幕間
「あいつも随分と変わったなあ」
そう呟く彼を見て、シャドウは強い違和感をいくつも抱いた。目の前の彼、小泉創一の語る「あいつ」とは、彼の孫、小泉叶を指すのだがそれがおかしい。そもそも、小泉叶は小泉創一の死後生まれた孫であるために、創一が叶のことを語るという状況は本来成り立たない。加えて、創一は若い頃の姿をしている。ありえないだらけの状況だ。シャドウは考える。これは、もしや夢というものなのではないかと。むしろ、それしかない。
であるのだが、シャドウは基本的に夢を見ない。というより、睡眠を必要としない。大凡普通の生命体ではないからだ。小泉が怪異となった今でも睡眠をルーティンに組み込んでいるため、シャドウも同じ時間に影に溶け込んで黙っている。スリープモードと称していいが、睡眠ではない。意識は起きている。故にこうして夢であるとしか思えない状況は初めてであった。シャドウは小泉と違い些細なことは些細なこととして流せる性格をしているため、抱いた違和感を隅へ放り、創一の隣に座った。
「君も、そう思うかい?」
「ああ。変わった……というより、成長した、って感じだな」
確かに以前の小泉は創一の生まれ変わりであるという意識が強く、軸がなかった。自己が曖昧であった。道がわからないからこそ、小泉創一の遺した道を敢えて選び取っていた。それが、小泉叶とはこのような男である、と胸を張って言えるようになった。主張も激しくなった上、変に強かになった。喜ばしい成長だ、と微笑ましく思う部分があるのは、シャドウが小泉を赤子の頃から見ていたからだろう。見ていたからこそ、彼が「創一と自分は別人だ」と突きつけ、その通り別の存在として成ったことには激しく動揺した。シャドウにとって、「小泉くん」は「小泉くん」であったからだ。
柔和な笑みを浮かべ、いつも通りの縁側で胡座をかく創一を見遣る。こうして見ると、顔つきは全く別物だ。小泉はもっと表情が硬く、むっすりとしている。盃を片手にけたけたと笑ったりもしない。それでもやはり魂は同一なのだ。彼、彼らは時に狂気すら感じる善性を持っている。見返りなく他人を助けようとする。誰かの痛みを、自分の痛みのように感じる。その結果自分がどうなろうと構わないのだ。
シャドウは決して善の怪異ではない。ただ、眩しいほどの善性は尊ばれるべきであり、それを持つ者は報われるべきだと思う。そうであるから、彼らの自己犠牲精神には手を焼いたものだ。だがそれがなければ小泉は奇譚師と呼ばれる怪異になることがなかっただろうとも思う。結局は、彼が彼であるからそうなったのだ。
「小泉くん」
久しぶりに、彼の名前を呼んだ。小泉叶ではなく、小泉創一の名を。もう二度と呼ぶことはないのだと、返る言葉もないのだと思い出の中にしまった呼び名。夢であるのならば、多少のわがままも叶られよう。夢であっても、シャドウが創一を呼んだということは嘘にならないだろう。創一は昔と変わらない顔をして、どうした、と何の気なしに返した。
「……私を、恨んでいるかい」
これがシャドウの見る夢であれば、こんな問いには何の意味もない。虚空に呼びかけているのと同じだ。夢の中の登場人物は本人ではない。きっと、シャドウはこの問いを抱え続ける。創一にはもう答えられない。小泉は答えを持たない。であるから、これには、本当に意味がない。
恨んでいる、と言われて彼の残り香のある罪を背負いたかったのかもしれないし、恨んでいない、と言われ堂々巡りの思考から解放されたかったのかもしれない。シャドウは、創一のことをよく知っている。だが、完全に理解などできない。できなかったから、あんなことをした。あれは、罪であるべきなのか、判決を下して欲しかった。
様々な心情の渦巻くシャドウとは裏腹に、創一は豪快に笑った。
「それに答えてやるほど、俺が親切に見えたか?」
「君は、ずっと善人だった。恨んでなんかいない、と笑い飛ばすか、私の欲しがる答えをわざと言ってくれるか、そのどちらかだと思っていたよ」
「なら、残念だな。俺はどちらも選ばない」
「何故?」
「俺はもう、過去の思い出だからさ。死んだ人間だ。終わったものに、続きはない。けど、お前たちは違うだろう?」
「これは私の夢だ。なのに、課題を出すのかい」
シャドウは膨れて言い返す。夢というのは、もっと自由で、無秩序で、思いのままになるものだとそのように記憶していた。すると創一は朗らかに笑った。若々しい姿ながらに、晩年を思わせるような笑い方をした。よく見たようで、初めて見るような、笑顔。
その時シャドウは考えた。これが、夢ではないとしたら。シャドウの意識と記憶から構築された幻ではないとしたら。目の前の彼は。
ざああ、と強い風が吹く。全てをかき消すように。シャドウは焦った。この空間は何なのか、彼は本物の創一なのか、そんなことは考えている暇がない。何もかもが消える前に、シャドウは叫んだ。
「私は、君の友人であれて幸せだった!」
「俺もだ。ならば、そのように語ってくれ。何度でも、何度でも」
景色が白い風に埋まる。シャドウは呆然と立つ。必死で叫んだ言葉は、本心からのものだった。これが夢であれ、何であれ、シャドウは彼への友愛を取り戻せた。そう、思えた。それが泣き出しそうなくらい嬉しいことなど、彼には知られなくていい。
「シャドウ?」
夢の中で聞いたものとはよく似ていて、違う声。乱暴に揺り動かされ、シャドウは意識を覚醒させた。辺りを見渡して、思い出す。懐かしさを抱く風。畳の匂い。変わらない空の色。そうだ、ここはやつくも村だ。タマミケの誘いで二人揃ってやってきたのだった。
「いつも喧しいのに急に静かになるから驚いた。電波でも悪いのか」
「人を昭和家電のように言いおって。叩いても直らないから叩かないように」
「いや、人ではないだろ」
「そこに突っ込むかね、そこに」
そんなやりとりをしているうち、器用に頭の上に盆を乗せたタマミケがこれまた器用に襖を開けて入ってきた。茶碗を三つ、茶菓子を三つそれぞれの前に並べる。隣の小泉は並べられたそれらを見てこちらを気にしている。恐らく怪異に茶は必要なのかだとか、猫は茶菓子を食べていいものなのだろうかなどと考えているに違いない。
「呼び出してすまなかったな」
「いいや、別に。それで、何か用事でもあるんじゃないのか」
小泉は真面目な男だ。挨拶もそこそこに本題へ入ろうとした。タマミケからの呼び出しだ。何かあるのだろう、と出発前に言っていた記憶がある。ここ、やつくも村は小泉にとって思い入れのある異界だ。創一が妻のために語り、遺した場所。小泉は創一が込めた願いを、愛を守ろうとした。そんな場所である。小泉がやつくも村を継いで語ったことにより、タマミケはよりその存在を強固にした。シャドウももう隠す必要がない。やつくも村本体はタマミケに厳しく躾けられて大人しくなっているようだったが、また悪さを働いているのだろうか。
そんな二人を前に、タマミケは眠たそうな猫そのものの仕草で、ごろにゃんと横になった。大きな欠伸をして、にゃあと鳴く。
「友人と話をしたくなった。それだけだ」
さあ足を崩せ、とタマミケは小泉にちょっかいをかける。肉球で足を突かれた小泉は、困惑しながらも姿勢を楽にした。シャドウは浮いているばかりなので畏まった姿勢も何もない。
拍子抜けした様子の小泉は、遠慮がちに茶を啜る。そして眉を顰めた。
「酒じゃねえか」
「酒だとも」
タマミケは悪びれる素振りもなく頷く。シャドウも湯呑みを取って香りを嗅いだ。こちらにも酒が入っている。
「縁を深めるには、酒なのだろう? 創一はよくそう言っていた」
「彼はそうだったね……だがタマミケ殿、生憎と小泉くんは酒に強くないのだよ」
「何ッ」
吊り上がった猫目を丸く見開いたタマミケは、尻尾を大きく揺らした。そうするとボール大の毛玉がぽとりぽとりと落ち、生き物かのように素早く襖の向こうに消えていく。瞬きのうちに、毛玉たちは別の酒瓶と酒器を抱えて戻ってきた。そしてタマミケの尻尾に戻る。
「ならば、これはどうだ。果実酒だ」
「それくらいなら、まあ……」
ここで断るのも面目ない、と小泉は果実酒を注がれるのを断らなかった。どうにも、タマミケは完全に友人としてこちらを歓迎している。交友関係の狭い小泉にとっては慣れぬことだろう。ぎこちなく杯を受ける小泉の様子はシャドウにとって愉快なものだった。いつも乱雑に扱われている分、猫相手に借りてきた猫のようになっている小泉に指をさして笑いたい気分だ。そんなことをすれば叩かれてしまうだろうけれども。
シャドウは特段飲食に制限がない構造をしている。内臓というものがなく当然胃袋もないために口に流し込んだ側からものは消えてしまうが、食べるふり、飲むふりはできる。所詮人間の真似事であるために酒に酔うことはないが、味の区別程度は可能だ。そのため、タマミケの歓待を喜んで受け入れ、酒を飲み、茶菓子を齧る。何せ、タマミケには世話になった。こちらも友人として大事にしたいと思っている。
かつて、シャドウには交友関係というものがなかった。必要ではなかったからだ。影として、そうあるだけで存在している。その形を維持するために何かしらすべきこともない。影は常にあるからだ。終わりのない時間はあまりにも退屈で、他の名もない怪異と同じように「面白いもの」を探した。そうした先に出会ったのが創一だ。創一は面白い人間だった。シャドウの空っぽで未熟な精神を満たした。唯一であったから、その存在が大きくなりすぎた。それ以外を知らなかったから、孤独と退屈を癒した薬が、毒へと変化した。
夢、のような空間で会った創一は、己を過去の思い出と語った。シャドウは、未だそれには頷けない。まだ、創一へ向ける友愛は生きている。過去に全てをしまえなどしない。ただ、小泉へと向ける情は創一へのものとは違うものだと断言できた。小泉創一と、小泉叶は、同じ魂を持ちながら別の存在である。そのことを認識している。そうであるから、創一を最高で一番の友人だと言えても、小泉も同じであるとは言えない。恐らく、小泉の方もシャドウを友人とは呼ばないだろう。
では、何であるのか。それはわからない。それこそが、創一がシャドウへと出した課題なのだろうか。
「これ、美味いな」
思考の海に沈みかけるシャドウを横に、小泉が呂律も怪しく呟いた。いつの間にやら果実酒の瓶を半分ほど開けており、ぐびぐびと飲み進めている。垂れ目がちの眦は更に下がっており、頬は赤い。完全なる酔っ払いだ。どうやら、創一から体質は受け継がなかったらしい。彼は酒には酔うものの、許容量は多かった。
水を飲ませるべきか、と悩むが、存外にシャドウは今の時間を楽しく感じているようだ。これもまた経験だろう、とそのままにすることにした。タマミケは自身の勧めた酒を褒められたことで嬉しそうに小泉の盃に酒を足す。にゃあにゃあと訳もなく鳴いているあたり、タマミケも酔っているのだろう。
「ふふ、美味いか、そうか。ほら、飲め飲め。魚の燻製もあるぞ」
尻尾をぶるりと震わせれば、毛玉が忙しなく動いて働く。シャドウは一人素面のままあれは便利だなと考えた。便宜上人間の体を模した形を取っているが、本来影は変幻自在。分裂させて動かすこともやろうと思えばできるだろう。試しに、と体の端の影を千切って、手の形にした。座った姿勢を保てなくなりつつある小泉の背中を突く。鬱陶しそうに振り払われた。
やがて軟体動物のように横になった小泉が、ぼそりと言った。
「眠い。寝る」
それきり、目を閉じて話さなくなった。限界まで飲むとこのようになるものなのか、と学習する。この男も、そこそこに酒の嗜み方を学ぶべきだろう。いつ起きるものやら定かではないが、起きたら水でも汲んでやろう。青い顔をして欲しがるに違いない。
小泉が眠ると、タマミケと二人になった。タマミケはまだ飲み足りず、お猪口の縁を舐めている。付き合って、酒を飲んだ。しばし双方無言であったが、やがてタマミケが静かに語り出した。
「……あの男は、このように静かではなかったな」
「ああ、そうだね。彼は話すのが好きだった」
思えば、他者と創一の話をするのは小泉以外ではない。珍しく、あまりない体験だ。小泉には好き放題言えていた創一への文句も、感情も、何も言えなくなる。思い出として話せば、過去として認めてしまう気がした。薄くもやつく心を誤魔化すように、深く眠っている小泉を見遣った。健やかに息をしている。しかしどうしても目を瞑って開かない彼の顔を見ていると、あの時を思い出す。
「仲良くしているか」
「小泉くんとですか? ええ、まあ」
「それならいい。友人とは良いものだ」
「……友人では、ないかもしれませんね」
「そうなのか?」
タマミケは驚いて目を見開いた。仲違いをしているわけではないのだ、と首を振る。しかし、どう説明したら良いものか。
「彼は、友人でしたよ。けれど、小泉くんは……きっと、まだ、既存の関係に当て嵌められない。友人ではなく、相棒でもなく。小泉くんは、小泉くんなんです」
いつか、小泉を友人と胸を張って言える日が来るだろうか。互いに相棒だと認める日が来るだろうか。そうであってもいいし、そうでなくてもいい。共に在れるのであれば、それらは些細な問題だ。だが、確かな答えが出ることも、希望であるのだろう。
「そうか」
穏やかに、タマミケは短く返した。そして、続ける。
「また、語ってくれ。お前たちの物語を。それを肴に、酒を飲もう」
大きな猫目が細められる。眩しいものを見るように。来るかもしれない未来を思うかのように。シャドウは、弓形に吊り上げた口を緩ませ、はは、と笑った。
「その時は、飲ませすぎないようにしてくださいね。小泉くんは、本当に酒に強くないようだから」
「む、そうか。気をつけよう」
もごもごと身動ぎをした小泉が、一つ、くしゃみをした。タマミケと目を合わせる。生み出された毛玉が毛布を運び、シャドウの作った腕がそれを小泉にかけた。今頃、小泉も夢を見ているだろうか。もしかしたら、創一が顔を出しているかもしれない。ここは、彼と縁深い場所であるから。
そこにはいないだろう。しかし、虚空へ、胸中から呼びかける。答えをくれないのならば、こちらも好きにさせてもらおう。過去になど、閉じ込めてやらない。色褪せなどさせない。綺麗な思い出にはさせない。失ったものにさせない。鮮やかなままで、そこにいてくれ、と。共に在る二つの影を、見ていてくれ、と。語る声を、聞いていてくれ、と。
風が一陣吹いた。ふわりと暖かいそれに乗る香りは、彼のものとよく似ていた。




