44.甘さと弱さ
「俺も、リリーに嫌われるのが怖くて……
ひとりになるのが怖くて、本当のことを言えなかった」
言葉にした瞬間、胸の奥に、鈍い痛みが走った。
「……本当のこと?」
「俺が……前世の記憶を持っていること。
その前世が、異世界だったということだ」
一瞬、リリーの呼吸が止まったのが、はっきりと分かった。
「……それはっ!
前世の記憶があるなんて……言えないのは、当たり前ですよ!」
思わず、という勢いで声を荒げたリリーは、
言い切った直後、自分の言葉に気づいたように口を噤んだ。
そして、ぎゅっと肩をすくめ、視線を落とす。
「……私とは、違います」
ぽつりと落とされたその言葉は、
誰に向けたものでもなく――
彼女自身を切り捨てるような響きを帯びていた。
「はぁーっ」
大きく、わざとらしいほどの溜め息。
それを吐いたのは――俺ではない。
「すまん、フェルン」
魔王が、卓に肘をついたまま、こちらを見た。
「こいつが――
リリスが、こんな馬鹿げたことをしたのは、俺のせいだ」
「……え?」
あまりにも予想外の言葉に、俺は反射的に魔王の顔を凝視していた。
「俺が、リリスを焚き付けちまったんだよ」
「……それは」
どういうことなんだ、と問いかけようとした、その時だった。
「ち、ちょっと……!
それは――」
「黙れ。今は俺の番だ」
先ほどまでの飄々とした態度が嘘のように、有無を言わせない、低い声音だった。
リリスの言葉を遮り、魔王はゆっくりと続ける。
「……あれは、少し前――近くの森でのことだ」
低く、落ち着いた声。
感情を抑え込むような響きだった。
「一匹の幼い魔獣が、狩られるわけでもなく、冒険者にいたぶられていた」
その話を聞いた瞬間、思わず眉を顰めた。
魔獣からはドロップアイテムが獲れる。
だが、幼い個体から得られるのはクズ魔石程度だ。
だからこそ――
人間に直接危害を加えない限り、手を出さない。
それが、冒険者ギルドの定めた暗黙のルールだった。
それを破り、しかも一思いに殺すこともせず、
ただ、いたぶるだけ。
その冒険者の思考を想像し、胃の奥がひっくり返るような感覚を覚えた。
魔王は、淡々と語り続ける。
「その魔獣は、まだ子どもだった。
戦う力も、逃げる知恵もない。
ただ怯えて、鳴くことしかできなかった」
声は冷静だ。
だが、その言葉の端々に、抑えきれない苛立ちが滲んでいる。
「それを、リリスが見つけた。
そして、冒険者の前に立ち、魔獣を庇い――
魔法で、そいつらに重傷を負わせた」
「……っ」
リリスの表情が、はっきりと強張った。
「正義感か?
同情か?
あるいは、ただ放っておけなかっただけか」
魔王は、鼻で小さく笑う。
「理由なんて、どうでもいい。
結果として、魔獣は助かった。
だがな――」
赤い瞳が、鋭く細められる。
「その冒険者たちは、リリスを覚えた。
魔法を使うことも、姿もな」
一拍置いて、続ける。
「そして、自分たちの行いは隠したまま、
ギルドにはこう報告した。
――『あの森には、高位魔法を使う危険な魔物がいる』と」
空気が、ひやりと冷えた。
──そうだ。
確かに、そんな噂を耳にしたことがある。
危険度は低いと思われてた森に、危険な魔物が潜んでいた。
調査のため、何組ものパーティーが送り込まれたが、
該当する存在は見つからず――結局、捜索は打ち切られた。
あれは、リリスだったのか。
「俺は、リリスに言った」
魔王の視線が、真正面からリリスを射抜く。
「お前は甘すぎる。
その甘さが、いつか命取りになる」
リリスの指先が、かすかに震えた。
「幼き魔獣を助けるのはいい。
だが、だったら冒険者たちに止めを刺すべきだった」
声音が、わずかに低くなる。
「中途半端な手出しは、魔物への恨みと偏見を残すだけだ。
それは、すべての魔物に――そして何より、リリス自身に危険が及ぶ」
論理としては、正しい。
あまりにも、正しかった。
「だが、こいつは――そうは受け取らなかった」
リリスは、きつく拳を握りしめていた。
「……弱いって、言われた気が」
掠れた声。
「守りたいと思う気持ちが……
間違ってるって……
否定された気がして……」
顔は俯いたまま、その表情を伺うことはできない。
魔王は、彼女に何も言わなかった。
ただ、静かに続きを語る。
「そんな時だ。
ダンジョンの転移トラップに、
偶然、ひとりの少年が引っかかるのを――
こいつは、見つけた」
胸の奥が、わずかに強く脈打つ。
「ひとりで、見知らぬ階層に飛ばされ、
状況も分からず、混乱している少年を見て……
リリスは、考えた」
魔王は、ちらりと彼女を見る。
「『今度こそ、私の力を証明してみせる』とな」
沈黙が落ちる。
やがて、リリスの声が、震えながら零れ落ちた。
「……その通りです」
俯いたまま、続ける。
「あの人間を虜にして――
私の、サキュバスとしての力を……
証明してみせると」
一度、息を呑み。
「そう考えて、私は……
あの階層に、向かったの」




