第9話 観測続行 観測対象:レオンハルト・アルヴェイン
廊下の突き当たりにある小さな採光窓の下は、昼休みでも人が少ない。
リリアはその場所を選び、膝の上に観測記録用のノートを広げていた。まだ使い始めたばかりの紙面に、細い字で、今日クラリスやダリアたちから聞いた内容を整理していく。
『聞いた? 昨日の食堂の事故』
『シャンデリアが落ちたんでしょ。怪我はなかったのに、近くにいた子たちが何人か吐いたらしいの』
『なんか、変だったって』
『事故を防いだのは殿下だった』
『でも、殿下も具合が悪そうだった』
何かの論文で読んだことがある。
強い魔力が反射のように働き、空間に歪みを生むことがある、と。
――もしかして……。
書きかけたところで、ノートにふと影が落ちた。
顔を上げる。
赤い瞳が近い。
「……っ」
心臓が跳ねた。
レオンハルトがいた。
いつからそこにいたのか分からない。気配がなさすぎて、近づかれたことにまったく気づかなかった。
リリアは反射的にノートを閉じる。
――見えたかも。
――いや、たぶん見えていないはず。
――見えていないことにしてください。
「……殿下」
なんとかそう呼んだ。
けれど、返事はない。
レオンハルトはただ、そこに立っていた。
――やばいです。
――何か言ってください。
リリアが内心でばたばたしているあいだに、レオンハルトは窓際へ半歩寄った。何をするでもなく、外を見る。
その横顔が近い。
整っている、という言葉だけで済ませるのが惜しいくらい整っている。鼻筋は通っていて、伏せた睫毛は長い。表情が薄いぶん、骨格の綺麗さがよく分かった。
黒い髪は、近くで見るとやわらかそうだった。艶があって、光を受けたところだけが静かに浮いて見える。
――それに、目。
今日は光の加減がいいのか、赤というより深い紅に見えた。ガラス玉のような単調な色ではなく、奥に暗い層があって、その上を光だけが滑っていく。
――屈折率が高そう。
そう思った。
何に対する感想なのか、自分でもよく分からない。
そのとき、リリアの前髪がふわりと浮いた。
「……?」
思わず手で押さえる。
風はない。
次に、閉じたノートの端がわずかにめくれた。紙がさらりと鳴り、乾いていた空気が、急に少しだけしっとりした気がする。
窓から差し込んでいた光が、床の上でほんの一瞬だけ色を分けた。
――淡い虹?
気のせいかと思うほど短く、それはすぐに消える。
「……今の」
リリアは小さく呟いた。
静電気だろうか。
いや、湿度の変化?
光は……目の錯覚かもしれない。
考えているうちに、レオンハルトがこちらを見た。
目が合う。
やっぱり、綺麗だと思った。
近くで見ると、なおさら。
「……」
レオンハルトは何も言わない。
数秒、そのままリリアに視線を置いていたが、やがてふいに興味をなくしたように目を逸らした。そして、来たときと同じように、音もなく離れていく。
止める理由はない。
というより、止められない。
足音が遠ざかってから、リリアはようやく大きく息を吐いた。
「……見つからなくてよかった……」
ノートを抱えたまま胸を押さえる。
まだ少し、心臓が速かった。
夜。
自室の机で、リリアはもう一度ノートを開いた。クラリスはすでに眠っていて、部屋の奥から静かな寝息が聞こえている。
昼に書いたページとは別のところに、ペン先を置く。
書くべき内容は、もう別にあった。
近距離でしか取れない情報。
観測対象:レオンハルト・アルヴェイン
・利き手:筆記は左。
・脚の組み方:左脚が上。癖の固定あり。
・右目の下に泣きぼくろ。近距離で確認。
そこまで書いて、ふとペンが止まる。
――目。
廊下で見た色を思い出す。
深い赤。奥に暗い層があり、光を受けると色が動いて見えた。
観測結果としては、残すべきだ。
リリアは少しだけ迷ってから、端に書き足した。
・瞳:光の屈折が強い。きらきらしている。要再観測。
リリアはそこを二重線で囲んだ。
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この物語とは別に、違う世界を扱った作品もあります。
もしご興味があれば、そちらも覗いてみてください。




