第四章 やつくも村
やつくも村、という村がある。その村は本来存在していない。地図にも載っていなければ歴史にもない。突如として不条理に現れ、人を惑わす。
その村ではやってはいけない行為がある。一つ、祭囃子が聞こえても、そちらへ行ってはいけない。二つ、食べ物を口にしてはいけない。そして、三つ、「それ」と出会っても話してはいけない。これらを守らねば、その村に取り込まれ、永遠に帰ることができないという。
小泉は、そのやつくも村の調査を行なっていた。これは依頼されたものではなく、相談を受けたものではない。小泉が自ら見つけ出し真相を探ることにした案件だ。というのも、この話が創一が語ったものである疑惑があるからである。噂自体はインターネットを通して密かに広まっており、範囲はこの周辺の地域に留まらない。長くある異界譚の一つだ。この話による犠牲者はない。何故ならば、帰って来れなかった者は語る口を持たないからだ。生憎と迷い込み帰還した者しかそれを語ることができない。それ故手を付けずにいたが、創一が絡んでいるとなると話は別だ。
小泉が疑いを持ったのは、久方ぶりに実家に帰った時のことだった。小泉は己を語るには、創一のことをもっと知らなければならないと思った。親には悪いが、そのような思惑を持って帰省した。もちろん、親の顔を見るという目的もあったが。
そこで、創一が使っていたという文机を倉庫で見つけた。使う者がいなくなってから触れられていないであろう、埃の被ったもの。その引き出しには数冊のノートとメモ書き、ペンが入っていた。ぱらぱらと中身を捲ると、みみずの這ったような乱雑な文字が並べられていた。殆どは走り書きであり、読み取れない。こうなると書いた本人ですら解読不能なのではないかと思われた。しかしよく見ると並べられた文字の横にチェックマークのようなものがある。文字か書かれた最後のページ、最後の行にはチェックマークがなかった。これが創一のものだとすると、もしや、語り直した怪異たちの記録なのではないかと考えた。そして、最後のものは語り直されていない、手付かずのもの。一度可能性を思うとそうとしか考えられなくなる。どうにかこうにか観察した末、最後の文字が「やつくも村」ではないかと辿り着いたのだ。
全てを知るシャドウほどではなくとも、小泉とて立場上怪異のことは多く調べている。それは周囲で語られる噂だけに限らず、全国各地の言い伝え、インターネット上の体験談にも及んだ。やつくも村のことは以前から大まかに把握していた。それがよもや創一によるものだとは思いもよらなかったが。
疑惑を確かめるにはシャドウを問いただすのが手っ取り早かった。だが、そうしなかった。何のそれらしい理由もない。小泉が小泉自身で証明したいだけであった。意地のようなものである。しかしながら調査を始めるにはシャドウの手を借りる他なく、それは妥協する。使えるものは使うべきだ、という割り切りができるようになっていた。
わざわざ呼び出さずともシャドウは拳数個離れた先にいる。シャドウ、と呼びかけ、本題に入ることにした。
「やつくも村を知っているか」
「ああ、もちろんだとも。もっとも、概ね君の知る通りだろうがね」
シャドウは創一について言及しなかった。敢えてそうした、とも考えられる。あのノートが小泉の実家で見つかった以上は無関係ではないのだから。唐突に聞き出した小泉を訝しむこともなく、シャドウはやつくも村について話した。
「あれは古い怪異だ。昨今、異界なんて珍しくもない。というのも体験談が広まりやすいからだろうね。怪異に遭遇した、なんて話は信じられないことが多いが、怪現象の体験談は信じられやすい。この違いは何だろうねえ。人間というのは摩訶不思議だ」
それは恐らく、自分の身に起こり得るかを想像しやすいかしにくいかの違いだろう。人ではないものの存在に関して、いるはずがない、というバイアスがかかっている。怪現象は実体験という語りがあり、再現性があった。ものによれば特定の条件を満たせば異界入りを果たせるというものもある。とはいえ、やつくも村は無条件に人間を誘うものだ。祭囃子というフレーズ、よもつへぐいを思わせるタブーがイメージの共有をさせた。それにより再現を容易にしたのだろう。
「やつくも村は、異界であり、怪現象なんだろう。それに種となる者がいるものか?」
「それを村という場所と捉えるか否かによるな。存在しない場所に迷い込むならば、誘う者がいるか、あるいは異界を見せる者がいる」
「……案内人、もしくは幻覚を見せる者がやつくも村の核ということか?」
「そうとも考えられるね」
シャドウは断言しなかった。これはいつものことだ。安易に自分が答えを出すのはつまらないと感じている。小泉が思案し悩む様子を特等席で見ているのだ。悪趣味なことである。しかしそうでなくともこれは厄介な案件だった。まず第一に古い怪異というのがある。広く知れ渡っている以上は大きな改変はできない。新たに付け足したとしてもその新しい物語を広める必要がある。シャドウの定義力があったとしても語られてきた年月は大きい。つまるところ、極めて合理的に、違和感なく、人々にとってより魅力的に語り直さねばならないのだ。
すべきであるのは、帰り方だろう。それさえ定義されていれば迷い込んだ者の安全も保障される。複雑であってはならない。身一つで成せることでなくてはならない。語りやすく、覚えやすく。小泉はうんうんと唸った。これは難題だ。その横で、シャドウが気楽そうに首を傾げた。
「何を考えているんだい?」
「やつくも村からの帰り方だ」
「ああ、そうだね。最優先事項だとも。しかし、難しいだろうね」
その通りだ。これの難しいところは、好んで語る者たちはスリルを求めているというところだった。異界が異界らしく恐ろしいのは、安全装置がないからだ。簡単に帰ってくることのできる異界など魅力的ではない。命綱を、彼らは求めていないのだ。であれば、求める者は、そのように。求めない者はしない行為を帰る方法として語ればいい。
戻る。後退する。それを、言葉にする。
「三歩、後ろに歩く。それを帰還方法にする」
小泉はいつもの習慣でノートを取り出した。やつくも村、と書き殴り、語りたての物語を記録する。そこからは拡散する必要があったが、残念なことに小泉はインターネットの匿名掲示板やSNSについての知識はからっきしだった。一つ解決してまたうんうんと唸る。
「今度は何だい」
「広める手段だ。ネットに書き込む、だとか、何だとか……俺にはよくわからん」
「最近の若者にしては珍しい。私の方が詳しいんじゃないか?」
「……お前、携帯電話も持ってないだろ」
「いや、なあに、君のを借りて、ちょこちょこっと、ね。いい暇潰しになるんだ」
小泉はシャドウをじとっとした目で見つめた。悪戯がバレた子供のようにシャドウは目を逸らす。小泉は連絡手段としてしか携帯電話を使っていない上パソコンも授業や課題でしか使っていないため、いつでも借り放題だ。思えば、愉快なことが好きなこの怪異が暇に耐えられるはずもなく、暇潰しに何かをするのは当たり前だった。はあ、とため息をつく。ここで咎めても意味がない。初心者の小泉は俗世に染まり切ったシャドウに教えを請わねばならないからだ。
「で、何をすればいい」
「君のお得意な分野さ。語ればいいのだよ、やつくも村の体験談を」
語り、騙る。嘘の体験談をでっち上げればいいというだけのことだった。さしたるアドバイスでもなかったが、有用な手段ではある。
早速パソコンを立ち上げた。シャドウにあれを検索しろそこのページを開けと指図を受けつつ、匿名掲示板のオカルトカテゴリーに行き着く。本名は書き込むな、だなどと初歩的なことを言われながらも、小泉はいかにもそれらしく、真実味があるように、偽物の物語を打ち込んだ。
──これは、先日の出来事だ。やつくも村は知っているだろう? 「あの」やつくも村だ。そこに行ってきた。
行ってきた……というより、迷い込んだ、の方が正しいな。なんてことのない、ふとコンビニに出かけた際の帰り道のことだ。気がつけば、知らない場所に足を踏み入れていた。全く見覚えのない景色だった。遠くから祭囃子が聞こえてくる、不気味なところだった。
オカルトや怪談が好きだったからピンときた。これはやつくも村だ、と。妙に喉が渇いたが、手元にコンビニで買ったお茶があるものの、タブーを思い出してやめた。
どこに行けば帰れるのかもわからなかったが、祭囃子の聞こえる方とは反対の方へ歩いた。それが安全だと思ったからだ。だけど歩いても歩いても時間が経った気がしない。夕方になりかけみたいな赤い空のままだったし、誰にも会わなかった。よく語られる「それ」というのがわからなかったが、会わなくてラッキーだったと思う。
歩き疲れて、ふらふらっとよろめいたんだ。三歩ほど、後ろに歩いた。そうしたら元の道に帰っていた。買ったお茶はまだ冷えていて、本当に時間が切り取られたようだった。もし、自分がオカルトに詳しくなくて、興味本位で祭囃子の方へ行っていたらどうなっていただろう……と想像して肝が冷える。とにかく、気味が悪かった──
丸切り全て、嘘である。小泉はそんな体験をしていない。それらしくして書き込んだだけだ。寂れてもいないがそう人の多くない掲示板では返信がつくのも少々時間がかかった。だが、一人食いつくと他の者も集まってくる。疑いの声もあれども、それより嘘だろうが本当だろうが面白ければいい、という勢力が強かった。小泉が追加で何か書き込まなくとも勝手に話が盛り上がっていく。その応酬についていけなかったが、シャドウはこれで十分だと言い切った。
「君は既に語った。あとは民衆の役目だ」
それもそうだ。小泉はもう種を蒔いた。帰還方法は記されている。それを読んだ者の中に情報として入り込んでいる。それからどのような色の花を咲かせるかはコントロールできない。
やつくも村の本体が案内人であるかそれを見せる者であるかはさして重要なことではない。村という概念が知られていて存在の発見がないということは、相当隠れ上手なのだろう。しかしこうして噂が広まっていることは本体にも影響を与えている。小泉の語った物語が吸収されれば、相手もこちらに気がつく。そこで牙を剥くか大人しくするかはやつくも村本体の問題だ。
これで一つ解決したが、まだ解決すべき事柄が残っている。やつくも村と創一の関連性についてだ。最後に残っていたのは、時間が足りなかったからか、そうしていたか、何もわかっていない。今はノートの文字しか証拠がない。やつくも村の噂からは創一の姿が見えてこなかった。だが、小泉は創一の遺したものを背負って生きている。役目を果たし、演じている。であるならば、残されたものに意味があるはずだ。それは直感だった。そこに何かがある、と本能が告げている。
語った物語が小泉の手から離れたからには、どのように育つかを見守る必要があるだろう。開いたままのパソコンの画面を凝視し、更新されて流れていく書き込みをつぶさに読む。大体は興味本位から行ってみたいとの発言やタブーへの考察などであったが、パッ、と新しく表示された書き込みは、小泉と同じくやつくも村の体験を語るものだった。
小泉は自分のものは嘘であるとわかっているが、画面の向こうの人間が嘘をついているかどうかはわからない。しかし、やはりこの場において嘘か本当であるかは重要ではなかった。やつくも村、として語られた。それが重要だ。
掲示板の住民、新規の書き込み曰く、やつくも村は三本の矢のような紋があるのだという。歩いた先の道を抜けると社があり、タマミケ様を祀っているらしい。小泉はその詳細な文章に違和感を覚えた。これらは、新しい情報だ。そのようなことは今まで語られていない。別の何かと間違えていないか、と聞いてみたがやつくも村で合っていると相手は言った。
「……なあ、これおかしくないか。お前はこれを知っていたか」
シャドウにそう問う。シャドウが知らなければ、これらは嘘ということになる。だが、シャドウはいつになく硬い声で、低く呟いた。
「知って、いる。これは、やつくも村のことだ」
小泉は閉口した。知らない、と否定されることを想定していたからだ。嘘の情報だと思い込んでいた。何故ならば、小泉が、創一がやつくも村の「親」であり語り部であるのだから、と。全知の気でいたのだ。そうではなかった。愕然とし、反転、期待を寄せる。語られていない真実。それこそが創一の遺したものなのではないか、と。
気を高ぶらせている小泉とは裏腹に、シャドウは重苦しく沈黙した。どろり、と揺蕩う影が床に這う。顎先から垂れては消える影の雫は、冷や汗のようにも、涙のようにも見えた。
小泉はそんなシャドウの狼狽を不審に思った。問いかけるまでもなく、すぐに答え合わせがなされる。
「このことは私と彼しか知らないものだ。語られたのち、隠されたものだ。この者が知るはずがない」
彼、が誰を指すかなど今更だった。シャドウは口を滑らせた。やつくも村は創一が語ったもので間違いないのだろう。しかし、隠されたとは何だろうか。聞き手であり定義する役割を持つシャドウの独断なのか、創一とシャドウの共謀なのか。ここまで来ればこちらが探っていることを悟られようが構わない。小泉は事の詳細をシャドウから聞き出そうとした。語り直しは、まだ終わっていなかったからだ。
「お前が隠したのか。どうやって。何故」
「……私が、隠した。それは知られない真実であると定義した。あやつに、奪われぬように」
シャドウは動揺しているのか、素直に白状した。その後にぶつぶつと独り言を呟き始める。何度か声をかけても聞こえていないようだった。一旦小泉は退くことにし、シャドウの言葉と意味を考察する。
特に気になるのは、奪われぬためとの動機だ。何を、誰に奪われないようにするためか。やつくも村にそうされぬためであるならば、何を守ろうとしたのか。タマミケ様はやつくも村に内包される怪異である。または、やつくも村の本体であるか。タマミケ、の名を考えた。ただの名前ではないだろう。名は体を表す。真名は本質。それらを分解し、知識と照らし合わせる。
──魂、御食。その文字に辿り着き、小泉の夢の中の記憶が答えを出した。シャドウは、創一の魂を喰われぬようにその真実を隠したのだ。であるならば、やつくも村は魂を喰らう村ということだ。創一は何故そのように語ったのだろう。元は、妻へ聞かせる物語だ。それにしては趣味が悪い。救いもなく、後味が悪いばかりだ。そんなものを病に伏せる妻に聞かせるかと聞かれると首を振るしかない。創一は愛妻家だ。真に、妻を愛していた。だけれども、創一の生み出した怪異だという証拠は出揃っている。新たに出現した謎に小泉は頭を悩ませた。
小休憩を挟もう、と独り言をやめないシャドウを置いて部屋の外へ出ようとする。コーヒーでも淹れようと思った。ドアノブを捻り、扉を開け、一歩踏み出す。そう、すると。
そこは廊下ではなかった。外だ。家の外でもない。草木の生い茂る、人気のない村の入り口だった。一瞬思考が固まる。足元を見た。靴は当然履いていない。ぐるり、と辺りを見渡す。遠くから、祭囃子の音が聞こえてきた。
嘘から出た真、つまりは小泉は本当にやつくも村へと迷い込んだのである。この状況では僥倖であった。謎を解き明かすならば中枢に飛び込むのが一番だ。後ろ向きに歩くことはせず、音のない方へと歩き出す。靴下越しに土を踏む感覚がする。幻覚と思うには現実味が強かった。喉が渇いている。飲み物を持っていなくてよかった。日の照りつける風のない道では我慢しきれず飲んでしまうかもしれなかった。
どちらの方へあるかはわからないが、とりあえず社を目指した。隠された真実は、今やばら撒かれた情報だ。歩いているうちに着くだろうと楽観視する。難があるとすれば、靴を履いていないことぐらいだった。
一心不乱に足を進める。不思議なことに、やつくも村へ入ったことはないのだが、景色を懐かしく感じた。しかし何処を見ようとも目を凝らすとぼやけてしまう。はっきりとしているのは、夕暮れ時の陽だけだった。それも、先ほどから変わらない。雲も動く気配がない。アンバランスに一陣の風が吹く。そうすると、目先にぼんやりと建物が見えた。あれは、恐らく社だろう。三つの矢を思わせる紋とやらを探す。そうして歩いていくうちに、とうとう社の前に来ていた。近くには噂通り紋のある旗が立てられている。ここにタマミケ様が祀られているのだ。
祀られているからといって本人がそこにいるわけではない。だけれども、小泉は確かめたかった。やつくも村に秘められた記憶たちを取り戻したかった。ごくり、と生唾を飲み込み、足を踏み入れる。人の気配はずっとない。田舎らしい風景であるのに虫の音もなく、静かだ。ざく、ざく、と土を踏む足音だけが響いている。
それは、そこへ現れた。音もなく、空気も揺らさず、最初からそこにいたという風に佇んでいた。
それは、人の姿をしていた。異形の者ではなく、人を模した人外の姿でもなく、人間そのものだった。
それは、こちらを見ていた。見覚えのある顔で。見慣れた目の色で。
──それは、小泉によく似た男だった。
小泉によく似た男は、気さくに片手を上げた。
「よう。お前さんとこうして会うのは初めてだな」
その口調には聞き覚えがあった。夢の中で何回も聞いた声だ。目の前の男は創一なのだ。だとしたら、何故ここ、やつくも村にいるのだろう。小泉は創一の生まれ変わりだ。創一とは己だ。こうして対面することなどあるわけがない。だが実際そうなっている。聞きたいことは山ほどあった。だが、三つの禁忌のうちの一つにこうある。「それ」と出会っても話してはいけない。故に、小泉は沈黙を貫いた。
創一はそのことをわかってか、何も言わないでいる小泉に言葉を急かすことはしなかった。一方的に、つらつらと、話しかけてくる。
「俺はお前さんの中にある小泉創一の魂の欠片、といったところか。これは自己対話みてえなもんだよ。声を出しても問題ない。話しかけちゃいけねえのは、タマミケ様の方だ」
それ、とはタマミケ様を指すらしかった。その説明を鵜呑みにするのも憚られたが、いっそ罠でもいい、と創一に聞くことにした。
「創一。お前は何故やつくも村を語った? 何故、語り直さなかった?」
その真意が、聞きたかった。やつくも村は民衆のもとに渡り、成長していくだろう。その過程で被害者が出てくるかもしれない。創一はそれを良しとする男ではなかった。底なしの善人が、みすみす魂を喰らう怪異の存在を見逃すわけがない。それは、ある種の信頼だった。創一の善性を信じている。だからこそ、問いかける。何故、そうしたのか、と。
創一は困ったような顔をして、口篭った。しばらくして、その後、罪を告白するように話し始めた。
「やつくも村を語ったのは、妻を喪ってからのことだ。長い間病で苦しんだ妻が、安らかに眠れるよう語ったものだった」
「……?」
話が噛み合わず、首を傾げる。妻を弔うための物語が、このように悪趣味である意味がわからない。
「この村は故郷の村を想像して作ったものだ。今はもうない村だけどな。そこで、あいつの魂を神に捧げようとした。タマミケ様の腹は天国に通じている。そう語って。命の灯火の消えた魂は、やつくも村を通り、タマミケ様の腹を通り、天国へ向かう。そんな話を語ったんだ。だから、この話は完成されていた。語り直す必要がなかったんだ」
噛み合っていなかったのも当然だ。創一は心の底から愛を込めてやつくも村を生み出していた。それが、今や怪異の棲む異界に成り果てている。それは、創一の手を離れ、インターネットの海に紛れ、形が変化していったからなのだろうか。そうであるならば、今のやつくも村の語り部は、名もなき民衆たちだ。彼らは自覚なく怪異を育てている。より恐ろしく、より悍ましく。優しい物語は、怪談に成り果てた。
小泉は、創一だ。創一は、小泉だ。これは彼の言った通り自己対話に過ぎない。だが、誰かの善意が、愛が、踏み躙られている。そのことに憤りを覚えた。創一が妻を思う気持ちはいつだって純粋な愛に満ちていた。それが、このような結末を辿ってはいけない。義憤だと言われようとも、小泉は、語り直さなくてはと義務感に駆られた。
「祭囃子は、死者を弔う葬列。よもつへぐいは、生者が紛れ込まないため。ここはあの世に行くまでの通り道なんだ。だから、お前さんは帰らなくちゃならねえ。その方法は、もう語っただろう?」
「けど、創一、お前はどうするんだ」
「お前さんの奥底に戻って眠るだけだ。俺は、まだ腹の中を通るわけにはいかねえんだ」
「……シャドウのことか?」
「ああ。あれを、独りにできないからな」
そう呟く声には後悔が滲み出ていた。
「お前が直接話せばいいだろ」
「俺は死んだ身だ。死人に口なしって言うだろ?」
「だが、俺はお前の後悔を……」
これ以上は恨み言になりそうだった。創一の後悔が小泉を縛っている。創一の遺したものを、小泉は背負っている。創一の教えた感情たちが、シャドウを苛んでいる。責めることはしたくない。本意ではない。だが、二人の間にある蟠りほ解くことができたら、と思うのだ。創一は、口下手で素直ではなかったから。シャドウは、人間をまだ知らなかったから。へたくそな別れ方をしてしまった。やり直しが効くのであれば、この身を貸すこともやぶさかではなかった。
だが、創一は首を横に振る。きっぱりと。そうして、小泉の方に手を伸ばした。指先が光の粒になり小泉の胸の中へ入っていく。戻る、のだろう。
「俺は俺で、お前さんはお前さんだ。同じ魂を持つだけの、別人だ」
「創一……」
「小泉創一はもう死んだのさ。遺物を押し付けちまったのは悪いが……好きなように生きろ、小泉叶」
そう言い残して、創一は魂の欠片に戻った。姿は消え、社のある場所に小泉一人が立っている。
帰らなくては。そう思った。そして、奇譚師を継ぐ者として、やつくも村を語り直さねばならない。否、元の形に直さねばならない。優しい、愛の物語を、弔いを、そのように定義しなくてはならない。
創一からの言葉をゆっくりと噛み締め、三歩、後ろに下がった。一歩、二歩、三歩。そうして振り返ると、そこは自室だった。出るためにドアを開けた時のままの時間で止まっていた。その証拠に、独り言をぶつぶつと呟いているシャドウがそのままでいる。
小泉は迷わずパソコンの前を陣取り、掲示板をチェックした。やはり、やつくも村を恐ろしい異界だと認識する書き込みが多い。これを、覆さなければならない。より魅力的、ではないかもしれない。落胆されるかもしれない。だが、正しい物語へと修正するのもまた、奇譚師の役割なのだ。
「シャドウ」
「……ああ、うん、何?」
ようやく返事が来た。ぐるりと首を回しこちらを見るが、どこか虚な目をしている。ここからは小泉の仕事であるが、シャドウには伝えておかねばならないことがあった。
「やつくも村に行って、創一と話してきた」
「はッ? やつくも村……で、小泉くんが、小泉くんと?」
「あの人は、お前を独りにできないんだとさ」
言われたことをそのままに伝える。シャドウはぽかんとして、怪異に言うのもおかしな話だが、魂の抜けたような顔をした。この怪異にも混乱や困惑といったものがあると思うと可愛げがあるような気がしてきた。
「俺は、やつくも村の物語を再定義する。お前はそこで見て、聞いてろ」
そう宣言し、書き込み欄に文字を打ち込み始めた。誰が、誰のために語った物語であるのか。どんな思いが込められていたのか。そこにある祈りと、深い愛情。それらを知らしめるため、語る。記す。語り部でもある民衆へ向けて。そして、聞き手であるシャドウへ向けて。
それは、隠された真実を知っていた何者かを釣るための餌でもあった。
それを知る者は創一とシャドウだけである。それは誤りだ。もう一人、知っている者がいる。それは、怪異であるやつくも村だ。小泉の帰還方法の定義はやつくも村には不服だったのだろう。わざわざインターネットにまで顔を出すとは古い割に現代的な怪異である。
語りは、魅力的でなくてはならない。そうでないと怪異が飲み込まないから。その前提を覆そう。怪異がそう望まずとも、飲み込ませる。そうして、元の形に戻す。それは、小泉なりの、創一への弔いだった。彼の意思がそのままであるよう、やつくも村が、天国への通り道であるよう、書き換える。再定義する。頑固な古の怪異にどこまで通用するかはわからなかったが、やるしかない。
小泉はタイピングを止め、書き出した文字列を再度読んだ。これは体験談ではない。噂ではない。真実だ。それを、今、突きつける。ボタンをクリックして投稿した。
かかってこい、と心の中で挑発する。怪異にとって魅力的でない、恐ろしくもない、優しいだけの物語。それは、小泉が小泉自身で背負いたいと思った、創一の遺品であるのだから。
──やつくも村の真実を話そう。これは、始祖の語り部が語ったものだ。
やつくも村はその語り部の故郷を模したものだった。彼の妻をその村で弔うための物語だった。
魂を祭囃子で見送り、胃を満たし、そしてタマミケ様の腹へと還るための村。タマミケ様の腹は天国に通じているのだ。
産道を戻るように、生まれた場所へ行くように、魂は満たされた状態で還る。それは、祈りが込められていた。どうか妻の魂が安らかに昇れるように、と。
禁忌は、生者を巻き込まぬための線引きだった。変わらない景色は、美しい時を閉じ込めたものだった。やつくも村は、全ての魂にとっての故郷なのだ。
これは、恐ろしい物語ではない。悍ましい怪異ではない。ある男の、妻へ向けた愛だ。
これを語ったのは小泉のエゴイズムだ。正しくあれとの思いもある。しかし、それ以上に真実を伝えたいという気持ちが大きかった。創一の妻への愛は澄んでいて、尊重されるべきだと感じるからだ。彼の善良で純粋な感情を守りたかった。それは、創一と己が全く別の個体であるからと思えたから生まれたものでもあった。どうしても、小泉は小泉自身を大事にしきれない。自分に価値を見出せないのだ。自己を明確に確立できていないからだ。そうであるから、創一のことをどう扱っていいかわからなかった。けれども、創一は創一で、小泉は小泉だ。それが証明された。そこが分たれれば、創一を別個体として扱える。創一の意思を背負うでもなく掌に乗せることができる。それを今、指先に載せて文字にした。
画面が変わる。文字が流れる。今までの言説を覆す小泉の書き込みは、動揺と困惑を誘っていた。そこに反対意見が紛れ出す。そう易々とは受け入れられないだろう。それは予想していた。人は信じていたものを疑うことは難しい。それに加えて、恐ろしいやつくも村の物語は恐ろしいからこそ魅力的だった。その根底が揺るがされては魅力が失われる。語られなくなる。それを無理矢理捻じ曲げる。語られる物語にする。それは怪異に対する再定義ではなく、人間へ向けての語りかけだ。
しかし民衆の中に、異端がいる。それは画面から黒い滲みとなって現れた。小さな虫のように蠢いて、次第に文字の形になる。
──それは、虚言だ。やつくも村は、人を喰らう村なのだ。
小泉の発言を嘘だと言い切った。疑うこともなく嘘だと言えるのは、真実を知る者か、考えなき衆愚かのどちらかだ。この場合は前者であろう。やつくも村が、そこにいる。人々により育ち切った怪異が、書き換えられたくなくて、抵抗している。小泉は、敢えて静観した。無辜の人間がどちらを支持するのかを見極めるためだった。予想通り、こちら側が劣勢である。人を喰う異界である方が、より面白い。より恐ろしい。それらが背後に迫っていることも気が付かず、怪異をそのように育てている。小泉を断罪する意見が多く見られた。そうするのは、スリルを楽しんでいたところに水を差されたくないからだろう。無責任な語りは脅威であった。
けれども、こちらには飛び道具がある。それが機能していないということはシャドウの認識の問題だった。
「お前は、真実を知っているな?」
「……そうとも」
「お前の知ることが、真実だ。お前は、何から目を逸らしている?」
それを言語化させる必要があった。詳らかにする必要があった。シャドウは、創一の魂を地上に留めておきたい。そのために、タマミケ様の腹が天国に繋がっているという物語は受け入れてはならなかった。シャドウは、それを隠していた。口にさせ、吐かせ、表に出す。その儀式を経て、日の目を浴びさせる。そうしたい小泉の意図を読み取ってか、シャドウは無言を貫いた。
「よく聞け。創一は、俺の中にいる。欠片が存在している。俺がここにいる限り、創一の魂はここにある」
「……だが」
「お前を独りにできないと、その言葉を疑うのか?」
これは、半ば脅しだった。シャドウの抱える執着を人質に取った脅迫だ。創一の言葉であることは確かだが、シャドウにはそれを確かめる術がない。小泉を信じるか疑うかという二択を創一を疑えるのかという問いに変えた。普段のシャドウにならば通じない方法だっただろうが、こと創一のことになるとシャドウの舌は上手く回らなくなる。それを利用した。
シャドウはしばらく黙っていた。影が定まっていない。ぶれて、揺れて、細い煙のような影が宙に溶けている。目の辺りにある穴はぐらりぐらりと輪郭を変え、いつだって弓形だった口は曲がっていた。
「私は」
シャドウはそう言って、言葉を区切った。小泉を見る。小泉の目を。
「君の言うことならば、真実だと思えるんだ」
そして、かくりと項垂れる。ぱた、ぱた、影が溶けて床に落ちる。悲しげに、何か、懐かしむように。シャドウは、創一を疑えなかった。だけれども、それは、小泉を信じることとは繋がらなかった。
やつくも村の狡賢いところは、嘘は言っていないところだ。人を喰らう村という点においては間違ってはいない。ただ、正しいことも言っていない。どのような意図で魂が喰われるのか、その後どうなるのかは言及しないでいる。嘘をつくことができないのは、それが嘘であると本人がわかってしまうからだ。真実だと思い込めない。長く生き、知恵のある、怪異の弱点とも言えよう。それは致命的な弱点だった。だから、そこを突く。小泉は否定も肯定も入り混じる掲示板に、相手を定めて言葉の刃を突き刺した。
──確かに、やつくも村は人を喰う村だ。タマミケ様は魂を喰う怪異だ。だが、その腹は天国に通じている。消化するのではなく、昇華させるのだ。
──否定する。その証拠はどこにもない。
──であれば、タマミケ様が喰った魂は何処に行く?
沈黙。やつくも村は答えられない。嘘を言えず、真実も言えない。案を練っているのだろう。画面にノイズが走り、文字が歪んで化けていった。それは観客でありエキストラでもある民衆が目撃している。これは何だ、と慌てふためき、もしかして今我々は怪現象に巻き込まれているのではないかと察する。半分正解で、半分間違いだ。虚像の増長に加担した時点で、巻き込まれたのではなく、自ら飛び込んでいる。そのことを自覚していない。だが、やつくも村の存在はこれでより立体的になった。噂話の枠に収まらなくなり、現実のものとして捉えられ始めた。ここからが勝負どころだ。それが在ると人々が知れば、それは大きく成長する。強大な怪異になる。人々が知り、創造した通りの姿になる。それを人を喰うだけの村にするか弔いのための村とするかは小泉とやつくも村の舌戦にかかっている。多くの味方をつけた側が勝つという単純な構造だった。
やがて沈黙を破り、やつくも村は攻撃を仕掛ける。
──喰われた魂が何処に行くかは、誰も知らない。何故ならば、帰ってこないからだ。
──死者の魂が帰らないのは当然だろう。反対に、生きた者は帰還を果たしている。
──禁忌を破らなかったからだ。禁忌を破れば、タマミケ様の怒りに触れる。
──怒りに触れると、どうなる? 喰われるのか?
やつくも村はこの誘いに乗らなかった。肯定すればそれは嘘となり、保ちたい怪異像は崩れる。またも沈黙を選んだようだった。ここ二つの間だけであれば小泉に勝機がありそうなものだが、実際にところそうではない。やつくも村が閉口しても、論拠なく肯定する者が次々に現れた。そうだ、今まで無事で帰って来れたのは、禁忌を破らなかった者だけ。喰われた者は帰ってこれないから何も語れないのだ、と、声高に主張する。ぽつんと、そこに紛れて小泉の物語を支持する書き込みもあった。否、今まで何故禁忌であるか不明だったルールの意味は解明された。納得ができる、と。しかしそれは黒い滲みによって侵食され文字化けを起こし、最終的には削除された。
有利な意見だけを残し、反対意見を消す。古い怪異の割に、否、長くインターネットで語られてきたからこその現代的且つ卑怯な戦法だった。
「真実は、既に定義されている。シャドウは、全てを知っている。全ては、日の元に晒されている」
「ああ。彼が必死で守ろうとしているのは張りぼてに過ぎない」
「それが張りぼてだと、語ればいい。そうだな?」
シャドウは強く頷いた。方向は決まった。打ち崩せばいい壁も定まった。言葉を操り、文字を綴り、狙い撃つ。
では、やつくも村は人を喰らう怪異であるタマミケ様を祀り、贄を誘き寄せようとしていると?
じ、じ、と画面上の文字が蠢き、止まり、呆気なく消えた。その代わりに掲示板の住民からはそうだ、との声が返ってくる。
いいや、違う。タマミケ様は、魂御食様。御食とは、神への供物。かの神を慈悲ある天国への案内人ではなく、邪神だと言えるのか?
無言。沈黙。イエスともノーとも返せない問いを繰り返す。何が嘘で、何が真実か、嘘をつきたい本人が一番理解している。迂闊に動けない状況を作って、今度は民衆に問いかけた。
──何故怪異は恐ろしくあらねばならないか。それは、君たちの好奇心が故。特等席で、安全装置を外して、スリルを楽しみたい欲望が故。しかしどうだろう。君たちの大好きな恐ろしい怪異はここにいる。目の前に見えている。何故、特等席に座っていられると思える? スリルを楽しめるところで引き返せると思える? やつくも村を人を喰う村に育て上げたとしよう。そうしたら、君たちは皿の上の餌だ。君たちは今や怪異を楽しめる観客ではない。取り込まれるための餌だ。それを良しと思うのならば、止めないでおこう。だが、真実を葬り隠した時、誰かの祈りが土底に埋まっていたことを忘れないでほしい。
シャドウに使ったものと比較にならぬほど、脅しらしい脅しだった。それから、良心に訴えかけるというチープな泣き落としだ。
小泉が落とした真実は張りぼてにひびを作った。民衆に考えさせる余地を作った。絶対的であったやつくも村の物語に、真相をぶつけた。一度割れた仮面は直らない。ひびを修復するのにも時間がかかる。語られる場に現れるという強行手段を取ったのも、焦燥感がそうさせた。そんな精一杯の虚勢は、こちらが再定義を終えれば簡単に片がつく。しかし強引な再定義は広まり切った怪異には不適切だ。だから、人間を利用する他なかった。
小泉は、これまでと違い、あらゆるものを合理的に活用している。シャドウの執着も、創一への友愛も、本来守るべきである人間も。それが最適解だったからだ。擦り減る心はある。罪悪感も、後ろめたさもある。それらを振り切って、そうした。小泉叶として。
語り直しを終えるため、最後にキーボードを叩く。
──もう一度言う。やつくも村は弔いの村だ。産道を戻り、神の腹へ還り、天国へと昇る道だ。安らかに眠る魂のための場所だ。それが穢されることは、あってはならない。ああ、それこそタマミケ様の怒りに触れるかもしれないが……ともかく、何を信じ、何を語り続けるかは、君たち次第だ。
そう打ち込んで、小泉は掲示板のページを閉じた。最後の最後まで恐怖心を煽って、選択は丸投げした。小泉は悪い人間だろう。ここで信用したのは民衆の善意ではなく自己保身欲だ。
終止符を打った小泉に、シャドウが話しかける。
「君らしくなかったね、小泉くん」
「いいや、これが俺だよ」
君、も。小泉くん、との呼び名も。創一を通して指されている。魂は同じ場所にある。だが、別人だ。一人と一人の、違った人間だ。言い返した小泉にシャドウは納得していなさそうな顔をする。
「小泉叶は、そういう男だ」
それは、最初の語り。定義。小泉叶という男がどのような人間であるか、その物語。シャドウを見る。未だ不服そうに口を曲げている。真っ直ぐに見据えて、顔を合わせた。
「お前はそこで見て、聞いてろ。そして……知ってくれ」
シャドウのことを知りたいと思った。理解したいと思った。それは小泉由来の感情だ。過去を見た。記憶を見た。ばらばらに散らばっていった心を見た。小泉は、まだシャドウを相棒とも友人とも呼べない。シャドウは創一を知れども小泉を知らない。けれど、小泉が小泉のことを知った今は、語り聞かせることができる。そうしたら、本当の友愛を抱けるのではないか、などというのは若者ならではの希望的観測だった。
小泉が去った後の掲示板は静かなものだった。主役が去ればエキストラもすることがなくなる。そこへ、誰かが新たな議題というおもちゃを持ち込んだ。
曰く、奇譚師を知っているか、と。
シャドウは、別の種を蒔いていた。満足げに口の端を吊り上げる様を、小泉は見ていなかった。




