私は自分の体が、他人の熱で震えているのを知った。


 ゲート街。十数年前に地面が口を開けたダンジョンを、そのまま会場に仕立てた配信探索の聖地だ。


 すり鉢状の観覧席を囲んで、大型ビジョンが並ぶ。スポンサーの看板が、ぎらぎらと瞬いている。


 汗と、ホットドッグと安い発煙筒の匂い。何万人ぶんもの息が、ひとつの生き物みたいにリングへ向かっていた。


 ビジョンの隅で、同時接続のカウンタが回っている。七万。


 明日から、私はこの数字を作る側にまわる。子どもの頃から憧れた、夢の裏側だ。


 でも今日だけは——ただの客でいさせてほしかった。いちばん前で、いちばん馬鹿みたいに叫びたかった。


「さーて、今日も来てくれてありがとなァ!」


 リングの中央で、彼が両手を広げた。


 ハル。明るく染めた髪に、ロゴだらけの派手なウェア。十九歳。私の、ひとつ上。


 配信越しに何百回も見た顔が、今は五十メートル先で本物の光を浴びている。それだけで、心臓がうるさかった。


「言っとくけど、今の俺じゃ勝てない。——お前らが、好きでいてくれないとな!」


 会場が、どっと沸いた。笑いだ。


 「出た出たー」「また言ってるー」と、あちこちで気の抜けた声があがる。


 誰も、彼を強いとは思っていない。むしろ、その情けなさをみんな楽しみに来ている。


「知ってるか? 俺の能力はな——“俺を好きな奴の数だけ、強くなる”。お前らに好かれたぶんだけ、無敵になるんだよ!」


 ハルが、同接カウンタをびしっと指さした。七万。


「今“俺のこと好きだなー”って顔してる奴が、ここに七万人。……うーん、正直、今日の相手にはちょい足りねえな。あと十万、いや二十万くらい惚れてくれたら——勝てる気がするぜ!」


「あ、まだチャンネル登録してない奴ァ、今がチャンスだぞ。俺が無様に吹っ飛ぶとこ、生で拝めんのは今日だけだからなァ!」


 また、笑いが起きた。本気にしている人なんて、たぶんいない。私も、つられてくすっと笑った。


 隣で、坊主頭のおじさんが鼻で笑う。首から古いタオルを下げている。


「ばーか。あんな口上、本気にすんなって」

「……でも、勝つんですよね?」

「まあな。毎回ボロ負けしかけて、最後だけ、なんか勝つ。インチキくせえ」

「えぇ……それでも、みんな来るんですか」

「来るに決まってんだろ。あの無様さが、たまらねえんだよ。下手すりゃ今日も十回はぶっ飛ぶぞ。笑えるだろ」


 ビジョンの端を、コメントが滝になって流れていく。


『トキ:今日も推しが世界一かわいい〜! スパチャぜんぶいくからね!』

『カゲ:はいはい“好かれたら強くなる”ね。設定だけは中二で一丁前w』

『<モデレーター>ヤナ:救助要請のコメントは運営へ。煽りはほどほどに』


 冷たいのも甘いのも、ぜんぶ混ざって滝みたいに落ちていく。七万人ぶんの言葉。


 その全部を、ハルはひとりで、にやにやしながら受け止めている。


 リング奥の闇が、ぬうっと動いた。


 燐光鹿スポットライト・ディア。角の燐光が脈打って、見上げるほどの巨体が照明をぎらりと弾く。


 美しくて、恐ろしい。図鑑のどんな鹿とも違う。あんなものに、あの軽そうな男が——。


「……えっ、あれと、戦うんですか」

「おう。毎度あれだよ。映えるだろ?」


 考える間もなかった。


 鹿の前脚が、無造作にハルの剣を弾き飛ばす。乾いた音。彼の体が、砂を巻いて転がった。


『カゲ:はい最弱ぅ。開始八秒で被弾、雑魚すぎでしょwww』

『よっわ!!!』

『今日も負けるに一票w』


「ほら来た。今日も早えなァ、被弾」

「だ、大丈夫なんですか、あれ……」

「平気平気。これも様式美ってやつだ」


 会場じゅうが、同じ顔をしていた。安い見世物を、みんなが楽しんでいる。


 次にどう無様に転ぶのか。それを、待っている。


「足りねえ——っ!」


 砂まみれのまま、ハルがカメラに叫んだ。


「まだ全然足りねえって! なあ、こんなもんかよ、お前らの“好き”は!」


 転がりながらビジョンにピースして、観客席に投げキッスまで飛ばす。死にかけのくせに、サービス満点だ。


「いいねェ、その声! もっとくれよ、お前らの“好き”! 足りねえぶんは、根性で埋めるからよ——!」


 会場が、笑いと野次でまた沸いた。


 角が薙ぐ。ハルが紙一重で身を沈める。風圧で前髪が散った。


 横ざまの一閃を剣の腹で受け——受け流しきれず、また後ろへ吹き飛ばされる。


 立ち上がる足が、笑っている。それでも軽口は止まらない。


「あー、痛ぁ……なあ、そこの兄ちゃん、もうちょっと本気で好きになってくんない? 命かかってんのよ、俺!」


 指をさされた青年が、噴き出す。周りもつられて笑う。


 ——みんな、笑っている。誰も、本気で心配なんてしていない。私も、まだ、その一人だった。


 角が、薙ぐ。今度は、避けきれなかった。


 鈍い音がして、ハルの体がくの字に折れた。リングの端まで転がって、動かなくなる。


 会場の笑いが、ぴたりと止んだ。


 もう終わりだ。誰もがそう思った。私も、思った。


 ——でも、彼は立った。


 膝を笑わせながら、血の混じった唾を吐く。それでも剣を拾い、また構えた。


「……あれ」


 すぐ近くの誰かが、笑うのをやめた。


 鹿が突っ込む。ハルがいなす。受けきれず、また吹っ飛ぶ。


 なのに、立つ。三度目。よろけて、片膝をつく。なのに、また立つ。


「……へへ。まだ、だ。まだ……足りねえ」


「……おいおい。まだ立つのかよ、あいつ」


 おじさんの声から、笑いが消えていた。会場の冷たい笑いも、少しずつ薄くなっていく。


 「しぶといな」「いや、もう無理だろ」「……また立った。嘘だろ」。野次の中に、戸惑いが混じりはじめる。


「——負けないで!」


 私のすぐ後ろで、子どもを連れたお母さんらしい声が、ぽつりと上がった。


 最初は、たったひとり。でもその声に、隣の誰かが「……がんばれ」と小さく続く。


 前の席の二人組が、顔を見合わせる。


 ぽつり、ぽつりと、声が増えていく。十人。三十人。


 気づけば、私のいる一角はぜんぶ声を出していた。それが、すり鉢の斜面を伝って、向こうのスタンドへ燃え移っていく。


 さっき指をさされて笑っていた青年が、もう笑っていない。拳を握って、何か叫んでいる。


「……あの人、なんで」


 思わず、私はつぶやいていた。


「もう、立たなくていいのに。なんで、あんなになっても……」

「知るかよ」


 おじさんが、首のタオルを握りしめる。


「……でもなあ。なんか、目ぇ離せねえんだよ、あいつ」


 ハルが、また吹き飛んだ。今度は、もう、誰も笑わなかった。


 会場の空気が、変わっていた。見世物を楽しむ気楽なざわめきは、もうない。


 代わりに、ひりついた静けさが、すり鉢の底に満ちていく。


 その静けさを、ひとつ、またひとつと声が破りはじめた。


 「立て!」「いけ!」。ばらばらだった声が、だんだん、ひとつの塊になってうねりはじめる。


 その熱に、自分の心臓が引きずられていく。さっきまで、私も笑っていたのに。


 今はもう、柵を握る指が痛いくらいに白い。


「……立って」


 気づいたら、私も声を出していた。お願い、立って。立って。


「ハル! ハル!」


 会場じゅうが、地鳴りみたいに彼の名前を呼んでいた。


 さっき、いちばん馬鹿にしていた坊主頭のおじさんが、今は、いちばん大きな声で叫んでいる。


『トキ:負けないで!! もう無理、泣いてる、がんばって!!』

『カゲ:……ちっ。まあ、ここまでは見ててやるよ』


「お——っ、好かれてるぅ! 好かれてるぞ俺ェ! 力が……力が、湧いてきたァ!」


 ハルが、ぐらりと立ち上がる。汗と砂で前髪を額に貼りつかせて、それでも、にっと笑った。


 立ち方が、変わった気がした。


 さっきまで笑っていた膝が、すっと据わる。剣を握り直す指に、無駄な力みがない。


 その動きが、さっきより、ほんの少し鋭く見えたのは——気のせい、だろうか。


 いや。本当に、みんなの“好き”が、あの人を強くしているみたいだった。少なくとも、私には、そう見えた。そう、見えてしまった。


 鹿が、これまでで一番、猛り狂う。角を振り回し、床を抉る。


 石の破片が最前列まで飛んできて、私は思わず身をすくめた。


 ハルは転がり、いなし、また転がる。剣はもう刃こぼれだらけで、まともに振れてもいない。


 それでも、倒れない。倒れそうで、倒れない。


 会場の全員が、息を詰めていた。一万人が、同時に、息を止めていた。


 そして、鹿の角が、ぐん、と高く伸び上がる。


 とどめの一撃。その白い切っ先が、よろめくハルの真上から落ちてくる。


「——っ!」


 声にならない悲鳴が、会場を満たした。私の喉からも、知らない音が漏れる。


 ハルが、ふっと、笑った。


「——よし。たっぷり、好かれた」


 彼が、地を蹴る。


 よろよろだったはずの体が、嘘みたいに滑らかに、鹿の顎の下へ潜り込んだ。


 その刹那、あれほど猛っていた巨体の動きが、糸が切れたみたいにふっと緩む。


 崩れたその一点へ、刃こぼれの剣が、すうっと吸い込まれた。


 派手な技も、雄叫びも、なかった。あったのは、刃が深く沈むくぐもった一音だけ。


 巨大な鹿が、糸の切れた人形みたいにかくんと膝を折って——光の粒になって、ほどけていく。


 一拍の、静寂。それから、ゲート街が、割れた。


 歓声で、空気そのものが殴られたみたいだった。


 発煙筒が焚かれ、紙吹雪みたいにスパチャの通知が画面を埋め尽くす。


 知らない人と知らない人が、抱き合って跳ねている。


『トキ:勝ったああああ!!! みんなの“好き”で勝った!! もう一生推す!!』

『カゲ:……は? 今の何だよ。いや、待て、今のは普通に痺れたわ。……認める』


 ついさっきまで「よっわ」と笑っていた人たちが、総立ちで、泣きそうな顔で叫んでいる。


 坊主頭のおじさんが、タオルで目元を拭いながら、私の肩をばしばし叩いてきた。


「見たか! 見たかよ嬢ちゃん!」


 私は、答えられなかった。みっともなく、ぼろぼろ泣いていたからだ。


 視界が、ぐにゃりと滲んでいた。拭っても拭っても、熱いものが頬を伝って止まらない。


 喉の奥が詰まって、声がうまく出てこない。


 最弱の人が、何度も吹き飛ばされて、それでも立った。


 知らない誰かの「好き」をぜんぶ抱きしめて、勝った。


 私の「いけ!」も、あの逆転のほんのひとかけらにはなれたんだ。そう思ったら、涙が止まらなかった。


「すごい……本当に、すごい……」


 やっと、それだけがこぼれた。


 明日から、私はあの人を支える側になる。あんな奇跡を、裏で作る一員になれる。


 ——夢みたいだ。胸が、はちきれそうだった。


 なのに。その奥で、心臓だけが、期待とも不安ともつかない速い音を立てていた。


 その時、肩を、とんと叩かれた。


 皺だらけのパーカーを着た、気だるそうな女の人だった。


 首から下げたスタッフ証に、《スタッフロール》の文字。眠そうな半開きの目が、まだ泣いている私をちらりと見る。


「君、明日からの新入りの子だよね。——ちょっと、こっち来な。あたしはクロエ。あれの、相方」


 差し出された手の先。リングの裏手へ続く通路の奥に、楽屋の灯りがぽつんと点っていた。


 その灯りに向かって、私は、まだ熱い胸のまま、一歩を踏み出した。


 ——ようこそ、と言われる、その手前で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ