第1話: 最弱の下剋上
歓声が、床から突き上げてきた。
足の裏から膝へ、背骨へと駆け上がる。
最前列の柵にしがみついたまま、私は自分の体が、他人の熱で震えているのを知った。
ゲート街。十数年前に地面が口を開けたダンジョンを、そのまま会場に仕立てた配信探索の聖地だ。
すり鉢状の観覧席を囲んで、大型ビジョンが並ぶ。スポンサーの看板が、ぎらぎらと瞬いている。
汗と、ホットドッグと安い発煙筒の匂い。何万人ぶんもの息が、ひとつの生き物みたいにリングへ向かっていた。
ビジョンの隅で、同時接続のカウンタが回っている。七万。
明日から、私はこの数字を作る側にまわる。子どもの頃から憧れた、夢の裏側だ。
でも今日だけは——ただの客でいさせてほしかった。いちばん前で、いちばん馬鹿みたいに叫びたかった。
「さーて、今日も来てくれてありがとなァ!」
リングの中央で、彼が両手を広げた。
ハル。明るく染めた髪に、ロゴだらけの派手なウェア。十九歳。私の、ひとつ上。
配信越しに何百回も見た顔が、今は五十メートル先で本物の光を浴びている。それだけで、心臓がうるさかった。
「言っとくけど、今の俺じゃ勝てない。——お前らが、好きでいてくれないとな!」
会場が、どっと沸いた。笑いだ。
「出た出たー」「また言ってるー」と、あちこちで気の抜けた声があがる。
誰も、彼を強いとは思っていない。むしろ、その情けなさをみんな楽しみに来ている。
「知ってるか? 俺の能力はな——“俺を好きな奴の数だけ、強くなる”。お前らに好かれたぶんだけ、無敵になるんだよ!」
ハルが、同接カウンタをびしっと指さした。七万。
「今“俺のこと好きだなー”って顔してる奴が、ここに七万人。……うーん、正直、今日の相手にはちょい足りねえな。あと十万、いや二十万くらい惚れてくれたら——勝てる気がするぜ!」
「あ、まだチャンネル登録してない奴ァ、今がチャンスだぞ。俺が無様に吹っ飛ぶとこ、生で拝めんのは今日だけだからなァ!」
また、笑いが起きた。本気にしている人なんて、たぶんいない。私も、つられてくすっと笑った。
隣で、坊主頭のおじさんが鼻で笑う。首から古いタオルを下げている。
「ばーか。あんな口上、本気にすんなって」
「……でも、勝つんですよね?」
「まあな。毎回ボロ負けしかけて、最後だけ、なんか勝つ。インチキくせえ」
「えぇ……それでも、みんな来るんですか」
「来るに決まってんだろ。あの無様さが、たまらねえんだよ。下手すりゃ今日も十回はぶっ飛ぶぞ。笑えるだろ」
ビジョンの端を、コメントが滝になって流れていく。
『トキ:今日も推しが世界一かわいい〜! スパチャぜんぶいくからね!』
『カゲ:はいはい“好かれたら強くなる”ね。設定だけは中二で一丁前w』
『<モデレーター>ヤナ:救助要請のコメントは運営へ。煽りはほどほどに』
冷たいのも甘いのも、ぜんぶ混ざって滝みたいに落ちていく。七万人ぶんの言葉。
その全部を、ハルはひとりで、にやにやしながら受け止めている。
リング奥の闇が、ぬうっと動いた。
燐光鹿。角の燐光が脈打って、見上げるほどの巨体が照明をぎらりと弾く。
美しくて、恐ろしい。図鑑のどんな鹿とも違う。あんなものに、あの軽そうな男が——。
「……えっ、あれと、戦うんですか」
「おう。毎度あれだよ。映えるだろ?」
考える間もなかった。
鹿の前脚が、無造作にハルの剣を弾き飛ばす。乾いた音。彼の体が、砂を巻いて転がった。
『カゲ:はい最弱ぅ。開始八秒で被弾、雑魚すぎでしょwww』
『よっわ!!!』
『今日も負けるに一票w』
「ほら来た。今日も早えなァ、被弾」
「だ、大丈夫なんですか、あれ……」
「平気平気。これも様式美ってやつだ」
会場じゅうが、同じ顔をしていた。安い見世物を、みんなが楽しんでいる。
次にどう無様に転ぶのか。それを、待っている。
「足りねえ——っ!」
砂まみれのまま、ハルがカメラに叫んだ。
「まだ全然足りねえって! なあ、こんなもんかよ、お前らの“好き”は!」
転がりながらビジョンにピースして、観客席に投げキッスまで飛ばす。死にかけのくせに、サービス満点だ。
「いいねェ、その声! もっとくれよ、お前らの“好き”! 足りねえぶんは、根性で埋めるからよ——!」
会場が、笑いと野次でまた沸いた。
角が薙ぐ。ハルが紙一重で身を沈める。風圧で前髪が散った。
横ざまの一閃を剣の腹で受け——受け流しきれず、また後ろへ吹き飛ばされる。
立ち上がる足が、笑っている。それでも軽口は止まらない。
「あー、痛ぁ……なあ、そこの兄ちゃん、もうちょっと本気で好きになってくんない? 命かかってんのよ、俺!」
指をさされた青年が、噴き出す。周りもつられて笑う。
——みんな、笑っている。誰も、本気で心配なんてしていない。私も、まだ、その一人だった。
角が、薙ぐ。今度は、避けきれなかった。
鈍い音がして、ハルの体がくの字に折れた。リングの端まで転がって、動かなくなる。
会場の笑いが、ぴたりと止んだ。
もう終わりだ。誰もがそう思った。私も、思った。
——でも、彼は立った。
膝を笑わせながら、血の混じった唾を吐く。それでも剣を拾い、また構えた。
「……あれ」
すぐ近くの誰かが、笑うのをやめた。
鹿が突っ込む。ハルがいなす。受けきれず、また吹っ飛ぶ。
なのに、立つ。三度目。よろけて、片膝をつく。なのに、また立つ。
「……へへ。まだ、だ。まだ……足りねえ」
「……おいおい。まだ立つのかよ、あいつ」
おじさんの声から、笑いが消えていた。会場の冷たい笑いも、少しずつ薄くなっていく。
「しぶといな」「いや、もう無理だろ」「……また立った。嘘だろ」。野次の中に、戸惑いが混じりはじめる。
「——負けないで!」
私のすぐ後ろで、子どもを連れたお母さんらしい声が、ぽつりと上がった。
最初は、たったひとり。でもその声に、隣の誰かが「……がんばれ」と小さく続く。
前の席の二人組が、顔を見合わせる。
ぽつり、ぽつりと、声が増えていく。十人。三十人。
気づけば、私のいる一角はぜんぶ声を出していた。それが、すり鉢の斜面を伝って、向こうのスタンドへ燃え移っていく。
さっき指をさされて笑っていた青年が、もう笑っていない。拳を握って、何か叫んでいる。
「……あの人、なんで」
思わず、私はつぶやいていた。
「もう、立たなくていいのに。なんで、あんなになっても……」
「知るかよ」
おじさんが、首のタオルを握りしめる。
「……でもなあ。なんか、目ぇ離せねえんだよ、あいつ」
ハルが、また吹き飛んだ。今度は、もう、誰も笑わなかった。
会場の空気が、変わっていた。見世物を楽しむ気楽なざわめきは、もうない。
代わりに、ひりついた静けさが、すり鉢の底に満ちていく。
その静けさを、ひとつ、またひとつと声が破りはじめた。
「立て!」「いけ!」。ばらばらだった声が、だんだん、ひとつの塊になってうねりはじめる。
その熱に、自分の心臓が引きずられていく。さっきまで、私も笑っていたのに。
今はもう、柵を握る指が痛いくらいに白い。
「……立って」
気づいたら、私も声を出していた。お願い、立って。立って。
「ハル! ハル!」
会場じゅうが、地鳴りみたいに彼の名前を呼んでいた。
さっき、いちばん馬鹿にしていた坊主頭のおじさんが、今は、いちばん大きな声で叫んでいる。
『トキ:負けないで!! もう無理、泣いてる、がんばって!!』
『カゲ:……ちっ。まあ、ここまでは見ててやるよ』
「お——っ、好かれてるぅ! 好かれてるぞ俺ェ! 力が……力が、湧いてきたァ!」
ハルが、ぐらりと立ち上がる。汗と砂で前髪を額に貼りつかせて、それでも、にっと笑った。
立ち方が、変わった気がした。
さっきまで笑っていた膝が、すっと据わる。剣を握り直す指に、無駄な力みがない。
その動きが、さっきより、ほんの少し鋭く見えたのは——気のせい、だろうか。
いや。本当に、みんなの“好き”が、あの人を強くしているみたいだった。少なくとも、私には、そう見えた。そう、見えてしまった。
鹿が、これまでで一番、猛り狂う。角を振り回し、床を抉る。
石の破片が最前列まで飛んできて、私は思わず身をすくめた。
ハルは転がり、いなし、また転がる。剣はもう刃こぼれだらけで、まともに振れてもいない。
それでも、倒れない。倒れそうで、倒れない。
会場の全員が、息を詰めていた。一万人が、同時に、息を止めていた。
そして、鹿の角が、ぐん、と高く伸び上がる。
とどめの一撃。その白い切っ先が、よろめくハルの真上から落ちてくる。
「——っ!」
声にならない悲鳴が、会場を満たした。私の喉からも、知らない音が漏れる。
ハルが、ふっと、笑った。
「——よし。たっぷり、好かれた」
彼が、地を蹴る。
よろよろだったはずの体が、嘘みたいに滑らかに、鹿の顎の下へ潜り込んだ。
その刹那、あれほど猛っていた巨体の動きが、糸が切れたみたいにふっと緩む。
崩れたその一点へ、刃こぼれの剣が、すうっと吸い込まれた。
派手な技も、雄叫びも、なかった。あったのは、刃が深く沈むくぐもった一音だけ。
巨大な鹿が、糸の切れた人形みたいにかくんと膝を折って——光の粒になって、ほどけていく。
一拍の、静寂。それから、ゲート街が、割れた。
歓声で、空気そのものが殴られたみたいだった。
発煙筒が焚かれ、紙吹雪みたいにスパチャの通知が画面を埋め尽くす。
知らない人と知らない人が、抱き合って跳ねている。
『トキ:勝ったああああ!!! みんなの“好き”で勝った!! もう一生推す!!』
『カゲ:……は? 今の何だよ。いや、待て、今のは普通に痺れたわ。……認める』
ついさっきまで「よっわ」と笑っていた人たちが、総立ちで、泣きそうな顔で叫んでいる。
坊主頭のおじさんが、タオルで目元を拭いながら、私の肩をばしばし叩いてきた。
「見たか! 見たかよ嬢ちゃん!」
私は、答えられなかった。みっともなく、ぼろぼろ泣いていたからだ。
視界が、ぐにゃりと滲んでいた。拭っても拭っても、熱いものが頬を伝って止まらない。
喉の奥が詰まって、声がうまく出てこない。
最弱の人が、何度も吹き飛ばされて、それでも立った。
知らない誰かの「好き」をぜんぶ抱きしめて、勝った。
私の「いけ!」も、あの逆転のほんのひとかけらにはなれたんだ。そう思ったら、涙が止まらなかった。
「すごい……本当に、すごい……」
やっと、それだけがこぼれた。
明日から、私はあの人を支える側になる。あんな奇跡を、裏で作る一員になれる。
——夢みたいだ。胸が、はちきれそうだった。
なのに。その奥で、心臓だけが、期待とも不安ともつかない速い音を立てていた。
その時、肩を、とんと叩かれた。
皺だらけのパーカーを着た、気だるそうな女の人だった。
首から下げたスタッフ証に、《スタッフロール》の文字。眠そうな半開きの目が、まだ泣いている私をちらりと見る。
「君、明日からの新入りの子だよね。——ちょっと、こっち来な。あたしはクロエ。あれの、相方」
差し出された手の先。リングの裏手へ続く通路の奥に、楽屋の灯りがぽつんと点っていた。
その灯りに向かって、私は、まだ熱い胸のまま、一歩を踏み出した。
——ようこそ、と言われる、その手前で。




