45.“フェルン”の理想像
「サキュバス……?」
思わず、言葉を繰り返していた。
サキュバス。
確か、魅力的な姿で男を誘惑し、生力や魔力を吸い取る魔物――
そんな知識が、遅れて頭に浮かぶ。
呆然としたままリリスを見つめると、
彼女は一度、小さく息を吸い込み、自分の胸元に手を当てた。
次の瞬間。
空気が揺れたように見えて、
リリスの姿が、一瞬で“リリー”へと変わる。
柔らかな輪郭。
少し高く、愛らしい声。
――見慣れた、あの姿だった。
「私には――
サキュバスには、狙った男性の“理想の女性像”を知るスキルがあります」
“リリー”は、そう前置きしてから、こちらを見る。
「フェルンさん。
あなたの理想の女性……それが、この“リリー”の姿だったのです」
どきり、と心臓がはっきり音を立てた。
リリーは、可愛い。
それは、間違いない。
町にいれば、男たちが放っておかないだろうし、
笑えば目を引き、話せば耳を傾けたくなる――
そんなタイプだ。
だが。
俺の、理想……?
可愛いとは思う。
けれど、それが“理想の女性像”かと聞かれると――
「…………」
言葉に詰まった、その瞬間。
――あ。
胸の奥で、何かが静かに繋がった。
“リリー”は、少し困ったように微笑む。
「理想的な女の子になったはずなのに……
私の弱さのせいか……」
一拍、間を置いて、
「あなたを、誘惑することができませんでした」
その声音には、自嘲と、諦めと、ほんのわずかな寂しさが滲んでいた。
ぱちん、と小さな音がする。
“リリー”の姿がほどけるように消え、そこには、元のリリスが立っていた。
俺は、まだ言葉を見つけられず、
ただ、彼女を見つめることしかできなかった。
「“リリー”の姿は、フェルンの理想的な女性だった。
それは、確かだ」
沈黙を破ったのは、魔王だった。
俺とリリスの視線が、彼に向かう。
リリスの表情が、歪む。
「では、やはり――
私の、力不足……」
「ただし」
魔王は、きっぱりと言葉を切る。
「それは、“本来のフェルン”の理想像だ」
「――え?」
リリスが、目を丸くする。
だが、俺はその言葉で、
先ほど辿り着いた考えが正しかったことを理解した。
そんな俺の心情を見透かしたように、
魔王は俺を見て、わずかに笑う。
「そうだろ? フェルン」
「ああ。
鰤出刃に出会っていなければ――
おそらく“僕”は、リリーに一目惚れしていたと思う」
そう答える俺と魔王を見て、
リリスだけが、理解できない様子で首を傾げていた。
「え?
なに、どういうこと……?
ちょっと、私にも分かるように説明してっ!」
そんなリリスに、魔王はまた溜息を吐く。
「お前は、ちゃんと理想像に化けていたんだよ」
一拍置いて、続ける。
「ただし、それは――
“異世界の前世の記憶”を思い出す前の、
フェルンの理想だがな」
魔王の言葉が、静かに場に落ちる。
「……異世界の、前世の記憶……?」
リリスは、まだ状況を呑み込めていない様子だった。
けれど俺は、違った。
胸の奥で絡まっていた糸が、一本ずつ、ほどけていく感覚があった。
「……そういうことか」
ぽつりと零れた俺の呟きに、リリスが、はっと顔を上げる。
「フェルンさん……?」
その声は、不安に揺れていた。
そうだ。
俺はリリーに出会った時、確かに思っていた。
――日本で生きていた俺ではなく、本来のフェルンだったら、歳の近い美少女を前にして、赤面していたかもしれない、と。
俺は一度、視線を伏せる。
自分の中にある答えを、慎重に言葉にするために。
「“リリー”の姿が、理想だったのは……
事実だと思う」
リリスの肩が、びくりと揺れた。
「でも、それは――
この世界に来て、前世の記憶を思い出す前の、
十五歳の“僕”の理想だ」
顔を上げ、まっすぐに彼女を見る。
リリスの唇が、わずかに震える。
「……じゃあ、今は……?」
か細い声。
逃げ場を探すような、その問いに、
俺は目を逸らさなかった。
「今の俺は」
ゆっくりと、はっきり言う。
「かわいい女の子の“リリー”よりも――
弱さを隠そうとして、必死な“リリス”の方が、
ずっと魅力的に思える」
リリスの瞳が、大きく見開かれた。




