57.懐かしい音と香り
調理台の上には、いつの間にか必要なものが一式、揃っていた。
小麦粉、卵、きめ細かいパン粉。
そして、澄んだ色をした油が入った大きな鍋。
……いや、揃いすぎじゃないか?
「全部、魔王が用意したんですか?」
「ああ」
即答だった。
「とんかつを作ると言ったら、最低限はな」
「最低限……?」
俺は、並んだ材料を改めて見渡す。
小麦粉は粒子が細かく、指で触るとさらさらだ。
卵も割ってみると黄身が濃く、鮮度がいい。
パン粉は――
「……これ、生パン粉!?」
「お、分かるか」
魔王が、少しだけ楽しそうに笑った。
「乾燥したものもあったが、衣の食感が違うだろう?」
「ええ。全然違います」
さくっと軽く、それでいて中はしっとり。
とんかつにするなら、断然こっちだ。
……この人、無駄に料理への理解が深いな。
「油も……」
鍋を覗き込み、鼻を近づける。
嫌な匂いが、まったくない。
「クセの少ない油ですね。しかも、質がいい」
「獣脂と植物油を、いい具合に調整してある」
「……そこまで?」
思わず呟くと、魔王は肩をすくめた。
「初めてのオークキングとんかつだ。
失敗されても困る」
……なるほど。
失敗する前提はないが、準備は万全、というわけか。
俺は苦笑しつつ、オークキングの肉に向き直った。
まずは、切り分けだ。
大きな塊を、繊維の向きを確かめながら、慎重に切る。
――硬そうに見えて、刃は、すっと入る。
「……やっぱり、いい肉だな」
筋は太いが、嫌な抵抗がない。
下処理さえきちんとすれば、かなり化ける。
適度な厚みに切り分け、包丁の背で、軽く筋を切る。
「何をしている?」
魔王が、興味深そうに覗き込んできた。
「火を通した時に、反らないようにです。
あと、噛み切りやすくなります」
「ほう」
納得したように頷く。
次は下味。
塩と、ほんの少しの胡椒。
シンプルだが、肉が強いならこれでいい。
「下味は、これだけ?」
「はい。
オークキングの味、ちゃんと確かめたいので」
「ふむ……なるほどな」
魔王の評価が、いちいち料理人目線なのが気になる。
気を取り直して、衣付けに入る。
小麦粉。
卵。
パン粉。
順番を間違えないよう、丁寧に。
パン粉は、ぎゅっと押さえすぎない。
空気を含ませるように、ふんわりと。
「……いいな」
魔王が、ぽつりと呟いた。
「何がです?」
「お前が、今。
戦っている時よりも、ずっと集中しているところだ」
「……料理ですから」
それ以上でも、それ以下でもない。
前世では――毎日のようにやっていたこと。
それをやるだけだった。
油に火を入れる。
温度は――箸を入れて、細かい泡が静かに立つくらい。
高すぎない。
低すぎない。
「よし」
一枚、油へ。
じゅわぁ、と。
心地いい音が、厨房に広がる。
――この音だ。
懐かしい、音と匂い。
思わず、口角が上がる。
揚げ色を見ながら、タイミングを測る。
触らない。
焦らない。
衣が、自分で固まるのを待つ。
「……なるほど」
背後で、魔王が低く唸った。
「揚げる、という行為ひとつで、ここまで気を配るとはな」
「雑にやると、全部台無しになりますから」
返事をしながら、ひっくり返す。
裏面も、いい色だ。
油の中で、肉が静かに踊っている。
頃合いを見て、引き上げる。
油を切り、網の上へ。
衣は、黄金色。
音を立てて、立ち上る湯気。
鼻をくすぐる、香ばしい匂い。
「……おお」
魔王が、思わず声を漏らした。
「これは……」
「まだですよ」
俺は、次の一枚を油に入れる。
とんかつは、揚げたてが命だ。
全部揚げ終えるまで、気は抜けない。
厨房に、油の音と、肉の香りが満ちていく。
――きっと。
この匂いを嗅いだら、
あの人も、黙っていないだろうな。
そんな予感を胸に、俺は黙々と、揚げ続けた。




