第33話 ウェーブマッピング
図書室は静かだった。
昼の喧騒が去ったあとの館内には、紙をめくる音だけが小さく落ちている。高い窓から差し込む光は少し傾き、長机の上に、細い影を伸ばしていた。
リリアは窓際の席に座り、ノートを広げていた。
昨日の記録。
演成会予行演習の観測。
風の軸。
増幅のタイミング。
乱れ方。
ペン先は何度も紙の上を進み、止まった。書いては止まり、また書く。そのたびに、舞台で倒れたレオンハルトの姿が頭に浮かぶ。
命に別状はない。
それは聞いている。
けれど、しばらく目を覚まさないかもしれないとも聞いた。
その二つは、リリアの中でうまく並ばなかった。
死なない。
けれど、起きないかもしれない。
その違いを、頭では分かっている。分かっているのに、胸の奥だけが、何度も同じ場所で引っかかった。
「エルドナーさん」
名前を呼ばれて、リリアは顔を上げた。
エリオットが立っていた。いつものように、手にはノートがある。
「先輩」
リリアは少しだけ姿勢を正した。
エリオットは向かいの席を引き、静かに腰を下ろす。椅子の脚が床を擦る音も、図書室の中ではやけに小さく聞こえた。
「殿下の容態は?」
「命に別状はないそうです」
そこで、言葉が止まった。
言えることはある。
けれど、言いたくないこともある。
リリアはノートの端を指で押さえた。
「でも、消耗が激しくて、しばらく目を覚まさないかもしれないと……」
エリオットはすぐには答えなかった。
「エルドナーさん」
柔らかい声だった。
けれど、その先を安易な慰めで埋めようとはしない声音でもあった。
リリアはノートの上に視線を落とす。紙の端を押さえる指先に、少しだけ力が入った。
「私」
小さく息を吸う。
「事故じゃないと思うんです」
エリオットの目が変わった。
慰めようとしていた先輩の顔ではない。研究者の顔だった。
「そう思った理由は?」
リリアは顔を上げた。
「術者が作ったのは、最初の旋風だけです」
ノートを引き寄せ、昨日の記録の頁を開く。
「構造は単純でした。軸固定の小規模旋風です」
ペン先が紙の上を走る。
見えていた波を、そのまま線へ落としていく。
記憶ではない。
思い出でもない。
あの場で見えた揺れが、まだリリアの中に残っている。風が立ち上がった瞬間の波。軸がずれた瞬間の乱れ。外から何かが噛んだ時の、不自然な増幅。
それを、式にする。
ψ₀(t) = A sin(ωt + φ) …
エリオットが、その手元を見つめた。
「……それ、見えているのか?」
「はい」
リリアは迷いなく答えた。
「波として、認識できます」
エリオットは目を伏せ、小さく息を吐く。
「なるほど」
そして、低く言った。
「ウェーブマッピングか」
リリアの手が、そこで止まった。
「……ウェーブ、マッピング」
「見えている波を、そのまま式に落としている」
エリオットはノートの上に視線を置いたまま続ける。
「再現じゃない。記録だ」
その言葉で、リリアの中にあったものが、少しだけ形を得た。
記録。
自分は、あの現象を見た。
見えたものを残している。
「それができるなら――証拠になる」
エリオットの声が、わずかに低くなる。
リリアは小さくうなずいた。
「はい」
もう一度、ノートへ視線を落とす。
「残っています」
「単一波形です。短縮詠唱による旋風として成立しています」
エリオットは身を乗り出した。
「そこまでは、普通だね」
「はい」
リリアは次の頁を開く。
「でも、途中から変わっています」
さらに書く。
ψ(t) = A sin(ωt + φ) + B sin(ω't + φ') + γ f_ext(t) …
「増幅後は、こうです」
式の末尾を指す。
「この項です」
ペン先が、外部項の上で止まる。
「外部からの干渉が、後から重なっています」
エリオットの目が細くなった。
「……二重波形に、外部項か」
「はい」
リリアはうなずく。
「旋風そのものの構造は維持されたまま、出力だけが増幅されています」
「術者本人の制御系に戻っていません」
昨日の舞台が、もう一度頭に浮かんだ。
オーギュストの顔。
震える手。
絞り出すような声。
やめているのに、やめられない。
あの言葉は、嘘ではなかった。
「本人は、やめようとしていました」
リリアの声は低い。
「でも、魔力だけが吸われ続けていた。だから、旋風は自走を始めた」
エリオットは黙って聞いている。
図書室の静けさが、いつの間にか深くなっていた。遠くで誰かが本を閉じる音がしたが、二人の周囲までは届かない。
「つまり」
リリアは、はっきりと言った。
「あれは、本人の魔法じゃありません」
言葉が落ちたあと、しばらく音がなかった。
エリオットはノートに書かれた数式を見つめていた。単一波形。二重波形。外部項。見取り図になりかけた線。
やがて、小さく息をつく。
「なるほど」
「術者を起点にして、後から別の仕組みが噛んだわけか」
「はい。おそらく外部干渉魔道具が原因ではないでしょうか」
「短縮詠唱の乱れでは、ここまで整った増幅は起きません」
リリアは別の行を指した。
「それに」
そこで、声が少しだけ硬くなる。
「外部干渉魔道具は、一つではありません」
エリオットが顔を上げた。
「一つじゃない?」
「舞台に対して、距離と角度が固定されています」
リリアは頁の余白に簡単な見取り図を描いた。
舞台。
観客席。
防御壁。
そして、複数の点。
線を結ぶと、舞台の中央へ向かって角度が揃っていく。
「一点だけでは、この波形は作れません」
リリアは言った。
「少なくとも複数です」
エリオットはその図を見たまま、低く呟いた。
「配置型か」
「はい」
リリアの指先が、見取り図の点のひとつで止まる。
「もしかしたら、残っているかもしれません」
「外部干渉魔道具が?」
「はい」
リリアはもう立ち上がっていた。
椅子がわずかに鳴る。
迷いはなかった。
「探しに行きましょう」
エリオットもすぐに立つ。
「外へ?」
「はい」
リリアはノートを閉じた。
乾いた音が、静かな図書室に鋭く響く。
「まだ消えていないなら、今しかありません」
エリオットは一瞬だけリリアを見た。
目元には、泣いた痕が薄く残っている。
それでも、今そこにあるのは涙ではなかった。
観測者の目だった。
「分かった」
エリオットは短く答えた。
「行こう」
二人はそのまま図書室を出た。
足音が、静かな廊下を速く抜けていく。
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明日以降も【毎日20時更新】予定です。
この物語とは別に、違う世界を扱った作品もあります。
もしご興味があれば、そちらも覗いてみてください。




