第三十九話
「歴史の裏側にある噂は、やはり真実だったのですね。秀頼公は太閤の子ではなく、大野修理の子……。淀君は世継ぎを欲するあまり、あの妖しき能楽師・来電とも褥を共にしたというのですか」
吉川が苦い表情で呟く横で、宗古は家康の問いかけに生返事をしたまま、一心不乱にスマホの画面を操作していた。その大きな瞳は、闇を射抜く猛禽のように鋭く光っている。
「家康様、聞こえます……忍びの月の声です。城の出入り口をいくら固めても無駄だった。彼女は最初から、城内の『内通者』の手引きで入り込んでいたのよ。名誉挽回を焦る月は、小那姫様が月の小面を持っていると確信している。……狙われるわ」
「……相分かった。吉晴、勝吉、直ちに兵を動かせ。網を張り、鼠を捕らえよ」
家康の鋭い下知が飛び、勝吉は弾かれたように部屋を出た。すぐさま城内の要所に兵が配され、静まり返った廊下に甲冑の擦れる冷たい音が不気味に響き渡る。
「……それにしても、月は一体誰と通じているんだ?」
吉川が問うと、宗古はフッと冷ややかな笑みを浮かべ、スマホのアイコンを指し示した。選ばれているのは、高名な囲碁打ち・算砂のものだ。スピーカーから、ねっとりとした甘い声が漏れ出し、部屋の空気を淫靡に汚していく。
『……算砂様、今宵もたっぷりとお飲みくださいませ。そして、私のこの体をお楽しみになりますか…。勝手口の鍵を開けてくださったときには私のこの身体を想像していたのですか
……』
それは、毒を含んだ蜜のような月の声だった。続いて、算砂の蕩けきった喘ぎと、衣擦れの音が重なる。
『ああ……月の体は、どうしてこうも吸い付くように滑らかで、気持ちが良いのだ……。この指先、この肌の白さ……。そなたのためなら、城の鍵など安いものよ。それより……』
スマホの小さな画面越しでも、二人の情事の熱が伝わってくるようだった。月は算砂の背中をしなやかな指先でなぞり、その耳元に熱い吐息を吹きかけながら、巧みに男の理性を溶かしている。算砂の脂下がった鼻息と、月の計算された艶めかしい吐息が混じり合い肉欲の糸で縫い固めていく。
その場にいた全員の顔が苦渋に強張った。家康が放った斥候が戻り、短く報告する。 「算砂殿は、眠りこけております! 傍らには誰も居りませぬ!」
「月はもう動いている。狙いは小那姫様の部屋よ」
小那姫の私室には、さらに厳重な警護が敷かれた。だが、当の部屋の主である小那姫は、冷徹なまでに静かに奥へと引き下がっていた。
「……姫の身の安全は確保した。これ以上の警備は、かえって賊を警戒させるだけだ。……私は自室に戻る」
家康がそう宣言し、宗古たちを連れて部屋を後にすると、城の奥深くは、底知れぬ沈黙に支配された。
小那姫の私室。行灯の火が微かに揺れ、壁には怪物のような影が這っている。 部屋の真ん中には、一人の女が寝具に潜り込み、静かな寝息を立てていた。その枕元には、からくりの底から暴かれた将棋盤が置かれ、蓋の隙間から「月の小面」が、青白い月光を受けて妖しく微笑んでいる。
その時、音もなく天井の板がずれた。 夜の闇よりもなお深い漆黒の影が、重力さえも欺く身のこなしで、天井から静かに舞い降りる。
忍びの月――。 彼女は抜き足差し足で寝具へと歩み寄り、横たわる女の首筋を凝視した。その指先が、死の愛撫を施すようにゆっくりと、獲物の喉元へ伸びていく。
「小那姫……可哀想だけれど、ここで安らかに眠ってちょうだい。私だって、命がかかっているの。月の小面は、私が頂いていくわ」
月の冷徹な囁きが、闇を切り裂いた。彼女の両手が、標的の細い首を絞め上げようと、一気に力を込めたその瞬間だった。




