50.眠れない夜のワイン
ワイングラスを掲げ、なぜか、乾杯をすることになった。
――え、意味が分からない。
なんでこうなった??
ついさっきまで、魔王の城で眠るという異常事態に戸惑っていたはずなのに、気がつけば俺は魔王と向かい合い、同じ酒を手にしている。
頭の中では混乱が渦巻いているというのに、魔王はそんなことお構いなしに、グラスを軽く傾けてワインを仰いだ。
……いや、本当に。
姿勢も、仕草も、間の取り方も、いちいち絵になる。
イケメンは何をしても様になるな、と、どうでもいい感想が頭をよぎる。
そんな現実逃避じみた思考を押し込めながら、俺もせっかく差し出されたワインを、恐る恐る口に含んだ。
――その瞬間。
「……っ!?」
喉を通る前に、思わず息を呑んだ。
なんだ、このワインは。
この世界では、成人は十五歳。
成人を迎えれば、酒も解禁される。
だから、十五歳のフェルンも、最近になって酒を口にするようになった。
だが――
今まで飲んできた酒とは、明らかに“別物”だった。
まず、舌に触れたのは、瑞々しい果実の酸味。
ただ酸っぱいのではない。
角がなく、熟れた赤い果実を、そのまま噛みしめたような、丸みのある酸だ。
次いで、ふわりと立ち上る芳醇な香り。
ベリー系だろうか。
ラズベリー、ブラックチェリー。
甘さと渋さが、喧嘩することなく溶け合い、
鼻の奥へと静かに抜けていく。
口の中に残る余韻は、驚くほど長い。
舌の上で、ゆっくりと形を変えながら、最後は、ほのかな渋みと温かさだけを残して消えた。
急がない。主張しすぎない。
だが、確かにそこに在り続ける。
「……うま」
気づけば、そんな間抜けな感想が零れていた。
魔王が、にやりと笑う。
「だろう」
その表情は、どこか誇らしげで、
だが押しつけがましさはない。
「この城の地下で、百年以上寝かせたものだ。
人間の国には、まず出回らん」
「百年……?」
思わず、グラスを見つめ直す。
百年。
この世界の人間にとっては、一生どころか、二、三代分の時間だ。
それを、さも当然のように語るあたり、やはり、この男は魔王なのだと実感する。
「だからだろうな」
魔王は、グラスの中の赤を揺らしながら続ける。
「急がせない酒だ。
戦いの前や、宴の最中に飲むものでもない」
そして、
ちらりとこちらを見る。
「眠れない夜に、こうして静かに飲むのが、ちょうどいい」
俺は、もう一度、ワインを口に運んだ。
さっきよりも、味がよく分かる気がする。
喉を通る感覚。
口に残る香り。
余韻の長さ。
「……確かに」
自然と、頷いていた。
「料理で言うなら……主役じゃなくて、
最後に残る一皿、みたいな酒ですね」
魔王が、目を細める。
「ほう?」
「派手さはないけど、食べ終わったあとに、ずっと余韻が残る感じです」
一拍置いて、
正直な気持ちを付け足した。
「……かなり、好きです」
魔王は、一瞬だけ驚いたような顔をしてから、すぐに口角を上げた。
「料理人殿に、そう言われるとは光栄だな」
その言葉を受けて、俺は、ふと考える。
前世の俺は、料理人だった。
店で酒を提供することも多く、安価なものから、プレミアのついた高級酒まで、それなりに口にしてきた。
それでも――
このワインは、前世で飲んできた酒を含めても、間違いなく“五本の指に入る”。
そんなことを思いながら、つまみとして用意されていたチーズを、ひと口、口に運んだ。
……美味しい。
癖がなく、乳の甘みと塩気のバランスもいい。
単体で食べるなら、何の文句もない。
だが。
このワインと合わせるなら――もう少し塩気が欲しい。
あるいは、香りを引き立てる何かが欲しい。
オイルか。
ハーブか。
それとも、
軽く火を入れて――
そこまで考えて、はっとする。
……職業病だな。
魔王の城で、魔王と差し飲みをしながら、ワインに合う料理を考えている。
我ながら、どうかしていると思う。
だが、不思議と――悪い気はしなかった。




