第六章 創造神
日本には八百万の神がいるとされる。世界には多くの神がいる。様々な信条を持って、神を崇めている。信仰の数だけ神がおり、神とされる者は唯一ではない。それが神であると指す方向は様々だ。だがそのような神々の他にも神とされる者はいる。この世界を創造した者も、神の如き存在、否、神だ。それは唯一の存在。創造神。
この世界には魂がある。そう定義されている。輪廻というものがある。そう定義されている。人間は輪廻の輪の中で生きる。それは定められたルールだ。輪廻から解脱するのは正当な手順がある。それは決定事項だ。破られてはならないものだ。
今回、その定められた順序を通らず輪廻の輪から抜け出した者がいる。人の身でありながら、怪異となった。それは罪である。そうあるだけで、罪を背負う。罪には、罰がいる。罪を犯した人間、小泉叶と、罪の幇助をした怪異、シャドウ。その者どもに、罰を。
*
おかえり、ただいま、と挨拶を交わした直後のことだった。一瞬のうちに世界が闇に包まれた。停電にしては少しの明かりも見えない。近くにあったはずの家具さえそこにない。やつくも村に行ったときのことを思い出した。あれも唐突だった。しかし部屋を出るという行動を起こしてから連れ込まれた。今は何の動作も儀式もしていない。異界。この世ではない空間に引き摺り込まれた、というのが正しいだろう。
シャドウはそこにいるのか、目視では確認できない。あれは影で、闇でもある。声を大きく「シャドウ」と呼びかける。殊の外近くから返事が来た。分かたれてはいないらしい。二人揃って引き摺り込まれたようだ。これが怪現象であるならばさしたる恐怖はない。こちらには語り部と聞き手がいる。怪異が相手ならば向こうに勝ち目はない。
だが、それとは違うような感覚もした。温度のない、光のない空間。閉塞された場であるのに、何者からかの視線は感じる。その視線にも温度はなかった。しかし底冷えするような圧も感じた。人間とも怪異とも違う上位存在に、見られている。直感だが、そのような感想を抱いた。
「ここは、何処だ」
「さあ……けど、誰かが私たちを見ているね」
「お前もわかるか」
「ああ。怪異でない、もっと上の者……神、とも呼ぶべき存在が、こちらを見ている」
小泉の推測はシャドウの推測と同じだった。ただ、神、とまでくると今度はこちらに勝ち目がない。神こそ人間の語りが産んだ概念だが、その歴史は長く、覆されるものではない。残念なことに小泉には霊力であるとか神通力であるとかそのような類の力はなく、シャドウの定義力も怪異にのみ通用する。数多いる神のうち、こうして人間に干渉する神は少ないだろう。その中でも、前置きなく己が領域に引き込む神もいないだろう。
神、と一言に言えども種類がある。仏教、キリスト教、それぞれに神仏がいる。だがそのような神ではないだろう。あれらは神という存在ではなく、概念だ。信仰のままに、そうあるための概念。形ある存在ではない。八百万といる神も同じだ。存在でなく、概念。
神とされる存在。神と定義される存在。怪異ではなく、初めからそうあった者。それが、こうして小泉とシャドウを連れ去っている。
上を見上げる。下を見下ろす。周囲を見渡す。どの方向からも視線は注がれていた。あちらからの行動は何もない。ただ暗闇に放り投げられている。
目標があるとすれば、家に帰ることだ。だがこの状況に至ったまでの経緯は知りたい。
あてもなく、とりあえず歩いてみる。一歩、二歩、三歩。そこで壁に当たった。違う。シャドウにぶつかった。
「痛いじゃないか、小泉くん」
「お前、見えないんだよ。光れないのか」
「影の怪異に無茶を言うな」
わあわあと喚くシャドウを無視して、反対方向に足を進めた。今度は三歩どころではなく数メートルは歩いただろう。なかなかに広い空間である。もしくは、終わりがないのか。今足をつけて立っている地面は何なのだろう、としゃがんで触ってみる。不気味なほど温度がなく、冷たさも温かさも感じなかった。その間も視線は突き刺さっており、監視されているというよりは品定めをされているようだった。神という未知数の相手に何がお気に召すか機嫌を損ねるかがわからない。行動は控えておくのが無難だろう、と立ち止まる。
後ろを振り返っても、左右を見ても、相変わらずシャドウは何処にいるのだかさっぱりだった。そこの辺りにいるのだろう、と仮定して話しかける。
「シャドウ。何か心当たりは」
「あると言えば、あるね。現に干渉する神など、そうすることが存在意義である神など、創造神しかいない」
「創造神……」
「この世界を作った者。それは、神とされる存在だろう?」
これが介入の結果なのだろうか。異界、異空間に閉じ込められ品定めをされる覚えは小泉にはない。しかしシャドウには動機にも心当たりがあるようで、表情どころか顔も見えないが悔しそうに呻いているのがわかる。
「世界にはルールがある。法則がある。我々は禁忌を破った。それで、神の怒りを買った」
「俺が、奇譚師に、そのような怪異になったからか」
「十中八九、そうだろう。我々は罪科を背負った。待ち受けるのは罰だ」
人の世から離れること、隔たれるべき怪異の世に足を踏み入れたこと。どれも後悔はしていない。罪を背負う覚悟もしていた。だが罰を下す存在がいることは想定していなかった。小泉は神など信じていなかったからだ。無宗教、というのもまた違うが、全知全能の神がいるのならば、こんな世界を作らないだろうと思っていたこともある。だがこの世界が箱庭だとして、それを作り出した者がいたとして、それならば創り出した者は神なのだと納得はできた。決められた法則に背き人でないものとなった小泉は、排除されるのだろう。だが、おいそれとそれを受け入れたくはない。小泉叶とは、そのような存在なのだ、と己が定義した。それは神にさえ否定できない。
──だが、魂はあるべき場所へ還るべきだ。
そんな声が聞こえた。男のものとも女のものとも取れる、無機質で機械的な声。振り返る。無論、誰もいない。一瞬の静けさを挟んで、声は次から次へと降ってきた。
間違った結末を迎えた物語は、正されるべきだ。
修正するのだ。全てをなかったことに。
異物を取り除くのだ。
同じ声のようで、違う声のようでもあった。怒りが込められているようで、反対に慈悲があるようにも聞こえた。罪に対し罰があるのは、神の慈悲なのだろう。罰ならば甘んじて受け入れよう。罪があるのだから。しかし、小泉が生きてきたことも選択も無に帰すのは拒みたかった。抗いたかった。
「罰は受けよう。だが、間違った物語だと、誰が決める? お前の一存ではないはずだ」
こちらを見ている神に問いかける。応答はない。期待はしていなかった。
間違った結末と言った。それは小泉とシャドウの物語のことを指すのだろうか。そうだとして、別個体でありながら同じ生き物になったこと、それを選んだことを否定されたくはない。それが神であってもだ。小泉は、小泉として、己の意思に従って生きている。創造神が世界を作れど、世界は創造神のものではない。その世界で生きる命も、創造神のものではない。独立した存在だ。
物語には作者がいる。その者を神と呼ぼう。だが、物語には読者もいる。その誰にも、語られた物語を、結末を、間違ったものだと決める権利はない。
瞬間、真っ暗闇の空間が炎で包まれた。神の怒りの現れだろうか。一寸先にシャドウの姿が見えた。慌てふためいて影の雫をぽたぽたと落としている。
「やっと、お前の顔が見れたな」
「言ってる場合か! 人間は、燃えると、死んじゃうんだろう⁉︎」
「これが罰なのかもしれない。なら仕方ないことだ。それに、俺はもう人間じゃあない」
熱く、皮膚が焼ける。焦げ臭い匂いがする。肺に熱気が入ってきて、咳き込んだ。痛みはある。苦しみはある。だが死ぬことはない。小泉は、人ではないのだから。炎に包まれながら、また声が聞こえた。
魂は、あるべき場所へ還るべきだ。
同じ台詞だが、今度はありありと怒りが込められていた。神も人間じみたところがあるんじゃないか、などと思いながら、小泉とシャドウは炎に燃やされていった。
何度肌が爛れ、再生していっただろう。痛みに呻くことすらできなくなっていった。業火は地獄のようでもあり、煉獄のようでもあった。これは、魂が還るためのものなのだろうか。脳の端にある妙に冷静な部分がそう考える。そのうち、再生しながら見下げる掌が小さくなっていくのを感じた。背も、どんどんと低くなっていく。幼さが増していく。全てをなかったことに、とはそういうことらしい。小泉はこの世界に生きなかったことになるのだ。原初の、魂の状態に還り、創一のものであったそれはあるべき場所へ行く。そういった魂胆なのだろう。
焦りはあった。それ以上に、これが罰か、と落胆した。小泉がどうあれ望んだ結末にならないのならば、一体一連に何の意味があったのだろう。それは絶望にも近かった。
闇は光に弱く、影は光あるほど濃くなる。シャドウは形を歪めながら、戻りながら、喚き続けていた。
「おお、神よ。くそったれ! 何を偉そうに罰を与えるのか!」
「そりゃあ、神、だからだろう」
喉が焼けて上手く話せない。燃え盛る小泉の体にシャドウが覆い被さり、また虚空に向かい叫んだ。
「いいだろう。神は絶対的な存在だが、神を殺せない道理はない。こちらは騙り、騙し、真実を定義する!」
それからシャドウはこちらを向き、肩を掴んだ。嘆くように怒声を浴びせる。
「考えろ! このままいつまで燃やされてるつもりだ。受け入れるな。抵抗しろ。語れ! それが君だろう、小泉くん」
必死な様子に笑いが込み上げた。笑っていられる状況でもないが、こんなにも情緒を乱しているシャドウを見ているのは愉快だった。説得されたわけではないが、絆されはしたのかもしれない。小泉は、考えた。これが罰であるならば、それを逃れるためには罪をなくす他ない。犯した罪を、犯さなかったことにする。それを語るのだ。
小泉の罪は、怪異になったこと。人でなくなったこと。定められた輪廻の輪から正当な方法でなく解脱したこと。どうすれば罪が消えるか。人に戻るか? いいや、一度歩むと決めた道を違えるつもりはない。無意味になどさせない。諦観は捨てた。罰を甘んじて受け入れる模範囚であることもやめた。定められた檻から、抜け出す。脱獄する。
人の世から怪異の世へ渡ることが禁忌なのであれば、渡らなかったことにする。語る。騙る。語りの始まりを、帰る。根本から、再定義する。
「……小泉叶は、シャドウは、罪人ではない」
幾分か子供らしくなった声で、語った。創造神へ向けて、今から定める真実を。
「何故ならば、俺は、元より人ではなかったのだ」
炎が目を焦がすと、次は見覚えのある村にいた。闇から脱した。成功したのかどうかはまだ確約できない。だがこの村は一度来たことがある。あのときとは違い、横にシャドウもいる。遠くから聞こえるのは祭囃子。夕暮れの空。風のない道。やつくも村だった。
小泉の体は元の齢に戻っていた。修正力は働いているらしい。神であろうとも、人間の中で語られたものをそう簡単には消せない、ということだろう。
元より人ではなかった。それは無茶苦茶な話でもなかった。魂は人間である創一のものであるが、小泉が誕生した経緯はシャドウが母の腹に押し込めたことによる。つまるところ、初めから人ならざる者の手によって生まれた男なのだ。そもそもが、真っ当な輪廻の道を辿っていたとは考え難い。それでもそれが罪にならなかったのは、ルール違反ではなかったからであると予測する。輪廻の輪の中にいる、というルール内ではあった。判定をするのが創造神であるからには予測に過ぎないが、結果を見ればそういうことだろう。
シャドウはもぞもぞと人の形を取りながら、顔を作った辺りで勢いよく振り返った。焦げ跡一つない小泉を見て、はあ、と胸を撫で下ろしている。見慣れた大袈裟な仕草だった。
「ここは……やつくも村か?」
「そうらしい。何故ここへ飛ばされたかはわからんが」
あそこが異界であったのなら、罰を与える場所であったのなら、現世へ戻せないことはわかる。だが行き先がやつくも村である理由は不明だ。やつくも村は異界だが、入る方法が確立されていない異界である。無規則とはいえ偶然ではないだろう。
そのとき、りん、りん、と鈴の音がした。それは次第に大きくなり、近づいてくる。警戒は当然だが、その暇もなく、空を覆い尽くす影が小泉とシャドウの上にかかった。りん! と一際大きく鈴を鳴らし、それはそこに立つ。小泉は唖然とした。シャドウもであった。荘厳に、神々しく、ふわりを毛を靡かせる。
それは、巨大な猫であった。
背丈は小泉の三倍はあろう。猫は遥か上にある頭をそうっと下げて、ぐるる、と喉を鳴らしてみせた。敵対心はないらしい。
「よく来たな。私がこの村の真の主、タマミケだ」
真の、と猫もといタマミケ様は強調した。やつくも村の本体とは折り合いが悪いのだろうか。小泉はおずおずと頭を下げる。どうやら、タマミケ様が小泉たちをここに連れてきたらしい。恩人である。タマミケ様は目を細めてかっかっと笑った。
「そんなに畏まらなくていい。お前は私の生みの親のようなものだからな」
小泉は創一とは別人であるものの、創一の魂と記憶の断片を持っていることに変わりはない。やつくも村と、そこに祀られているタマミケ様は創一が生み出したのだから生みの親という表現も間違っていなかった。そうやりとりをしている横で、シャドウがふむと一つ頷く。
「神に対抗できるのは、神ということか」
「タマミケ様は神なのか?」
「御食という言葉の通りに。神に捧げられるものという意味を持っているからな。ただ、創造神とは別の類の神だ。それでも確かに神性を持っている」
そうなると、創一は神話を語り神を産んだことになる。ただの人間にそのようなことが可能なのかと疑問に思った。それを察したタマミケ様が自身が神性を得た経緯を話し出す。
根本はその他の怪異と同じなのだと言う。社があること、語られた歴史の長さとそれによる信仰が、タマミケ様を神にさせた。創一だけでなく、やつくも村を、タマミケ様を知る人間たちの力により神になった。それは現代における神仏の成り立ちと似通っている。いつか、シャドウが全ては人工物だと謳ったことを思い出した。それは正に真実だったのだ。
タマミケ様は続けて語る。
「お前たちをあの神から引き離したのは他でもない、自己保身のためだ。語り部の存在が虚構とされてしまえば生み出された我々の存在も危ぶまれる。だからお前が作った隙を利用して、ここへ連れて来た」
そう正直に理由を言われると、反対に信用できる。損得勘定なく手を差し伸べる神などいないものだ。小泉は納得したが、シャドウは警戒心を保ったままであった。影を逆立たせて、硬い空気を纏っている。そんなシャドウを、タマミケ様は笑った。それは幼児を可愛がるようでもあり、神という上位存在らしい部分でもあった。
「そう怯えるな。私はその男を喰えないよ」
「喰えない?」
「お前の魂は体と切り離されておらず、人間のものでもない。そう定義しただろう? 私の腹には収まらん」
アレルギーのようなものだな、とタマミケ様は大口を開けて笑った。小泉がタマミケ様の腹を通ろうにも、拒否反応が出るらしい。シャドウは疑わしげだったが、多少は警戒を解いた。タマミケ様が人間の魂を天国に送るための存在であると、小泉が元より人間ではなかったと隣で聞いていたのはシャドウだ。一番よくわかっているだろうに怯えが消えないのは、創一の喪失を忘れていないからだろう。二度目を恐れている。
小泉はタマミケ様がどうあれ、簡単に喰われてやる気はなかった。この生を締めくくるには、まだ早い。そう思っている。だからこそ、創造神に結末を書かれるわけにはいかず、消されることもあってはならなかった。
抵抗しろと、語れと、それが小泉なのだと言ったのはシャドウだ。気持ちをより強くさせたのはシャドウだ。そうであるので、シャドウの恐怖を理解しつつも苛立ちを抱えた。丸まっている背中を膝で蹴る。些か幼い憂さ晴らしだった。よろけたシャドウが蹴られた背中を摩りながら振り返った。
「何だい、小泉くん」
「いいや、何も」
素直に言ってやるつもりはなかった。胸中を明け渡すには気恥ずかしさがまだある。シャドウは口をへの字に曲げたがそれ以上は何も言ってくることはなかった。まだ優先すべき事柄があるからだ。今は窮地を一時的に脱出しただけで、解決には至っていない。創造神への新たな語りがどれほど通用したのかは未知数だ。それが真実と見做されなければ未だ罪人と捉えられたままだろう。いつまでもやつくも村にいるわけにもいかない。
タマミケ様は神だが、創造神は格が違う。作られた神と、最初から神であるもの。その力の差は歴然だろう。加えて、タマミケ様は魂が天国へ昇るための通り道としての神だ。それ以上の力はない。今急拵えで物語を作り出しても神性を得られない。
罪は科そうとすれば容易だ。創造神の裁量による。小泉が人ではないとそうであっても、人の子の腹から生まれた。境界線はとうに破っている。そのどれにも罪状をつけられよう。
はて、と困り果てるが、時間もない。いつ闇に呑まれ業火に焼かれるかわかったものではない。猶予が与えられているだけだ。創造神はその気になれば小泉をすぐにだって消し去ることができるのだろう。それをしないのは温情か、余裕か。どちらにせよ、一度罪人になった者を逃すはずがない。
しかしシャドウは気楽そうな声で言った。
「それはどうかな? 単に、あちらも切羽詰まっているだけかもしれない」
「何故そう考える?」
「創造神もルールに縛られている。我々と同じように」
この世界がこの世界たるルールは明文化されていない。皆知らずのうちにその中で生きている。だがそのルールの中には創造神の行動を縛るものもあるだろう、というのがシャドウの見解だった。半分納得して、半分疑う。もしそうであるならばこちらにも勝機はありそうなものだが、侮ってはいけない。だがその可能性を考慮し次の行動を考えた。
「一度吐いた真実だ。それの信憑性を上げるのが得策だろう」
あの手この手で新たに語り直すには整合性がなくなる。ならば、こちらが提示する真実を一点に絞って、それを強化すべきだ。シャドウの方を向く。同意するように頷いた。タマミケ様はまお、とやけに可愛らしく鳴いて、しゅるしゅると萎んで小さくなった。普通の猫のサイズだ。
「考え事をするならば、社で休んでいけ。ほら、着いてこい」
タマミケ様を先頭に、並んで歩き出す。切迫した状況に見合わず、長閑な風景と穏やかな道のりだった。
兎角、小泉叶は元より人ではないという言説の証拠がいる。それも、確固たる証拠が必要だ。社に着き落ち着いたところで小泉はいつものノートとペンを取り出した。燃えてなくなったかと思われたが復元されたジャケットの中に入っていたのだ。ルーティンというのは大事である。これは、小泉が語り直すための儀式だ。
「俺が生まれたのはシャドウが創一の魂に関与したからだ。それは事実であり、否定しようがない」
「そうだとも。私の存在を存分に利用してくれたまえ」
「怪異の手を借り、人の腹から生まれたことも、また事実だ。一度人の世に入ってしまっている」
ううん、と頭を抱える。小泉が人間として生きてきた歴史は消えない。そこをどうにかせねば都合のいい証拠は作り出せない。ちらりとシャドウの方を見た。これの存在を利用するならば、十分に効果を発揮するものでないと困る。小泉叶と自分の名を、隣にシャドウの名をノートに書き込んだ。ぐるりと線で囲む。ここにあり、既に定義付けされており、語られているものといえば、奇譚師だ。その存在だ。
「奇譚師は、怪異の手により、人から生まれる……」
完全に後付けの物語だ。だがそれで構わない。事実を事実のままどうやって真実を作り出すかが問題なのだ。初めから、奇譚師として、そのような怪異として生まれた。それであれば辻褄が合う。人間から怪異になったのではない。怪異になるために、人間として生まれたのだ。シャドウは小泉の語りを聞いた。知った。真実になった。それは、創造神に通用するだろうか。
「猫の手がいるか?」
日の当たる場所で丸くなっていたタマミケ様がまーおと鳴いた。こちらには神に対抗できる神がいる。それも使えるカードだ。だがどう使えば有用だろうか。それに悩む。人の魂が、天に昇るための神。その腹は天国に通じている。そうであるならば、と小泉はタマミケ様に一つ提案をした。
「タマミケ様。口の中に入ってもいいだろうか」
「何を言ってるんだ小泉くん!」
「私はいいが……お前はいいのか?」
シャドウとタマミケ様は引け気味の反応を寄越した。小泉の方はいいからお願いしているに決まっている。これは実験だ。小泉が怪異であるならば、そう定義され世界から疑われていないのであれば、タマミケ様の腹を通ることはできないはずだ。無論、失敗した際のことも考えている。世界がそれでも小泉は人間なのだと、人の魂を持っているのだとしていたら天国行きだ。怪異として認められていたとしても、無事に帰って来られる保証はない。それでも小泉は覚悟を決めていた。これが最善策であると信じていた。
「本当にやるつもりかい?」
「ああ」
「……なら、私も喰ってくれ、タマミケ殿」
「おや、泣いて引き留めるかと思ったが」
タマミケ様は目を丸くした。相変わらずシャドウを坊や扱いしている。そのことに若干の不満があるのかそれを態度に滲ませながらも、シャドウは頭を下げた。あのシャドウが、だ。今度は小泉が目を丸くした。これがここまでするところを見たことがない。そうまでして、小泉と共に在りたいのだと、行動が証明していた。固めていた覚悟が更に引き締まる。先がどうあれ、何が待ち受けようとも、共に在れるのならば。決意はきっと揺るがない。
強い風が一陣吹いた。風圧に負けて目を瞑ると、会ったときの姿をしたタマミケ様が目の前にいた。
「準備はいいか? では、いただくぞ」
そうして、大きく口を開ける。鋭い牙がある。ざらりとした舌がある。喉の奥は暗く、何も見えない。タマミケ様はシャドウと小泉を丸呑みにし、二人は腹の中へ飛び込んでいった。
暗い。狭い。じめっとしている。胃袋の中とはこのようなものなのか。到底天国とは思えない。だが吐き出される気配もない。じっとしていても何にもならないので、手当たり次第に動いてみる。ぶるる、と空間が震えた。タマミケ様の胃が拒否反応を起こしているのだろうか。巨体が揺れると腹の中は更に揺れ、立っていられない。よろけて倒れる。
「シャドウ、無事か」
「君こそ」
「俺は平気だ」
短い会話をしてお互いの安否確認をする。シャドウも無事なようだ。こうして暗く狭い胃袋で胃液塗れになっていることを無事と呼べるかどうかは不明だが。やがて胃壁と思わしき部分が痙攣する。小泉もだが、シャドウは完璧な異物だ。吐き出そうとしているのかもしれない。吐き出された先が天国であるか、元の場所であるか、タマミケ様に喰われたことは初めてだったのでわからなかった。
ぬるり、と粘液に押し出される。シャドウも揉まれて影の形が変形していた。ペっペっと唾を吐いて出された先は天国などではなく、元の場所でもなく、また見知らぬ空間であった。
だが、予測はできる。黒岩に囲まれた中に立つ、角の生えた生き物。腕にあるのは金棒。ぐらぐらと湯だった大きな釜に、針山。炎に燃やされる亡者。
ここは地獄だ。
それは一向に構わないのだが、全身の粘つきが気になる。近くの獄卒を呼び寄せて、向こう側にある釜を指差した。
「あの湯は使っていいものか?」
「え? ああ、使ってもいい、が……」
言質を得たので早速使わせてもらうことにする。釜の中には先客がおり、煮えたぎる湯の中で悲鳴をあげていた。湯を手で掬って、頭から被る。ひりひりと皮膚が引き攣るが、すぐに再生されていく。再生速度が上がったように感じるのは、小泉が怪異と定義された論拠が増えたからなのだろうか。身をさっぱりと清めたところでシャドウとタマミケ様の元へ戻る。シャドウは口を歪めており、タマミケ様は半眼でこちらを見ていた。
「小泉くん、君、思い切りが良すぎるんじゃないか」
「そんなに私の体液が汚いか」
「いや、汚いだろう……」
あちらこちらで火が立っているから、服も乾くのが早かった。奇妙な侵入者である小泉たちを獄卒は遠巻きに観察しながら、触れないでおく選択をしたようだ。隅を陣取っても文句を言われない。それを良いことに固まって会議を開く。現在のところ、異界渡りを繰り返して現世に戻れていない。最終目的はそこだ。勝手に地面に胡座をかいた小泉へ、シャドウが言った。
「地獄から現世に帰るのは比較的簡単だ」
「そうなのか?」
「前例もある」
言われてみれば、歴史上にそのような人物がいる。しかしそのためには、地獄に来たのは手違いだったと地獄の管理人に判断されなければならない。つまりは地獄の管理人に会う行程がいる。方向性は決まった。
「閻魔大王に会う」
「うむ、それがいいだろう」
「どうするつもりだ?」
シャドウが賛同し、タマミケ様が疑問を呈す。ここは裁判が終えた後の場だ。閻魔大王は裁判所にいる。そこへ戻るには、それなりの手続きがいる。小泉は地獄の住民ではないのだ。通り道を遡らねばならない。なるべくならば、穏便に。獄卒たちは忙しそうに拷問に勤しんでいる。加えて、見るからに異物である小泉たちに近づこうとする者はいなかった。
勝手知ったる歩みで、地獄の中を闊歩する。亡者の絶叫を背後に、獄卒の間を縫って進む。進んだ先に門があったが、当然門番がいた。他の鬼たちより大きな体をしている。ここまで来て物怖じもできない。小泉は首を痛めながら鬼を見上げた。
「ここを通してほしい。閻魔大王に会いたいんだ」
「……お前は?」
「奇譚師と呼ばれる者だ」
それを聞いて、大鬼は眉を顰めた。聞き覚えがあるような態度だ。まさかここまで名が広まっているとは思ってもいなかったが、通じるのならば話が早い。証明に、とシャドウを目線で示す。大鬼は益々眉を曲げ、懐から台帳を取り出して、ぱらぱらと捲った。見目に見合わず冷静に、低く、地鳴りのような声で大鬼は言った。
「わかった。今、案内する」
すんなりと要求が通ったことは有り難かったが、台帳には何が記されていたのかが気になった。覗き見ようにも大鬼の体格では手元も頭上にあり、難しい。小泉は罪人ではないと語ったが、小泉創一の魂を受け継いでいる。裁判を受けることなく、天国にも地獄にも通らず、輪廻している。あの世側が知っているのなら、この待遇も頷ける。バグとも言える小泉の存在を把握していて放置しているのはあちらもどうすべきかを決めあぐねているということに繋がる。そこは交渉材料になりそうだった。
大鬼の後を着いて、門をくぐる。熱気から解放され、年季の入った木造の室内に入る。現代の建物とは様相が違うが、いかにも地獄らしかった空間とはかけ離れた雰囲気であった。歩く鬼も背丈は小泉と変わらない。角が生えて、着物を着ているぐらいの違いだろうか。しかし奥の方へ進むと、鬼ではないが純粋な人間でもない、赤い肌をした大男が裁判台に立っていた。あれが、閻魔大王だろう。その姿は現世で語られている通りの姿だった。
通常ならば罪をはかる者と罪人という立場だろう。しかし、小泉は己を罪人ではないと、罪は存在しなかったとしている。敢えて堂々として、閻魔大王の前に立った。簡潔に要求を言う。
「俺は小泉叶だ。人間ではない。手違いでここに来た。現世へ戻らせてはくれないか」
閻魔大王は小泉を一瞥し、それからタマミケ様を見た。得心行った様子で頷く。
「ああ、あやつの腹を通ったか」
そして、苦々しそうに表情を歪めた。タマミケ様を良く思っていないようだ。考えれば納得する話でもある。ここは人間を天国に行かせるか地獄に行かせるかを決める場だ。閻魔大王は最終決定を下す立場だ。それを無視して魂を天国に送るタマミケ様は受け入れ難い存在だろう。それは、創一が語り、人間の信仰により歪められたものだった。そう思うと小泉は一端を担っていることになる。頭を下げた方がいいだろうか、と悩み、閻魔大王を見上げた。小泉の視線を感じて、鷹揚に首を振る。
「あの世とは、そのようなものだ。人間が概念を作り出した。ならば、人間により変容するのも当然だろう」
さて、と話を切り替える。閻魔大王は落ち着いた様子だったが、表情は曇っていた。ああ、と言い淀んで、目を伏せる。小泉を見下げて、告げる。
「手違いとは、そうだろう。お前は、天国にも地獄にも歓迎されない者だ。そのように定義された……そうだったな?」
小泉は、首肯した。そう定義したのは自分自身だったからだ。初めから、そういった存在であったことにした。それは閻魔大王もそう知る真実になったのだ。閻魔大王の沈痛な面持ちとは裏腹に、小泉は確信する。語りは、騙りは、通用している。小泉が語り直した物語は、この世界に認められた真実である、と。閻魔大王は全ての存在に平等なのだろう。人間でなくなった小泉に対しても、人間のように扱う。憐れむ。しかし、それは不要なものだった。
「お前は罪人ではない。ただ、無辜でもない。現世に帰すことはできよう。だがそれは、ここから追い出すのと同義だ」
人の世にいることができず、あの世にも行くことができない魂。そのことを、閻魔大王は憐れんでいた。小泉にとって、創一の魂を受け継いだ者として、悲観すべきだろうか。そのような気持ちが一切湧かないことを不思議に感じた。小泉叶として、今、ここにある。物語がある。それ以上に必要なことなどないと思った。隣立つシャドウを横目に見る。シャドウはしばらくの間黙ったままだった。小泉の方を見ようとしない。罪悪感でも抱えているのだとしたら、とんだ思い上がりだ。
「俺は自分でそうと決めて、そうと語った。真実を知る者が隣にいれば、疑うことは何もない」
閻魔大王に向けて、シャドウに向けて、語った。宣言した。閻魔大王はその言葉を聞き、静かに目を閉じる。シャドウは目を見開きこちらを見ている。途端に苛立ちが募って、らしくない間抜け面を引っ叩いた。霧散した影は再構築され、今度はしかと小泉を見据える。そこには疑念などなく、信頼が一つあった。
現世への道は開かれた。追い出される形になるとは言われたものの、閻魔大王は送りの鬼までつけてくれた。優しいのだと思う。そのような存在が平等に人間の罪をはかるとは地獄も単に無慈悲な場所ではないのだろう。
帰り際に、タマミケ様が言った。どろんと普通の猫のように小さくなって、足元から小泉を見上げる。
「お前たちとはここでお別れだな。私は私の道で帰る」
タマミケ様はあの世の通り道となる神だ。それに、やつくも村は異界である。小泉たちと同じ場所へは帰らない。短い間であったが、道中と共にした仲間だ。名残惜しくもなる。だが、タマミケ様にはタマミケ様の、小泉には小泉の帰るべき道がある。ではな、と去っていく背中を見送り、シャドウを引き連れて地獄を後にした。行きとは違い、帰りは快適なものだった。胃液まみれの食道を思えば何だってそうだろう。ふわふわと足元の覚束ない雲のような地面を歩き、溶けた絵画のような風景を流し見、はた、と気が付けば自宅に戻っていた。
時間も、景色も、連れ去られる前と何ら変わらない。ふとすれば幻だったかと思いそうにもなるが、小泉は全てを覚えていた。語りも、誓いも、全て。
創造神はあれきり干渉をしてこない。だが、見てはいるのだろう。この物語を如何しようかと、舞台裏で、脚本を抱えているはずだ。わざわざ呼び出す必要がないのは手っ取り早く、都合がいい。小泉は虚空へ向かい、声を張り上げた。
「見ていたか? 聞いていたか? これが、真実だ。これが、この物語だ。俺がこの先どうしようと、どうなろうと、誰にも否定できない。神でさえも!」
応答はなかった。だが、視線を感じた。凝視されている。それを感じる。小泉は動かない。動揺しない。これが小泉叶という男なのだと、自分で理解していた。
小泉叶とは、強欲な男である。探究欲に溢れた男でもある。自分を知りたくて、自分が何でできているかと解を得たくて、足掻いている。小泉の隣にはいつでもシャドウがいた。シャドウは小泉をずっと見ていた。だから、シャドウのことを知りたかった。鏡を覗き込むように、己の姿を見るために。己を知ることは、世界を知ることである。一つ一つは小さな粒でも、意味を与えられ大きな個になる。怪異も、人間も同じだ。
小泉の形は、最初から定まっていたのだ。その輪郭を知らないでいただけだった。曇っていた鏡が磨かれ、姿を映し出し、目にする。
孤独が嫌いだ。そして臆病だ。善人などではない。利己的だ。だが情を育てていた。それは初めから持っていた。名前は、まだない。それを明け渡す先の者を、何と呼ぶべきかもわからない。だが、これからも共にあるのだろう。そうでありたい。誰の意思でもなく、小泉の意思として。
「小泉叶は、そのように生まれてきた。そうだろう?」
これは奇譚だ。誰かの魂を元に、人の世に生き、やがて語り部となる怪異の話。奇譚師。それは、小泉だけを指さない。
「……ああ、小泉くん」
シャドウが、名前を呼んだ。強く、信じるように。小泉叶の形を認めるように。祈りに似ていた。願いに似ていた。シャドウが、シャドウとして小泉に贈る、純粋な信頼。それが呼び名に込められていた。
視線は強く、小泉を突き刺している。貫き、撃ち抜いている。そうであっても、小泉は揺らぐことはない。何が己を定義するのかをもう知っているからだ。己が誰かを知ること。隣立つ者を知ること。どう生きるのか見定めること。それらは道を照らす導だ。
応答は、尚ない。沈黙が唯一の返答だった。視線は降り続けている。はあ、と息を吐いた。創造神はこれを答えとしたのだろう。だが、沈黙は肯定とも言う。こちらの良いように解釈しても問題ない。小泉は、そのような強かさを会得していた。
今一度、創造神に問うとすれば、物語は誰のものであるか、だ。作者のものだろうか。登場人物のものだろうか。はたまた、読者のものだろうか。小泉は思う。誰のものでもないのだ、と。物語は語られた時点で世界として成立しており、誰も所有権を主張できない。強いて言うなれば、物語は物語のものだ。語りは生きている。変容する。命が、そこにある。その全てを内包したのが、物語なのだ。
ここに生きている命を、誰にも否定させない。それは、やはり、神でさえも。
視線が、一瞬和らいだ気がした。気のせいだったかもしれないが、小泉は良いように解釈することにした。何せ、強かさを得ていたので。




