51.娘、のようなもの
魔王が、ぽつりと言った。
「迷惑をかけて……悪かったな」
――と。
思わず、目を見開き、魔王を凝視してしまう。
「……何の、ことですか?」
喉が、少しだけ乾いた。
ごくりと唾を飲み込みながら、どうにか問い返す。
魔王は、こちらを見もせず、
ワイングラスの中の赤を、静かに揺らしながら答えた。
「まずは、このダンジョンに捕らえてしまったことだ」
……確かに、大変だった。
死ぬかと思ったし、実際、何度か死にかけた。
だが、ダンジョンに立ち入る以上、危険が伴うのは承知の上だ。
それを誰かのせいにしようとは、正直、思っていなかった。
「それから……リリスのことだ」
魔王の声が、わずかに低くなる。
「リリスは、“リリー”に擬態している間、本来の力を大きく制限していた」
そこで、はっとする。
――弱体化。
確かに、“リリー”としての彼女は、魔力も、魔法の精度も、十分すぎるほど高かった。
もし冒険者ギルドに所属していたら、間違いなくAランク。
いや、下手をすればSランクに届く――そう思っていたほどだ。
それが、“弱体化した状態”だというのなら。
本来のリリスは、
一体どれほどの存在なのか。
想像しかけて、背中に、ひやりとしたものが走る。
「お前が、しっかり守ってくれていなければ……
危なかっただろう。あいつを守ってくれて、ありがとう」
その言葉は、淡々としていながらも、どこか本心が滲んでいた。
――だが。
今は、それ以上に気になることがある。
「あの……」
俺は、少し迷ってから、口を開いた。
「あなたと、リリスは……
どういう関係なんですか?」
魔王が、ちらりとこちらを見る。
「……というと?」
「なんで、リリスがしたことを――
あなたが謝罪し、お礼を言うのですか?」
魔王が“謝罪”する。“感謝”を口にする。
それ自体が、すでに信じ難い。
しかも、それが
自分自身のためではなく、
リリスの行動に対してだ。
ならば、その関係性を疑問に思うのは、自然なことだった。
しばらくの沈黙。
魔王は、ワインを一口飲み、静かに息を吐いた。
「……あいつはな」
低く、落ち着いた声。
「お前たち人間に例えるなら……
娘のようなものだ」
「娘……?」
思わず、言葉を繰り返す。
――魔族も、子を産むのか?
そんな疑問が浮かんだ、その瞬間。
「違う」
魔王は、即座に否定した。
「人間や魔獣のように、血を分け、腹を痛めて産んだわけではない」
そう前置きしてから、続ける。
「俺の魔力から生まれた、新たな生命体――
それが、リリスだ」
思考が、一瞬、止まる。
――魔王の魔力から、生まれた生命体。
魔王は、グラスをテーブルに置いた。
「俺のような存在――
聖獣や高位の精霊も同じだが、長く生き、
魔力やマナを蓄えすぎると……」
言葉を選ぶように、一拍、間を置く。
「その力を使い、新たな生命を生み出すことがある」
その声音には、長い時間を生きてきた者だけが持つ、諦観と、責任が滲んでいた。
なるほど。
“娘”と例えた理由が、
ようやく腑に落ちる。
生まれた存在。
育てた存在。
守る責任を負う存在。
それを、
放っておけるはずがない。
俺は、ワイングラスの赤を見つめながら、静かに思った。
魔王が謝ったのは、王だからでも、支配者だからでもない。
――親だから、だ。
そう考えた時、魔王が、ふっと笑った。
「俺――
いや、魔族には“親”という感覚がない」
穏やかな口調だが、内容は冷たい。
「通常はな。
自分以外の者が、何をしようが、どうなろうが……自分に害さえ与えなければ、気にしない」
――だったら。
だったら、どうして、そこまでリリスのことを気にかける?
その疑問を察したのかのように、
魔王は続けた。
「おそらく、それは――
俺が、“魔王”になる以前は、人間だったからだろう」
……は?
一瞬、理解が追いつかない。
魔王が……人間だった?
“魔王”に、なる以前は。
「え……」
思考が、ようやく追いついた時には
それって……
魔王も、転生者ってことか?
そう考えた瞬間、赤い瞳がこちらを見る。
そして、何でもないことのように、頷いた。
「ああ。そういうことだ」




