第六十二話 黒幕
算砂の額から、脂汗が止めどなく滴り落ち、盤上にポツリと染みを作った。 「……打ち掛けでは、いかがかな。宗古殿」
算砂の声はかすれ、指先は微かに震えている。もはや盤面を凝視する気力さえ失われているようだった。
「……それでも構いません。ただし、算砂様。一つお聞きしたいことがあります」
宗古の声には、これまでにない冷徹な響きがあった。レベル10へと覚醒した彼女の脳は、この時代の空気を、音を、そして算砂の微かな動揺さえも凄まじい精度で分析している。
「家康様。申し訳ありませんが、算砂殿の体調を鑑み、打ち掛けとさせていただいてよろしいでしょうか」 「うむ。正月早々、無理を強いることもあるまい」
家康の許しを得て、算砂は力なく一礼した。「打ち掛け」――表向きは中断だが、実力者同士の対局において、それは敗勢を悟った者が面目を保つための事実上の投了に近い。
「……して、私に聞きたいこととは?」
宗古は背筋を正し、その大きく澄んだ瞳で算砂を射抜くように凝視した。彼女の体からは、先ほどまでの激しい「合体」の余韻か、あるいは覚醒したエネルギーの奔流か、むせかえるような女の体温と、有無を言わさぬ支配的なオーラが立ち昇っている。
「大野修理様の殺害。そして月の小面を奪い、家康様を陥れようとした黒幕。……それは算砂様、貴方ですね。……いいえ、『偽の算砂様』」
広間の空気が、一瞬で氷結した。
「何を……戯言を! 私は本因坊算砂だ。宗桂殿の後継ぎだからと、あまりに無礼千万!」
算砂の顔が怒りで醜く歪み、血管が浮き立つ。だが宗古は、嘲笑うかのように言葉を重ねた。
「忍びの月を操っていたのは貴方。浜松城、江戸城……あの女が容易く潜入し、脱出できたのは、貴方が手引きをしたからよ。潜入が起きた時、貴方は常に近くにいた。自らの部屋を隠し通路とし、月との情事を見せつけることで、周囲の疑いの目をそらした。……そうでしょう?」
「知らん! 証拠などあるものか!」
「大野修理様が静勝軒に来る前、貴方は二階の裏扉を密かに開け、忍びの月を潜ませた。小那姫の仕掛けた玩具など、修理様の命を奪うには足りなかったはず。……背後から確実に止めを刺したのは、貴方の命を受けた忍びの月よ」
「……証拠を、出せと言っているのだ!」
「証拠? ならば今の対局はどうかしら。第一人者にしては、あまりに実力が伴っていない。……本物の算砂様は、そこにいらっしゃる。大野春氏様。貴方が本因坊算砂ですね」
宗古が指し示した先――大野春氏が静かに立ち上がった。彼は淀君を背後に庇うようにして、不敵な笑みを浮かべた。 「……流石は、宗桂殿が魂を分けた娘。見破られては仕方あるまい」
宗古はさらに畳みかける。 「貴方は、家康様の家臣に滅ぼされた望月家の生き残り。忍びの月も、その末裔……。家康様を失脚させ、望月家の怨みを晴らそうとした。……そうでしょう? その証拠に、貴方の着物の裏には『九曜の紋』が編み込まれているはずよ。……望月様」
偽算砂の喉から、獣のような低い笑いが漏れた。彼は猛然と立ち上がると、着物の胸元を乱暴に広げた。
「……カカカッ! 察しがよすぎるのも考えものだな!」
剥き出しになった彼の胸元には、異様な存在感を放つ爆薬が幾重にも巻き付けられ、その裏地には鮮やかに九曜の紋が縫い込まれていた。
「無駄だ! この爆薬は、この広間すべてを跡形もなく吹き飛ばす威力がある。家康殿、道連れだ。冥途でも天下を競おうではないか! ……月、出番だ!」
その叫びに応じるように、天井の換気孔が音を立てて外れ、一筋の影が音もなく大広間に降り立った。忍びの月――その手には高性能の火縄銃が握られ、家康ではなく、あえて爆薬を纏った偽算砂を狙っている。
「月が私を撃てば、衝撃でこの広間は灰に帰る。我ら望月の末裔に、命など惜しい者はおらぬ! 大義あれ!」
「家康様を下げろ!」 勝吉が叫び、家臣たちが壁となって家康を囲む。淀君は金切り声を上げ、狂ったように算砂を睨みつけた。
吉川は咄嗟に宗古を己の腕の中に引き寄せ、その柔らかな体を背後に庇った。宗古の熱い吐息が背中に触れ、恐怖よりも深い「繋がり」が吉川の全身に力を漲らせる。
宗古が震える手でレベル10のスマホを掲げた。 吉川は懐に忍ばせていた『村正』の柄に手をかける。鞘から漏れ出す妖しい殺気が、月の持つ火縄銃の銃口へと真っ直ぐに伸びていく。
「……させるかよ」
吉川が村正の刃を僅かに抜き放つと、広間に凄まじい冷気が奔り、銃を構える忍びの月の指先が、目に見えて震え始めた。




