56.クリーンと包丁としての鰤出刃
――さて。
ステータスの衝撃も、魔力量が爆発的に増えていたという現実も、ひとまず、頭の片隅へと押しやった。
今、目の前にある最大の問題は――
「……とりあえず、肉を切る前に、だな」
俺は、アイテムボックスから取り出した
一本の刃を、じっと見下ろした。
――鰤出刃。
ダンジョンの奥、
台座に突き立てられていた、俺の相棒。
スライムを斬り、
ゴブリンを斬り、
オークを斬り、
そして――オークキングすら斬った刃。
数え切れないほどの戦闘を潜り抜け、
俺の手に馴染みきった、信頼できる武器。
そんなものを。
これから――
「……料理に、使うのか」
正直に言えば、気分的な抵抗は、かなり大きい。
包丁だ。
間違いなく、形状も用途も包丁なのだが。
問題は、その“履歴”である。
そんな俺の逡巡を、魔王は腕を組み、面白そうに眺めていた。
「まだ気にしているのか?」
「当たり前でしょう……
これ、ついさっきまで魔物を斬ってたんですよ」
「だから言っただろう」
魔王は、いかにも愉快そうに言う。
「さっさと、クリーンを使え」
その一言で、
俺はようやく思い出したように頷く。
「……そうだな」
さっき、説明されたばかりだ。
料理人向けの、小規模な洗浄用クリーン。
大掛かりな浄化魔法とは違い、対象を限定し、
必要最低限の魔力で、清潔さだけを確保する魔法。
そして――
今の俺なら、魔力的にも、問題ないはずだ。
「じゃあ……やってみます」
口ではそう言ったものの、正直、不安がないわけではない。
今までクリーンを使うのは、リリー……いや、リリスの役目だった。
しかも彼女のそれは、体全体を一気に洗浄する、見ているだけで魔力消費が分かるような大魔法。
俺が使うのは、
もっと小さく、もっと繊細で、
失敗すれば意味をなさない類のものだ。
鰤出刃を、両手でしっかりと持つ。
刃に残る感触は、すでに乾いているとはいえ、どこか生々しい。
「……よし」
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
意識を、内側へ。
魔力を感じる。
今までとは――
明らかに、違う。
体の奥に溜まっているものが、以前よりもはっきりと輪郭を持ち、指先まで素直に流れてくる。
扱いやすい。驚くほどに。
体の奥から、静かに、丁寧に、手の先へと魔力を送る。
「クリーン」
小さく、だがはっきりと唱えた。
次の瞬間。
ふわり、と。
鰤出刃の刃を中心に、淡い光が広がった。
リリスのクリーンほど派手じゃない。
音も、衝撃もない。
ただ、静かで、確実な変化。
――じゅわり。
まるで、汚れだけが蒸発していくような感覚。
目に見える汚れなどないのに、空気が変わったのが、はっきり分かった。
「……おお」
思わず、声が漏れる。
光が消えたあと、鰤出刃の刃は――
まるで、打ち直したばかりのように、澄んだ輝きを放っていた。
血の気も、生臭さも、嫌な感触も――
何一つ、残っていない。
そこにあるのは、ただの。
――よく研がれた、包丁。
「……すご」
自分でやっておいて、素直に感動してしまう。
その様子を見て、魔王が満足そうに、ゆっくり頷いた。
「成功だな」
「……はい」
刃を軽く振り、手の中で感触を確かめる。
違和感はない。
それどころか――今までより“調子がいい”気すらする。
「魔力の流れも、無駄がない」
魔王が、観察するように言った。
「初めてにしては、上出来だぞ」
「そう言われると……ちょっと、嬉しいですね」
苦笑しながら、俺は調理台の前に立つ。
巨大なオークキングの肉が、どん、と存在感を主張している。
「じゃあ……」
鰤出刃を構え、肉に刃を当てた。
「とんかつ、作りますか」
刃が、すっと入る。
驚くほど、滑らかに。
――ああ。
なるほど。
これは。
懐かしい。
確かに、覚えている。
火を入れる前の感覚。
素材に向き合う、この静かな高揚。
料理が、楽しくなる感触だ。
背後で、魔王が楽しそうに笑った。
「いい顔してるな、フェルン」
今日の朝食は――
どうやら、
ただのとんかつでは、終わらなさそうだ。




