31.ただの“料理人”
「俺はフェルンとして生まれる前、違う世界で料理人として生きていた。
そんな記憶が、確かにある」
言葉にしてしまえば、あれほど胸を締めつけていた緊張が、嘘のようだった。
長く抱え込んでいたものを、ようやく外に出せたような感覚がある。
はっきりと告げた俺とは対照的に、リリーは戸惑いの色を隠せずにいた。
「フェルンさん……」
疑いの色はない。
試すような目でもない。
ただ――どう受け止めればいいのか、分からない。
そんな迷いが、そのまま表情に浮かんでいた。
リリーは俺を見つめたまま、小さく唇を噛む。
何か言おうとして、けれど言葉が見つからない。
その仕草が、妙に胸に刺さった。
「……ごめん」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「え……?」
「急に、こんな話をして。信じられないよな」
リリーは慌てたように首を振る。
「ち、違います! そうじゃなくて……」
一度言葉を切り、視線を落とす。
両手の指先が、ぎゅっと握り込まれる。
「……どう反応すればいいのか、わからなくて」
飾りのない、正直な言葉だった。
――それでいい。
無理に理解される必要なんて、最初からなかった。
「無理に、何か言わなくていい」
そう伝えると、リリーは少し驚いたように顔を上げ、目を瞬かせた。
それきり、言葉のない時間が流れる。
重たい沈黙ではない。
互いに、次の一言を探しているような、静かな間だった。
俺は視線を逸らし、そっと意識を内側へ向ける。
アイテムボックスの中。
そこにしまわれている、一本の包丁――鰤出刃。
意識すれば、確かに“そこにある”と分かる。
今は手に取らずとも、存在だけで十分だった。
手に入れてから、まだ十日ほどしか経っていない。
それなのに、何年も使い続けてきたかのような、不思議な親しみがある。
「……鰤出刃に、初めて触れた時さ」
ぽつりと、独り言みたいに言った。
リリーは何も言わず、ただこちらを見て、続きを待ってくれている。
「あの時、急に思い出したんだ。
包丁の重さとか、手に伝わる感触とか……」
今は、実際に取り出すことはしない。
けれど、手に力を込めるだけで、今も柄を握っているような錯覚が生まれる。
思い出すだけで、十分だった。
「魚を捌いてた。毎日、厨房で」
それだけ口にすると、少し照れくさくなって肩をすくめる。
「大した話じゃない。剣士でも、勇者でもない」
一瞬だけ、リリーの表情をうかがう。
「前の世界には、魔法も魔物も、スキルもなかった。
俺は……ただの料理人だった」
言葉を区切り、ひとつ息を整える。
「それで、飯を食ってた」
軽く言ったつもりだった。
けれど胸の奥が、ほんのわずかに熱を帯びる。
「鰤出刃に触れた瞬間に、全部一気に戻ってきたんだ。
音も、匂いも、手の感覚も」
ダンジョンの冷たい空気。
瓦礫の中に突き出ていた、ありえないはずの包丁。
「だからさ……最初は混乱したよ。
今のフェルンと、料理人だった俺。
鰤出刃を剣だと思えばいいのか、包丁だと思えばいいのかも、分からなくて……」
苦笑して、息を吐く。
「結局、どっちでもなかったんだけどな」
ほんの一拍、間を置いてから続けた。
「あれはただ――
“俺が使える道具”だった」
そう言って、リリーを見る。
「それだけだ」
それ以上は語らなかった。
前世でどう生き、どう終わったのか。
元の世界への未練があるのか。
それらは、今ここで話すことじゃない。
リリーはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……料理人、だったんですか」
驚きよりも、どこか納得したような声音。
「そう」
短く答える。
「記憶を取り戻す前の俺――フェルンは、戦闘スキルを持ってなかった。
だから剣の扱いは下手で……」
一瞬、言葉を選ぶ。
「でも――切ることなら、ちょっと自信がある」
冗談めかして言うと、リリーは一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。
「フェルンさんらしいですね」
「そうか?」
「はい」
理由は語られなかった。
けれど否定されなかったことが、妙に心地よかった。
「……だからまあ、深く考えなくていい」
そう前置きしてから、はっきりと言う。
「俺は今も、これからもフェルンだから」
それだけは、揺るがない。
リリーは、小さくうなずいた。
「――はい。そうですね」
静かな肯定。
それで、十分だった。




