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奇譚師  作者: 日向宮子
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第三章 小泉叶という男

 小泉叶は祖父である小泉創一の生まれ変わりであるとされていた。理由は明白だ。創一が亡くなったその日に叶の母の妊娠が発覚したからである。しかしそのように語る親族のほとんどは心の底からは信じきっていないだろう。ただ、それが真実であることは叶本人が知っていた。

 見たことのない風景を懐かしく感じたり、会ったことのない人間を既知のように感じたり。記憶がそのまま継承されたわけではなかったが、きっと、魂というものが覚えていた。


 *

 

 創一は物語を紡ぐのが好きだった。病弱で、滅多に外に出られない妻のために毎日物語を聞かせた。日の当たる縁側で、語らう時間が夫婦にとって愛を確かめる時間だった。

 しかし二人だけの物語でいられなくなったのは、それを聞く人ならざる有象無象がいたからだ。あれは自分のことだ、これは自分のことだ、と思い込み、実体化する。

 それは創一が知る由もなかったことであった。創一が語った怪異たちは可愛らしいものであり、他人に害を為す攻撃性は持ち合わせていなかった。それが幸いであったのは創一にとってであり、災いであったのは一つの怪異。

 あらゆる影に潜む怪異。それは古来から力を持ち、その地に君臨していた。影は歴史ある、由緒正しき怪異だった。何せ、人々は闇に恐怖を抱く。恐怖心は影を育て、力をつけさせた。小さな怪異たちがのさばる現状に腹を立てた影は、直談判をした。つまりは、創一に。

 それがシャドウと創一の出会いであった。

「困るのだよ、君」

 影は第一声にそう言った。明らかに人でないシルエットをした影に、創一は一瞬だけぽかんとした顔をして、受け入れた。

「何か、お前さんを困らせたか」

「そうだとも。君が毎日語ることにより怪異が増えている。本来人の噂で細やかに積み重ね作り上げられるものが、君のおかげで一夜にして生まれる。嘆かわしい。この地を統べる者としては見過ごせない事態だ」

 影が言うには、創一の語る物語は怪異の種にとって魅力的すぎたらしい。どのような姿をし、どのような生態を持ち、どのようにして暮らすのか。細やかな語りは怪異の種をのめり込ませた。その結果が、増えすぎた怪異なのだと影は言う。

「奴ら、何をしでかすものかわかったもんじゃない。知らぬ所で好き勝手されるのは非常に不愉快だ」

「語りによって生まれた怪異なら、語り直せばいいんじゃねえか?」

 創一はそう提案した。創一が生みの親であるのならば、より魅力的な物語で怪異たちを引き寄せ、そう思わせる。それにより抑制ができる。そう考えた上での提案だったが、影は渋る態度をした。

「語る者の話をその者が聞いていなければ意味がない。それに、どれほどいると思っている。君は全ての怪異を覚えているのかね」

「もちろんだ。それに、それはお前さんもだろう?」

 影はぎょっとした。だが創一にとっては微笑ましく思えた。

 知っていたのだ。妻に語る際、観客がいることを。陽光の影、それがいつも不自然な揺らぎを見せていた。あれはきっとここにいる影なのだろう。かまをかけたことは否めないが、反応からして間違っていなかったようだ。

 魅力的な物語、というのは影にとってもそうだった、ということだ。創一はにんまりと笑った。妻に向けてのものだったが、楽しむ者がいるのは語り部として嬉しいものだ。

「お前さんが全ての怪異を知っている。ならば、お前さんが語り直した物語を聞いていればいい。お前さんが知っていれば、怪異はその通りになる」

「私が"識って"いれば、それが真実である、と……因果の逆転だな」

「ああ。お前さんは万物を識る怪異だ。初めに、そう語ることにしよう」

 影はふうむと考え込み、納得した素振りを見せた。それは双方にとって悪い提案ではなかった。創一は聞き手を得て、影は怪異の抑制できる。互いに利益のある交渉だ。

 創一は右手を差し出す。影はその手を見下ろし、はてと首を傾げた。もっとも、首らしき箇所というだけでそれがそうである確証はなかったが。

「何のつもりかね」

「握手だよ。お前さんともこれから長い付き合いになるだろう。影──シャドウ、とでも呼ぼうか。よろしく頼む」

 影、もといシャドウは、手を模した影を動かし、不慣れそうに手を握った。奇妙な人間だなあとぼやきながら。

 その後、創一とシャドウの付き合いは本当に長くなるのだが、それは当人以外は知らぬことである。


 *


 叶がシャドウを初めて目にしたのはまだ産まれてすぐのこと、それが人の目には見えないものなのだと知ったのは五歳程度になってからである。叶が見えない何かと話すのを親族は不気味がっていたが、イマジナリーフレンドだろうということで落ち着いた。叶もそのように思っていた時期があったが、幾つ歳を重ねても尚影はついてきた。

 小学校も中学年の頃合いだっただろうか。親から与えられた一人部屋にて、自身の影より濃く伸びる影を見下ろす。

 その影は、いつも叶の側にいた。詳しくは覚えていないが、泣きじゃくる赤子の叶をあやしたと思えば扉や戸棚の影に隠れては驚かせて泣かせたりと悪戯好きな性質をしていた。言葉が話せるようになってからは叶を揶揄ってばかりで叶を苛立たせた。自分にしか見えず聞こえないのだと知ってからは誰にも話せず、うるさい、と怒鳴って影を殴ったこともある。つまりは傍迷惑な隣人だった。

 叶は影のことを名前で呼ばなかった。名前を知らなかったからだ。名前をつけることもなかった。他に名前がある気がしたからだ。

 ある時、夢を見た。知らないはずなのに、懐かしい風景の中で影の名を呼ぶ夢。夢の中で、叶は縁側に座り、一人で──否、誰かに向かって話しかけていた。よく晴れた日差しに、落ちる木陰。それに紛れて、揺れる影。あれは、あいつだ。そう確信した。叶はそれをただの夢だとは思えなかった。

 そこに隠れているのだろう。と、影の中に視線を落とす。そして、名を呼んだ。

「シャドウ」

「……おや、驚いた。君からそう呼ばれるとはね」

 シャドウはいつも大仰に芝居がかった言葉選びと仕草をするが、本当に驚いているように見えた。にゅう、と細く影が伸びて人の形を作る。

「名付け親なんだ、当たり前だろ」

「……思い出したのか?」

「いいや。夢に見た」

 思い過ごしか、ふとすれば気付かないほど僅かばかりシャドウの声が弾んだ。叶の返答でそれも萎む。名付け親を自称したのは夢で見た光景を本物か確かめるためだったが、悪いことをした。しかし、もう一人の登場人物であるシャドウがその記憶を有しているというのはあれが現実のものだったという証左になるだろう。シャドウが想像上の者でなく、実在する者である、と。

 知らない思い出。懐かしい感覚。思い出したのか、と、その台詞。つまり、叶が今持っていない記憶がある。叶は幼少期から祖父、創一の生まれ変わりなのだと言われてきた。「生まれ変わり」、その意味をもう知っている。ばらばらのピースが噛み合って、答えを出した。

「俺はかつて創一と呼ばれた男だった……そうだな?」

 推理小説の探偵が如く、シャドウに問う。これは答えが知りたいのではなく、答えを知っている上での確認作業だ。シャドウとしては隠したいことではなかったのか、あっけらかんと答える。

「君の魂は彼の魂の色と同じだ。彼は君であり、君は彼なんだろう」

 叶がそう思うより先にシャドウは確信していたらしい。しかし記憶がない以上は、叶は創一であった自覚を持てない。祖父としての創一のことも詳しく知らない。

 叶はベッドに腰掛けた。なあ、とシャドウに呼びかける。

「創一は、どんな男だった?」

 シャドウから見た創一を知りたかったが故の質問だったが、後になって思うとこれは間違いだった。何故ならばシャドウに創一を語らせると長く長くなり、文句と不満のオンパレードが一方的にぶつけられるからだ。仮にも本人である叶に言うものか、と思うものの、創一自身は既に死んでいる。故にぶつけられる相手が叶しかいないのだとはわかっているが、いかんせん本人であるものだから黙っている他なかった。

「小泉くんは、兎にも角にもわがままだった! 私は眠る必要がないものの、深夜に呼び出しては新しい話を思いついたと語り、それによって怪異は増え、その怪異の始末に追われ……振り回されてばかりだったよ」

 やれやれと肩をすくめた後、ああ、君も小泉くんだったね、とシャドウは言った。叶が先ほどシャドウの名を呼んだのが初めてなように、シャドウが叶の名を呼ぶこともこれが初めてだった。

 不意に、そうだ、とシャドウが良いことを思いついたという風に叶を見た。嫌な予感がする。しかしされた提案はそう大したことではなかった。

「君が、跡を継ぎたまえ。君が語り、私が聞く。まだ怪異は蔓延っている。この地が平和であることを望むのは、君とて一緒だろう?」

「そんな博愛主義者に見えるか?」

「見えずとも、そうであるはずだ。君は小泉くんなのだから」

 それは気のせいか、祈りのようにも聞こえた。そうであってくれ、という思いが込められている、かのように思える。シャドウにとって小泉創一とはどのような存在だったのだろうか。散々にぶつけられた文句たちをそのまま飲み込んでも違うような気がする。叶に言わないで、きっと創一にも言わないでいる何かがあるのだろう。それを紐解くにはまだシャドウとの距離を測りかねていた。

 叶としてはシャドウは傍迷惑な隣人とそれだけである。友人でもなければ家族でもない。しかしこの先離れることもないのだろうと予測できた。シャドウは、叶が、創一が呼び、名を付けた怪異なのだから。


 予測通り、シャドウは叶が二十歳を超えてもそこにいた。叶は怪異が見える他は取り立てて特別な能力などない普通の男だ。他がそうあるのと同じように進学し、大学生活を始めるのと同時に一人暮らしをすることになった。生まれ育った地とはそう離れていないアパートの一室を借りている。家族仲が悪いわけではないのだが、実家とは距離を置きたかった。歳を重ねても、そうとは気づかず目に見えぬ者を相手に会話をすることがあった。鬱陶しいくらいに話しかけてくるシャドウがいた。その度に取り繕うのも面倒であるし、叶が怪異と関わることで家族に何かしらの被害が向くことがないようにとの思いもあった。

 シャドウは傍迷惑な同居人と変わった。創一の血を継いだのか、はたまた創一本人であるからか、叶も物語を紡ぐことが好きだった。叶が語り、シャドウが聞く。それは叶がなし崩しに跡を継いでから定期的に行われている行事だった。噂の種は、どこにでも落ちている。それらは大抵未完成であるか、分岐していた。それを、語り直す。こうあれ、と定義する。そうして秩序は保たれる。本当に言葉だけでそう上手くいくものなのか、とシャドウに尋ねたことがある。

「一つの要素だけでは足りないだろう。君の語る物語が魅力的であること、私がそれを真実と思うこと、両方が必要だ」

「魅力……は関係あるのか」

「あるとも。怪異自身が語られたものを取り込まねば意味がない。とびきり美味しい餌で誘惑するのさ」

 怪異は語られないことには命を持たない。であるから、自身の実在性を強化する物語を求めるのだ、と。語られなくなった怪異は存在を失う。現に噂が廃れて無名の人ではないものに退化した怪異もいたというのがシャドウの体験談だ。もしも人間が怪現象に興味がなくなれば、それらは一掃されるだろう。しかしながら人間は得体の知れない物語を好む。シャドウ曰く、そのために怪異を語り直し、望ましい形に再定義する者がいるとのこと。理屈は理解できたが、シャドウがそうする理由がいまいち見えてこなかった。長い付き合いになるが、この影の怪異は愉快なことが滅法好きで、つまらないことが嫌いだ。そのような地道な作業はシャドウが嫌いそうなことだ。

 それを正直に問うと、シャドウはオーバーなリアクションを取り、やれやれと肩をすくめた。

「私を何だと思っているんだい? 愉快に生きるには、それなりの苦労があるということだよ。道端の石ころをはねるような苦労が」

 それもまた、理解はできた。嘘は言っていないように感じる。だが本当のことも言っていない、と直感が囁いた。シャドウの真意がどうあれ、怪異に関わる者としてそれらを制御する存在が必要であると叶は思っていた。反対する理由がない。噂は、噂のままで。そうあるべきだ。人ならざるものが人の世界に介入することは世界の均衡が揺らぐことである。壮大な使命感を抱いているわけでもなかったが、少なくとも自分の手の届く範囲は平穏であるよう努めたかった。

 この頃からだっただろうか、シャドウは「奇譚師」を自称し始めた。それには叶も含まれている。そうすれば名が広まり、片付けるべき案件も向こうから飛び込んでくるだろう、とシャドウは得意げに語った。語り直し。再定義。それらをゲームのようなものだとでも考えているのだろうか。シャドウはやるべきそれなりの苦労だと言いながら、率先して奇譚師の活動に取り組んだ。誰から聞いたやも知れぬ噂話、名を聞いて泣きついてきた怪異の相談事まで。とりわけ人間から持ち込まれたものにシャドウは入れ込んでいた。四つ首様の噂などはシャドウが拾ってきた話だ。

 そのうちに気がつく。事が怪異内で落ち着きそうな気配を感じると、シャドウは途端に興味をなくす。人間の間で噂が広まりそうであると、前のめりになる。隠す気もなくわかりやすい態度だった。それらが意味することを考える。叶は、既に一つの結論に至っていた。

 シャドウは、「奇譚師」が人により語られることを望んでいる。

 それは、奇譚師が怪異になり得る可能性を示唆していた。だがシャドウはもとより怪異だ。長く生き、力もある怪異である。自身の現状には満足しているように見えたし、奇譚師が怪異になったとしてシャドウ以上の存在になるという確証はなかった。であるならば、標的は叶だ。叶を、怪異にしようとしている。

 そうとは問えず、また、未だ反対する理由を持てないでいた。叶としては己が怪異になろうとも周囲の平穏が保たれるならばそれでも良いと感じていたこともあった。それに加えて、叶に似て、しかし叶ではない老いた声が脳裏で囁くのだ。あれを独りにするな、と。繰り返し、繰り返し。それは恐らく創一の声だ。前世の己が、そう言うのだ。後悔に満ちた声で、懇願する声で。

 叶は思考を続けている。まだ、わからない。シャドウをどうすべきか。シャドウをどう思うべきか。叶を怪異にして何がしたいのかも不明だ。人によってはそれを裏切りと感じるのかもしれないが、叶はそう思わなかった。あれもまた、生きているのだ。心があり、情がある。その色を見抜けていないだけだ。だから、シャドウを相棒とも呼べずにいた。信じきれずにいた。

 だけれども、知りたい。何を思い、何を感じているのかを、理解したい。怪異を相手に、甘えた考えだ。人の理屈で説明のできない存在だと思い知っている。相互理解には程遠い。それでも知りたいと思うことが間違いだとは思わなかった。

 それもまた情であるのだと、年若い叶は自覚できないでいた。


 時に、叶は度々夢を見た。それは創一としての記憶の再演だった。以前あったことだと認識できても、それを丸ごと自分のものだとは思えなかった。

 創一はシャドウの言うようにことシャドウに対しては傍若無人な男だった。しかし荒っぽい口調をしながら妻には優しい男だった。夢を通して、創一の感情が流れてくることもある。そこには病弱ながらも気丈に振る舞い芯のある女性である妻を思い遣る気持ちがあった。昼間は柔らかな布団に横たわる妻の手を握りながら面白おかしく怪異を語り、夜は酒を飲みながらシャドウを振り回していた。自分とは似ても似つかない性格をしている、と思うが、それでも記憶の一片一片がかつての己のものだったと理解できる。

 創一は底なしの善人でもあった。困っている人を見過ごせず、ぶっきらぼうにしながらも手を貸さないことはなかった。子供っぽい一面もあった。負けず嫌いで、貸し借りを作ることを嫌っていた。そのくせ、自分が他人に施したことは忘れていた。

 叶は自分を善人だと思わない。お人好しだ、と言われることはあったが、それは見せかけのものだ。怪異からの被害を未然に防ぐため奇譚師をやれども、全ての人々を守れるわけではない。事が起きてから対処に回る事だってある。全ての怪異が悪意を持っているということもなく、また人間側が悪意を持っていることもある。善悪の裁量は叶個人が決められるものではない。何者かを断罪などできない。それでも語ることをやめないのはただ自分の心を乱されたくないからでもあった。

 人間らしく、若者らしい悩みは意図せず吐露させられる。シャドウは人を話に乗せるのが上手いのだ。加えて、シャドウに対して遠慮というものを持たないことも関係していた。叶の悩みを一通り聞き出した後、あっけらかんと言う。

「君と彼はそっくりなのに、自覚がないものなんだねえ」

 それはシャドウの主観ではないかと疑いたくもなったが、そう言い切られてしまうと返す言葉がない。自分を完全に客観視できてはいないのだから。そっくりだ、と言われて叶は複雑な気持ちになった。生まれ変わりであるが故に創一に好感も嫌悪もない。無関心でもいられない。他人ではないが、自分でもない。喜ぶべきところなのか否かがわからないのだ。

「どの辺が似てるんだ」

「まあ、まずは顔……というのは冗談で。私に遠慮もクソもない態度なんか瓜二つだよ。狂気じみた優しさもね」

 褒めるでもなく貶すでもなく事実をそのまま言った、という風な言い草だった。血縁であるからには容姿は似るだろう。態度はシャドウがそうさせている部分が大きい。優しさ、それも狂気じみた、とは随分な表現だ。叶は一般的な倫理観を持っていると自負しているが、それを逸脱してはいない。しかしそれも自覚がないうちに入るのだろうか。叶は自己分析が苦手だった。

 むしろシャドウに人を基準にした善悪観があった事が意外である。少し考えて、創一との交流が育んだものか、と理解した。詳しい年月は不明だが、夢の中でシャドウと話す創一は若い姿をしていれば老いた姿もしていた。それほどまでに長く隣にいたのだろう。そう思えば頷ける話だ。

「……お前は、創一と俺を同じ人間だと思うか?」

 気になっていたが聞くほどでもない疑問が、するりと口から出てきた。その事に驚く。聞くほどでもないと思っていたのは瑣末なものであるからではなく、答えがなく、シャドウに聞いたところで意味のないものであるからだ。これは、叶のアイデンティティの話である。自分が納得せねば飲み込めない。それでも一度口に出た言葉を撤回しなかった。そうだ、と言われたかったのかもしれないし、違うと否定されたかったのかもしれない。確固たる証明が欲しかった。自分が誰かの生まれ変わった存在だと知ってから、ずっと曖昧でいた。小泉叶とはどういった人間なのかを定義できなかった。ああ、きっと、怪異として語られることを受け入れたのは、曖昧な輪郭を定めてほしかったからだ。

 シャドウは黙ってこちらを見た。黒い影に、穴が二つ。弓形の線が一つ。幼児の描いた歪な絵のような顔が、叶を見ている。

「小泉くんは、小泉くんだよ」

 是とも言わず、否とも言わず、一見すると慰めじみた台詞であった。けれども感情を削ぎ落としたかのように平坦な声をしていた。ふとすれば機械にも近い、人間味のない声。人間味がないなど当たり前だ。シャドウは怪異なのだから。それなのに、今までで一番シャドウを人らしく感じたのは、削ぎ落とし隠された感情があるのだと思えたからなのだろう。

 哀れで、滑稽で、愚かな、人間らしく。長く生きて悟った人外らしくない情動が、シャドウの奥底にあった。叶はそれを見たのだ。


 奇譚師の名前はシャドウの思惑通り順調に広まっているらしく、通りすがりの小さな怪異に奇譚師様、と呼ばれることも多々あった。叶は友人が少なくましてや十代の少年少女とも交流があるはずがないので人間の中での噂のほどは知らない。偵察に出かけたシャドウが満足げな様子を見せているからにはそういうことだろう。

 その時点で、叶は自身の変化を感じていた。否、変わらないことを身をもって知っていた。髪を最後に切ったのはいつだろう。爪切りを取り出したのはいつだろう。思い返せないほどに叶は「そのまま」でいた。姿形を含め、イメージが固まりつつあるのだろう。不老不死とはかつて皇帝すらも追い求めた理想だが、人でなくなることは今更ながらに叶に恐れを抱かせた。この先俗世と切り離されて、奇譚師という怪異として生きていったとして、叶は何を軸にしたらいいだろう。人の世がある限り、人を助けることに終わりはない。その口がある限り、語られる物語は増えていく。そんな永遠に耐えられるだろうか。強靭な理性も、それに匹敵する覚悟もない。それなのに、流されるように歩む道を引き返そうとしない。危機感からか、本能からか、最悪の選択肢を無意識に拒んでいるかのようだった。

 叶が奇譚師にならないことによる厄災を、避けようとしている。それは恐らく、叶の内側に眠る創一の意識がそうさせていた。


 シャドウは専ら叶の隣に浮かんでいるが、偵察だ、人間観察だ、と言って一人で外に出る日もよくあった。別段縛り付けたい思いもなければ四六時中そこにいるのも息苦しいため好きにさせていた。大半の場合、子供の多い場所や時間帯を狙って外出している。曰く、「怪談は子供にとっての至高の娯楽だ」だとか。囁かれたばかりの噂を辿っては根元を探り、うきうきと愉しげに叶へ報告する。豊作だ、と言って帰ってきた今日は、奇譚師の噂が広まったことを喜んでいた。

「我々の努力が実を結んだな。次第に神格化されつつある」

「それで、お前にメリットはあるのか」

「あるとも。強大な力を求めるのは何も弱者だけではない。私は強欲なのだよ」

 強欲であることには間違いないだろう。それから、傲慢であることも。頷きがてら、切り返す。

「そのために、俺を利用している、と?」

「協力関係にある、と言ってくれ。君は秩序の番人なのだから」

「俺が今後は協力しないと言ったら?」

「おや、そのようなことができるのかい? 君のような良き人間が」

 いいように表しながら、嘲笑する響きを持っていた。シャドウがどこまで叶の思考を把握しているのかが読み取れない。シャドウの飄々とした態度は叶が勘づいている、ということを透かして見ているようでもあったし、平素通りであるようにも思えた。疑心暗鬼になっている。単純に年の功というものもある。駆け引きは得意ではないし、勝算もない。叶は早々に諦めた。

 例えば、叶が人の理から外れるだけで済むのであれば、被害は最小で済む。永遠も、長寿の孤独も、叶だけが背負えばいい。事がシャドウの望むままに進んだとき、何が引き起こされるのか。それが問題だった。そこを明確にできていない以上、叶はシャドウを独りにできない。

 と、いうのは建前だ。後付けしたものだ。それも、自覚できていた。本当はわかっている。あれを独りにするなと言われるまでもなく、叶はシャドウを引き剥がすことができなかった。そうできないのは、叶が孤独に耐えられないからだ。信頼しきれなくとも、相棒と呼べずとも、小泉叶という人間を一番知っているのはシャドウであるから。

 歪んでいる。誠実ではない。そう痛む心があり、自責する。何もかも、叶が叶のことを理解できず確立できていないからこうなっている。だからこれは、叶が解決すべきだ。鬱屈とした息を吐き出し、厄介な思考を振り払うように頭を振る。

「……安心しろ。俺は奇譚師を辞めるつもりはない」

「ほう、それはよかった」

 叶が宣言する前からそのことを予測していたであろう心無い返事だ。予定調和である会話に何の意味もない。釘を刺しておいたのは、自分に言い聞かせるためでもあった。

 叶は未定義の人間である。空っぽで、虚な器を満たしたいのであれば、意志を詰め込まなければならない。少なくとも、人の平穏を守りたい気持ちは本物だ。独りになりたくなくて、独りにできない気持ちも本物だ。ひとまずは、それだけを詰めておこう。それだけでは足りないから、まだ探さなくてはならない。

 今日はもう寝る、とシャドウに言い、寝室に篭った。今夜も夢を見るだろうか。過去の再演を繰り返し、それが尽きてしまえば、叶は創一として蘇るのだろうか。けれど、そこにパズルを埋めるピースがある。叶は創一に塗り替えれれるかもしれない。そうだとしても、全てを知りたいのだ。「今のシャドウ」を創ったのは創一だ。だから、創一の記憶を取り戻す必要がある。創一は、シャドウに何を教えたのか、何を思っていたのか。追体験しなくてはわからない。

 快眠、とは言えないだろう。それでも無理矢理に目を閉じて、睡魔が訪れるのを待った。


 叶は、これは夢だ、とわかっていた。現実感はあるが、一定の範囲の外がぼやけている。体が重たい。明晰夢、というには自由に操ることはできなかった。いつもは創一のいつかの記憶を第三者視点で見ることになるが、今回は違った。創一の視点に立っている。皺のある両手があり、あぐらをかいた膝が目下にあった。勝手に頭が動き、隣を見る。縁側に腰掛けた風のシャドウがいた。口も勝手に動き、叶のものに似て叶のものでない声が出る。

「あいつが逝ってから随分と経った。俺ももう長くはねえだろうなあ」

 どうやら、妻を喪った後のことのようだった。創一らしくなく、弱音を吐いている。シャドウはそんな創一を何を言っているんだと笑い飛ばした。

「毎日酒を飲んでピンピンしているくせに」

「俺だってもういい歳だぞ。周りの連中はとっくに施設か病院だ」

「人間って何歳まで生きるものだっけ? 百? 二百?」

「馬鹿言え」

 ふん、と鼻を鳴らして創一は跳ね除けたが、シャドウは冗談を言ったのではなく本気でわかっていない様子だった。心底創一がまだ生きるものだと思っている。やがてそうではないと気がつくと、不安げに創一に聞いた。

「……どこか悪いのかい?」

「いいや、何も。けどなあ、心残りももうない。人間、気力ってもんが保たなくてもだめだ」

 そう語る創一は枯れた花のようだった。土に還るのを待つばかりの花。妻が創一の気力を保たせていたのだろう。最愛の存在を喪って尚元気でいるだけの精神は愛妻家の創一には持てなかったらしい。それを聞いたシャドウは叶には見せないオロオロと慌てた様を見せて、でも、と言いつのった。それは地団駄を踏む幼児と変わりない。

「私が、いるだろう。君は、私に物語を聞かせてくれるんだろう」

「おいおい、そんなんで俺がいなくなったらどうするつもりだ。お前さんは永久に生きるんだろ?」

「そんなことを言わないでくれよ。考えたくもない」

 さめざめと、泣きそうな声だった。叶は意外に思う。シャドウは感情表現が大袈裟であるが、ここまで感情豊かではない。いつだって舞台役者じみた言い回しと仕草をしていた。このような、人間じみて子供みたいに縋るシャドウを知らない。これがもしも演技であるならば立派なものだ。だがそうではないのだろう。シャドウは、創一に大きな友愛を抱いていた。そのことを示していた。

 唐突に、視界がぐわんと歪んだ。目の前が暗くなる。数秒ののち、場面が切り替わった。叶は創一の視点を離れ、畳の上にいる。そこには目を瞑って動かない創一がいた。母親の面影がある女性が、涙を流している。沈痛な面持ちをした大人たちが創一の横たわる布団を取り囲んで、葬儀の取り決めの話をしている。シャドウの姿は見えなかった。代わりに、叶の視点は誰かに抱えられているかのように低く、周りを黒い影で覆われている。考えるまでもない。今、叶は夢の中で何かの形としてシャドウの腕の中にいる。それがわかった。

 取り囲む家族のうち、誰もシャドウを見ない。見えていない。話す相手がいなければ、饒舌なシャドウも無口だった。

 冷たく、蝋のような創一の頬を影がすり抜ける。小さな、小さな声で、おぅい、とシャドウが呼びかけた。当然、返事はない。そして、そこから動かずぴたりと止まった。

「まだ、まだだ」

 シャドウは譫言のように呟いた。腕の中のもの、今は叶がいるものを手繰り寄せ、ぐるりと周囲を見渡す。その中の、叶の母親に目をつけ、強引にそのものを押し込んだ。腹の中に、押し付けられる感覚がする。今になって悟った。この夢の中で、叶は終始創一であったのだ。シャドウが抱えていたのは、創一の魂だったのだ。

「君の物語はまだ終わっていない。そうだろう、小泉くん」

 誰に聞かせるでもない言葉を吐く。幼く純粋な友愛はもう感じ取れない。あるのは、執着。未練。後悔。きっと、シャドウは失ってから初めてそれらを得た。創一は、シャドウに人間を教え、物語を語り、友愛を与え、最後に綺麗になれなかった情を遺した。

「君は、また君として生まれる。私が知っている。私が知っていることは、全て真実だ」

 シャドウは語った。聞き手の禁忌を破り、語り手に回った。

 これが、種だ。叶は芽吹く前からそうあることを定められていた。それを知り、何を思えばいいだろう。未だ叶の中にあるあれを独りにするなという声は、創一の後悔なのだろうか。叶はただ創一の器でしかなく、後悔を背負ったまま、怪異に成り果てる他ないのだろうか。溢れ返る記憶の波が叶を押し流していく。嫌だ、と思った。流されて摩耗したくない。掴まる腕もないのに抗う。形ない魂でありながら、意識を保つ。

 叶は、叶だ。小泉叶という一人の人間だ。シャドウの友人でもない、相棒でもない。友愛を抱いていない。だけれども知りたいという情を持つ個だ。

 次第に視界がぼやけていく。夢から覚める時が近いのだろう。これは過去の再演に過ぎない。いくら夢の中で抗おうとも既に起こった現実は変えられない。だが、夢から起きた後の現実ならば、この手で書き換えられるはずだ。そう信じ、薄れゆく意識の中、あることを誓った。

 語らなければならない。シャドウに、万物を識る者に。小泉叶という男を、その物語を、真実を。

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