30.フェルン
「異世界……?」
リリーが目を見開き、俺を見つめてくる。
その視線は、胸の奥に突き刺さるようで――逃げ場がなく、痛かった。
驚き。
戸惑い。
そして――ほんのわずかな疑念。
それらが複雑に絡み合った目。
「なに、それ……どういう意味?」
問いかける声は震えていない。
だが、決して軽くもなかった。
冗談として流すことを、最初から許さない硬い声音。
俺は、咄嗟に言葉を探した。
否定する言葉を。
冗談だと笑い飛ばすための、もっともらしい言い訳を。
――だが、何一つ浮かばない。
「……」
沈黙が、答えになってしまった。
リリーの表情が、ゆっくりと変わっていく。
驚きの色が薄れ、代わりに、まっすぐな真剣さが宿る。
「……フェルンさん……」
不安を隠しきれない声で、名前を呼ばれる。
それだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……フェルンさんは、やはり……」
一度、言葉が途切れる。
迷い。
躊躇。
そして、意を決したように顔を伏せ、絞り出す。
「――勇者なの?」
ドクン、と心臓が大きく鳴った。
俺が、勇者?
そんなはずがない。
リリーと出会った、あの夜――
鰤出刃が、勇者が使っていた伝説の剣かもしれないと聞かされ、
俺自身の口で、否定したばかりじゃないか。
動揺だけが胸の内で膨らみ、
何一つ言葉にできない俺の代わりに――
男が、飄々とした口調で答えた。
「勇者ではないさ」
その一言に、胸の奥で張り詰めていた何かが、わずかに緩む。
思わず、心の中で息を吐いた。
男は、こちらの動揺など意にも介さず、淡々と続ける。
「その“前世の世界”ってのが、おそらく……
勇者が元々いたのと、同じ世界だった」
一拍置き、肩をすくめる。
「――ただ、それだけの話だ」
男の言葉は、あまりにもあっさりとしていた。
まるで、特別でも何でもない事実を告げただけだと言わんばかりに。
だが――
その一言が落ちたあとも、空気は重いままだ。
俺は視線を落としたまま、何も言えずにいた。
否定も、肯定もできない。
頭の中で、否定と恐怖と後悔が、ぐちゃぐちゃに絡まっている。
リリーもまた、すぐには口を開かなかった。
しばらくして、彼女は小さく息を吸い、吐く。
まるで、自分の中で何かを整理しているかのように。
やがて、ゆっくりと顔を上げ、もう一度、俺を見る。
「……それって」
一瞬、言葉を選ぶように唇が閉じられる。
空気が重くのしかかり、胸が詰まる。
それに耐えかね、言葉を発しようとした――その時だった。
「やっぱり、いいや」
「え?」
思わぬ台詞に顔を上げると、リリーと目が合った。
彼女は、明るく笑っていた。
「フェルンさんの前世が、異世界人かなんてどうでもいい。
フェルンさんは、フェルンさんだもん」
その言葉に驚き、何も言えずにいると、
リリーはもう一度、「でしょ?」と笑いかけてくる。
――フェルンさんは、フェルンさん。
その言葉が、俺の心にすとんと落ちた。
「……ああ、そうだな」
自然と言葉が出た。
……リリーの言う通りだ。
「俺は……フェルンだ」
そう宣言して、ようやく俺も笑うことができた。
男に視線を向ける。
「あんたの言うとおりだよ」
そして、はっきりと告げる。
「俺はフェルンとして生まれる前、
違う世界で料理人として生きていた。
そんな記憶が、確かにある」




