第四十話
白濁した月光が差し込む密室で、忍びの月は獲物を狙う豹のようなしなやかさで躍動した。
「そこまでだ」
吉川の鋭い声とともに、静寂は一瞬で破られた。
背負い投げの衝撃で宙に舞った月は、そのまま床に叩きつけられるかと思いきや、空中で異次元の体術を見せる。
まるで重力という枷を外したかのように、壁を蹴り、捻りを加えた三回転の宙返りを経て、一滴の音も立てずに着地してみせた。
「ふふっ、流石は家康様の懐刀。女装の趣味には驚いたけれど、その筋力……実に私好みだわ」
月は挑発的な笑みを浮かべると、なだれ込んできた勝吉たちの包囲網を嘲笑うように動いた。彼女の動きは、もはや人間のそれではない。
「逃がすな! 捕らえろ!」
勝吉の怒号が響くが、月は畳の上を走るのではなく、垂直な壁を数歩駆け上がり、天井の梁を跳ね橋のように跳んだ。兵たちの槍が空を切る中、彼女は空中で体を弓なりに反らせ、梁から梁へと振り子のように移動する。
その際、漆黒の忍び装束が激しく翻り、鍛え上げられたしなやかな肢体のラインが、月光の下で浮き彫りになった。
「そこよ!」
月は部屋の最上部にある換気孔へと狙いを定めると、最後の一跳びで弾丸のように突き進んだ。
格子の隙間に指をかけると、猛烈な腕力で木枠を粉砕。凄まじい風が部屋に吹き込み、行灯の火がすべて消し飛ぶ。
「月! 待ちなさい!」
闇の中、半裸の小那姫が絶叫とともに本物の小面を掲げて飛び出した。
はだけた胸元が月光に白く光り、怒りと欲情に狂った彼女の白い肌が、逃げる忍びを追い詰める。
「その面が欲しければ、私を……私の心を奪っていきなさい!」
「欲深い女ね。望み通り、連れて行ってあげるわ」
月は換気孔の縁に逆さまに張り付いたまま、懐から放った鋼糸で小那姫の手首を絡め取った。
グイ、と強引に引き寄せられた小那姫の体が、吉川の目の前でふわりと浮き上がる。
月は宙吊りになった小那姫の腰を抱き寄せ、その首筋に熱い吐息を吹きかけた。
「さあ、高度四十メートルの空中散歩よ。振り落とされないように、私にしっかり掴まっていて……!」
月はそう囁くと、小那姫を抱いたまま虚空へと身を投げた。
「大変! 落ちる!」
宗古の悲鳴が轟く中、吉川は壁を蹴り、換気孔へと指をかけた。外を覗き込むと、そこには悪夢のような、けれど息を呑むほど美しい光景が広がっていた。
夜空に、巨大な黒い影が翼を広げていた。 事前に城外に滞空させていた「大凧」が、荒れ狂う夜風を含んで猛然と上昇を開始したのだ。
月は片手で凧の骨組みを掴み、もう片方の腕で小那姫を抱き締めている。
風に煽られ、二人の長い髪と小那姫の白い足が夜空に乱舞する。月は凧の上でアクロバティックに重心を移動させ、不安定な風を力に変えて城から遠ざかっていく。
「追え! 弓を、鉄砲を用意しろ! 娘を助け出すのだ!」
堀尾吉晴の絶叫が夜空に響く。 だが、月は大凧を操りながら、背後の吉川に向かって優雅に手を振ってみせた。
四十メートルの上空、月光に照らされた忍びの月と、彼女にすがり付く小那姫のシルエット。それは、戦国という乱世が生んだ、狂気と美しさが混ざり合う逃亡の舞だった。
「あんな無茶な真似。刑事さん、早くしないと二人の命が危ないわ!」
宗古がスマホを掲げ、画面には『風神』のアイコンが不気味に赤く輝き始めた。




