42.嘘と本当の姿
「フェルンさん」
名前を呼ばれ、俺は真っ直ぐにリリスを見る。
彼女は、静かに微笑んでいた。
そして、右手を顔の前に上げる。
――パチンッ
先ほど男がしたのと同じように、指で、乾いた音を鳴らした。
次の瞬間、リリスの身体が、淡い光に包まれる。
その光は、彼女の輪郭をなぞるように揺らぎ、ゆっくりと形を変えていった。
そして――
目の前に立っていたのは、
見慣れた“リリー”とは明らかに違う人物だった。
女の子……いや、女性。
彼女が、閉じていた瞳を開き、俺を見つめる。
その瞳の色は、先ほどまでとは違う。
茶色だったはずの瞳は、深い金色へと変わっていた。
髪も――
肩に少しかかる程度の茶色いボブではない。
艶のある、真っ黒な髪が、腰までまっすぐに伸びている。
「リリ……ス……?」
喉から零れた名前は、確認というより、呆然とした音に近かった。
「はい」
短く、はっきりとした返事だった。
声は、確かにリリスのものだ。
だが、響きが違う。
幼さが抜け落ち、落ち着いた低さがある。
俺は、言葉を失ったまま、目の前の彼女を見つめていた。
「……えっと……」
何か言おうとして、何を言えばいいのか分からない。
視線は、無意識のうちに彼女の全身をなぞる。
背丈も、体つきも、明らかに違っていた。
それに――空気が違う。
先ほどまでの、泣いて、怯えていた姿が、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
俺の様子を見て、リリスは少しだけ困ったように笑った。
「……驚きますよね」
「……そりゃあ、な」
ようやく、それだけ返す。
魔王の男が、静かに口を開いた。
「元の姿だ」
短い説明。
「今までのは、魔力を封じ、弱体化させていた姿だった」
……さらっと、とんでもないことを言う。
俺は、頭を抱えたい衝動を、必死で堪えた。
「じゃあ……今までのリリーは……」
「“偽り”です」
リリスが、はっきりと言った。
だが、その声には、どこか痛みが混じっていた。
「これが、本来の私です」
一拍置いて、続ける。
「フェルンさん……あなたを――」
そこで、唇をきゅっと噛んだ。
視線が揺れる。
一瞬、言葉を引っ込めそうになったが、リリスは、逃げなかった。
「あなたを油断させ、“誘惑”するために、
“リリー”という姿を選びました」
「……“誘惑”?」
意味が分からず、同じ言葉を繰り返すことしかできない。
その瞬間、俺は思い出していた。
最初に、この男が言っていた言葉を。
『そもそもは、おめーがちゃんとフェルンを
“誘惑”しときゃ、話は早かったんだよ』
――そうだ。
確かに、そう言っていた。
リリスは、自分の手をゆっくりと見下ろす。
「あの姿なら……
“リリー”の姿なら、あなたを警戒させずに済むと思いました」
金色の瞳が、かすかに揺れる。
「近づける。話ができる。
……捕らえることができる、と思った」
胸の奥が、ざわつく。
「でも……」
リリスは、静かに息を吐いた。
「逆でした」
顔を上げ、真っ直ぐに俺を見る。
「私の方が、
フェルンさんに“惹かれて”しまった」
言い切る声には、覚悟があった。
「……利用するつもりだったのに」
小さく、笑う。
「気づいたら、
一緒にご飯を食べて、
笑って、
名前を呼ばれて……」
その声が、わずかに震えた。
「……それを、
全部、嘘にしたくなくなったんです」
俺は、何も言えなかった。
否定も、叱責も、慰めも――
どれも、違う気がしたから。
フッと、彼女が自嘲気味に笑った。
「……おかしいですよね」
笑っているのに、
金色の瞳は、少しだけ揺れていた。
「騙して、利用するつもりで近付いたくせに……」
言葉を区切るように、小さく息を吸う。
「逆に惹かれて、
自分で“リリー”と名乗ったのに」
視線が、床に落ちる。
そこにはもう、計算も余裕もない。
「あなたに“リリー”って呼ばれるたびに……」
指先が、ぎゅっと握られた。
「嬉しい、って思ってしまって」
声が、わずかに震える。
「でも同時に……
本当の名前を、呼んでほしくなった」
言い終えたあと、
しばらく沈黙が落ちた。
リリスは、唇を噛みしめている。
まるで自分を、責めるかのように。
「……おかしい。勝手ですよね」
ぽつりと、そう零した。
「フェルンさんが、
何も知らないまま、
優しくしてくれることが……
苦しくなっちゃったんです」




