38.帰れなかった勇者
男は、しばらく空の皿を見つめたまま動かなかった。
まるで、そこにまだ何かが残っているかのように。
俺は、声をかけるべきか迷い――結局、何も言わずに待った。
そんな俺の心中は、少し複雑だった。
男は、確かにこう言った。
『……ありがとう。これを、作ってくれて』
――と。
その言葉は、間違ってはいない。
だが同時に、どこか引っかかりも残る。
俺が鰤出刃でオークを倒し、これらの料理を手に入れたのは事実だ。
けれど――
調理を、俺自身の手で行ったわけじゃない。
その事実が、元料理人だった俺の胸を、わずかにざわつかせた。
「……なんで」
誰も言葉を発さなかった静かな空間に、リリーの小さな声が落ちた。
「……なんであんたは、この料理や箸のことを知っていたの?」
リリーは、男をまっすぐに見つめる。
「とんかつを食べたのは、今回が初めてなのよね?」
男は、しばらく沈黙したあと、ゆっくりと顔を上げた。
「……ああ」
一度、短く肯定してから、続ける。
「かつて……魔王を倒すべく、異世界から召喚された、者がいた――勇者だ」
男は、淡々と語った。
「勇者が元いたこことは異なる世界では、箸という食器を使い、とんかつをはじめとした――
この世界には存在しない、さまざまな料理がある……と」
そこで、男は言葉を切る。
「……俺は、それを“聞いただけ”だ」
「……聞いただけ?」
リリーが、思わず聞き返した。
「それにしては、ずいぶん詳しいのね。
名前も、使い方も」
一拍置いて、視線を逸らさずに続ける。
「“聞いただけ”って感じじゃ、なかったわよ」
男は、少しだけ困ったように眉を下げた。
だが、リリーの追及は止まらなかった。
「第一、そんな話をどこで、誰に聞いたの?
勇者がいた異世界の料理の話なんて……」
わずかに言葉を選び、
「……勇者に、かなり近い人物じゃないと
知りえないことだと思うんだけど」
男の整った口元が、弧を描く。
そして――
「本人から聞いた」
その一言で、空気が凍りついた。
「……え?」
リリーの声が、間の抜けたものになる。
「ほ、本人……?」
「ああ」
男が、なんてこともないように答える。
淡々とした口調。
まるで、昔話をなぞるかのように。
俺は、無意識のうちに息を止めていた。
――勇者。
この世界に、異世界から召喚された存在。
そして、その異世界というのは……
かつての俺が生きた、日本。
「……その人は……
その“勇者”は、今はどうしているの?」
リリーが、恐る恐る尋ねる。
男は、箸を指で転がしながら言った。
「……死んだよ。
もう、何年も前にな」
その言葉は、静かだった。
だが、確実に場の空気を沈ませた。
「……死んだ?」
リリーが、思わず聞き返す。
「ああ」
男は、肯定する。
そこに、悲嘆の色はない。
だが、軽さもなかった。
「病でも、戦でもない。
――寿命だ」
その言い方が、やけに現実的だった。
俺は、胸の奥が、きゅっと締めつけられるのを感じていた。
異世界から召喚された勇者。
この世界で役目を果たし、
そして――この世界で、人生を終えた。
元の世界に、帰ることもなく。
「……その人は」
俺は、ようやく口を開いた。
「最後まで、この世界で?」
「そうだ」
男は、即答した。
「帰る術は、最後まで見つからなかった。
……いや、探さなかったのかもしれないな」
箸を転がしていた指が、止まる。
「晩年は、よく言っていた」
男は、遠くを見るような目をした。
「『向こうの飯は、もう食えないな』って」
リリーが、息を呑む。
俺は、このダンジョンに閉じ込められるまで、前世の記憶がなかった。
そして、記憶を取り戻すと同時に、
鰤出刃によって、かつてのような――
美味しい食事を、食べることができた。
だが、もしも――
突然この世界に呼び出され、お世辞にも美味しいとはいえない食事の中で、生きるしかなかったとしたら……。




