32.動く椅子
「なるほどな」
黒づくめの男が、腕を組みながらこちらを見ていた。
――あ。
……そうだ。この男も、いたんだった。
リリーとのやり取りに意識を持っていかれすぎて、完全に存在を忘れていた。
だが、改めて考えてみれば――今この場で一番得体が知れないのは、間違いなくこの男だ。
何者なんだ?
リリーと知り合いのようではあるが、未だに名前すら知らない。
それなのに。
男は俺の名前を知り、ステータスを覗き見て、
流れとはいえ、俺の最大の秘密――前世の記憶にまで踏み込んできた。
そして、何よりも……あの異常な強さ。
偶然で済ませるには、出来すぎている。
そんな俺の内心を見透かしたかのように、男はふっと笑った。
「こんな所で立ち話も何だ。移動しようぜ」
まるで、
“ちょっと、そこのカフェでお茶でもしよう”
とでも言うような、気の抜けた軽い口調。
……いや、待て。
どうやって?
ここは、つい先ほどまでオーク三匹と戦っていた、青い炎の広間だ。
床には戦いの名残があり、空気には血と魔力がまだ残っている。
背後には、オークキングと死闘を繰り広げた部屋のような、重厚な扉。
そして正面には――赤い絨毯の上に鎮座する、玉座のような立派な椅子。
これは――。
今さらだが、やはり普通の部屋じゃない。
戦うために用意された空間。
まさに……ラスボス部屋。
オークキングの部屋も十分に広かったが、
この部屋は、それとは明らかに“格”が違う。
天井の高さ。
床に刻まれた文様。
そして、あの椅子の存在感。
男は、迷いなくその椅子へと歩み寄った。
「……」
思わず、息を呑む。
引き締まった体躯に、全身を包む黒い装い。
艶のある黒髪。
そして、異様なほど鮮烈な赤い瞳。
――魔王。
そんな言葉が、反射的に脳裏をよぎった。
次の瞬間、背筋を冷たいものが走り抜ける。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
馬鹿な。
そんなはずが、あるわけがない。
必死に、その連想を振り払おうとする。
理屈で否定しようとする。
だが――。
否定しきれない何かが、胸の奥に残っていた。
赤い絨毯の上を、男は迷いなく歩く。
その足取りに、警戒も躊躇もない。
まるで――
最初から、この部屋の造りを知っているかのようだった。
男は、王座のような椅子の前で立ち止まる。
そして――
その椅子を、押した。
……え、座るんじゃなくて押すんかいっ!
思わず、心の中で突っ込んでしまう。
一瞬だけ、張り詰めていた緊張が妙な形で抜け落ちた。
――次の瞬間。
ズズ……ッ、と鈍い音を立てて椅子が動く。
石と石が擦れ合う、生々しい音。
やがて、
カチッ
と乾いた音を立てて、椅子が止まった。
同時に、床がわずかに揺れる。
「……なっ!」
予想外の事態に、反射的に身構えた。
足に力を入れ、いつでも動けるようにする。
そして。
椅子のあった背後の壁が、ゆっくりと開き始めた。
低い軋み音を立てながら、壁が左右に割れていく。
中から、ひやりとした空気が流れ出した。
現れたのは、階段――ではない。
奥へと続く、なだらかな通路。
石造りではあるが、どこか無機質で、
これまで歩いてきたダンジョンの通路とは、明らかに質感が違う。
……空気が、冷たい。
湿り気のない、澄んだ冷たさ。
生き物の気配を拒むような温度。
「隠し通路……?」
思わず呟くと、男は肩をすくめた。
「まあ、そんなところだ」
軽く言うが、軽く受け取れる話じゃない。
なんで、こんな所に隠し通路がある?
この男は、どうしてこの通路の存在を知っている?
疑問が、次々と湧いてくる。
男は振り返りもせず、通路の奥へと歩き出した。
「来い。ここなら、邪魔も入らない」
邪魔。
このダンジョンで言う“邪魔”の基準が、そもそも分からない。
俺とリリーは、無言で顔を見合わせる。
リリーは一瞬だけ迷い、
それから小さく、だが確かな動きで頷いた。
覚悟を決めた顔だ。
……だよな。
ここまで来て、引き返せる状況じゃない。
俺たちは、男の後を追って通路へ足を踏み入れた。
壁が、背後で静かに閉じる。
――カチリ。
その小さな音が、
まるで「戻れない」と告げる合図のように、やけに大きく響いた。




